第4章:魅入られし魂(1)
かくして、北方会議を経て、グランディア王女イリスが盟主に立つ、グランディア騎士団と北方諸国の連合軍が結成された。
イリスはその初戦として、戦乱の元凶であるアースガルズ皇国本土への進軍を敢行したのだが、それはお世辞にも、戦争どころか、戦闘とさえ言えぬ拍子抜けした展開となった。
元より領土は狭いアースガルズだが、連合軍が入国した時、当然あると思われた反撃は無かった。あまりにあっさりと皇都ヴェラネシアに辿り着いたイリスが目にしたものは、アースガルズ軍が一兵たりとも残さず本国を脱出したという事実と、武器も食料も不足し飢えた民衆の、疲弊し尽くした姿であった。アースガルズの幹部は、本来守るべき民を見捨て、国をも捨てた後だったのだ。
恐らく、アティルトの打診で、より利便性の高いアガートラムに移動したのだろう。故郷の人々の安否は気にかかるが、あの妖魔や黒騎士との戦いを回避できた事に、イリスが内心安堵を覚えたのは、嘘ではない。しかし、そんな素振りを見せれば、「ほら見ろ若すぎる箱入り姫は戦に怖じ気づいた」と、北方の人間が多い連合軍の兵に反発を受けるのは、目に見えている。あくまで冷静を保って、困窮する民衆への援助を最優先にするよう、指示を下した。
だが、主の意見に、クラリスが懸念を示した。
「そう上手く、事が運べば良いのですが」
クラリスの憂慮はすぐに的中した。
連合軍からヴェラネシア市民への配給が素直に行われたのは、最初の十数分だけだった。
長年アースガルズという国の存在に苦しめられた北方諸国の兵は、敵国を、制圧ではなく援助するなどという決定に、そもそも疑念を抱いている。肩が触れた触れないの、ほんの僅かな諍いをきっかけに、これまでの不満を噴出させ、自分達の優位を振りかざして民衆を虐げ、抜刀する者まで出た。すると、なだれ込んできた他所者に呆然とするばかりだったアースガルズの民も、流石に黙ってはいない。剣は足りずとも、大人は包丁や鉈など武器となる生活用具、子供さえ路傍の石でも何でも、凶器になり得る物を手に、反撃に出た。
イリスが報せを受けて駆けつけた時には、広場は既に罵声が飛び交う修羅場と化していた。
流血して倒れている者がいる。必死に制止する声もあるにはあるが、それ以上に激昂する連中が彼らを押しのけて、収拾がつかない。
「奴らが先に攻め込んだんだ! アースガルズ人は全員滅ぼすべきなんだよ!」
「出て行け、異国人ども! どんなに良い顔見せたってな、軍と同じように、俺達をかき回すだけかき回して、捨てていくのはわかってるんだ!」
連合軍の兵は兵で、今までの憎悪を爆発させ、アースガルズの人々は人々で、こちらを侵略者とみなし、激しい拒絶をぶつけ合う。そんな惨状を目にして初めて、アースガルズ軍――いや、アティルトは、はなからこれを狙って軍を移動させたのではないか、という考えがイリスの脳裏をよぎった。
北方会議で合意を得たといえど、連合軍の足並みが揃っているとは到底言いがたい。クラリスら近臣は、王女の耳に入らぬよう陰で努力しているようだが、北方人ではない盟主に対して、不信感を抱く者がいるのも、気づいている。この状態でイリスが何か失態を犯せば、決定的な亀裂が入る事など、容易いものだ。そして、アティルトならそれを見越して奸策を巡らせかねない。
「イリス!」
思考に気を取られていたイリスの耳に、アッシュの叱咤が飛び込んできた。眼前に突き出された青年の腕に、誰かが投げた小刀が突き刺さる。
「……の野郎、誰だ、馬鹿な真似しやがった奴は!」
一瞬苦痛に顔を歪めたアッシュだったが、すぐさま小刀を腕から引き抜き怒鳴る。その腕から流れるままの血に立ちすくむイリスだったが、容赦無く浴びせかけられた罵声に、さらに表情を強ばらせた。
「ほら、そうやって誰かに守られていないと、何にも言えない大将なんだろ。コルダックや軍の連中と、同じじゃないかよ!」
図星を衝かれたと思った。かっと頭に血が上る。
「出て行けよ、侵略者!」
グランディアの騎士達が、続く石つぶてから必死に自分をかばって、後方へ押しやろうとしている。だが、悪意をぶつける民衆に、自分の言葉を聞いてもらうには、それでは駄目なのだ。父や母なら、もっと穏便に、良い方法を選択できるかもしれない。イリスはそんな事を思いながらも兵を押し退け、前列へと飛び出した。
直後。
がつ、と。鈍い音を立てて、石の一つがイリスのこめかみをしたたかに打った。想像し得なかった王女の行動に、連合兵もアースガルズの民も青ざめ、しんと静まり返る。
「どうした」
予想以上の衝撃に頭がくらくらした。だが、イリスは何とか地に足を踏ん張って、唖然と立ちつくすアースガルズの者達に向けて声を張る。
「この地へ踏み込む事を決めたのは、間違い無く私だ。侵略者だと憎むなら、遠慮無く私自身にそれをぶつければ良いでしょう」
その言葉に従う者は、いない。イリスは今度は、味方に厳しい視線を投げかける。
「貴方がたもだ。アースガルズに住む者だからと一括りにして、その全てを滅ぼさねば気が済まないのか。連合軍が成立したのは、そんな枠組みを越えられるからだと、私は信じたいのに」
目の中にまで流れ落ちた血も拭わず、毅然と言葉を放つ王女の姿は鮮烈で、本人が意識しないうちに、四英雄の末裔が持ち得る威厳を、まざまざと人々に感じさせる。
あちこちで、戸惑いを含んだ囁きが交わされる。やがて、誰からともなく武器を納め、身を引き、それ以上の騒ぎが起こる事は、無かった。




