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167 鳥羽伏見

今回は鳥羽伏見の戦いのおさらいです。


 翌未明、薩摩の蔵屋敷を出発。


 心配だった義父(斉彬)も、強引に静養させたおかげで、片道約十一里(約四十四キロ)の騎行も、常足なみあしならなんとかイケそうだ。


 てなことで、白みはじめた浪速の街を、オヤジと轡をならべてポクポク。

 目ざすは、この町のシンボル・大坂城。


 大坂夏の陣で秀吉が建てた城が焼け落ち、その後、同じ場所に城郭規模を四分の一に縮小して再建された徳川期の大坂城は、寛文五年(1655)に落雷で天守を焼失してからは、天守を持たない城となった。


 日本経済の中心地・大坂は、一時親藩大名が領したこともあるが、二百年以上幕府直轄地 ―― 天領になっている。


 つまり、大坂城主イコール徳川将軍なので、この地の実質的トップは将軍に代わって城をあずかる大坂城代。


 大坂城代は譜代大名の中からえらばれるが、ここから老中になって栄転することが多いため、このポストは譜代の出世コースと考えられている。


 その証拠に、天保の改革で有名な水野忠邦やそのときの同僚堀田正篤(テディ)、現老中の松平乗全ノリさん松平忠優チューユーさんも前職は大坂城代だった。


 そして、現在の大坂城代は、常陸土浦藩主・土屋寅直(ともなお)


 その土屋は、三十人ちかい幕臣とともに、城の正門前で俺たちを待っていた。

 

 この集団は大坂城警備のため、江戸から出張してきている大番の旗本たち。

 今回の上洛は、幕府の正式な使者としてのものなので、京都まで幕臣が護衛につくことになったのだ。



 ということで、今日のコスチュームはいつもの黒木綿羽織袴(スーツ)ではなく、会津葵紋つきの陣笠に、これまた家紋入りの藍鼠(あいねず)色のぶっさき羽織に羅紗のキンキラ野袴、手甲脚絆でガチガチに固めたいかめしい旅装だ。

 


「こたびはいろいろ世話になる」


 官位は俺のほうがはるかに上だが、ちゃんと下馬して礼を言うと、


「道中お気をつけて」


 ぶっきらぼうに答える土屋。


(……え?)


 しかたなく、冷気をまとった大坂城代から視線をはずし、傍らの大番組頭に、

 

「京までよろしく頼む」と、愛想よくごあいさつ。

  

「はい」


 なのに、こちらもおざなりに頭を下げるだけ。


(なんなんだよ? 俺がなにしたっていうんだよ!?)

 


「出立!」


 モヤモヤする俺などおかまいなしに、東雲(しののめ)たなびく皐月(さつき)の空に、幕臣の野太い声がひびきわたる。



 城を出た俺たちは、京街道づたいに北上。


 京と大坂をつなぐこの道は、東海道に連結する街道で、東海道五十三番目の宿場・大津宿の先の山科追分で分岐し、伏見・淀・枚方・守口の四宿を経て、大坂にいたる。


 江戸幕府は諸侯が朝廷に接触するのを警戒し、大名が都に入ることをかたく禁じていたため、東海道を使う参勤交代行列は、大津からこの街道に逸れ、京を通らずに大坂方面に抜けていくのだ。




 大坂から一刻(約二時間)弱で、守口宿に到着。


 今回は馬での移動だが、病み上がりのオッサンの体調を考慮して、時速六キロくらいですすんでいるので、あまり距離がかせげない。

 

 守口では休憩せずに、たちならぶ旅籠や茶屋の前を素通り。



 だれひとり私語する者もなく、ただ粛々とすすむ武者行列。

 幕府正使の行列ということで、川風にゆれる旗指物は、いずれも徳川本家の三つ葉葵紋。

 会津葵および島津十字の幟を立てることは、なぜかゆるされなかった。


 久しぶりに感じるアウェイ感に、精神疲労が急速に蓄積されていく。


 ―― なんで、大坂城代の土屋はあんなによそよそしかったんだ?

 ―― なんで、大番組(こいつら)はやけに不機嫌そうなんだ? 


 出立以来ずっと考えているが、まったく見当もつかず、思考は停滞するばかり。



(まぁ、いいか。大坂なんて、しょっちゅう来るわけじゃないし)




 だが、このとき抱いた不信感をなおざりにしたことを、俺はあとあとひどく後悔することになるのであった。



 ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ 



 ひたすら淀川沿いに遡上して三里ほど行き、つぎの枚方で早めの昼食を取ることになった。



 枚方は陸上交通だけでなく、淀川の中継港としても栄える活気ある宿場町。


 宿場内で一番大きな旅館に入ると、幕閣ご一行さまということで、奥の座敷に通された。


 中庭を眺めながら待つことしばし、きれいなオネーサンたちが食事を運んできた。

 ごはんと澄まし汁に香の物、煮物、(なます)、ウナギまでついた豪華版だ。


 江戸とはちがう製法の蒲焼きは、パリッと香ばしくて激うま!


 しかも、今回は公用なので、道中の飲食代は定価の四分の一というお得感もくわわって、しあわせいっぱいのランチタイム。


 

 ちょっと長めに食休みを取ってから、ふたたび出発。


 時刻は午の下刻(午後1時くらい)。


 ここから京都までは、約六里(二十四キロ)。

 このペースなら、日没前には京都錦小路の薩摩屋敷に入れそうだ。


 いまのところは洛中の屋敷に入る予定だが、オッサンがそこまでもたなそうなら、今夜は伏見の薩摩藩邸で一泊することも考えている。すべてはオッサンの体調しだいだ。


 


 淀川水系は枚方と淀の間の橋本で、木津川・宇治川・桂川の三川に分岐する。


 京街道は、その桂川と宇治川の中州に築かれた淀城下を通る。



 淀は古代から水運による物資の集積地として繁栄し、また、大坂・奈良・京都各方面からの街道が交わる交通の要衝でもあるため、江戸期には京・大坂の押さえとして代々譜代の名門が支配してきた要地。


 ところが、いまから十三年後の1868年、あっちの世界では、淀藩は土壇場で幕府を裏切り、薩長に寝返った。


 慶応四年一月三日に起こった鳥羽伏見の戦いで、薩摩の苛烈な火力に敗北した幕府および会津・桑名兵は、至近の淀城に入って劣勢を立て直そうとしたが、淀藩はその眼前で城門を閉ざし、幕府軍の入城を拒絶した。

 

 当時の淀藩主は、老中の稲葉正邦。

 現役閣僚の藩が傷だらけの味方を見捨てたのだ。

(といっても、藩主の稲葉は江戸にいて、裏切りを決めたのは国許の重役連中だったのだが)



「すこし休んでいかれますか?」


 馬上から堀の向こうの櫓と多聞を涙目でにらんでいる俺に、浅田がささやく。

 俺が疲れて涙ぐんでいると勘違いしたらしい。


「いや、かようにムナクソの悪いところにはとどまりとうない。先を急ごう」


 

 とはいえ、ここから先は鳥羽伏見の戦いで会津兵たちが敗走したルートを逆にたどることになる。


 

 慶応四年元日、時の将軍・徳川慶喜は、薩摩を弾劾する『討薩之表』を用意し、大坂にいた幕府軍に上京命令を出した。


 これは、文久二年(1862)に島津久光が実行した率兵上洛と同じ行為。

 ようするに、大軍で圧力をかけて、朝廷に要求をつきつけようとするもので、威嚇目的の軍列だったため、幕府軍は銃に弾を装填すらしていなかった。


 一月三日夕方、鳥羽街道をすすんでいた幕府主力部隊は、桂川にかかる小枝橋を渡ろうとしたところを薩摩兵にはばまれ、もみあっているうちに薩摩側から発砲。

 これを合図に戦端が開かれ、以後約一年半にわたってつづく内戦 ―― 『戊辰戦争』と呼ばれる理不尽な侵略戦争が、ここからはじまったのだ。


 このときの幕府軍は幕府歩兵隊、会津・桑名藩兵、新撰組・見廻組など約一万五千。 

 対する新政府側は、薩摩・長州兵ら約五千。


 幕府側は数の上では優位に立っていたが、そもそも即戦闘になるとは思っていなかったので対応が遅れ、さらに指揮官が開戦直後に逃走してしまったせいで指揮系統がグチャグチャになったりと、いくつものミスが重なったところに、薩長の新式銃によるすさまじい銃撃を浴びせられ、先鋒部隊は潰走を余儀なくされた。


 一方、伏見に駐屯していた会津兵は、鳥羽方面から銃声が聞こえたため、伏見街道に打って出たが、高台に布陣した薩摩兵からのはげしい砲撃を受け、本陣の伏見奉行所が被弾により炎上。


 そのうえ、夜になっても、敵が周囲の民家を焼いて照明がわりにして銃撃しつづけため、会津軍と新撰組はつぎつぎに斃されていった。


 そして、翌四日、錦旗が上がり、薩長が官軍となったことで、敵に寝返る藩が続出した。


 数日間はなんとか持ちこたえたものの、結局、幕府軍は総崩れとなって、大坂に撤退せざるをえなくなる。



 ちなみに、慶喜が上洛軍に持たせた『討薩之表』には、


「王政復古の大号令が出てからの薩摩のやり口は、(あまりにひどすぎて)朝廷が指示しているとは考えられない。

 あれは、島津の奸臣どもの陰謀だってみんな知ってるから!

 とくに江戸・長崎・北関東・湘南で、浪人を集めて暴れまわったり強盗を働いたりしてるのも、島津の家来がやらせてることだし!

 日本の東西で帝の国を混乱させている薩摩の犯罪行為の数々は別紙に書くけど、天も人も薩摩(の暴挙に)は相当ムカついてるんで、奸臣ども(きゃつら)の引渡しを要求する!

 万が一、朝廷からの許可が下りなかったら、しょうがないんでこっちで誅戮をくわえる(ぶっ殺す)からヨロシク」と、はげしい言葉で薩摩をなじっている。


(原文:臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候)


 これに『罪状書』という別紙がつき、薩摩の非道なふるまいを具体例をあげて糾弾しているのだが、いわく、


「一、大事なことはみんなで話し合って決めてねって帝もおっしゃったのに、王政復古の大号令では突然勝手に改革とか言っちゃって、おさない帝をバカにして、すべてのことを自分たちの都合のいいように主張しまくってること。


(一、大事件は衆議を尽すと仰出され候処、九日突然に非常の御改革を口実に致し、幼帝を侮り奉り、諸般の御所置私論を主張候事)


 一、いまの帝がまだ小さいから、パパの孝明帝が「あとヨロ」と頼んでいた摂政(二條斉敬にじょう なりゆき)をリストラして、参内することまで禁止したこと。


(一、主上御幼冲の折柄、先帝御依託あらせられ候摂政殿下を廃し参内を止め候事)


 一、私利私欲から、宮さまや公家たちを好き勝手に排除したり、登用したりしていること。


(一、私意を以て、宮・堂上方を恣に黜陟せしむる事)


 一、御所の警備とかフカして、ほかの藩士をあおって、いっしょに武装状態で皇居に圧力をかけるなんて、朝廷を軽視したとんでもない不敬!


(一、九門其の外御警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗を以て宮闕に迫り候条、朝廷を憚からざる大不敬の事)


 一、薩摩藩士がゴロツキと示しあわせて、藩邸にそいつらを(かくま)い、江戸で押し込み強盗をさせたり、(庄内藩預かり)新徴組屯所に発砲・破壊活動をおこなった。それ以外でも北関東・湘南などあちこちで放火・強盗しまくっていることはキッチリ証拠もあがってるんだからね!


(一、家来共、浮浪の徒を語合い、屋敷へ屯集し、江戸市中押込み強盗いたし、 酒井左衛門尉人数屯所え発砲・乱妨し、其の他野州・相州処々焼討却盗に及び候は証跡分明にこれ有り候事)」



 こうしてみてみると、たしかに薩摩のやり方は汚い。


 鳥羽伏見の戦いについては、『徳川慶喜が京へ攻め入ろうとして起こった戦い』みたいな解説がよくされるが、本当は『君側の奸(の薩摩)を除く』というフレコミで、話し合いのために上洛しようとしただけなのだ。



 そして、いま。


 俺たち一行はだれからも妨害されることなく、小枝橋を渡る。


 木橋と蹄が奏でるポコポコというノンキな音。

 五月の陽光にかがやく桂川の水面。

 微風にそよぐ岸辺の草花。


 この牧歌的な風景があと十数年後には一変するんだろうか?


 会津をはじめ幕府軍の鮮血で、あたり一面地獄絵図のようになってしまうのか?



 俺を囲む家臣たちをそっとうかがう。


 浅田、野村、森、そして、ここにはいない大野、源吾……ひとりたりとも失いたくない、否、失ってはいけない俺の大事な仲間たち。


 もし戦争が起こったら、こいつらは会津主力部隊 ―― 朱雀隊・青龍隊として最前線に投入される。


 いや、それだけじゃない。

 会津に攻め込まれたら、子どもも女も年よりも、みな武器を手に祖国防衛の戦いに身を投じるはずだ。

 じいや、お志賀、お佐和たちも、命を落としたり、肉親や夫を失って絶望することになるだろう。



 つぎに、横の義父を護る薩摩藩士たちを見やる。


 いまはおだやかな顔で馬にゆられているこいつらが、俺たちに情け容赦ない砲撃をあびせかけ、会津が送った何通もの恭順嘆願書をにぎりつぶして、俺たちの国を蹂躙しにやって来るかもしれないのだ。


 刹那、全身に鳥肌がたった。


(薩摩と手を組むという選択は、本当にまちがっていなかったのか?)


 見えない未来への恐怖で体がふるえる。



 プチャーチンの被災でもわかるように、歴史は隙あらば既定路線に揺りもどそうとねらっている。



 こんなにいろいろ変えてきたのに、まだ足りないというのか?


 じゃあ、どうしたらいいんだ?


 大事な家来やその家族、東北諸藩の仲間たち、俺たちの愛するふるさとを守るには、いったいなにをすれば……。



 


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