168 千年の都
明け六つの鐘が古都の大気をふるわせる。
時報の鐘は、江戸では市中十か所にある鐘撞堂で輪唱のように順々に打ち鳴らされていくが、京都の鐘は薩摩屋敷にほど近い六角堂前の鐘楼一か所だけ。
夏至にちかい今時分の明け六つは、おそらく午前四時半ころ。
時を知らせる最後の鐘声が消えると、東山の空が紺から藍、そしてコバルトブルーへと変わっていく。
しだいに明るくなっていく空をぼんやりながめていると、
「今朝はお早うございますな」
次之間との境の襖が開き、洗面道具を持った小姓たちが入ってきた。
「今日は近衛さまのもとにあいさつに行かねばならぬでな。のんびり寝てはおられぬ」
というのは言い前で、本当ははじめて会う未知の生命体のことを考えていたら、目が冴えて二度寝できなくなってしまったのだ。
「なれば、お仕度を」
小姓頭の浅田はキリリと表情を引きしめ、部下たちを指揮しはじめる。
あっという間に朝食と着替えが終わり、俺はナリさんの居室へ。
「義父上、周旋の儀、よろしくお願い申しあげまする」
身支度を終え、脇息によりかかってくつろいでいる義理のオヤジに頭を下げる。
「うむ、まかせておけ」
大坂からの小旅行の影響を感じさせない張りのある声に、ホッと胸をなでおろす。
屋敷に入ったのは、昨日の夕刻。
ナリさんがなんとかがんばってくれたおかげで、今日は朝から予定どおり活動できる。スケジュール変更がないのはとてもありがたい。
「ではまいろうか」
ナリさんは手にした湯呑を置くと、しっかりした足取りで部屋を出ていった。
錦小路に面した表門から馬で出発。
門を出て最初の交差点を右折し、しばらく北上してから左に曲がり、六角通に入る。
道の両側に立ち並ぶのは大店や大寺・神社。
すっかり明けきった京師にはおおぜいの人があふれている。
ゆっくり馬を進めていると、あの時報を鳴らしていた六角堂鐘楼前に差しかかる。
六角堂――というのは通称で、正式名称は紫雲山頂法寺。
本尊は如意輪観音で、京都では清水寺とならぶ観音信仰の中心となっており、またここは西国巡礼所のひとつでもある。
その六角堂の門前、六角通のど真ん中になにか妙なものを発見。
「あれはなんじゃ?」
近くにいた薩摩藩士に聞いてみると、
「へそ石にごわす」
なんでも路上のアレは、平安京を造営する際、六角堂の本堂が道路予定地に重なってしまい、時の桓武天皇が「ちょっとずれてくれない?」と祈願したところ、一夜にして本堂が現在地へ移動し、あとには礎石がひとつだけ残ったそうな(マジか!?)。
それがこの『へそ石』(別名『要石』)で、その名の由来は、ここが都のほぼ中央にあたることから、中央=へそ ☛ へそ石になったとか。
そんなウンチクを聞きながら、六角堂の角を右折する。
あとは、ひたすら烏丸通を北に上がって行く。
今日は朝廷内の大物・五摂家の近衛さんと顔合わせをしたあと、縁談への協力依頼を取りつけ、そして明日は、いよいよ帝とご対面!
「――――む?」
突如、ねばりつくような複数の視線を感じ、周囲を見回す。
「やっと気づいたか」
隣のオッサンがこっちを見て、ニタリと笑う。
久しぶりに見る大物感タップリの雰囲気に、背筋がゾクゾクと泡立つ。
「彦根の者らしい」
さりげなく示された方向に目をやると、深編笠をかぶったふたり組の侍があちこちの辻にたたずんでいる。
「彦根?」
なんで井伊の家来が俺たちを、見張ってるんだ?
首をかしげる俺に、オッサンはうっそりと微笑み、
「彦根は代々京都守護のお役目を担っているからのう。おとといあたりから藩邸周辺に出没しはじめたそうだ」
「おととい?」
「ふん、さしずめ、われらの上洛を知った掃部頭が早馬でなにか命じたのであろう」
のちに会津が押しつけられる京都守護職。
じつは、はっきりと明文化されてはいないが、京都守護は代々彦根藩の役目だった。
『京都守護』というと聞こえはいいが、実際は朝廷に対する監視と武力による牽制をおこなう役目。
その任務は、京に近い領地を持つ譜代筆頭・井伊家だけがつとめてきた。
では、文久二年に京都守護職ができたとき、最も適任であるはずの彦根がなぜ指名されなかったかというと、これは井伊直弼がおこなった安政の大獄に対する報復らしい。
桜田門外の変で直弼が斃れ、井伊の路線を継承した老中・安藤信正もまた坂下門外の変で失脚すると、幕府内の勢力図が逆転し、いままで弾圧されてきた一橋派が実権をにぎった。
大逆風となった井伊家は、転封こそなかったものの、十万石の減封と栄えある京都守護の役目を剥奪されたのだ。
その屈辱感たるや、家老のひとりが抗議の切腹をするほどデカく、耐えがたいものだったらしい。
まぁ、ようするに会津は、井伊制裁のとばっちりでビンボーくじを引かされたということだ。
京都守護=名誉?
んなもん知るかー!
俺は絶対辞退しまくってやるぞー!!!
……とはいえ、目下俺たちは彦根にとって監視対象となっているようだ。
無理もない。
元和元年に禁中並公家諸法度が出されて以来、諸大名が朝廷に近づくのは禁じられている。
それが今回、御家門の俺はともかく、幕府にとっての仮想敵・薩摩が上洛したのだ。
おそらく江戸からなんらかの指示が下され、多数の彦根藩士が俺たちの行動を逐一監視することになったのだろう。
「掃部頭さまが……」
そういえば、以前はあれほど親身になって世話をしてくれた井伊やヨリタネさんが、最近は殿席の溜間で会っても、なぜかひどくよそよそしい。
なんでだよ?
俺はバレバレの尾行者から目を逸らし、特大のため息をついた。
憂鬱な気持ちで千年の都をポクポク。
すると、
「元気をお出しくだされ。今日にも大野殿が到着いたしますゆえ」
となりの浅田が握りこぶしを作って、トンチンカンな激励。
「なにを勘違いしておる!? わたしは大野と離れた寂しさゆえに落ちこんでいるわけではないぞ!」
「はいはい、そうでございましょうとも」
まるでガキをなだめすかすごとき口調でいなす小姓頭。
最近、留守居役から公用人に職名が変わった大野は、各所への手配を済ませた後、幕府の役人たちといっしょに上洛することになっている。
(役職名が変わったのは、阿部など幕閣を出している藩では留守居役はそう呼ばれていると聞き、ちょっとカッコよさげだったので、うちもマネてみたのだ)
大野たち後発グループと同行するのは、長崎でいっしょに対露交渉をした大目付・筒井政憲ら目付連中。
早い話、俺とナリさんが京都で勝手なことをしないか見張るための監視団だ。
彦根藩が出しゃばってこなくても、ちゃんと江戸から専門の監察チームが派遣されてくる手はずになっているのだ。
幕政の諮問を受ける溜詰の井伊は、当然このことも知っているはずなのだが、なぜわざわざ配下の者を動かしてまで、独自に俺たちを見張る必要があるんだ?
再度嘆息する俺の右前方に、ベージュ色の築地塀とどでかい四脚門が見えてきた。
これは御所の南端に位置する閑院宮邸。
その屋敷塀に沿ってなおも北上。
烏丸通にむかって建ついくつかの公家屋敷の前を通り過ぎたころ、右の奥まったところに門があるのが見えた。
これは、外郭九門のひとつ、新在家御門―― 通称・蛤御門!
その名の由来は、むかし御所で火災が起きたとき、滅多に開くことがなかったこの門がたまたま開いたので、火にあぶられて開くハマグリになぞらえて蛤御門とよばれるようになったとか。
しかし、この門の名を一躍有名にしたのは、いまから九年後の元治元年七月十九日(1864年八月二十日)に起きた幕府と長州の武力衝突『蛤御門の変(禁門の変)』だろう。
蛤御門の変では、ここを守る会津・桑名藩兵に長州勢が襲いかかり、激烈な戦闘が繰り広げられた。
このとき、膠着する戦況を決定づけたのは、幕府軍として駆けつけた薩摩兵による救援だった。
その門の名が事件名に冠されるほどの激戦地をともに戦った会津と薩摩だったが、やがて二藩は…………。
今日行く近衛邸は乾御門から入ってすぐのところにあるのだが、今後の下見もかねて蛤御門から中に入る。
南向きに建つ高麗門には、当然ながら二十一世紀の蛤御門に残る銃弾の痕はまだない。
これからの行動しだいで、この門には無数の弾痕が刻まれ、多くの会津藩士たちがここで命を落とすことになる ―― そう思ったら、みぞおちがキューっと痛くなった。
(内乱、ダメ、ゼッタイ!)
金属板が打ち付けられた厳つい高麗門を見上げて、俺は決意を新たにした。




