第2章:生きた証(1)
太陽が西の空を赤く彩りながら、沈んでゆく。窓越しにそれを見やりつつ、イリスは深い溜息をついた。
ユリシスと共に大聖堂を離れたものの、追手の追求は厳しく、そして迅速だった。空を行けば容易に発見される。聖王教会とラヴィアナの国境まで来た時点で魔獣から降り、陸路を取ったが、グランディアへ続く道は封鎖され、主要の街道にも、僧兵や、どこかの軍隊らしき兵がうろついている。その兵士の纏う甲冑が濃緑に見えたのは、決して光の加減だとは思えなかった。
移動手段も、助けを求める方法も見失い、途方に暮れる二人に救いの手を差し伸べたのは、ラヴィアナの開拓村の住民だった。
「クレテス将軍は、この村にも何度か来てくれた事がある。あの方は、俺のような魔族や混血の者の意見にも、分け隔てなく耳を傾けてくれた」
浅黒い肌に黒い髪と瞳、尖った耳を持つ、一目で魔族だとわかる村長は、二人の素性を知りつつも、自宅へ招き入れると、人間の妻に言いつけて、温かい湯と着替えを用意してくれた。
「恩人の娘を助けるのに躊躇う必要も無い。心配せず休んでくれ」
当時は、しょっちゅう留守にされて、寂しさからベッドの中でべそをかいたりもしたが、父の遺した行跡が自分の危機を救ってくれた事に、イリスは感謝せずにいられなかった。
しかし、湯に浸かった後で出された夕食を摂っている最中、廊下から漏れ聞こえてきた村長夫婦の会話に、安堵の気持ちは霧散した。
「手配書が回ってきた二人でしょ? そんな人達を匿うなんて」
「あの方はクレテス将軍の娘だぞ。将軍が、俺達ラヴィアナの民の為にどれだけ尽力してくれたかも忘れて、どこぞとも知れん軍隊に王女を突き出す気か」
「そうは言ってもねえ、あれが本物の姫様かなんて、わかりゃしないじゃない。報せた方が良いって、皆も言ってるよ」
聞こえていないと思っているのだろう。村長の妻の不安げな声は無遠慮に続く。イリスも、向かいに座るユリシスも、決して満腹にはなっていなかったが、それ以上食事を続ける気になれず、徐に席を立った。
「アガートラムはどうなっただろう」
あてがわれた部屋に戻る途中、イリスはぽつりと洩らした。母や騎士達、城下の民。それだけではない。聖王教会で自分達を逃がす為に囮となった、ティムやクラリス、リルハは、無事に脱出できただろうか。不安はどんどん湧いて出て、心を苛む。
誰の安否もわからず、また何も行動できない自分に憤りすら覚えるイリスの額を、しかしユリシスが軽く小突いた。
「大丈夫だよ、皆、上手くやっているさ。お前が心配しなくていい」
相変わらず声の調子が呑気なので、イリスはむっとして顔を上げる。だが、こちらを見下ろす従兄の表情に、ふざけた様子は微塵も無かった。
「お前が動揺してしくじったら、皆の折角の行動が無駄になる。だから落ち着け」
自分を真っすぐ見つめるロイヤルブルーの瞳はいつに無く真剣で、この青年が、生まれて初めてと言って良いほど頼もしく思える。
「今夜は少し休んで、夜明け前にここを出よう。暗い内なら、俺のヴィスナで飛んで行っても見つかりにくい」
少し声を低めて、ユリシスはこの先の計画を口にする。
「アガートラムの様子を窺って、必要ならそのまま、カレドニアの親父の所へ救援を求める事もできるから」
もう一度、元気づけるようにこちらの肩を叩き、ユリシスは隣の部屋へ入っていった。
漆黒の空に三日月が浮かんでいる。まるでその形が、ままならぬこちらの身の上を嘲笑っているようだ。腹立たしく思いながら、イリスは何度目かわからない寝返りを打った。
休めと言われたものの、とても睡眠を取れるような心持ちではない。胸に渦巻く歯痒い思いと、窓から差し込む青白い月光は、眠気を妨げるに十分だ。何とかそれを遮ろうと無理矢理目を瞑り、再び寝返ったイリスの耳に、何かが地面を叩く音が響いてきた。雨かと思い外を見やるが、そこには相変わらず、三日月がむかつく笑顔をさらしているばかり。再度耳を澄まし、蹄の音だと悟った瞬間、イリスは毛布をはね除け飛び起きた。
防具を身に付けている暇は無かった。剣を手にしたところで、屋敷の扉は破られ、遠慮無い鎧ずれの音を響かせて、兵士達が部屋までなだれ込んできたからだ。
「グランディアのイリス王女だな。大人しく従ってもらおう」
「アースガルズ軍!?」
月明かりに照らされる甲冑の色は、紛れも無く緑である。唖然としたその隙に、イリスは両脇から取り押さえられ、武器を奪われた。
引きずられるように廊下に連れ出されると、階下から村長夫婦の言い争いが聞こえてきた。夫の怒声に、「だってあんた!」と泣きそうな声が返る。恐らく、不安を抑えきれなくなった妻が、独断で通報したのだろう。彼女だけを責められるいわれも無い。同じように引きたてられてきたユリシスと目を合わせ、イリスは嘆息した。
屋敷の出口では、やはり緑の甲冑に身を包んだ部隊長らしき男が待ち構えていた。彼はイリス達が連れ出されてくると、乱暴にこちらの顎をつかみ、手元の紙と見比べてじろじろ眺める。突き付けられた松明で頬がちりちりし、髪の毛先が焦げやしないかと、場違いな事が気になった。
「間違いないだろう。連れていけ」
ようやく手を離し、男は部下達に命じる。
「ご苦労だったな」
そして、屋敷から駆け出てきた村長夫婦へ横柄に告げると、何やら重たげな革袋を放り投げた。ずしりと音を立てて彼らの足下に落ちたその中から、ディール金貨の輝きがこぼれ落ちる。思わず歓喜の表情を浮かべて手を伸ばす妻に対し、夫がその手を叩き落として叫んだ。
「ふざけるな!」
怒りのあまり全身を震わせ、村長は激昂した。
「この村が、今の俺達があるのは、クレテス将軍のお陰だ。俺達はグランディアに恩義を感じているし、それを誇りに思っている。その価値を、こんな物で売り渡せると思うか!」
人間の中に紛れていても、彼は間違いなく魔力に長けた魔族だ。今にも魔法を撃ってきかねない剣幕に、妻さえおののいて身を引き、周囲の兵士達はざっと身構える。
次の瞬間。
闇の中を、魔力の光が駆け抜けた。
しかしそれは、魔族の村長から放たれたものではなく、より明確な殺気と黒い意志を持って彼に向けられ、過たず心臓を撃ち抜いたのだ。
村長が身体に穿たれた穴から血飛沫を噴いて倒れゆく光景が、やたらゆっくりと見える。その間に、今度は転移魔法の気配が訪れる。そこにいる者達の注目を一身に集める中、魔力の主は、悠然と姿を現した。




