第1章:イリス(7)
イリスは独り呆然と、大聖堂内を歩いていた。窓越しに差し込んで来る夕日が、廊下を薄赤く照らす。床も天井も、壁を彩る聖王伝説の絵画も、全てが赤く染まっている。まるで十四年前の、あの日の光景のように。
夕刻のひんやりとした空気が肌を刺す。それはイリスの火照った頬を冷やしていったが、頭の芯だけは、熱病にうかされているような感覚のままだった。
暗殺など戯言だと、言葉の意味がわかった時から、思い込むようにしていた。だが、その確率が現実味を帯びてくると、ふつふつと心の奥に湧き上がる感情がある。
記憶にある限り、父は恨みを買うような人間ではない。何故、悲惨な最期を遂げ、遺体すら失われるなどという辱めを受けねばならなかったのか。父が一体何をしたというのだ。アースガルズに仇などいるはずが無いのに。
十四年も逃げおおせている、実体の見えぬ卑劣な殺人者に対して、イリスは激しい怒りを抱く。あんなに鬱陶しくて仕方無かったアガートラム城の日々が、母の小言が、逃げ出して慌てる家庭教師の真ん丸く見開かれた目が、挨拶を返してくれる兵達の笑顔が、無性に恋しくなった。
無意識の内に目が潤んでいたので、弱気な心持ちごと強引に拭い去る。父の死以来、誰かに涙を見られるのは嫌いだったし、決して見せていない。『大国グランディアの王女』が、弱味をさらしてはならないのだ。
それから顔を上げ、イリスは初めて、帰り道をすっかり失念していた事に気づいた。だだっ広い建物内を考え無しに歩き回り、随分と奥まで来てしまったらしい。更に運の悪いことに、周囲には人影も見当たらない。とにかく、人のいる場所まで戻ろうとして、ひとつの光景を意識に留め、イリスは立ち止まった。
猫だった。大きすぎでも小さすぎでもない、適度な大きさの成猫である。気を引いたのは、その毛並みが光る銀色だったのと、イリスをじっと見つめる瞳が、血のように赤いところだったからだ。猫は王女が自分に意識を向けた事を認識したのか、ひらりと身を翻して駆けてゆく。追わなくても良いのに、何故か、後についてゆかねば、という思いが、イリスの胸に宿った。
銀の猫は、イリスと一定の距離を保ったまま、しかし決して追いつけない訳ではない速度で廊下を駆ける。そしてひとつの部屋の前に辿り着くと、閉じられた木の扉の割れ目から、するりと中へ入っていってしまった。引き寄せられるように扉へ近づいて、あらためる。何の変哲も無い、古い木製の扉だ。長く使われていない部屋なのか、掃除も疎かのようで、表面は飴色に変色している。しかも、そこには厳重に鍵が施されているのだ。まるで、中にあるものを秘すかのごとく。
得体の知れない不安を感じながらも、イリスは引き寄せられるように、把手に手をかける。鍵は古くなっていたのか、あっさり壊れて扉は開いた。
中は、アガートラム城の聖堂と変わらないくらいの、大きすぎはしない部屋だった。不要な椅子や台が隅に置かれている以外は何も無く、がらんとしている。猫の気配は溶けたかのように消え、どこにも潜んでいる様子が無い。ただ、その奥に安置されている存在が、普通の物置とは明らかに違う事を、決定的にしていた。
『それ』に気づいたイリスはぎょっとして後ずさり、背後に積んであった椅子の山を崩した。が、そんな大音響にも微動だに反応しなかった事から、『それ』が、腐敗を防ぐ魔力によって生前の姿を保っているだけの、既に生命活動を停止して久しい物体であると気づく。
『それ』は、イリスがこれまで見た事も無い生物だった。あまりに異質な造形に、思わず呼吸をするのも忘れて見上げる。
「これは十四年前の事件で回収された、魔獣の標本ですよ」
食い入るように見つめていた所に、突然声をかけられたので、イリスは目に見えるほどすくみ上がってしまった。のろのろ振り向けば、いつの間にか戸口に、位の高い司教と思しき服を纏った壮年の男が立っている。
「おや、驚かせしてしまったようで。お許しくださいませ、イリス王女殿下」
初対面で自分の名を知っている事を訝しみ、イリスは眉をひそめたが、相手はそれを気に留める様子も無く、恭しく名乗りながら入って来た。
「現在、この聖王教会を任されている、ディング・コルセスカでございます」
「大司教殿でしたか」
聖王教会の最高責任者と云えば、大司教しかいない。相手の身分にイリスは慌てて表情を繕い、最低限の礼節を保って頭を下げた。
「こちらこそ、申し訳ありません。一方的に押しかけた挙句、このような場所に無断で立ち入ってしまって」
「いえ、よろしいのですよ。お父上の死は、姫君のお心にも、深い傷を残すものだったでしょう。その真相を求めるお気持ちは、痛いほどお察しいたします」
ディングはごく柔和な笑みを返してきた。表情も口調も、こちらを気づかう親切なものだったが、どうにも信用が置けず、イリスはさりげなくディングを警戒しつつ、質問を投げかける。
「これが、十四年前の魔獣だと、おっしゃられましたね」
「はい。事件の真相を知る為に、また当教会の研究材料とする為に、当時の姿のままで保存してあるのです」
大司教は語りながらイリスの隣に並ぶと、感慨深げに、奥に納められる不可解な生物を見上げた。
「全く、不思議な代物ですな。長年、生物の体系を研究してきた私でも、このようなものを見るのは、初めてでした」
確かに、イリスもこんな造りの生物など、目にするのは初めてだ。
『それ』は、人のようにも、魔族のようにも、あるいは竜獣のようにも見える。しかし、顔は異様に突き出た顎と猛獣のごとき牙や角を備えており、背を突き破るのは竜獣の翼にも似た羽。四肢は人より長く、それらのことごとくが、再生を繰り返したかさぶたのような、褐色の皮膚で覆われていた。
「史書に残る、最強のフォモール『ヴァロール』か、あるいは世界原初の始祖種そのものを思い起こさせるような姿です。まったく、これを創った者は、神、であると言われても、信じざるを得ないでしょうな」
妙にしみじみと呟くディングの言葉を聞いて、イリスは気づかれぬ程度に顔をしかめた。世界にある事象の理由を、目に見えぬ存在に転嫁する。宗教家と文章家の好む、よくある手法だ。イリスはそれが嫌いだった。無神論者という訳ではない。だが幼い頃から、その存在を信じることはできなかった。父は救われなかったし、その魂の行く先が本当に天上かなど、知る術は存在しないのだから。
「神だなどと……」
絵空事を、と不機嫌を露に反論しようとして、イリスはぎくりと身をすくめた。魔獣を見上げる大司教の横顔には明らかに、『それ』に――いや『それ』を創った何者かに、か――対する畏怖と、狂気にも似た敬意が宿っていたからだ。
「神などいないと、そう思われますかな? ただの人でありながら神と崇められた、ヨシュア・イルスの血を引く貴女は」
およそ聖王教会筆頭とは思えぬ発言と共に、身を引こうとするイリスの腕をつかみあげ、ディングがゆったりと振り向く。その顔にはまだ笑顔があったが、先程までの、取り繕うような穏やかさは残っていない。
「だが、私は見た。神の実在を」
イリスは後悔した。最初に違和感を覚えた時に、部屋を出てゆくべきだった。あるいは、何故彼が自分の名を知っていたのか、問いただすべきだったと。
「改めて名乗り申し上げた方が良いですな。私は、聖王教会大司教ディング・コルセスカ。しかし、この肩書きも過去の虚構。今は、神の忠実なる下僕、と申しておきましょうか」
狂信的な笑みを顔にへばりつかせて、男は宣告した。
「イリス王女。貴女の身柄を確保せよと、エステル女王の名で命が下されました」




