184 安政江戸地震
安政二年十月二日(1855年11月11日)夜四つ(午後十時)
断続的に降っていた霧雨は昼過ぎには止み、薄曇りの空にかかっていた線状の二日月も、朱鷺色の残照がベロ藍の宵闇にかわるころには沈んでしまった。
うっすらと夜靄がただよう街はシンと静まり返り、堀瑞に設置した燎のはぜる音がやけに大きく響く。
と、そのとき ――
どこからともなく不気味な破砕音が聞こえてきたかと思うと、腰かけていた床几がカタカタ揺れはじめ……
次の瞬間、ゴォーという地響きとともに突きあげるようなはげしい縦揺れが起き、俺は地面にたたきつけられた。
あっちの世界でも発生した江戸湾北部を震源とするマグニチュード7クラスの直下型地震 ―― 後世『安政江戸地震』とよばれる歴史的激甚災害のはじまりだ。
床几から転げ落ちた俺は起き上がることもできず、うずくまったまま襲いくる衝撃に耐えた。
「「「殿!」」」
「「「おケガは!?」」」
そこここから主君を気づかう声があがるが、その家臣たちもあまりの強震に身動きが取れない。
「大事ない。それよりも、おのおの一身の保全を図れ!」
永遠につづくかと思われた激震も、しだいに収束にむかっていく。
暗中唯一の光源となっていた燎は、松の割木が崩れていっそう火勢が強まり、周囲の惨状を煌々と浮かびあがらせる。
滝のように落下しつづける屋根瓦。
大きく亀裂が入った表長屋のなまこ壁。
かがり火の炎を映し、はげしく波打つ桔梗堀。
あちらこちらから湧きあがる悲鳴と崩落音。
断層型地震は、揺れている時間は比較的短いものの、強烈な縦揺れが特徴で、震源が浅い場合、家屋の倒壊や土砂災害を引き起こすのだ。
「みな、大事ないか!?」
上体を起こしながら見回すと、
「当家添屋敷から白煙が!」
家臣の報告にふり返ると、上屋敷と小路をはさんで建つ添屋敷後方から一筋の煙が。
「フォーメーションB!」
「「「御意!」」」
ひっくり返っていたヤローどもは、命令一下すっくと立ち上がり、おのおの手桶を持って堀に殺到する。
あとは、日ごろの訓練どおり、堀端にスタンバった十人ほどが持ち手に頑丈な綱を通した桶で水をくみ上げ、差し出された手桶に移し、それをほかのメンバーが火元に運ぶ。
ほどなく、
「「「鎮火!」」」
「よういたした!」
あざやかな連携プレーで、火災を未然に防いだ家臣たちは顔を見合わせてニッコリ。
あっちの世界では、この地震のとき会津屋敷が火元となって西ノ丸一帯を焼け野原にしてしまったらしい。
万が一、ここでもそんなことになったら、奥羽越諸藩との合同防災訓練を提唱した俺の面目は丸つぶれ。
てなわけで、こっそり消火訓練をしていたわけだが、その成果がみごとに発揮されたのだ。
よきかな、よきかな。
ところが、
「隣家からも火の手が!」
「御長屋が!」
複数の声に目をやれば、壁面がゴッソリ剥落していた表長屋がドミノ倒しのように次々に崩壊していった。
そのがれき越しに見えたのは南隣・忍藩邸から立ちのぼる黒煙。
「建物には近づくな! 消火活動を優先せよ!」
「「「応!」」」
家臣たちはふたたび手桶を持ち、今度は馬場先堀を起点にピストン輸送を開始する。
「もうひと息じゃ!」
「ご助勢かたじけない」
火事装束で家来を鼓舞する会津侯のもとに、寝巻に羽織をまとっただけの藩主・松平下総守忠国がよろめきながらやってきた。
「なんの。困ったときは相見たがいじゃ」
「なれど、あとはわれらが始末をつけますゆえ、肥後守は急ぎ御登城を」
「ご遠慮めさるな。ここは乗りかかった船。鎮火まで見届け――」
「なりませぬ!」
大名同士の会話をぶった切る無礼な掣肘。
「……冬馬」
容さんの背後霊こと大野冬馬は、馬具完全装備の風神丸の手綱を抑えつつ、ぎらつく眼で俺を睨めつけた。
「下総守さまのおおせのとおりにございます。天水桶がくずれるほどの地震が起きた折には、諸侯は速やかに登城し、公方さまにお見舞いを言上せねばなりませぬ」
「さよう。それがしも支度を整えしだいまいります。肥後守はどうぞお先に」
なぜか熱心にうながすオッサン。
「いや、そう申されても……わたくしは目下『遠慮』中にございますれば……」
「やくたいもないことを! 伺候が遅れた結果、当家の忠誠心を疑われ、お咎めを受けるハメになったらどうなさるおつもりか!?」
震度計などない時代、地震の強さを測る目安は、市中各所に設置されたピラミッド状の天水桶だ。
これが崩れるくらいの大きな地震が起きたら、大名たちは即将軍のところに駆けつけて、「だいじょうぶっすか?」とゴキゲン伺いをする決まりになっている。
でも……
(え~、行きたくねぇ~。せっかく『遠慮』で登城をさぼれてるのにぃ)
「殿ーっっ!!」
サトリ妖怪の咆哮にビビった俺は、脊髄反射で風ちゃんに飛び乗り、一路御城めざして走りだしたのだった。
大手門前に到着したとき、俺の後ろには完璧な供揃 ―― 黒羅紗の二本鑓、総金の纏(馬印)、金御紋付対挟箱その他もろもろの道具類プラス供侍六十人 ―― がつき従っていた。
大野は俺の指揮する自衛消防隊とは別に、あらかじめ登城行列スタッフを準備していたようだ。
相かわらずデキるやつだ(性格はともかくとして)。
大下馬で風神丸から降りた俺は、十数人の供とともにいまだ瓦が落ちつづける高麗門をくぐった。
頭上に降りかかる瓦は、その都度大野が鉄扇で無造作に薙ぎ払う。
大手三之門(下乗門)でさらに供を減らし、ブーたれながら中雀門にいたる雁木坂をグダグダ上っていると、後ろからものすごい勢いで迫ってくる一団が。
足を止めて見下ろすと、片喰紋の火事兜をかぶったオッサンが阿修羅のごとき形相で、石段を駆けあがってくる。
「左衛門尉?」
カタバミパパこと庄内藩主・酒井左衛門尉忠発は、俺の呼びかけなどガン無視で、俺たち主従をサクッと追い抜いていった。
「「「殿、抜け駆けにございまする!」」」
気色ばむ家臣ども。
「さように目くじらを立てずとも……」
「なにをノンキな! 一番乗りの功をゆずるは武門の名折れ! まして殿は二代将軍・台徳院さまの末裔。武家の棟梁のお血筋としてのご自覚「相わかったっ!」
般若の殺気に当てられて、しかたなく酒井の後を追うが、もともとのヤル気のちがいからか、カタバミ一行はグングン遠ざかっていく。
「あ゛ー! ▲#✖●¶◆ーっっ!!」
地団駄をふむ大野は、最近とみに山川化が加速している。
仕事上もいろいろ引継ぎをしているっぽいが、なにもソレまで継承しなくても……(グチグチ)。
雁木坂を上りきり、本丸前に到着。
江戸城本丸は堅固な台地上に建っているため、西ノ丸下や大手門周辺より地震動がゆるやかだったらしく、多少瓦がずれたりはしているようだが、外観に大きな損傷は見られない。
その本丸玄関・遠侍の式台では、庄内藩主が高速で草鞋を脱いで入城していく。
それを苦々し気に観察していた大野は、
「いまに見ておれ」と吐き捨て、
「ささ、われらは御納戸口へ」
俺たちは大野にうながされ、遠侍を素通りして、奥の長屋門をくぐる。
たいへん不本意ではあるが、俺は大政参与を罷免されたにもかかわらず、サダっちから『今後緊急に相談することがあるかもだから渡しておくね登城通行手形』なるものを内々に押しつけられていて、これさえあれば、幕閣用の出入り口・御納戸口を利用できるうえ、表御殿と中奥の間に設けられたセキュリティドアを無条件で開けてもらえるそうな。
かくして俺は、デカデカと家定の花押が書かれた最高級奉書紙を掲げて、土圭之間の坊主どもを蹴散らし、口奥から将軍公邸への侵入を果たしたのだった。
外からは大した被害がないように見えた江戸城も、内部では襖がふくれあがったり、障子紙が縦横に裂けたりといった軽度の破損が散見できた。
あわただしく行きかう小納戸のひとりを捕獲して、将軍のもとに案内させる。
サダっちは将軍寝室・御休息之間にいるという。
「おお、息災であったか」
家定は、避難のため寝巻から羽織袴に着替え終わったばかりらしく、いまは小姓たちに陣笠を装着されているところだった。
俺が地震見舞いを述べると、
「会津屋敷はいかに?」
心配そうに聞いてきた。
「残念ながら、表長屋は全壊。屋敷もおそらく大破しているかと」
「ふむ。西ノ丸一帯はかつて入江であったからな。なれば、伊勢(阿部正弘)・備前(牧野忠雅)らの役宅も同様であろう。すぐに登城はできぬか」
「御意」
和田倉門外には老中の役宅がある。
ここにくる途中、塩大福の屋敷横を通ったが、塀は崩れ、奥の家屋もぺちゃんこになっていた。
「それにしても、その方はずいぶんと早かったな」
「わたくしはこたびの地震を予知しておりましたゆえ」
「「「なんと!」」」
愕然とする小姓たち。
「よって、先月中に奥はじめ女子どもを高台に建つ三田屋敷に移し、わたくしと家臣は昨日より屋敷外にて野営をおこなっておりました。おかげで、だれひとり倒壊に巻きこまれず、火災も初期段階で消し止めましたので、大火にならずにすみました」
「「「さすが、会津侯!」」」
「「「神のごとき英知!」」」
やんややんやの大喝采。
そうなのだ。
地震が起きたのはたしか十月初旬だった気がして、俺はまず妊娠中の御一や家臣の妻子を三田の下屋敷に送り(中屋敷はウォーターフロントだから、避難所候補から外した)、俺自身は残ったヤローどもと堀端で野営して、地震発生に備えていたのだ。
(『遠慮』中で外出する必要もなく、日中、心おきなく爆睡できたから体調も万全っす)
また、これに先立ち、江戸湾の第二台場に駐留する家臣たちも全員退去させた。
なんでも、この地震のとき、会津が受け持つ台場では陣屋がつぶれて十数人が圧死したとか。
海中に急ごしらえで築造した人工島なんて、入江を埋め立てた西ノ丸下以上にヤバいに決まっている。
「肥後」
自画自賛トリップに突入していた俺は、将軍の呼びかけでわれに返った。
「近習どもが避難したほうがよいと申すのだが、どうであろうか?」
「たしかに、御殿自体はさほど被害がないようですが、ここはひとまずご動座なさるべきかと」
江戸城には将軍警護のため、多くのおサムライさんたちが宿直をしている。
夜間の勤務だから、当然照明のための燭台や時期的に火鉢を使っていたはず。
さっき城に入ったとき、ツンと焦げくさい臭いがしたのは、たぶんどこかでボヤが発生したのだろう。
それに、いまはだいじょうぶでも、余震で天井や梁が落ちたりするかもしれない。
いったん野外に避難して、安全を確認してから中に戻ったほうがいい。
「ならば、そういたそう」
「……公方さま、少々お待ちを」
出口に向かって歩きだすサダっちに、俺はあることを進言し、引き留めた。




