第2章:生きた証(3)
首尾良くグランディア首都を制圧したアースガルズ軍は、アガートラムの城内外を、我が物顔で行き来していた。元からそこにいたグランディアの者達は、からくも国を脱出したか、もしくは軍の監視下に置かれる被支配の状態にあるか、どちらかだ。
そんな王都の様子を城の一室から見下ろし、嘆息する、一人の少女の姿があった。彼女はアースガルズ側の人間ではあったが、ほとんど外出する事を許されず、その行動も宰相という一人の男の意図によって、著しく制限されている。
名目上は一国の盟主という立場にありながら、実際に彼女が何らかの指揮を下した覚えはまるで無い。アースガルズ皇女テルフィネは一人、再度溜息をつくと、鬱屈するばかりの光景しか見えない窓辺から身を離した。
テルフィネは、人生の記憶に残っているほとんどの時期を、孤独に過ごしてきたと思う。
物心つく頃、母と共にアースガルズへ連れて来られ、出会ったのは、その国の老いた王だった。早くに連れ合いを亡くし、二人いた息子達にも戦で先立たれたというこの老人は、やはり寂しかったのだろう。明らかに政略の意図をもってコルダックが引き合わせた母娘を、一目で気に入り、温かく迎え入れた。
彼は政治家としても武人としても凡庸で、指導者としての強さはほぼ無かったが、根っからの善人だった。だから、母が死んだ後も変わらず娘として自分を慈しんでくれた、この老いた父が病に倒れた時、テルフィネは彼を救いたい一心で、癒し手としての修行を積んだ。
元々魔道の素質が有ったテルフィネは、すぐに中級程度までの回復魔法を使いこなすに至った。しかし、なまじ素質があったばかりに彼女が知ったのは、老人の病は、己の力では癒せぬ不治のものであるという事実だった。
ただ涙する事しかできないテルフィネの、父親――死んだ実の父親だ――譲りの黒髪を、老人は骨ばった手で優しく梳き、テルフィネと母への深い愛情と感謝の言葉を述べて、息を引き取った。
そうして全ての家族を失って悲しむ暇も無い内に、コルダックから突然、母が四英雄ノヴァの末裔、ラヴィアナの王女であったと知らされ、養父王の遺志であるとして、アースガルズの後継者に祀り上げられた。
老人が、毒を盛られていたのだと知ったのは、それよりはるか後。彼の給仕をしていた女が、うっかり口を滑らせたのを聞いてだった。女はその日の内に姿を見せなくなり、次の朝には料理長が厨房で首を吊っていたという。
一連の黒幕が誰なのか。権謀術数に疎いテルフィネでもそれくらいの見当はついていたものの、証拠は一切無い。彼女の周りにかしずいている女官や衛兵も皆、実権を握る輩の意図に忠実で、お飾りの王女の為に立ち回ってくれる者など、いやしない。
せめてもの反発に、宰相が面白くない顔をする傍らで、一般兵に語りかけ、持てる回復の術を施して、感謝されてみるものの、彼らはすぐさまテルフィネの傍から引き離されてしまう。
今回も、コルダックの部下が捕らえてきた青年を、地下牢に放り込まれる所を引き止めて、自分が面倒を見ると言い張ってはみたが、勝った気はしなかった。それどころか、宰相が去り際、聞こえよがしに供の者へ洩らした皮肉が、深く心に突き刺さる。
「これぐらいの我儘など構わん。敵にも情けをかける、『お優しいテルフィネ様』の印象をグランディアの連中に植え付けるには、恰好の材料だ」
テルフィネは孤独であり、また無力である。三度深く息をついたその時、背後から飛びかかってくる者の気配に、彼女は泣き声にすら近い悲鳴を振り絞っていた。
目覚めた瞬間、視界に入った濃緑の制服姿を敵とみなし、ユリシスは戦士の反射で跳ね起きていた。振り向いたまますくみあがる相手の喉を押さえ、馬乗りになる。途端に、甲高い悲鳴が響き渡った。到底兵士とは思えない反応に、ユリシスは驚いて、初めて相手の顔をまともに見る。
少女だった。きっと、従妹よりも年下だろう。幼さを残す顔は恐怖に引きつり、黒にも見紛う蒼い目は零れんほどに涙をたたえて、唖然とするこちらの間抜けた顔を、映し出している。
思わず怯み、つかみかかっている手が緩んだ。その隙に押し返された途端、全身に痛みが走り、今度はユリシスが呻いてうずくまる番だった。そこに、少女が震えながら腰の剣を抜き、突き付ける。
「お願い、抵抗しないで。大人しくしてください!」
それから逆の手で、何故か回復魔法に用いる杖を突き付けて、まだしゃくりあげながらも、彼女は言った。
「貴方はアースガルズの捕虜となっているけれど、できる限り手荒な扱いはしたくないのです。だから、貴方も、お願い!」
言われてようやくユリシスは思い出した。銀髪の妖魔になす術無くのされ、従妹ともども捕らわれた、無様な経緯を。よく見れば、身体中に包帯が巻かれ、丁寧に傷の手当が為されている。恐らく、この少女はアースガルズの新米看護兵か何かで、それでこんな面倒事を押し付けられたに違いない。
しかしこちらが丸腰とはいえ、突然の反撃から満足に身を守れやしない者をつけるとは、皇国上層部は一体どういう了見なのか。ユリシスが疑問に思ったまさにその時、扉の向こうから淡々と呼びかける者がいた。
「テルフィネ皇女、何やら声がしましたが、お変わりがございましたか」
ユリシスはぎょっとして、先程以上の間抜け面をさらしてしまった。視線に気づいた少女――いや、皇女は、かあっと頬を羞恥に赤らめて顔を背け、努めて平静を装うが微かに震える声で、外に向かって返す。
「いいえ、何でもありません。大丈夫です」
「そうですか、では」
声の主は、平坦に答えると、そのまま立ち去ったようだった。再度問う事も、扉を開ける事すらもせず。
「……皇女?」
ユリシスの呟きを聞きとがめ、皇女は今度は耳まで赤くなり、また泣き出すのではないかというくらいに目を潤ませる。が、自嘲気味な笑みを無理に作ると、ユリシスに回復魔法を施しながら言った。
「滑稽だと、笑って構いませんよ」
それでユリシスも直感した。侵略戦争の最中、一国の首座を継ぐ者に捕虜の看護などさせて、一人の護衛もつけない。非常事態にもすぐに駆けつけず、直接目で確認すらしない。それはすなわち、彼女は名前さえあれば良い、万一の事態が起きても、どうとでも誤魔化せる、お飾りの指揮官に過ぎない事を顕著に示していた。
『国を国足らしめるのは、上に立つ王では無い。それを支える民がいてこそだ』
父が常々、うるさいくらいに繰り返していた言葉が脳裏をかすめる。だが、その民が暗愚であったなら、国が行き着く先はどうなるか。いつも言い返そうとしてできなかった疑問の答えが今、目の前にあった。
きっと、もう一度飛びかかって剣を奪えば、簡単にここから脱出できるだろう。だが、ユリシスの思考からその選択肢は、既に消え失せていた。彼女を盾にしても、外にいる兵達はきっと、道を開ける事はすまい。自分達の主であるはずの皇女を助けようともしないだろう。
たしかに自分は虜囚の憂き目に遭い孤立無援だが、本当に囚われているのは、本当に孤独なのは、この娘の方である気がしたのだ。
「テルフィネ」
出来るだけ脅えさせないように気をつけた声色で名を呼ぶと、彼女は少し驚き、それから、恥じらいを秘めた表情で向き直る。
「笑わないから。もう少し泣いてて良いぞ」
その顔が驚きに満ちて、それからまた、くしゃっと歪む。目の前の少女に対して、もはや敵愾心は無かった。ぼろぼろ涙をこぼすテルフィネの頭を撫でてやるうちに、ユリシスは、何とかしてこの娘の力になれないだろうかと、考えを巡らせていた。
周りに味方は誰もいない。
同じ孤独な二人が、出会った。




