第2章:生きた証(7)
「アティルト!」
変質的な情愛に満ちた笑みを向ける妖魔を見上げ、イリスは憎々しげに声を漏らす。その反応でピュラも、この男が何者か理解したようだ。
「イリス、こいつがその最低変態野郎だな」
「酷い言われようだね」
アティルトは胸を抑えて大げさに嘆息してみせた後、聖剣士と盗賊の二人を順繰りに身渡す。
「陽動を使ったとはいえ、この砦に乗り込んできた心意気は、大いに結構。だけど、僕が戻って来たからには、もう思い通りにはいかないよ」
「そんなの、やってみないとわからんだろうが」
抜かり無く聖剣『克己』を構え、王女をかばう位置に立ちながらピュラがうそぶく。だがアティルトは、膝を叩いて噴き出すばかりだ。
「ははははは、勝てない喧嘩を自分から売るものではないよ、グランディアの聖剣士殿。アガートラムで、女王が時間を稼いでくれなければ、逃げ出す事もできなかった命を、無駄にするものじゃあない」
妖魔は細長い指を唇に当てて、婉然と笑み、更なる挑発を浴びせかける。
「まあ、死ぬ気でかかってくれば、一太刀くらいは浴びせられるんじゃないかな? 何せ、あのクレテス・シュタイナーも、死んでようやく僕の手下一匹を倒せたんだから」
その台詞は、イリスの怒りを煽っただけでなく、ピュラの神経をも、完全に逆撫でしたようだ。
「俺が生涯剣を捧げると誓った相手を、侮辱するんじゃねえ」
聖剣士は一段低い声を発すると、剣の切っ先で床を指し示して、相手を挑発する。
「アガートラムで何もできなかった礼もある。ここでケリつけてやるから、降りてきやがれ!」
「……おやおや、あくまで死に急ぎたいと見える」
アティルトは困ったとばかりに、わざとゆったり首を横に振ると、何か残酷な行為をする前の、あの笑みを顔に満たした。
これから舞台でも始めるかのように、妖魔は優雅な礼をした。否、彼にとっては、本当にただの寸劇程度にしかならないのだろう。
「では折角の機会だ、お見せしよう」
アティルトが差し出した手の先に転移魔法陣が生じ、そこをゆっくりと通って、異形の生物が姿を現した。人間より一回り以上大きな体躯や褐色の皮膚、いびつな四肢に翼持つ、生命の体系を無視した構造は、イリスが聖王教会で見た標本とほとんど変わらない。
唖然と息を呑む人間達の前で、妖魔は悦に入った表情で両手を広げ、高らかに宣った。
「どうだい? これが君達の仇であり、僕の傑作である、『破獣』だよ」
アティルトの言葉に呼応するように、破獣と呼ばれたそれは不気味な咆哮をあげ、こちらを視界にとらえる。イリスは咄嗟に剣に手をかけたが、それをピュラの腕が遮った。
「お前らは行け」
妖魔に聞こえないよう小声で口早に、聖剣士が告げたので、イリスは瞠目した。
「ここで三人で向かって行って仲良くやられるよか、一人が囮になってあと二人逃げる方が、ずっと効率良いだろ」
戦闘経験が少ない自分でも、目の前の怪物が、山野で相手にしてきたような獣くずれの魔物とは格が違う事くらいはわかる。いくらピュラが歴戦の戦士とはいえ、一人ではこの破獣、そして後に控える、人間を一撃で倒す魔力を持つ妖魔に太刀打ちできる訳が無い。三人で相手をすれば多少は勝機が見えるかもしれないのに。
王女の焦れた様子を感じ取って、ピュラはより強く叱咤する。
「お前らがいたんじゃ、足手まといだって言うんだよ。俺は後から行くから、早くクラリスと合流して脱出しろ」
「だけど!」
それでもなお食い下がろうとするイリスだったが、アッシュが冷静にピュラの意を汲んでいた。今にも先陣切って飛び出して行きそうだった王女を再度、ひっさらうように抱え上げる。
「頼むぞ」「了解」
短く言葉を交わして、王女を抱えた盗賊は破獣に背を向け走り出し、聖剣士は一人、その破獣に斬りかかっていった。
「あはははは、主の娘の為に、自分の命を棄てにきたか! まったく大した美談だよ!」
遠ざかりながらも聞こえてきたアティルトの哄笑に、頭の芯からかっと熱くなる。ついこの間、聖王教会で同じような状況に遭った時の悔しさが、克明に蘇った。
「降ろせ、降ろして!」
「悪いけどな、オレがあのおっさんの立場でも、同じ事してたぞ!」
問答無用で担がれた体勢のまま、イリスは怒鳴って暴れ、青年の背に蹴りまで入れたが、遙かに力のある腕に抑え込まれる。
「それにあれじゃ、今更戻れねえ」
アッシュがちらりと振り返った方向から、ざわざわと奇妙な音が迫りくる。アティルトが何か放ったのか。イリスは青年の肩ごしにのぞき見ようとして、今度は頭をつかまれ、視界を塞ぐように押しつけられた。
「目え瞑って。見て気持ちいいもんじゃない」
ここは素直に従うべきか。そう判断し、両目をきつく閉じると、アッシュが走る速度を上げた。
地を這うそれはやがて二人に追いついて、いくつもの、ぎちぎちと噛み合わせの悪い刃物のような音、何かを踏みしだく音を交える。見えぬ恐怖と、青年が苦悶の声をあげ一瞬立ち止まったので、イリスは耐えきれず目を開け、見てしまった。床が動いているのかと錯覚するほどおびただしい数の、やたら大きく胴体の長い無気味な甲虫が這いずり回っているのを。
「こらえろよ」
悲鳴をあげそうになった口を大きな手で塞がれ、小声で叱咤された。
「大声なんか出した日にゃ、どこまでも追ってくるぞ」
アッシュは段差を飛び上がり、いくつもの扉で閉め出し、魔虫の追跡を何とか振り切って、最後までしぶとく足に喰らいついていた一匹を払い落とす。
「あの野郎、しつこい上に趣味悪い真似しやがって!」
足元も靴もぼろぼろで、走って来た後には、赤い血の標が点々とついている。確かに痛いはずなのに、それでも彼は平然を装い、悪態をつくのだった。
砦の地下は、地底湖に続いていた。そこに浮かぶ小舟上で、数人の兵士や盗賊と共に待機していたクラリスが、無事に現れた王女の姿を見とめてほっと表情を緩めた。が、次の瞬間、その顔を不安げに曇らせる。
「姫様。ピュラに、お会いしませんでしたか」
イリスは事情を説明しようとしたものの、言葉が出ず、うつむいてしまう。クラリスも、しばらくはただ愕然と立ち尽くしていたのだが、手にした槍の石突でひとつ舟底を叩くと、決然と告げた。
「ここもまだ安全ではありません。脱出いたしましょう」
「ピュラを待たないつもりなの」
今度はイリスが驚愕する番だった。しかし、クラリスはあくまで冷ややかに答える。
「来るかどうかわからぬ一人の為に、姫様やここにいる全員の命を危険にさらすわけにはまいりません」
「クラリス、貴女がそんな非情な事を言うのか!? ピュラは貴女の……」
怒鳴りかけて、イリスは自分を見る女騎士の目を直視し、続ける言葉を失ってしまった。
クラリスはあくまで無表情で冷徹だった。生き延びる為に他者を切り捨てる、戦士の目をしている。彼女がそんな目をするのを見るのは、イリスにとっては初めてだったし、凄まじい衝撃であった。
しかし、彼女にその目をさせた原因は、他ならぬ自分である。反論も、状況の打開もままならぬ無力さにうちひしがれた王女を乗せ、小舟は地底湖を離れていった。




