第2章:生きた証(9)
「酷いな……これでは、レーナ王女……姉さんも」
朦朧とする頭にそれだけははっきり響いた、知らぬ誰かの落胆しきった呟きは、十四年経った今も、消えない。
「将軍、まだ息のある子供がいます!」
誰かが自分の身体に手をかけ、やや昂揚した様子で叫んだ事で、意識が現実に引き戻された。頭を打ちつけたせいで、視界はまだぼんやりとしていたが、そこに甲冑姿が映ると、少年は怯えを顔に張り付かせて、ばっと飛び起きた。
「あ、待て、まだ動いてはだめだ!」
介抱してやった手を振り払われた兵が、慌てて制止するのにも構わず、身を引き、辺りを見渡す。
少年が生まれ育ってきた、見慣れたはずの村は、惨劇の跡に変わり果てていた。突然現れた、濃緑の甲冑の集団によって、家々は焼かれ、人々は抵抗する者、命乞いする者の区別無く斬り捨てられたのだ。そこに今は、白銀の鎧をまとった連中がうろついていて、生存者を探している。だが、焦げ臭さと血の匂いに満ちた村で、息のある見知った顔は、自分以外にいないような気がした。
「……父さん」
動かぬ者達の一人に這い寄り、少年はその骸を揺さぶる。侵入者に果敢に立ち向かっていった父は、自分を盾に取られたばかりに、剣を捨て、兵士数人がかりで眼前で無惨に嬲り殺されたのだ。思いきり泣きたかったが、周囲を、敵とも味方ともわからぬ人間達に囲まれている。第一、この父が、「男は人前で泣いちゃあいけない」と常々言っていたので、わめく事もままならなかった。
すると、先程から周りの兵士達に『将軍』と呼ばれていた金髪の騎士が、傍らに膝をつき、声をかけてきた。
「このひとが、君の父さんだったのか」
少年は答えずに、ただ騎士を見返した。実直な印象を相手に与える、精悍な顔つきをしている。自分と同じ目線の高さに腰を下ろして問いかけてくる蒼の瞳は、父の死を、自分事のように悼んでくれているのが、ひしひしと伝わった。
男なら人前で泣くなと、父は言った。しかし、この騎士の瞳を見ていると、知らず知らずのうちに気は緩み、涙腺も緩んで、気がつけば、彼にしがみつきわんわん声を挙げて泣き声をあげる。騎士は多少の戸惑いを見せたが、その後は大きな腕でこちらを包み込み、しばらくの間、何も言わずにただ背中を叩いていてくれた。
やがて、少年の涙と声が枯れた頃、兵士の一人が騎士の元へやって来て、首を横に振る。
「生き残ったのは、君だけのようだ」
騎士が少年の肩に手を置き、はっきりと言い聞かせるように現実を告げた。
「だが、ここもまだ安全ではない。この村をこんな風にした連中が、また戻ってくるかもしれない。君のお父さんは、俺の部下達が責任を持って丁重に弔うから、君は俺と一緒に来て、何があったのか、教えてくれないかな」
少年は良いとも嫌だとも言わなかったが、無言を肯定と捉えたのだろう。騎士は少年の手を引いて自らの騎馬に乗せた。
「一度アガートラムに戻る」
騎士が村に残る兵と言葉を交わす。
「これはただ事ではない。聖王教会のセルバンテス大司教にも連絡をとって、今後の対策を考えねばならない」
「我々は、村人の埋葬と、調査にあたります。くれぐれも帰路、お気をつけて」
「お前達もな。まだ残党が、辺りにいるかもしれないから」
生まれた村が遠ざかる。胸を締めつける寂寥感はあったが、今はそれ以上に、生臭い血と焦げ臭い煙のにおいから逃れたくて仕方無かった。
針葉樹に囲まれた、舗装されていない道を、数騎の人馬はゆるゆると進んでゆく。
「君の名は? 歳は、幾つだい? どこかに、君を預かってくれるような親戚はいるのかな」
道中、騎士はこちらの心を解きほぐそうとしているのか、当たり障りの無い質問を投げかける。しかし、突然故郷を失った衝撃と、見知らぬ者に囲まれる不安は、少年を無口にさせるに十分だった。
一言も口を利かない相手に、騎士もほとほと困り果てていたようだが、不意に思い立って、話題を替える。
「もし、行くあてが無いのなら、一緒にグランディアに来るか? 俺の従妹が、身寄りの無い子供を引き取って育てているんだ。仲間がいる」
大国グランディアの騎士だったのか。軽い驚きと、相手の素性が判明した安心感に、少年がちらと視線を上げると、騎士は蒼い目を優しく細めて笑い返した。
「それに、俺の娘が君と同じくらいの歳なんだ。友達になってやってくれないかな」
「クレテス将軍、イリス様はもっと幼くていらっしゃいますよ!」
途端に、傍で聞いていた部下の一人が馬を並べて、茶化し気味の指摘を送った。クレテスと呼ばれた騎士は、罰が悪そうな苦笑を浮かべる。
「そうなのか? 子供の年齢というのは、どうも俺にはよくわからない」
「子供は、気づかぬ内にどんどん大きくなりますからね。幾つになったかなど、すぐわからなくなりますよ」
自分にも息子がいますが、と兵士は軽い調子で語る。愛息のことを思い出しているのか、やや嬉しそうな部下とは対照的に、騎士は表情を曇らせ呟く。
「そうか。こうして遠征ばかりで、とても見守ってやる暇なんて無かったよ。家族の元にいてやらない、子供の成長にも気づかない。俺は駄目な父親だな」
その寂しそうな表情を見上げていると、黙っていられず、少年の口から、自然と言葉は飛び出していた。
「そんなこと無いよ」
初めて少年から口を利いたので、騎士は驚きを隠せぬ顔で見下ろしてくる。
「父さんが言ってた。本当に悪い親ってのは、子供の事をちっとも考えない親なんだって。離れてても子供の事を考えてあげてるんだから、貴方は駄目な親じゃあない」
その言葉をくれた父を失ったばかりの少年の台詞に、騎士は瞠目し、それから、ふっと口元をゆるめて、くしゃくしゃと少年の頭を撫でた。
「君も、良い子だ。本当に良い父さんだったんだな」
見知らぬ人間に頭を撫でられるのは好きではない。しかし、この騎士だけは、そうされても何故か嫌悪感を覚えなかった。先程も、しがみついて大泣きできた。それは外見も、物腰も全然違うのに、どこか、父と同じ感じがしたからかもしれない。
ようやく両者の緊張が解けかけた、そんな時だった。
突然、隊の後方から悲鳴があがった。風が、血のにおいを運んでくる。
「何事だ!?」
騎士は馬を止め、少年をかばう体勢のまま、剣の柄に手をかけた。
「将軍、た、大変です! 村の方角から、正体不明の魔物が……っ!」
手傷を負った兵が、顔面蒼白で馬を走らせてくる。その背後に黒い影が迫り、恐怖に引きつった彼の首を、一瞬でかき切った。
愕然とする一同の前に、影の主がゆったりと舞い降りる。頭からいびつな角が生え、肩甲骨が進化した翼を持つ姿は、悪魔にも似ている。しかし、均衡が悪く伸びた四肢、かさぶたのように醜く固まった褐色の肌、人間が一回り大きくなったような体格は、明らかに、自然界に存在するどの魔物とも違っていた。
遠慮無く発せられる殺気と、必要以上に血に濡れた体躯を目にし、嫌な予感を覚えたか、騎士が唖然と洩らす。
「まさか、こちらに来る前に、村に残っていた者達を!?」
答えだと言わんばかりに、魔物じみたその生物は、瞳の無い赤い眼球を細め、長い舌を出してクカカ、と笑った。いや、笑うような音を発しただけかもしれない。
魔獣は、果敢に斬りかかる兵士の頭を腕の一振りのもとに叩き潰して、浴びる血を増やす。それから、瞳の無い赤い眼球をぎろりとこちらに向けると、奇声をあげ、飛びかかってきた。
「つかまっていろ!」
騎士が叱咤するより先に、少年は馬の首にしっかとしがみついていた。騎士は見事な手綱さばきで、素早く敵の一撃を避ける。そして、戦列に加わろうとしている健在の兵士達へ、号令を飛ばした。
「俺が食い止める。お前達は行け、アガートラムへ!」
「将軍は!?」「我々だけ逃げては、女王陛下に申し訳が立ちません!」
「いいから、この子を守れ!」
部下が口々に反論するのを許さぬ剣幕で怒鳴り、少年を、先程会話を交わしていた兵の馬上に押しやる。父を感じさせてくれたのとは別の腕に託されて、少年の胸の内に不安と孤独感が膨れ上がった。だが、問答する間も与えぬとばかりに、魔獣が飛びかかってきたので、騎士は背を向けて、腰に帯びていた剣を解き放った。魔獣に斬りかかる青白く輝く刃の軌跡が少年の視界に焼きつき、そしてあっという間に遠ざかっていった。
「散開しろ! 別々の道を行け!」
少年を乗せた兵は、逃走する部下達の間では一番位が高いらしい。周囲に指示を送り、馬を走らせる速度を上げる。森の中を襲歩で駆ける振動に、舌を噛みそうになったが、ぐっと歯を食いしばって耐えた。
「我慢して偉いぞ」兵士が片手で手綱を操りながら、頭を撫でてくれる。「グランディアに行ったら、クレテス将軍の部下になれよ」
恐怖を少しでも和らげようとしてくれているのだろう。軽口を叩いた兵は、ある瞬間にはっと背後を振り向き、「なっ」と発した直後、手綱から手を放して落馬した。操り手を失った馬は動揺して、そのまま樹に激突する。馬の首の骨が折れる音を聞きながら、少年の身体は地面に投げ出される。固い土ではなく、腐葉土だったため、痛みは無かった。だが、のろのろと顔を上げた視界に映る光景に、少年は息を呑んで硬直してしまった。
騎士が足止めしていたはずの魔獣が、そこにいた。脇腹を斬りつけられたのか、赤黒い血の跡があるが、傷は既に塞がっているらしく、新たな流血は無い。その大きな手が、「クレテス将軍の部下になれよ」と励ましてくれた兵の頭をわしづかみにしている。首があらぬ方向に曲がっている事が、既に生命の灯火が消えているのをまざまざと見せつけた。
玩具に飽きたかのように、魔獣が兵士の死体を横様に投げ捨てた。大樹にぶつかり、ごきゃりと音を立てて身体も変なひしゃげ方をする。もうそちらには目もくれず、赤い目がこちらを向いた。
立て、と脳が警鐘を発する。だが、切羽詰まった心とは裏腹に、身体は言う事を全く聞かなくて、起き上がるどころか、指先ひとつ動かす事すらかなわない。
魔獣が裂けた口の両端を持ち上げて、笑ったように見えた。ゆっくりと、鋭い爪持つ手が振り上げられる。自分も兵士と同じ運命を辿るのか。諦観が襲いきた時、二者の間に割り込み、少年を抱きすくめる腕があった。
肉を裂く鈍い音が、少年の耳に突き刺さる。低い呻き声が聞こえる。思わずつむっていた目を開けた時、視界を占めたのは、白銀の鎧だった。目線を上げ、そして、瞠目する。
父を感じさせるあの騎士だった。彼のかざす白銀の剣は、魔獣の右腕を斬り飛ばしている。しかし魔獣の残る左腕の爪も、騎士の背中に深々と食い込んでいた。
少年の顔からざっと血の気が引くのに気づいた騎士は、傷を見せぬように少年の頭を抱え込み、
「逃げろ」
血の塊を吐き捨てた後、絞り出すように叱咤した。
「俺は、あの村の人々や、君の家族を、救えなかった。自分の部下も、こうして、無碍に死なせた。だが、君だけは死なせない。生き延びろ……!」
腕を失った痛みに、魔獣が奇声をあげて後ずさる。その隙に、騎士は左の手首から何かを外し、少年の震える手に、半ば強引に握り込ませた。
「生き延びて……そしてもし、グランディアに、行く事が、あったなら。エステルと……イリスに……会って、伝えて、くれないか」
帰れなくてすまない、と。
お前達を愛している、と。
息は苦しく声はほとんど潰れかけていたが、少年の耳はその二言を、確かに聞き取った。
「行け!」
一瞬、痛いほど肩をつかむと、騎士はまだ呆然としているばかりのこちらを突き飛ばし、白銀の剣を手に魔獣へと向き直った。剣も自身も紅に染める血の尾を引いて、雄叫びをあげながら立ち向かってゆく。少年はしばらくの間、ただその背を凝視しているしかできなかったが、やがて一歩後ずさり、二歩目、脱兎のごとく駆け出す。
訳のわからない叫びをあげながら、一度も振り返らず、彼は走り続けた。
喉が嗄れて、息が切れて。とうとう足が前に出ず気を失うまで、泣きながら走り続けた。




