第2章:生きた証(6)
砦内は、やけに静まり返っていた。人気は無く、イリスと男の靴音だけが、廊下に響き渡る。元々人手が少なかったとしても、扉を破った音くらいは誰かが聞きつけてもおかしくないだろうに、これはあまりにも変だ。
「ねえ」
抱いた懸念を伝えようとして呼びかけ、イリスはそこで初めて、ある事に気づいた。用意していたものとは別の質問を、投げかける。
「貴方の名前をまだ聞いていない」
すると男は振り返るなり、イリスの腰を横様に抱いた。そして、何を、と抗議するより先に、そのまま吹抜けの柵を乗り越えて、二階層分はあろうかという高さを、難無く飛び降りたのである。
「アスラン・レジュハ。『アッシュ』でいいぜ。『アスラン』なんて顔じゃないでしょ、オレ?」
吃驚して言葉を失うイリスを、がっちりとした腕に収めたまま、至近距離で青年が笑った。その笑顔がやたら格好良く見えて、心に浮かんだ妙な気分を封殺すべく、視線を逸らして名乗り返す。
「わ、私は、イリス……」「知ってる」
意外な答えに遮られ、イリスは思わず青年の顔を見上げ直していた。
「知ってるよ」
親しみを込めた瞳で、確認のように、アッシュは再度答える。まるで昔から自分を知っていたかのような口振りに、イリスは戸惑いを覚えた。その蒼い瞳にも、何故か見覚えがあるような気がする。
しかし、彼が続けた言葉に、それらの考えは自然淘汰されていった。
「あんたを助けて欲しいって、グランディアの騎士様から、うちの頭領が依頼を受けたんだ。ちゃんと事情は聞いてる」
「グランディア騎士? クラリスか」
「ああ、そんな名前だったっけね」
イリスを抱えて走りながら、アッシュは説明を続ける。
それによれば、聖王教会で別れたクラリスらはその後、アガートラムを脱出してきた騎士団の一部と合流し、イリスの消息を追っていたらしい。王女がアースガルズに捕らわれ、ソーゾルに移送された事を掴んだクラリスは、この国でアースガルズに対抗できうる最大勢力、すなわち、アッシュが所属する盗賊団に、助力を依頼したのだ。
騎士団と盗賊団、一見すれば相容れない組織だが、共にアースガルズを相手取ると言う点で利害は一致する。恐らくクラリスが、騎士と盗賊達で守備兵を引き付けている間に、自分を救い出す策を立てたのだろう。それなら、砦内の手薄さも納得がいく。彼女は二十二年前の解放戦争を勝利に導いた名軍師だ。それくらいの戦術を編み出すのは朝飯前に違い無い。イリスは守役の相変わらずの機転に感心し、そして、名前を知る者の無事に少しだけ安堵した。
心が落ち着くと、今度は忘れかけていた別の事実に気がつく。そういえば自分は、この青年に抱えられっぱなしだ。照れ臭さを押し隠して、身じろぎする。
「降ろして」
「お断り。こっちのが楽」
即答に、またふざけてと文句が出かかったが、青年の方が先に切り返してくる。
「それにあんた、足痛めてるだろ。そういう事は遠慮してないで、早く言うの」
それを指摘されると、イリスはすっかり反論も抵抗も失ってしまう。大人しくアッシュの逞しい腕に身を預けたまま、砦内を下へ下へと降っていった。
外の陽動が、砦の守備兵を全員引き付けていてくれたのなら、脱出に問題は無い。しかし実際の所はそうもいかず、まだほんの数人は、建物内に残っていたようだ。そして、仲間達と合流できるという地点より大分前で、イリス達は運悪く、その数人と出くわしてしまったのである。
「あっ! お、お前らどうやって……」
兵士達が慌てながら槍を構える。アッシュは右手を剣の柄にかけながら、左手でイリスを床に降ろそうとする。が、それより早く、敵の背後で刃のきらめきが走り、彼らは最後まで台詞も言えないまま、次々と昏倒した。
倒れゆく兵士達の向こうに、峰打ちを仕掛けた人物が立っている。その顔を見た途端、イリスは驚きと安堵の入り交じった声をあげていた。
「ピュラ!」
グランディア王国傭兵隊長ピュラ・リグリアスは、王女の姿をみとめて、壮年の顔に多少ほっとした表情を浮かべた。
「イリス、無事だったか。アースガルズ軍に連れてかれたって聞いたから、心配したんだぞ。何にもされなかったろうな?」
知っている声を聞くと急に、イリスの中で張りつめていた何かがひとつ、ぷっつり音を立てて切れたような気がした。
「とりあえずは、何もされずに済んだけど!」
情けない声を洩らした後、イリスは子供のように声を荒げて聖剣士に訴える。
「襲われかけた! 最っ低の変態男に、父様は殺されたんだ!」
「訳がわからん」
ピュラは軽く笑ったが、『殺された』の単語に敏感に反応し、口は笑っていなかった。
イリスが口早に語ったアティルトとのやり取りは、彼女が激昂しているせいで滅茶苦茶ではあったが、ピュラは要旨を理解し、表情を固くした。彼は元々、聖王教会所属だったのを離れ、イリスの父に剣を捧げる形でグランディアにやって来たという。主の死の真相を追い続けていた彼にとっても、この話は、いかほどの衝撃と憤りを与えるものであっただろう。想像もつかずに、イリスが不安げに見上げていると。
「いや。今、俺がここで頭に血を上らせても、仕方無いよな」
聖剣士もそれに気づき、青灰色の瞳を困ったように細めて、王女の頭を撫でた。
「イリス。クレテスを殺したその最低野郎は、いつか必ず俺が仕留めてやる。だから今はとにかく、無事にここから出る事を考えよう。詳しい話は全部、それからだ」
イリスが珍しく素直にうなずくと、ピュラは満足げに口元を緩める。
しかし、突如辺りに満ちた、冷たく禍々しい気配が、安穏としていた空気を打ち破った。ピュラが顔から余裕をかき消し、アッシュも再度剣に手をやっている。
「……まったく、逃げられないと言っただろう?」
あやすように甘ったるい声が、頭上から降ってくる。
「そんなに僕の手をわずらわせたいのかい? 困った子だね……イリス」
妖魔アティルトは冷酷な笑みを浮かべ、何も無い宙空に、椅子にでも座ってくつろぐかのような格好で漂っていた。




