表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルファズル戦記  作者: たつみ暁
第二部:神への挑戦者イリス
117/136

第3章:死の黒騎士(6)

 撤退から二刻も経たないうちに、アースガルズ軍は再びロックキャニオンを強襲した。

 先刻の戦いで少なからず兵力を削られている彼らの増援は、あの褐色で大柄な、破獣ビーストであった。一匹とはいえ、それだけで十数の部隊にも匹敵する魔獣は、圧倒的な力で、眼前に立ち塞がる者を次々と打ち倒してゆく。義勇軍はたちまち混乱に陥り、イリスも、聖王教会やソーゾルで見たあのおぞましい姿に、畏縮しかけた。

 だが、父は一人でこの獣を討ったのだ。そう自分に言い聞かせ、手の震えを抑えると、高らかに皆に呼びかける。

「怖じ気づくな、破獣も不死身ではない、倒せるはずだ!」

 王女の言葉に、兵士達は己を奮い立たせ、武器を掲げ果敢に破獣に立ち向かった。

 破獣は腹の底から響くような唸り声をあげ、必死に腕を振るう。だが、個々を打ちのめす策は知っていても、人海戦術に対抗する術は教えられていなかったらしい。標的を定められずにぐるぐると回るばかりで、少しずつ傷を負ってゆく。リルハがヴォルテクスを放って、風の檻の中に閉じ込めると、とうとう誰かの槍が胸を貫き、誰かの剣が首を落とした。

 たちまち形勢は逆転した。破獣の威力に頼っていたアースガルズの兵は怯んで、困惑し逃走を図る者まで出る。逆にロックキャニオンの兵は活気づき、そのまま破獣の屍を乗り越え、逃走者の追撃に取りかからんと血気に逸る。

 しかし。

 直後に戦場一帯を駆け抜けた、あまりに冷たい気配が、そんな昂揚する雰囲気を一気に払拭した。豹変した空気に、ロックキャニオンの兵も、アースガルズ軍さえも、思わず手を止め足を止め、慄然と立ち尽くす。

 次の瞬間、アースガルズの陣営近くまで迫っていたロックキャニオン軍の一角が吹き飛んだ。文字通り、人が宙に吹っ飛んだのだ。

 つぶてのように地に落ちゆく人馬や武具、いくつもの悲鳴が、イリスの視覚聴覚を埋めつくす。辺りを赤く染めて降り注ぐ血の雨の中、この狂乱をもたらした主が、姿を現した。

 全身黒ずくめの騎士だった。恐ろしく巨大な訳でも、飛び抜けて屈強な訳でもない。人並の背丈と、金髪を持つ人間の男である。何故か顔を仮面で覆っていて、年齢と表情まで伺い知る事はできないが。

 これと同じ嫌悪感を味わった事があると、イリスは咄嗟に記憶を巡らせ、アティルトだと思い当たる。しかし、目の前の騎士が放つ威圧感は、あの妖魔さえ比ではない。同じ空間に立っているだけで、気がおかしくなって叫び出しそうなのだ。

 騎士は悠然と前進を続け、手にする漆黒の剣を薙ぎ払った。それだけで、今度は敵味方問わず吹き飛び、戦場が一層の赤に染まる。破獣を退けた感慨はとうに去り、恐慌だけが、戦場を支配していた。

「味方まで!?」

 イリスの横でアステアが愕然と呟く。彼女も、この恐怖を感じているだろう。しかし彼女は、怒りも付随して、それに耐え切る事ができなかった。

 止める間は無かった。一度、切れそうな程に唇を噛み締め、アステアは馬の腹を蹴る。剣を振りかざし、ロックキャニオン市長は黒騎士目がけて飛び込んで行った。

 騎士はどこか虚ろな、心ここに在らずといった様子で、己が斬った者達の血を眺めている。彼が気づくより早く、アステアが一打を食らわせるだけの猶予は、あるように見えた。

 刃が肉を貫く、鈍い音がイリスの耳に届く。

 だが、イリスの目は、予想とは真逆の光景を映し出していた。

 アステアの背に突き出す、鋭く尖った異質な黒い物。信じがたいと目を見開く彼女を、刺した剣より遙かに遅れて、ようやく振り返る黒騎士。過たず心臓を貫いた刃を容赦無く引き抜くと、市長の身体は鮮血の尾を引いて、馬の背から転げ落ちた。

 誰かがアステアの名を絶叫した。ロックキャニオンの兵か。あのマルディアスの銃士かもしれない。

「よくやった、タナトス!」

 後方で、アースガルズの指揮官が興奮気味の声をあげている。

「そのまま、そこのグランディア王女も殺れ!」

 声に反応して、黒騎士がこちらを向いた。自分を名指しにされた事はわかっている。だが、イリスの足は縫い止められたようにすくんで、言う事を聞かない。それどころか、力を失いかくんと折れて、その場にへたりこんでしまった。

「姫様!」「イリス!」

 クラリスがほとんど悲鳴に近い声をあげ、馬を走らせてくる。どこかでアッシュも叫んでいる。だが、死の騎士(タナトス)と呼ばれた男は既にイリスの目の前に立っていて、彼らが駆けつけるより剣を振り下ろす方が、よっぽど早く済むだろう。

 これは完全な恐怖だ。がちがち歯を鳴らしながら、イリスは騎士を見上げる。

 そして、別種の違和感に、思わず震えが止まった。

 イリスの中で、恐れとは異なる何かが、必死に訴えかけている。そして黒騎士もまた、イリスを視界に収めていながら、手にした黒の剣を、なかなか振り下ろしてこない。

「何をしている、タナトス!」しびれを切らせて、敵の指揮官が恫喝した。「早く王女を討ち取れ!」

 黒騎士の、仮面に隠れていない口元が微かに、苛立つように歪んだ。それから逡巡を断ち切るように振りかぶった刃に、イリスは悲鳴さえ呑み込んで目を瞑る。

 がぁん……と。先程とは種類の異なる鈍い音が響き渡る。

 痛みが襲ってこないのを訝みつつ、イリスが恐る恐る目を開けると、黒の剣は、彼女の肩をかすめて背後の岸壁を砕いているのみだった。

 最早完全に脱力して、ずるずると壁に背を預けずり落ちるイリスを、黒騎士はしばらく見下ろしていた。だが、やがて壁に突き刺さった剣を引き抜くと、そのまま踵を返す。指揮官の男はまだ、ひとしきり何事かをわめいていたが、ロックキャニオン市長を討ち取った成果で満足する事にしたのだろう。全兵を引き上げさせた。

「イリス様、ご無事ですか!?」

 ようやく駆けつけたクラリスが肩を抱え、揺さぶる。イリスは放心して揺られるまま、黒騎士の背中を見送っていたのだが、眼界に、ここには無い別の人物が重なって、目を見開く。

 何故か見えたのだ。

 風になびく金の髪――父の姿が。


「アステア」

 マルディアスの銃士マキシムは、アステアの傍らに膝をつくと、赤い上着がさらに濃い紅に染まるのも厭わずに、彼女の身体を抱き起こした。

「マキシム……味方の損害は」

 顔から血の気は引き、死の影がべっとりと張りついている。途切れ途切れの息の中、それでもアステアがロックキャニオン市長として最初に訊ねたのは、友軍の安否だった。

「あの黒騎士の攻撃でかなりの損害を受けたが、大多数は生き残った。お前に叱られるからな、助かる者を助けていた」

 マキシムは相変わらず無感情に淡々と答えていたが、不意に眉根を寄せ、初めて痛恨の感情をおもてに出す。

「すまない、そのせいで遅れた。もっと早く駆けつけていれば」

「……いいのよ。貴方は、私の民を、助けてくれた……感謝、します」

 アステアの気丈な言葉に、銃士は顔を伏せ、彼女を抱く腕に一層力を込める。

「マキシム。信頼する貴方に、私の願いを、二つ、預けます」

「何だ」

「一つは、生き残った、義勇兵を、イリス王女に、託してください。残ると言う者には、無理強いしなくて、良い。でも、志あるならば、王女と共に、この大陸の為、アースガルズと、戦って欲しいのです」

「わかった」マキシムは首肯し、促す。「もう一つは」

「私を、貴方の、故郷のやり方で、弔って」

 赤の瞳を驚きにみはると、アステアは美しい笑みを返す。

「貴方の流儀で、送ってもらえたら、私には、それ以上の、幸せは……」

 その笑顔のまま、不意に瞳から光が失われ、身体が重みを増す。

「アステア。お前の遺志、確かに聞き届けた。お前との、最初で最後の約束だ。果たしてみせよう」

 誇り高き女性の目を静かに閉じてやりながら、マルディアスの男は誓う。そして、夕陽に照らされる中、まだ温かい彼女の身体を強く強く抱き締めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ