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episode.94 想定

「こんなことを言うと失礼かもしれないけれど……正直、まだ実感が湧いていないの」


 落ち着くことはできず妙に狼狽えているリーツェルに対し、私は本当の心境を述べた。


 かっこつけて嘘をついても、いずれはばれるだろう。何も知らないのに知っているふりをする、などという強がりは、馬鹿の行いでしかない。何も知らないのが馬鹿だとしたら、知っているふりをするのは大馬鹿だろう。


「ここが戦場になるのか? だとしたら何が起きる? 何をすればいい? ……分からないことだらけよ」


 まだ何も起きていなくても、溜め息ばかりが漏れてしまう。


「それは……そうですわよね……」

「フライと共にあった貴女なら分かる?」


 私は面を持ち上げ、リーツェルの丸い瞳を直視する。

 彼女の水晶玉のような瞳は、微かに震えているようだった。


「……詳しくはありませんわ。戦場に出たことは……一度二度くらいしかありませんもの」


 一度二度経験があるだけでも凄いと思うのは、私が部屋にこもりすぎだったからだろうか。


「戦場に出たことはあるのね」

「はい。けれども……戦闘要員としてではありませんわ」

「フライの付き添い?」

「そのような感じですわね」


 だとしても、それは凄いと言って差し支えのない経験だろう。フライの従者であっても、戦場に出なくてはならない規則があったわけではないのだろうから。


「けれど、付き添いはわたくし一人ではありませんわ。ファンデンベルクもですの」

「二人とも戦場を知っているの!」

「もっとも……わたくしもファンデンベルクも、戦闘要員とは言い難いですけれど……って、だから今もこうして不安なんですわよ!」


 リーツェルは敵の前であっても妙に勇ましい時があった。その勇ましさは、険しい道を歩く経験をしてきたからこそ得られたものなのかもしれない。根拠はないが、何となくそんな気がする。


「何にせよ、知らぬ方が良い世界です」


 突如口を挟んできたのはファンデンベルク。


「あんなものは敢えて知るべきものではないでしょう」

「私は何も知らなすぎる……」


 机の上での基礎的な学びはある程度こなしてきたけれど、外の世界についてはまだ知らない部分が多い。


「知らずに済むのなら、それが一番です。貴女がわざわざ穢れた世界を覗く必要などありは——」


 ファンデンベルクがそこまで言いかけた時。


「同感、だな」


 いつの間にか王の間に入ってきていたカンパニュラが述べた。


「カンパニュラさん!?」


 いきなりの登場に、思わず大きな声を発してしまう。


「そんなに驚くな。何も嫌みを言いに来たわけではない」

「あ……そうですよね。すみません。それで、何か用ですか?」


 悪魔でも見たかのような態度を取ってしまってごめんなさい。


「呆れるほど呑気だな。これが平和ボケか。はぁ……呑気にもほどがある」


 少し前に「嫌みを言いに来たわけではない」と言っていたが、その言葉は嘘だったようだ。だって、しっかりと嫌みを投下している。これで彼が「嫌みを言っていない」と主張するなら、こちらも「貴方は変」と主張せずにはいられない。


「近日中にはここもどうなるか分からん。心づもりはしておいた方が良いぞ」

「心づもり?」

「ここから脱出する心づもり、ということだ」


 カンパニュラの言葉を聞いた瞬間、全身に電撃が走ったような感覚に襲われた。

 ここから出ていかなくてはならない可能性。一度も考えたことがなかった。いや、もしかしたら、心を守るため本能的に目を逸らしていたという可能性もないことはないのかもしれない。


「そんな! 逃げ出せと仰るのですか」

「今すぐ逃げろとは言っていない。想定しておくようにと伝えておいただけだ」

「……そう、ですね」


 あらゆる可能性へ思考を巡らせておかなくてはならない。可能性が無でないのなら、それは起こりうること。思考の範囲から外してはならないものなのだろう。


 でも、できればそんなことは考えたくない。


 毎日忙しくてもいい。理不尽な量の紙の確認を押し付けられる日々でも構わない。たとえ多忙であっても、楽しいことがないわけではないから。向き合える人がいてくれるなら、苦労でも何でも進んでする。


 私は、近しい人と笑い合える日々の中で、生きてゆきたい。


 こっそり悪口を言われることも、実は私のことをよく思っていない人がそこそこいても、そんな辛さは我慢する。この国が壊されずに済むのなら、穏やかな時間を失わずに済むなら、小さな辛さくらい黙って耐える。


 そんな風にして思考に海に溺れていた私の顔を、リーツェルが覗き込んで見てくる。


「セルヴィア様、大丈夫ですの?」


 リーツェルが不安そうにこちらを見ていることに気づいたら、このままではいけない、と、少しだけ心が強くなったような感覚があった。


「……えぇ。平気よ」


 微笑もう、辛くても。


「私は大丈夫」


 笑っていること。

 きっとそれが、何もできない私にできる、唯一の反撃だ。


「ありがとうございます、カンパニュラさん。助かりました。念のため、そういった展開も頭の片隅に置いておきます」


 本当は欠片ほども置いておきたくないけれど。


「……急にさっぱりしたな」


 きょとんとした顔をするカンパニュラを見ていると、何だか面白い気がして、笑いが込み上げてきてしまった。


「そうでしょうか? 気のせいでは?」

「あ、あぁ……。そうか」

「カンパニュラさんのことも頼りにしています。どうか、これからも力を貸して下さい」


 直後、カンパニュラはギョッとしたような顔をした。私の何にそんな顔をされているのか分からなかったが、そのうちに彼は「まぁ……そうだな」と低めの声で発した。


 私の発言が意外だったのだろうか。


 でも、何も特別なことを言ってはいない。これからも力を貸して下さい、と言っただけ。そんなものはありふれた発言でしかない。驚かれるような要素はないと思うのだが。

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