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アルファズル戦記  作者: たつみ暁
第二部:神への挑戦者イリス
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第2章:生きた証(4)

 こちら側からしっかりと鍵のかかった扉の前で、アースガルズ兵士ジョン・ローエンとビル・マケッシーは、揃って顎が外れそうなくらいの大あくびをした。

「なあジョン、俺達は何故こんな所に突っ立っているんだ」

「それはここで見張っていろと言われたからだろう、ビル」

「いや、論点はそこじゃあない。そもそもどうして、こんな辺境で囚人の見張りなんて閑職につく羽目になったんだ、俺達は」

「そりゃあ、アガートラム制圧作戦で、二人とも気絶して全く活躍できなかったからさ」

「ふうむ成程。すると俺達は、左遷されたという訳か!」

「そういう事だビル。お前の脳みそにしては、珍しく冴えてるじゃあないか!」

 二人は意が通じ合ったと満面の笑みを交わし……その後しばらく、間の抜けた沈黙が落ちる。

「……左遷されたのか、俺達は」

「二度言うな、悲しくなる」

「しかしそれは俺達のせいなのか、ジョンよ」

「それは確かにはなはだ疑問だな。活躍できなかったのは気絶していたから。気絶したのは上からタライが降ってきたからだ」

「ならば責められるべきは俺達じゃああるまい。タライを落としたあのおばちゃんを左遷すべきだろう」

「阿呆。民間人のおばちゃんをどこへ左遷する」

 薄ら寒い風が二人の間を吹き抜けてゆく。

「ところでジョン、俺達は誰を見張っているんだ?」

「また説明を聞いていなかったのか? グランディアの王女らしいぞ」

「うへぇっ!? 一体また、そんなお姫様がどうして」

「お前は本当になんにも聞いてないんだな。アティルト様がその王女を気に入られて、わざわざお持ち帰りしたんだと」

「アティルト様って誰だいジョン」

「人の話を聞かないだけじゃなくて、記憶力も悪いのかビル。コルダック宰相と並ぶ、俺達アースガルズの指揮官だろうが」

「おう、思い出した思い出した。だが顔が思い出せん」

「そりゃあ見た事が無いから、思い出すもくそもあるまい。俺も聞いただけだがな、噂では、一目見りゃ男も女もイチコロの、物凄い美丈夫らしいぞ」

「俺みたいなか」

「阿呆、お前みたいな不細工なんぞ引き合いに出すな。第一アティルト様はな、輝くぐらい艶やかな銀髪で、目は鮮血みたいに真っ赤っかだ。そう丁度こんな……」

 傍らに手頃な例があったので指し示し、ジョンははて、と首を傾げる。

「うん、その噂は実に正確だね」

 いつの間にやら、まさに噂通りの容姿をした『アティルト様』が、妖艶な笑みをたたえてそこに立っている。二人は口から心臓が飛び出しそうなくらい吃驚びっくりし、しかし何とか悲鳴を飲み下し敬礼した。

「入っていいかな」

「はっ、はい! おっ通りくださいまし!」

 風評通り、同性まで魅了しそうな物腰の上司に、裏返った声でビルが返答する。アティルトは満足そうに頷くと、硬直している二人の眼前で、閉ざされたままの扉を通り抜けて――文字通り、まるでそこに何も障害が無いかのごとく通り抜けて――いった。


 イリスは窓辺にたたずみ、外のどこまでも続く深い森を呆然と眺めていた。護送される途中に従兄とも引き離され、どことも知れぬ砦の上階に幽閉されてから、どれだけの時間が過ぎたのかもわからない。地面は遙か下方で、外壁に取りつけるような場所は見当たらない。部屋の扉にも向こう側からしっかりと鍵がかけられ、見張りの兵がついている。容易に脱出はできそうになかった。

(母様、クラリス、ユリシス。皆、どうなったんだろう)

 主だった近しい者の安否を気遣い、溜息をついた時、にわかに扉の向こうが騒がしくなって、イリスは反射的にそちらへ向き直った。

「……そんな顔をしないでおくれよ、折角の君の美しさが台無しだ」

 扉を開けもせず、すり抜けるようにして現れた妖魔は、イリスが険しい表情で睨みつけるのにも全く怯む様子を見せず、鳥肌が立ちそうな台詞を吐く。底の知れない婉然とした笑みに、イリスは思わず壁に背をつける。この男相手に後退った事を後悔した時には、相手はもうイリスの目の前に立ち、やけに綺麗な指を伸ばしてきた。総毛立つ感覚に襲われ、その手を叩き落として怒鳴る。

「触るな、この外道! 一体何様なのよ、あんたは!?」

「噂通りの気の強さだね。だが……それがまた良い」

 ぶたれて赤くなった手さえ嬉しそうに撫で、妖魔は赤い目を細めた。

「そうだね、僕は君をよく知っているけれど、君は僕を覚えていないかな。僕はアティルト。これで良いかい?」

「良い訳があるか! 第一、お前と会った記憶など欠片も無い!」

 天井を仰ぎ見るように両手を広げ、銀髪を揺らす、自己陶酔気味の仕草に辟易しながら、イリスは少しでもこれ以上の優位を相手に与えぬように睨み返す。

「お前もアースガルズの一員か。母様や皆を、どうした!?」

「僕の事より、そちらの方が気になるのかい? つれないなあ……」

 妖魔は視線をイリスに戻し、手を焼く幼子を見るかのように微笑む。

「心配しなくて良いよ。エステル女王はそう簡単に殺す訳にはいかないからね。アガートラムで、丁重に扱っているよ」

 見る者を惑わせる、悪魔のような妖しさに気圧されながらも、イリスは負けまいと眼力を保つ。そんな様子も、この男は針程度にも感じないようだ。それどころか余計に調子に乗せるばかりらしく、言葉が重ねられる。

「ただ、実際に指示を下すのはコルダックの仕事だから、他の連中がどうなったかなんて、僕は知らないけどね」

「ユリシスは!? 無事なんだろうな!?」

 だが、イリスの口から従兄の名が出た途端、アティルトの顔から余裕溢れる笑みが消えた。全てを凍りつかせるような冷たい紅の視線が、イリスを見下ろす。

「……君の口から他の男の名が出るなんて、許せないな。あの男の存在は、そんなに君の心を支配しているのかい?」

 イリスの額から冷汗が伝い、首筋まで流れ落ちる。それでも、妖魔の視線に負けぬよう、ぎんと睨み据える。

「勘違いするな、あいつと私はただの従兄妹だ。身内の心配をして何が悪い!? ユリシスや母様や、皆に何かしたら、ただじゃおかないから!」

「なら、良いのだけれど」

 残酷な考えを浮かべていたのだろう。細まっていた妖魔の瞳が、ふっと笑いの形を取り戻す。

「だけど、君もなかなか面白い事を言うね。ただじゃおかないって……この状況で、君に何ができるのかな?」

 武器も何も無い上に、孤立無援で追い詰められているのだ。図星を指されて返す言葉に詰まった瞬間、妖魔はイリスの腕を取り、足を払った。抵抗する術も無く身体の均衡を崩して、寝台に押し倒される。

 身の毛がよだつ思いに襲われる。こんな状況、しかも相手が男なら、この妖魔が自分に何をする気なのかなど、いくら世間知らずの王女でも、己が身を守る為に教えられている。

「僕は君をずっと見ていたんだよ。君がこうして美しく、強くなるまで待っていた……。アガートラムに君がいなかった時、僕がどんなに寂しかったか、わかってくれるかい?」

「知るか! わかるものか!!」

 妖魔が耳元で切なげに囁くのを、わめいて返す。虫酸が走る思いで歯を食いしばって強く目を瞑り、聞き流そうと努める。

 しかし。

「僕は君を小さい頃から知っている。ずっと君を見ていた……。そう、父親の死に、魂の底から嘆いてみせてくれた、幼い君の美しさもね」

 その言葉に、イリスははっと目を見開く。指先がちりちりと痛む。

「何……?」

「ああ、君が知るはずも無かったね」

 息が吹きかかるほどの至近距離で、アティルトは全く悪びれもせずに言い放った。

「君の父親の事も良く知っているよ。だって、クレテス・シュタイナーを殺したのは、この僕なのだから」

 瞬間、イリスの頭の中は空っぽになった。人は驚愕が過ぎると思考する事を止めてしまうのだろうか。視界にちらちら星が散ったかと思うと、こちらを覗き込む妖魔の顔すらぼやけて、一面白に包まれる。

「まぁ、正確に言えば手を下したのは、僕の造った『破獣ビースト』だけどね」

 アティルトはいともさらりと、聖王教会にあった生物の正体も明かす。だがそれも、今のイリスの耳には届いていなかった。

 考えがまとまらない脳裏に浮かんだのは、父の記憶。幼い自分を抱き上げる笑顔、力強い腕。棺の中の、二度と動かぬ白い顔。

 今更真相がわかったところで、何も感じる所はあるまい。かつてはそう思い続けていた。だが、違ったのだ。そう信じなければ、幼くして父を失った理不尽さへの怒りの矛先が、向かう場所を失うだけだったのだ。

 しかし今、まさにその仇を名乗る男が、眼前にいる。

「……か……えせっ……」

 舌がもつれ声が震えているのがわかる。つかまれたままの腕も、自分で抑えようが無いほど震える。急速に視界が開ける。

「父様を、父様を返せぇぇっ!!」

 イリスは怒りに任せて妖魔を突き飛ばした。寝台から跳ね起きて一瞬間を置いた後、ためらい無く顔を叩き、腹に蹴りを入れ、めちゃくちゃに殴りつける。しかし、この妖魔にとっては毛筋ほどの衝撃にもならなかったのか。髪を振り乱し、ぜえぜえと荒い息をつく王女に対し、小首を傾げて問いかける。

「もう気は済んだのかい?」

 イリスはもう一度、手加減無しにアティルトの頬を平手打ちした。怒らせて殺されるかもしれないという考えなど、今は無かった。

 ところが、頬に赤い手形をつけた相手も相手で、口の端をゆっくり吊り上げたかと思うと、声をあげて笑い出したのである。

「あっははははは、この僕をここまで殴るとはね。ますます気に入ったよ!」

「貴様などに気に入られたく……っ!」

 拳を震わせ絶叫するイリスの言葉は、妖魔の氷のように冷たい唇によって遮られた。心の臓まで凍てつきそうな怖気を感じ、イリスはありったけの力を込めて突き放す。

「良いんだよ、君が僕を憎んでいても。君の心が僕で占められる事に変わりは無いのだから……」

 アティルトはやはりよろめきもせず、口づけの名残を惜しむように、己の唇を指でなぞると、イリスの耳元で、誘惑のように甘ったるく囁きかける。

「僕は、僕の欲しいものを全て手に入れる。邪魔する者は、全て排除する。君は僕のものだ。逃れる事など、できやしない。それを忘れないでいておくれよ……」

 糸が切れた人形のごとく自失し、床にへたりこむ王女を残して、妖魔は入って来た時と同じように、扉をすり抜け、出てゆくのであった。

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