62 老中首座 阿部正弘
あれから九日。
明け六つ(六時)に起床し、身支度、かるい朝食ののち、家臣四十人とともに出発。
六つ半(七時) 西の丸大手門、吹上御門を通過し、広芝横の茶屋に到着。
結局、御庭使用は、家定にお願いしたとたん、あっさり裁可され、同時にあのときの茶屋を更衣室兼休憩所として使う許可までいただいた。
運動場プラス、部室までできちゃった!
公方さまったら、太っ腹♡
御庭内で会津侯一行の世話をするのは、吹上奉行配下の幕臣たち。
今朝も茶屋前でお出迎え。
「肥後守さま、さきほどから伊勢守さまがお待ちにございます」
「伊勢守が?」
「はい、なんでも、肥後守さまの鍛錬をご覧になりたいそうで」
へー、意外な。
老中の勤務時間は『四つ(十時)あがり、八つ(十四時)さがり』。
いまはまだ六つ半すぎ。登城するには早すぎる時間だ。
(また、なんかたくらんでるのか?)
どうも阿部は信用ならない。
先日も、「偉才、芝居、擬態」とか歯のうくようなお世辞言って、ヘンにヨイショしてたし、今日の来訪も絶対裏になにかあるにちがいない。
ま、たしかに、日米交渉のとき、アメリカ側に同盟をもちかけ、ペリーにアラスカ奪取をそそのかしたけど、あれは苦しまぎれっちゅーか、ブラカシっちゅーか。
それを、阿部ったら、大げさに持ちあげやがって!
現在(嘉永七年)、アラスカはロシアが領有しているが、十三年後の1867年、クリミア戦争で経済的に疲弊したロシアは、アラスカを約七百二十万ドルでアメリカに売却する。
俺としては、ロシアにまとまった金が入ると「対日戦費になるんじゃね?」と思ってけしかけただけで、海防戦略ってほど大したものじゃない。
クリミア戦争中のいま、アラスカにアメリカ軍が侵攻すれば、ロシアは日本にかまってる余裕なんかなくなるはずだし、アメリカさんがタダでブン捕ってくれれば、ロシアは将来資金調達に困るから、日本にとってはラッキー、てなもんだ。
「ついでに、このどさくさにまぎれて、外交交渉でいい条件取りゃいいんじゃね?」と、アドバイスしたけど、そんなのだれだって考えそうなことだ。
なのに、ジジイ追放時の発言といい、大政参与に祭りあげたやり口といい、もうなにもかもすべてがアヤシイ!
そしてこの見学要請。
(うさんくせぇ)
警戒対象の老中・阿部正弘は、のんびり涸山水を鑑賞していた。
「今朝は早いな」
そう声をかけると、善良そうなスマイルで会釈。
「本日は評定所に出向かぬ日でして」
老中には月に三回、明け六つに辰の口の評定所に行き、公務をおこなう日がある。
そこでは、大名・幕臣・寺社など、所管のちがう多岐にわたる案件を審査決定――いわば、最高裁判所的業務だ。
それが終わると、つぎは登城。ここでは国政に関する案件を処理する。
で、八つころ退庁し、役宅に帰ってからは持ち帰った仕事や藩主としての決裁関係の仕事を片づける。
そのほか、月に九日『対客』という職務もある。
これは、登城前に役宅で大名や旗本に面会して話を聞くというもので、朝七つ(四時)~七つ半(五時)にはじまり、六つ半に終わるゲッソリなオシゴトだとか。
ナリさんが阿部役宅に朝五時に突撃するのは、この『対客』にかこつけて押しかけているそうだ。
こうしてみると、老中ってけっこうキツイ役職みたいだな。
阿部はこの仕事をもう十年以上やっている。
塩大福の正次系阿部家(阿部氏宗家)は譜代の中でも名門中の名門で、正弘は十一年前の天保十四年(1843年)二十五歳という当時としては異例の若さで老中に就任し、その二年後には老中のトップ――首座についた。
それから十年、こいつは幕閣の最高責任者として政治を統括しつづけているわけで、やり手であることはまちがいない。
「どうぞ、先にお支度を」
やり手老中の勧めもあって、隣室で武道着にお着がえ。
「待たせたな」
対面にすわるなり、阿部は意味ありげに笑った。
「会津の洋式調練を見学しにまいりました」
だーかーらー、そんなんじゃねーつってんだろー!
俺らがやってるのは、長距離練習っ!!
「異国船来襲や攘夷派の暗躍もあり、今後なにが起こるかわかりませぬ。つきましては、将軍家警護のお役目をもつ御小姓・御書院番にも洋式調練をやらせてみようと思いたち、本日はその下検分に」
おい、攘夷派って、どの口が言ってんだ!?
てめーの暴行を、攘夷派のせいにしたくせに!
「ふん。簡単に言うが、両御番(御小姓・御書院番)は馬廻(騎馬資格をもつ上級武士)以上。さような者たちに己の足で走れと強要するのか? みな抵抗いたすに相違ない」
「でありましょうな」と、言いつつニヤニヤ。
「なれど、肥後守がご指導なさるとなれば考えもかわりましょう」
はぁ? なに言ってるか、サッパリわからん。
いや、わかろうとするだけムダだ。
こいつにかまってたら、貴重な練習時間が減る。
「好きにするがよい。みなが待っておるゆえ、これにて」
だるいオッサンをそこに残し、俺は座敷をあとにした。
江戸は数日前に梅雨入りしたらしく、いまにも降りだしそうな重い曇天。
そして、広芝中央に整列する藩士の半数はすでにシトシト。
「なにゆえ馬廻のわれらが」
「足軽のごときマネを」
「口惜しゅう――「静まれぃっ!」
大野の一喝で、一同緘黙。
「では、これより鍛錬をはじめる。まずは柔軟体操からじゃ」
俺の号令とともに柔軟体操――ラジオ体操開始。
十代後半から三十歳までの会津藩士四十人に正対し、体操を実演しながら、全員の動きをチェック。
大福からの刺さるような視線を背中に感じつつ、つぎにアキレス腱・足首・手首、スクワットのストレッチ体操を一セット。
身体も十分ほぐれ、あたたまったところで、
「よし、つぎはジョグじゃ!」
そう宣言した瞬間、
「……うぅっ……」
突如、小姓のひとりが泣きくずれた。
……ちっ、またか。
練習開始から今日で九日目だが、毎日必ずコレが起きる。
藩主近習になれるのは上士階級。
上士イコール騎馬武者。
つまり、足軽のように走るという屈辱的行為にたえられず泣き出す上士が、初日から後を絶たないのだ。
とくに会津藩は、他藩よりも身分制度がきっちりしているから、当然士官という身分に誇りを持っているヤツばかりで、本当にめんどうくさい。
……そういえば、じいも似たようなこと言ってたもんな。
「つねに申しておるとおり、気が進まぬ者はやらずともよい!」
俺は、自分が走りたいからやってるんだ。
俺は、君たちに参加強制なんて一切してませんから!
強制してるのは、大野冬馬だし!
御庭使用許可がでた日の夜。
「明日からさっそく練習しよ~!」なポジティブ主君のもとにやってきた小姓頭。
どんよりした表情と、つよくむすばれた口元。
「なんか、やけに深刻そうっすね?」なネガティブオーラを放ちまくる大野氏は、しばらくしてから意を決したように口を開いた。
「明日の鍛錬、それがし以下、小姓組および刀番二十人もごいっしょさせていただきます」
「近侍は無用だ。そなたも徒士のマネ事はイヤであろう?」
憑依してから数ヶ月。俺もここの世界のことがわかりはじめている。
だから、上級武士の矜持を傷つけるような命令など出すつもりはないのだ。
「いえ、それがしは亡き大殿および静仙院さまより、『片時も離れずお仕えせよ』と命じられましたゆえ、つねに殿のお傍に……(うぐうぐ)……」
突如、口もとを手でおおい、膝に置いた拳をふるわせる会津武士。
「…………」
なんか俺がいじめてるみたいじゃないか。
俺は来なくていいって言ってるんだよ?
それを断って、勝手について来るくせに、なにその態度?
自主的に参加するっていうなら、その産卵中の海ガメみたいな、うるうる眼、やめてくれない?
こっちのテンションもさがるんですけど!
……と思ったが。
(人数がふえたら、駅伝、できるじゃないかっ!)
目の前に、パーっとバラ色のモヤがひろがった。
たしかに、俺の当面の目標は皇居ラン。
しかし、これは俺にとって通過点にすぎない。
俺の最終目標は、もちろん、【EKIDEN】っ!!!
できたら、江戸箱根間往復駅伝競走大会を開催したい!
あたりまえだが、駅伝はひとりじゃできない。襷をつなぐ仲間が絶対に必要だ。
それに、どうせやるなら多くのチームと競い合いたいものだ。
ランニング仲間がふえれば、それだけ夢に近づくわけだ!
よっしゃーっ! 長距離選手、うじゃうじゃ養成するぞーっ!
てなことで、涙目藩士を率いて、日々トレーニングにはげむボク。
メンバーの半分は、大野におどされてイヤイヤ参加の上士諸君。
残りの半分は、志願してきた下士二十人。
こっちはランニングにそれほど抵抗のない層で、いっしょに走っていても楽しいやつら。
そして今回、大量の新入部員?
しかも、御小姓・御書院番?
プライドの高い旗本の中でも、両御番とよばれる御小姓・御書院番士は、エリート意識の塊みたいな連中だ。
それが、ランニングなんて大丈夫なのか?
会津藩士以上にめそめそするんじゃないの?
あれこれ考えているうちに、ジョグは終了。
おつぎはドリルを一セット。
これをしっかりやらないと、きれいなフォームで走れない。
海ガメさんたちにていねいに指導してやったあとは、メイン練習のクロカン。
曲輪内をクロカン三周。
走りにくい武道着と草鞋だけど、走れるだけでもウッキウキな俺。
(さらにメンバーが増えるかも?)なよろこびで、いっそう足取りもかるくなる。
そんなこんなで、あっというまに三周走破。
練習のシメ、クールダウンも忘れずにキッチリ。
走ったあとは、汗で失われた水分・塩分・エネルギーを持参した弁当で補給する。
この弁当は藩主も下士もみな同じもので、ふだんは藩主の傍近くまで来れない下士も、このときばかりはすぐ隣の部屋で休憩できる。
たまに声をかけてやったりするうちに、「お、こいつ使えそう」なやつを発見し、人材発掘もできてしまうというステキな副産物つきだ。
一汗かいた爽快感とほどよい疲労感。
すばらしい自己肯定感に満たされ、気分はサイコー!
で、本日の練習はこれにて終了。
本当はもっとやりたいところだが、藩士たちには仕事があるからわがままは言えない。
「なるほど」
座敷の片隅で、阿部がぼそり。
「これは軍制改革を視野に入れた取り組みなのだな」
ちげーよっっ!!!
洋式調練でも軍制改革でもねーし!
ただの長距離選手養成プログラムだっつーの!
「……む……?」
もしや、こいつ…………わざと過大評価しているのか?
だとしたら、なんのために?
けぶるような表情で俺をガン見する幕末一の敏腕老中。
阿部の眼にさらされると、妙にそわついてくるのは、なぜだ?




