179 視察
説明文で字数が増えてしまって、旅に出る前にパンパンになってしまいました。
膝栗毛は次話になります (*_*)
不可解な謁見を終えた俺たちは、着替えをすませ、それぞれの藩邸に戻った。
翌日、俺は京都所司代に出向き、大目付の筒井に黒船の搭乗者変更と、俺とナリさんプラス供分の手形発給を依頼した。
蒸気船で往復する予定だった俺たちは、関所手形を持っていない。
ナリさんによると、「帰路は陸側から海岸線を確認するので、東海道をゆくぞ~」らしいので、浜名湖畔の今切関所(別名:新居関所)と箱根関所を通るときの通行証が必要になったのだ。
ナリさんのわがままのおかげで、とんだとばっちりだ!
とはいえ、関所は『入鉄砲に出女』と言われるように、ヤローだけなら鉄砲さえ持っていなければ、さほどうるさくとがめられないのだが、同行者は徳川の仮想敵・島津。
万一、なにかいちゃもんをつけられたときにそなえて、いちおう大目付と京都所司代連名の書付はもらっておいたほうがいいだろう。
所司代では、そのほかにも例の西洋学問所開設についての打ち合わせがあり、この日はほぼ一日中役所にこもりきり。
学問所については、今後あっちの世界と同じように攘夷派浪士が京都に集まってくる可能性を考えて、所司代ちかくに置くことにした。
また、ここは京都における種痘所としても使われる予定で、幕府奥医師の肩書を得た緒方洪庵は、種痘事業の総責任者として活動する一方、西洋学問所の実質的学頭にもなる。
早い話、今度できる学問所は、緒方の除痘館と適塾がいっしょになったようなもの。
となると、当然そこで教鞭を執るのは、緒方やその弟子たち。
つまり、種痘普及をエサに、緒方の学才・医療技術・人脈をとことん利用しつくす計画なのだ!
こうしてみると、鷹司が拡散していた「会津中将の腹の中は備長炭より真っ黒な『よろずにきわどき人』」って俺の悪口も、案外当たってる?
そして、次の日からは、京都市中をあちこちウロウロ。
といっても、これは深慮遠謀にもとづく行動で、将来、歴史の復元力で、会津が京都守護職を押しつけられたときのために、関連しそうな場所を見ておこうと思ったのだ。
てなことで、まずは黒谷の金戒光明寺へ。
ここは、あっちの世界で、京都守護職本陣になった寺。
もし、こっちでも同じように守護職を押しつけられたら、ここに布陣する可能性が高い。
徳川家康は、帝がおわす京都を最重要警戒地域と目した。
そのため、まずは朝廷と諸大名が接近しないよう、京都周辺を幕領とし、将軍の居城・二条城と御所の間に京都所司代を置いて、朝廷に不穏な動きがないかを恒常的に見張らせた。
しかし、用心ぶかい家康は、万が一、都で騒乱が発生したときの備えとして、金戒光明寺と知恩院を要塞化して、市内に堅牢な軍事拠点を確保しておいた。
緊急時の要塞というだけあって、両寺院は小高い場所に建っており、周囲の状況がよく見わたせる。
とくに金戒光明寺は、京都はおろか遠く大坂城をも遠望できる好立地にあり、また御所からも、京の七口のひとつ粟田口(三条口:東海道・中山道の起点)からも近いため、軍勢をスムーズに御所に差し向けられ、約四千坪の寺域に二十五の宿坊があるこの寺は、大軍を余裕で収容することができる。
ここは治安維持部隊を駐屯させる条件が、すべて整っているのだ。
「ふむふむ、なるほどのぅ」
高台から京都市内を見下ろして、しみじみ。
(三区と四区は、このへんを通るのか)
全国高校駅伝の三区・四区の走路である東大路通(東山通)は、黒谷から至近の距離。
南北に走る大通りを眼下に収めつつ、ほろ苦い気持ちにひたる俺。
(結局、県予選は一度も突破できなかったし……都大路、走りたかったなぁ)
ちょっぴり感傷にひたったあとは、ふたつめの要塞・知恩院へ。
東大路通沿いに南下し、八坂神社傍にある知恩院のバカでかい三門をくぐる。
ここも金戒光明寺同様浄土宗の寺院だ。
徳川(松平)家は代々浄土宗徒で、かつて一族から知恩院第二十五世門主が出たこともあり、家康以降代々の将軍はこの寺を手厚く保護し、諸堂造営などにも力を貸した。
特別な許可を得て、容さんのご先祖・秀忠が造ったという三門に登る。
ゆるい坂の途中に建つ、高さ八丈(24m)の二階建て二重門からは、京の町が一望できた。
おとといの荒天などまるでなかったかのような青空のもと、かなたの山肌にうっすらうかぶのは五山送り火の『大』の文字と船形。
周囲を山々に囲まれた盆地の中に連なる無数の寺院の瓦屋根と豊かな緑。
去年の大火で再建中の公家屋敷と町家、それを造るにぎやかな人の群れ。
(ここで市街戦が起こらないといいんだけど)
活気あふれる平穏な古都が、原理主義者の凶刃で赤く染まる幻視がちらつき、全身がゾワリとあわ立つ。
(千年の都を、民を、俺は守れるのか?)
俺にとって守るべきものは、この国で暮らす人々とその生活。
その対象にはもちろん帝や公家も入っているが、もし今後やつらが現実を見ず、攘夷を声高に主張して国内不和を生み出し、国に害をなすならば、容赦はしない。
―― そんな帝など要らない ――
そのときは、あっちの世界で疑われたような卑劣な手段ではなく、穏便な方法で退いていただく。
なにしろ、江戸にはそれを可能にできるシステム ―― 東叡大王がいらっしゃる。
東叡大王、別名『輪王寺宮』
これは宮門跡のひとつで、上野東叡山寛永寺貫主・日光山輪王寺門跡を兼務する皇子(または天皇猶子)のこと。
じつは、これもまた倒幕リスク回避策で、将来どこかの大名が帝をかついで幕府に叛旗を翻したときは、寛永寺にいる宮さまを即位させて新帝となし、徳川が朝敵になる事態を避ける戦略。
つまり、南北朝ならぬ東西朝状態に持ちこめば、徳川は正々堂々、官軍として戦えるわけだ。
徳川宗家は朝廷と決裂しても朝敵回避の手立てはあるが、会津にはそんな都合のいいプランはなく、そのおこぼれにあずかれるかどうかも未知数だ。
それどころか、あっちの世界と同じ流れになったら、やはり宗家は同じようにトカゲのシッポ切りで、会津をサックリ見捨てるだろう。
だから、なんとしてでも次期天皇を味方につけて、会津独自の自己救済策を講じておかなければならないのだ!
二寺院を視察した翌日は、京都における将軍の住まい・二条城へGO。
慶長八年(1603)春、家康の上洛時の拠点として落成した二条城は、秀忠・家光までは頻繁に使われたものの、寛永十一年(1634)の家光上洛を最後に将軍が江戸を離れなくなると、主不在の城は満足に手入れもされず、荒廃していく。
さらに、天明八年(1788)、京都の八割が焼けたといわれる『天明の大火』では、本丸御殿が焼失。
かろうじて二ノ丸御殿は残ったが、かつての壮麗さはみじんもなく、とても将軍の宿舎にふさわしいとはいえない現状だ。
平成六年に世界遺産登録された二条城は、文久二年、二百三十年ぶりに上洛した将軍・家茂のために大規模改修がほどこされたうえ、明治時代以降は何度も手が加えられた結果、なんとか昔日の面影をとどめていたのだが、安政二年の二条城は……、
「……想像以上にひどいのう」
警備を担当する二条在番の旗本に案内されて、精緻な彫刻がほどこされた車寄の下をくぐり、遠侍、大広間へと進むが、あまりの荒廃ぶりにため息がもれる。
どうやら、暴風雨・地震・落雷などで破損しても最低限の修繕しかほどこされないらしく、なくなった建物は再建されず、残った二ノ丸も手入れが行き届いているとはいえない。
ウグイス張りなのか、ただ単にボロくてきしんでいるだけかわからないギシギシ鳴る廊下を歩き、『大政奉還』の絵で有名な二ノ丸御殿小書院 ―― 後年、『黒書院』と呼ばれるはずの座敷 ―― へと向かう。
とはいえ、あの絵は明治生まれの画家が描いたもので、実際は慶喜は黒書院(小書院)には出座しておらず、大政奉還が告げられた場所もここではなくて、さっき通ってきた大広間だ。
第一、黒書院は江戸城のそれと同じで、将軍の私的な対面場。
公的な儀式は大広間でおこなわれるので、大政奉還発表なんてフォーマルなイベントが黒書院でおこなわれるわけがない。
また、大政奉還は、その旨が書かれた書類を、招集された在京四十藩の重役たちが回覧しただけで、将軍じきじきに口頭で宣言されたものではない。
なにからなにまで史実とちがう『大政奉還』が、あの絵のせいで完全に誤解されたまま、印象づけられているのだ。
かつては金箔キラキラゴージャス空間だったはずの書院は、いまではところどころ剥げかけた襖絵や障壁画、そそけ立った畳によって、うらぶれた陰気な座敷に変貌していた。
そうはいってもよく見れば、一ノ間は格天井になっていて、床にはダイナミックな松の巨木が、二ノ間以下にもそれぞれ桜・若松・菊など、狩野派絵師によるみごとな金地濃彩の障壁画が描かれている。
(ああ、せっかくの芸術作品が……もったいない!)
ショックが癒えるまもなく、つぎに訪れた御殿最奥の『御座之間』(のちに、白書院と呼ばれる部屋)でも、あまりのボロさに絶句。
この座敷は将軍のプライベートルームで、こじんまりした建物内部は淡色の障壁画で彩られていて、くすみや黄ばみなどの劣化がひときわ目立っている。
(家光さんのころには、日本一イケてる部屋だったろうに)
しょっぱい気持ちになったまま、今度は庭園を見学。
二ノ丸前の庭園は小堀遠州作の池泉回遊式庭園だが、往時は満々と清水をたたえていたであろう美池はすっかり干上がり、その周囲を彩っていた植栽もほとんど失われて、殺伐とした荒園と化している。
とはいえ、当時の財力で集めた多くの奇岩怪石はまだあちこちに配置されたままなので、見ようによっては枯山水庭園といえなくもない。
「なんと無残な」
俺の脳内には、修学旅行で来たときの緑あふれる涼やかな庭園のイメージがあったので、その落差にただただ呆然。
「御殿も老朽化しておるし、いま少し手をくわえるべきではないか?」
あっちの世界で、二条城が整備されたのは、家茂上洛の時だった。
いくらなんでも、こんなボロボロの殿舎に将軍さまを宿泊させるわけにはいかなかったのだろう。
だが、俺は、家茂(慶福)を上洛させるつもりはない。
あっちの世界で、徳川と天皇の上下関係が逆転したターニングポイントとなったのは、文久三年の孝明帝賀茂行幸だった。
家光の時代には、時の天皇(後水尾天皇)が将軍の宿舎である二条城に招待されていたのに、二百数十年後、今度は逆に将軍が遠い江戸から呼び出され、攘夷祈願のための賀茂社行幸に天皇の家来として供をさせられた。
それを見た群衆は、「御所さんは、公方さんよりエライんやね」と気づいた。
ようするに、攘夷派の策略で、将軍より天皇が上位だということを、バッチリ『見える化』されてしまったのだ。
しかし、将軍は天皇から官位をもらっている以上、そういう流れになったら、供奉を拒否することはできない。
だったら、その場にいなければいい。
そうすれば、屈辱的な姿を衆目にさらすこともなく、将軍の権威は失墜しない!
けれども、上洛自体がなくなれば、二条城を整備する口実がなくなり、いまかろうじて残っている世界文化遺産が朽ち果ててしまうのは明白。
予算をブン捕ってくるには、大義名分が必要なのだ。
「いまのうちになんとかせねば……」
「ならば、品川台場建設を中止した余剰金で整備すればよかろう」
至近から放たれた軽薄な提言に、思わず眉間にシワが寄る。
(たしかに品川台場建設は六号までで中止したが……俺の権限で……)
「ほんに、見るにたえぬ惨状よ。なんなら、当家出入りの職人を斡旋いたそうか?」
「…………」
憤激とともに振り返り、ツルテカな顔をガッと見すえる。
「義父上、視察中は絶対に口出しをせぬという条件で、同道をゆるしたのです。その約束が守れぬならば、ただちにお帰りください」
「なんと冷たき言いぐさじゃ! 見損なったぞ、容保殿!」
ツルテカは目を真ん丸にして抗議する。
「約束は約束にございまする。こたびの視察は、海防参与の職分にはまったく無縁な事柄。さあさ、お引き取りを!」
「そなた、この哀れな年寄りに、ひとりぽつねんと屋敷にこもれと申すか!? 人でなし! 冷血漢! 親不孝者!」
「自業自得にございましょう? もとはといえば、義父上が犬千代さまと勝手に取り決められたことから、京に足止めをくらうハメになったのですぞ」
じつは、あれから俺たちは、この京都で五日ほど待機せざるをえない事態におちいっているのだ。
それもこれも、ナリさんがアニキと交わしたバーター取引のせいで。
今回、アニキは家定の命を受けて、俺たちを追いかけてきたが、拝謁日に間に合うよう上洛するために、駕籠ではなく、全員馬でやってきた。
そして、ナリさんが勝手に黒船の乗船権をゆずってしまったので、帰りは加賀藩の馬を借りて帰府することになったのだが、アニキも大坂まで行くのに馬を使う。
だから、俺たちは、その馬が戻ってくるのをここで待っているのだ。
ということで、このロスタイムを少しでも有効利用しようと思って、将来にそなえて黒谷や二条城を視察して回っていると、なぜかこのオッサンがもれなくついてくる。
もしかすると、会津をどん底にたたき落とすかもしれない薩摩の藩主が、会津救済策を練る俺の視界にチラチラ入りこんできて、ジャマをするのだ!
「無為に日々をすごすのがおイヤなら、めったに来られぬ京屋敷にて、帳簿の点検でもなさいませ。なにも連日、わたくしにくっついて市中を回る必要などございますまい」
さすがに初日の所司代にはついてこなかったが、昨日からずっと俺の後ろにピッタリくっついてきやがって。
まさに熟年オバチャンたちが嘆く『濡れ落ち葉』そのものだ!
「容保殿といっしょゆえ、ここにも入れたのじゃ! 老い先みじかい年寄りに、もそっとやさしゅうしてくれてもよいではないか!」
なにが『老い先みじかい年寄り』だ?
そんなツルツルテカテカしたツラで!
ヘタしたら、二十世紀まで生き延びそうだわ!
「ひどい! ひどい!」
(知るか)
わざとらしく泣きマネをつづけるオッサンに、俺は冷ややかな一瞥をくれてやった。




