第2章:生きた証(8)
北方諸国のひとつソーゾルは、深い森林地帯が国土の多くを占める。その隠密性と、古くから、定まった氏族が政権を維持する事のできなかった歴史は、自治組織を兼ねる多くの盗賊団を生み出すには、恰好の環境であった。
バイオレット団はその中では比較的新参の部類だったが、周辺の古参勢力を次々併合して、侮り難い規模を誇る。抱える人数が多い分、必然的に、彼らの帰る巣も他勢力よりは広かった。
それでも今日、バイオレット団のアジトには、少々窮屈すぎるくらいの人数がごった返している。平常時の盗賊達に加えて、イリス王女を救うべく砦攻めに参加したグランディアの騎士兵士が、そのまま転がり込んできたからだ。
祖国を命からがら脱出した後、騎士団長ユウェイン・サヴァーの率いる本隊とは別方向に逃れ、息つく間も無く王女救出という重大任務に当たった彼らは、ことごとく疲弊しており、アジトに辿り着くと、所構わず次々にへたりこんでしまった。盗賊達も、普段とは異なる活動に未だ興奮冷めやらぬのか、慣れない客に落ち着かぬのか、いかつい顔に疲労の色を滲ませている。
そんな様子を見ていた頭領バイオレットは唐突に、「辛気臭い! 疲れなんか呑んで食って忘れちまえ!」と檄を飛ばしたのである。
たちまち、テーブルと椅子が適当に運び込まれ、これまた適当な数の杯が配られる。一体誰が作れるのやら、美味そうな料理と、ソーゾルの地酒までが樽ごとやってきて、狭苦しいながらも賑やかな酒宴が始まってしまった。
壁際の椅子に腰掛け、頭の中がからっぽになっていたイリスの手元にも、川で冷やした果実を搾ったジュースの杯が、知らない誰かの手により問答無用で押し込まれた。
「アッシュ、酒が足りねえぞ!」「あいよ」
アッシュはバイオレット団の中では格下に位置するらしい。自分が何かを口にする暇も無く仲間達の酌をして回り、赤ら顔の大男が怒鳴れば、不精な返事をしつつも倉庫へ走っていった。
グランディア兵士の中には、自棄半分か、盗賊達と共に馬鹿騒ぎを始める者も出てきたが、イリスはとても騒ぎに参加する気になどなれない。やはり知らない誰かが食事を勧めてくれた気もするのだが、それを適当に断って、一人、屋外へ出た。
季節はもう春だ。しかし北方の夜風は、祖国のそれより冷たい。今夜は月も薄雲に隠れ、合間に見え隠れする星々の光も、まるで今の自分達が置かれた状況を示すかのように、とても頼り無い。
鬱屈した気持ちになり、直後に襲いきた肌寒さに身震いした時、建物の角向こうにも誰かがいるのに、初めて気づいた。
「リルハ」
クラリスの声だ。呼びかけた事から、彼女の息子もそこにいるのだろう。ただし向こうは、こちらの存在に感づいていない。
「これからは貴方が、イリス様をお助けして戦いなさい。私はもう、共に行けません」
「母上、何を言い出すのですか」
リルハが戸惑った声をあげた。声こそ出さなかったが、驚いたのはイリスも一緒だ。
「私は、慕った恩人の死に立ち会えず、彼が愛した方を守れず、その御子を危険な目に遭わせ、自分の大切な人さえ見捨てました」
どきりと心臓が脈打つ。見捨てさせたのは、他でもない、自分だ。だのにクラリスは、こちらではなく、己を責め立てるのだ。
「姫様に、非情だと言われました。あの方を失望させた私が、お傍にいる資格などありません」
主君と伴侶の命を秤にかけて、前者を取る事に、躊躇わないはずが無い。そんな考えにも至らず、憤りに任せてぶつけた言葉が、守役を思い詰めさせるなど、想像もしていなかった。これは自ら出ていって、詫びるべきか。イリスが足を踏み出しかけた時。
「そんな事はありません」
消沈したままのクラリスに対し、リルハが、引っ込み思案な彼にしては珍しく強い調子の声をあげた。
「母上はイリス様をお守りし、兵を全滅させない為に、最良の判断を下しただけです。それは騎士として当然の事だと父上もおっしゃるでしょうし、イリス様も、本当は母上の気持ちをわかってくださっているはずです」
遊んでいても、どんどん先へ走ってしまう自分の後ろを泣きながら追いかけてきた、ひ弱な幼馴染の記憶が嘘のように、リルハは母親を勇気づける力強さで語る。
「僕だって、いつまでも守られるだけの子供ではいられない。この先、求められれば果たさなければならないんです。グランディアの民として、この事態に立ち会った者として、最大限の責任を」
リルハの方がよほど自分より他人に配慮した物言いをする。イリスからは見えないが、クラリスが吃驚している様子が目に浮かぶようだ。
沈黙がややあってから、彼女が息子の肩を抱き寄せる気配がした。
「リルハ、しばらく会わないうちに、とても強い子に育ったのね。今の貴方を、ピュラにも見せてあげたかった」
「きっとできます。それまでは、父上に比べたら頼り無いかもしれないけど、僕が、母上をお助けします。だから母上はこれからも、イリス様を支えてあげてください。共に行かぬなどと、おっしゃらないでください」
リルハは気強い声色で続けたが、やはり皆、心の底では不安なのだ。国に戻れず、先行きも見通せず。
女王不在の今、王女である自分が彼らに声をかけるべきなのだが、何を言えば良いのだろう。どう行動すれば正しいのだろう。混迷に囚われ、イリスは深い溜息をつきながら、その場を離れる。すると、いきなり目の前に現れた大きい何かに、どしんとぶつかった。
「なんだい、お姫さんか」
人だと気づいたのは、相手が声をかけてきたからだ。また使いっ走りにされたのだろう。酒樽を肩に担いだ格好で、アッシュは意外そうにこちらを見下ろしている。
「こんな所に一人でいると、またあの変態野郎にさらわれるぜ」
その変態野郎に一人立ち向かって、生死がわからなくなった夫を案じ、落ち込んでいる女性がいるそばから、冗談にもならない台詞である。瞬間的にかっとなって、イリスは無言で盗賊の足を蹴っ飛ばしてやった。
「痛ぇッ!」
アッシュは予想以上の悲鳴をあげ、酒樽を足の上に取り落とす。さらにのたうち回る彼の足に包帯が巻かれているのが覗いて、イリスはようやく、彼が先程、魔虫の追跡から自分を庇って血まみれになった事を思い出した。
「す、すまない。忘れてた」
「いいって、いいって。自分でも、笑えないシャレだったと思うよ」
慌てて詫びれば、それでも青年は明るい調子で手を振り、笑顔を向ける。
「それにバイオレットの下にいたら、これ以上の傷なんてしょっちゅうだ。怪我のうちに入らないって」
その返しにイリスはおたおた戸惑い、際限なく転がってゆきそうだった酒樽を視界の端に見つけ、はっしとつかみ止める。想定以上の重量に引っ張られて身体が傾いたところを、力強い腕に支えられた。
「ごめん」
更に申し訳ない気持ちになって萎縮すると、「あのね」と鼻を突つかれる。
「女が男にサシで謝るのは、惚れた相手より先に死ぬ場合だけにしときな。まあこれ、オレに盗賊技能仕込んでくれた師匠の、受け売りなんだけどね」
「だけど」
「詫びじゃなくて礼なら大歓迎。お姫様のキスとか、即物的なのも」
やはり手加減無しに蹴りを入れてやるべきだった。イリスがじとりと睨んでも、アッシュはけらけら受け流し、王女がかろうじて取り押さえていた酒樽を、片腕でひょいと担ぎ直した。が、不意に思い立ったのか、それを再度地面に置くと、掛けろとばかりに目で示す。イリスは首を傾げながらも言われるまま、樽の上にちょこんと腰を下ろした。
「礼を言うのは、いや、謝るのは、オレの方だよ」
見上げたアッシュの横顔からは、寸前までのおちゃらけた雰囲気は微塵も消えている。酷く深刻そうな様子を眺めて、イリスは薄々感じ取った。何か長い、しかし自分にとっても大切な話が始まる予感が。
だが、青年の口から次に発せられた台詞は、イリスの予想も覚悟も、遥かに上回る衝撃をもたらしたのだった。
「あんたの父親を死なせたのは、オレのようなものだ」




