180 東海道
更新が遅くなり、本当に申しわけありませんでした <(_ _)>
次話はなんとか早めに…… ( ;∀;)
それは、帰府の途について四日目、伊勢国・四日市宿はずれの立場で休憩をとっていたときのこと。
「容保殿、次の桑名では墓参りにつきあってもらうぞ」
「またですか!? いくら義父上といえども、あまりに横暴ではございますまいか!」
いきなりかまされた一方的な宣言に、思わず四日市名物・日永餅を床に叩きつけて立ちあがるボク。
「また!? またとはなんだ、またとは!」
年少者からの怒声に逆ギレたオッサンも、手にした餅をブン投げる。
「いつ、わしが貴公を墓参りにつき合わせた!? 申してみよ!」
「ええ、たしかに墓参りこそございませんでしたが、京を発って以来、やれ由緒ある古刹だ、やれ歌枕で有名な絶景だ、やれ名物の餅菓子だと、事あるごとにチョロチョロ立ち寄られるゆえ、なかなか旅程がはかどりませぬ! 黒船でしたら、とうに江戸に着いているはずなのに、四日目にして、まだ四日市! 全行程の四半分(四分の一)にも達しておらぬのですぞっ!」
今回、船で往復するつもりだった会津一行は、旅費をあまり持ってきていない。
しかも、会津は上方に拠点を持っておらず、当然ながら懇意にしている商家等もないため、旅費を調達しようにもその手立てがなかった。
てなことで、しかたなく義父に頭を下げて旅費を貸してもらったわけだが、借りた金は返さなくてはならない。
……どこかの藩みたいに、刀をちらつかせて債権者たちを脅して、強引に二百五十年ローンを承諾させる厚顔無恥ヤローならいざ知らず、嫁の実家に借りた金を踏み倒すなんてマネは、シャイでまじめな東北人には無理ゲーすぎる。
それに四日目でまだ四日市(シャレではない)。
箱根駅伝復路(109.6km)とほとんど変わらない百キロちょっとを踏破するのに、四日もかかっているのだ。
箱根駅伝シード校レベルなら五時間半で走り切る距離を!
このころの旅人は、男なら一日四十キロ以上、女でも三十キロは歩く。
大量の荷物を携行して進む参勤交代だって、夜明け前に出発して、約十時間かけて一日四十キロ程度は移動する。
なのに今回の帰府は、下向最初の宿場・大津宿手前の茶屋で、「名物の『走井餅』を食うてゆこう」と、京からたった三里も行かぬうちに早々と休憩。
その次の草津宿(大津から三里二十四町)の前の矢倉の立場でも、「ここの『姥が餅』は絶品でな」とまたもや小休止。
やっと出発したと思ったら、草津からわずか二里二十五町先の石部で、まだ日も高いのにサクサク投宿し、夕飯に名物の『田楽菜飯』を追加注文してドンチャンさわぎ。
たしかに、三条大橋から九里十八町(38キロ)の石部宿は、「京立ち石部泊り」といわれるように東行一泊目としてはノーマルな宿場なのだが、それはあくまで徒歩で旅をする一般ピープルの場合。
俺たちのような騎馬なら、もうひとつ先の水口宿くらいまで行けたはずだ!
かくして、二日目はその水口宿に立ち寄ってドジョウ汁を飲み、次の土山では六里も来ていないのにさっさと宿入り。
オッサンいわく、「鈴鹿峠越えは難儀ゆえ、ムリをしてはならん」だそうで、そのわりには夜は銘酒『田村川』を痛飲しまくり、またもや大宴会。
三日目――ゆるい坂道を上りきり、鈴鹿大権現だの鏡岩だのよくわからない名所に連れていかれ、斉彬公が即興で詠んだ和歌を強制的に拝聴させられ、称賛の言葉をもとめられる。
その後、峠の茶屋で『蟹餅』とかいう菓子を食べ、『八百八谷』と呼ばれる長く険しい下り坂を下り、伊勢国に入る。
ふもとの阪之下宿でアユずしとソバ切りの昼食をゆっくり取り、おもむろに次の関宿に向かう。
途中、「ほれ、見い。あれがかの有名な『筆捨山』じゃ!」などとドヤ顔で説明されるが、なんのことやらさっぱりわからず、「ほほぅ、あれがあの……」と、あたりさわりのない返事でごまかし、その日も六里ちょいで投宿。
夕日に染まる亀山城の漆喰壁をながめながら、なぜか夕飯前にもかかわらず名物『三本松焼餅』を食う。
そして、今日。
庄野宿で『いかもち』、石薬師でウナギ、四日市で『日永餅』……なんでレース前でもないのに、こんなに炭水化物をバカ食いしなきゃいけないんだ!?
そのうえ、義父による妨害は京都滞在中にも……。
俺は、例の将来にそなえた京都守護職関連施設下見の一環として、新選組最初の屯所が置かれた壬生の八木・前川両家もチェックしようと思いたった。
とはいえ、知己でもない政府高官が、京都郊外の郷士宅を突然訪問するのはあまりに不自然。
そこで、壬生村にほど近い島原遊郭を視察するという名目で近辺まで行き、急に立ち寄った風を装って屋敷を見に行こうと考えたのだ。
いわば『三成ミーツ秀吉』方式――「たまたま通りがかったら、不思議な出会いがありました」作戦だ。
ところが、それを聞きつけたナリさんは、
「むふふふ、やはり容保殿も男よの(グフグフ)」
妙な目つきでこちらをチラ見し、ニヤニヤしはじめる。
「っ、妙な勘繰りはやめていただきたい! わたしは登楼するつもりなどみじんもございませぬ! 上方の遊女どもが劣悪な環境の中で過酷な労働を強いられておらぬか、確かめるための視察にございまするっ!」
(おめーといっしょにすんな! クソエロおやじめが!)な想いをこめて力いっぱいにらんでやったが、
「いやいや、隠さんでよい、隠さんでよい。うつくしき花を手に入れても、たまには別の花を愛でてみたくなるのが男の性というものよ。程度の差こそあれ、それこそが男。ましてや大名たるもの、より多くの男児をもうけねばならぬ定め。けっして恥じる必要はない! 容保殿はむしろおとなしすぎるくらいじゃ。たまにはパーっとハメを外そうではないか~!」
ぶん殴りかけた俺を、近習が三人がかりで押しとどめる。
「くゎっはっは、案ずるな。むろん、御一にはナイショじゃ。わしは何度か登ったことがあるゆえ、案内して進ぜる。大船に乗ったつもりでドーンとまかせておくがよい!」
そんなこんなで、ムリヤリ茶屋に連れていかれ、遊女やら芸者やら幇間やらを呼んで大さわぎ。
俺はビョーキが怖いので、まとわりつくケバいネーチャンたちを振り払いつつ、ひたすら『台の物』(台屋と呼ばれる料理店が作った豪華な仕出し料理)を食いつづけ、当然お泊りはせず薩摩屋敷に直帰。
…………で、肝心の八木・前川邸には結局行けずじまい。
それなのにそれなのに…………桑名でまた寄り道だと!?
ふざけるなーーーっ!
「義父上、道中不案内な者がかようなことを申しあげるのは気がひけますが、いささか寄り道が多くはございませぬか? また、宿入りの刻限も少々早すぎまする!」
財政再建中の俺たちには、ノンビリ観光旅行をしている金もヒマもないんだ!
――しかーし、
「この朴念仁めが!」
借金旅行に引きずりこんだ元凶は、理不尽にも再度激昂。
「そなたらは参勤に東海道を使わぬゆえ、わざわざ名所旧跡を案内し、道々の名物を堪能させてやっておるのじゃ! かような親心がなぜわからぬ!? 感謝されこそすれ、難癖をつけられるいわれはないっ!」
「難癖ですと!? ならば言わせていただきますが、そもそも――「殿っ!」
胸倉をつかもうと伸ばしかけた手は、会津一の剣豪にはたき落とされた。
「どけ!」
「いえ、どきませぬ!」
「おのれ、主命に逆らうか!?」
「それについてはのちほどいかようにもなされませ。とにかく、ここはひとまず『諾』とおおせられよ!」
「いやじゃ! これ以上義父上に振り回されるのはごめんじゃ!」
食ってかかる主君に、大野は厳しい表情で首を振り、
「殿……なにとぞ……今は薩摩守さまにお従いください」
声をひそめ、懸命に言いつのる大野。
「い・や・じゃー!」
「殿っ!」
もみ合う俺たちを冷ややかに見すえる薩摩サイド。
ややあって、
「ほ~ぅ、容保殿は『桑名』『墓』と聞いてもピンとこぬようじゃな?」
いつもは、「容保殿~」なゆる~い話し方なのに、いまは突き刺さるようなトゲトゲしい口調で冷笑をうかべる島津斉彬の目は完全に瞳孔が開ききり、全身から不気味なオーラがほとばしり出ている。
「……殿、墓とはおそらく宝暦の御世に御手伝普請で亡くなった島津家中のものかと」
俺を拘束している大野が切迫したようすでヒソヒソ。
「宝暦? 手伝普請?」
(宝暦つーたら、九代家重のころか?)
あいにくそのあたりの日本史は、清水の高速授業のせいであんまり記憶にないからなぁ。
そのころのトピックスっぽい出来事って…………うーん、なんかあったっけ?
見ようによっては大野にハグされた状態で頭をひねっていると、
「さよう。いまをさること百年前、当家はご公儀より木曽三川の分流治水工事を命じられたのじゃ。なれど、これがたいへんな難工事でな。その折に命を落とした家臣らの墓が次の桑名宿にあるのじゃ。われらは参勤交代の折には、かならず立ち寄って手を合わせておるゆえ、こたびは婿殿にも香華を手向けてもらいたいのじゃ――徳川連枝の容保殿にな」
凄惨な笑顔を貼りつけたナリさんは、俺をガン見したまま言い放つ。
( ―― ! ―― )
宝暦……薩摩……三川分流……も、もしや、宝暦治水事件かっ!?




