第1章:イリス(8)
一瞬、イリスはディングの言葉を理解しかねた。しかし、狂信者がもう一方の腕も伸ばしてくるのを見ると、反射的に空いている手で叩き落とし、足を払って転ばせる。ディングが無様に床で唸っている隙に、イリスは部屋を飛び出し、無我夢中で廊下を駆け抜けた。
「どうされました」
王女がただならぬ様子で駆けてきたのを訝しんだのだろう、警備にあたっていた二人組の僧兵の内一人が、驚きを隠さずに声をかけてくる。人に会えて良かった、とほっとしたのも、しかし束の間。彼は突如、ごぼりと血を吐きその場に崩れ落ちた。彼の背後に立っていた、いま一人の僧兵の手には、血塗られた仕込み杖が握られている。
イリスは悲鳴をあげるのも忘れ、その場で硬直してしまう。だがそのおかげで、彼女の背後から僧兵目がけて放たれた魔力の風が真横を通り過ぎるのに、巻き込まれずに済んだ。
「イリス王女!」
駆け寄って来たのは、ティム・リーヴスだった。王女の無事にほっと吐息を洩らしたが、後方から新手がやって来るのを見ると、咄嗟にイリスの腕をつかむ。
ディングや僧兵の態度から、彼も危害を加えるのではと危機感を抱いて、イリスが瞬間踏みとどまると、躊躇に気づいた賢者は振り返り、安心させるように微笑みかけた。
「ご心配なく。私は味方です」
そして、空いている方の手を迫りくる僧兵達に向け突き出して、風魔法を一撃お見舞いする。強烈な風圧で前衛が怯んだ隙に、彼はイリスの手を引いて、敵中を突破した。
「一体、何が起こっているのですか」
「大司教殿が敵になりました」
いまだ事態を呑み込めずに混乱する頭でイリスが訊ねると、ティムは走りながら答え、歯噛みする。
「いえ、以前から既に、我々の敵と通じていたのかもしれません」
敵とは誰か。最早問わずとも八割方答えはわかってしまった。
ディングと同じ、どこか虚ろで狂信的な光を瞳に宿した僧兵達は、武器を手に大聖堂中に散開して、イリス達を待ち受けていた。
明らかにティム一人では不利だ、しかも自分という大荷物を抱えていては。イリスは意を決し、魔道士の手を振りほどくと、剣を鞘から抜いた。銀の細い刀身が、窓からの夕刻の光を受けて、赤く反射する。
襲いくる者達を退ける為、武器を払い、刃を心臓に突き立てる。魔物のものとはまた違う鮮血の臭いが鼻をつく。初めて奪う人間の命に、寒気がぞくりと背中を這い上がる。突然、街道でのクラリスの言葉が脳裏に蘇って、思いきり喚きたくなった。
しかし、倒しても倒しても、僧兵達は尽きること無く二人に向かってきて、包囲網は狭まってゆく。とうとう八方を塞がれた所で、奥から追いついた大司教が、嫌味なまでにゆったりと歩み出てきた。
「ティム・リーヴス。王女を渡せ」
「お断りしたいところですね」
ティムは口では不遜な言葉を返すが、目は油断無くディングを捉えたまま、イリスを背にかばい、手にはいつでも一撃を放てるよう魔力を集中させている。
「大司教命令だぞ」
「その大司教殿が、敬意を払うべき聖王の子孫にこのような無礼を働くのですか」
「人の身である事をわきまえず神と呼ばれた不敬者を崇めている必要など、もう無くなったのだよ。この三百年こそ無駄だったのだ」
「戯言を!」
激昂と共に、ティムは魔力を解放した。彼が有する高位風魔法ヴォルテクスが、所狭しと廊下を吹き荒れ、僧兵をなぎ倒す。ところが、大陸有数の魔道士である彼が放った風の刃は、ディングが余裕の表情で片手を掲げて築いた魔法障壁の前に、あっけなくかき消された。
「私は、真なる神の御言葉を聞いた。我らは、世界の神の意志に従うべきなのだ」
異様なまでの魔力と、夢見心地の宣言に、ざらついた舌で背中を撫でられているような感触を受け、イリスはぞっとする。
「イリス王女。大司教殿の本質を見抜けずに、貴女を迎え入れてしまったのは、私の落度です。申し訳ございません」
ティムが唐突に、ディングから視線を外さぬまま、小声で詫びた。
「この責は私が引き受けます。決して貴女を、奴らに渡しはしません」
大司教の目に入らぬよう背中に回した手に、攻撃とは別種の魔力が集中する。何の魔法かイリスが理解したのは、それが自分に向けて放たれた瞬間だった。
止めろと慌てて吼えるディングも、最後にティムが振り返り、「ご無事で」と微笑した光景も、一瞬にして歪んだ。
果たして持ち直した僧兵達が賢者を取り押さえた時には、王女の姿はそこから消えていた。
「転移魔法か」
大司教は忌々しげに舌打ちする。
「しかし自分自身まで移動させる余裕は無かったようだな」
「転移魔法は苦手なんですよ。僕の得意分野は攻撃なのでね」
減らず口を、と大司教の顔が歪むのを見て、床に組み伏せられたティムは、それでも不敵な笑みを浮かべる。彼の力量をもってしても、あの短時間では、遠距離に飛ばす事は難しい。せいぜい、大聖堂の他の場所までが限界だろう。だが、王女に味方が合流するまでの時間稼ぎには、きっとそれで充分だ。
(エステル様、クレテス様。どうか、あなた方のご息女をお守りください)
敬愛する者達の娘の無事を、彼は再度祈った。
「姫様!」
転移魔法で目眩を起こして麻痺していた五感が戻った途端、イリスの耳に誰かの声が飛び込んで来て、腕をつかまれる。反射的に振り払おうとして仰いだ顔は、よく見知った守役のものであった。
「ご無事で良かった。ティム殿が姫様のご様子を伺いに出た直後、僧兵達が突然襲ってきたものですから」
胸を撫で下ろすクラリスの背後では、リルハや、ティム直属の弟子だろう魔道士達が応戦を続けている。しかしその光景も、動揺の極みにあるイリスには映らず、女騎士の胸倉につかみかかって訴えた。
「あいつらは、私を捕まえるつもりだって。母様がそう命じたって! 本当なの!?」
流石に寝耳に水だったらしく、クラリスも顔中に驚きを浮かべた。が、すぐに冷静さを取り戻すと、逆に王女の肩をつかんで問い詰める。
「落ち着いてください、イリス様。一体誰からそのような事を」
「ディング大司教が……」
「それこそ姫様を陥れる為の詭弁かもしれないでしょう、真に受けないでください!」
将を説得する軍師のような苛烈さで、クラリスはまっすぐイリスの瞳を見すえて、一言一言、幼い子供に言い聞かせるように叱咤する。
「女王陛下は、無思慮に貴女を危険な目にさらすような命を下す御方では、決してありません。このクラリスが保証いたします! よもや間違っていたら、私の首を差し出しても構いません!」
そこまでの自信と覚悟があるのか。イリスが愕然としている間に、クラリスは振り返りざま、迫っていた敵を一人、斬り伏せる。そして告げた。
「ですから、事の真偽を見極める為にも、姫様は、ユリシス様と共に、一刻も早くここを脱出なさってください」
まるで言い終わる頃合いを見計らっていたかのごとく、窓が派手に砕ける音と共に、従兄が駆る魔獣の赤い巨体が、大聖堂の廊下に飛び込んで来た。
「クラリス達は!?」
「後から参ります」
簡潔に答え、クラリスはリルハや魔道士達と共に、敵陣へ斬り込んでゆく。自分だけ逃げろというのか。歯痒さにとどまろうとしたイリスを、ユリシスが問答無用でグリフォンの背へ引き上げ、勢い良く飛び立ち、砕けた窓から再び飛び出した。
逃がすまいと地上から矢や魔法が放たれる。ユリシスは相棒を巧みに操り、ことごとくを避け、あるいはかすめるに留めた。
上空を滑るように過ぎ去る魔獣の姿に仰天してどよめく、何も知らぬ門前街の人々も、大聖堂から悔しげにこちらを見送る僧兵達の姿も、あっという間に小さくなり、遠ざかってゆく。
しかし、イリス、イリスと、狂ったように自分の名を呼ぶ彼らの声だけは、いつまでも消えないような気がして、イリスは従兄の腰にしっかりと腕を回し、その背に深く顔を埋め、ぎゅっと目をつむった。




