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163 そうだ、帝都、行こう。


うぅ~、いいタイトルが思い浮かばない~ ε~(;@_@)


結局、閑話の方と似たのになっちゃいました~。




この中に出てくる宮さまの養育環境等については、史実とは若干違います。そこは異世界ちゅーことでひとつ……(;^ω^)



「では、資宮(よしのみや)さまと祐宮(さちのみや)さまは異母兄弟なのですね?」



 俺は、掌中の湯のみ茶碗をもてあそびながら、となりのオヤジに目をむけた。


 

 先刻、四人四様にエキサイトしていた俺たちは、突然室内のロウソクの火が消えたことで一気にクールダウンし、その後、灯りをつけにきた奥女中に俺と女性ふたりには茶を、ナリさんには酒をオーダーし、思いがけず真夜中のティ(?)ブレークとなったのだ。


 いまは嫁と義祖母(バアチャン)は奥女中が拾い集めた笑い絵を灯火のもとで仲良く鑑賞し、婿&義父(男性陣)はうす暗い壁際でコソコソ密談中。


 

「さよう。資宮さまは今年六歳。ご生母は、前大納言・坊城俊明卿のご息女で、典侍(ないしのすけ)の伸子さまだ」


 さっきのキレっぷりなどみじんも感じさせない態度で、しずかに盃を傾けるオッサン。


「なれど、母君は産褥にて身まかられてな。宮さまは、しばらく母君の実家(さと)でお暮しだったが、いまは近衛さまのもとにおられる。昨年の着袴(ちゃっこ)の儀・深曽木(ふかそぎ)の儀も近衛邸でおこなわれたようだ」


 着袴の儀と深曽木の儀は、子どもが五歳になったときにやる七五三的儀式だ。



「近衛さまが? なにゆえ宮さまをお引き取りになられたのですか?」


 皇子の実母が亡くなったのなら、父親のいる御所に引き取られるんじゃないのか?


「じつは、近衛さまは帝ご幼少のみぎり、傳役をなさっておられてな……」


 なんでも、このころの皇族子女は母の実家で幼少期をすごすが、坊城家はあまり裕福ではなく、出産のための御産所を建てる費用を捻出するのも苦労したうえ、若宮は生来体がよわく、医療費がかさんで養育費もばかにならず、かなり困っていたらしい。


 そんなとき、帝の正妃である准三宮じゅさんぐう――九條夙子が生んだ女一の宮(内親王)が数え年三歳(満一歳八ヶ月)で夭折してしまい、第一皇子を養育していた坊城家では、「大事な宮さまを死なせてしまったら、マジヤバくね?」というプレッシャーにたえかねて、帝に泣きついたんだとか。


 とはいえ、摂関家から入内した夙子(正妻)は、まだ二十歳そこそこ。

 こののち、彼女が男児を出産すれば、そちらが皇太子になる可能性もあるので、うかつに御所に入れるわけにもいかない。


(儲君とは暫定的な地位で、正式な皇太子になるには、立太子の儀式を経なければならないらしい)


 かといって、乳幼児死亡率の高いこの時代、皇統を断絶させないためには、この御子をしっかり育てなければ、万が一いまいるふたりの皇子が亡くなり、その後男児に恵まれなかったらまずいことになる。

 

 そこで帝は、かつて自分の養育係だった近衛忠煕ただひろに皇子を託し、坊城家にかわって一の宮を扶育するよう依頼したそうだ。



 なるほど……そういうことか。



 聞くところによると、この世界(ここ)でも島津家と五摂家の近衛家は親密な関係らしい。



 ――その近衛家につぎの帝候補がいる――



 こんな好餌(絶好のチャンス)を目の前にぶら下げられたら、二百五十年の雌伏にたえてきた島津が超ド級の野望――『十九世紀の藤原道長にオレはなる!』計画――をいだいても不思議ではない。


(ちなみに藤原道長とは、自分の娘たちをつぎつぎに帝の後宮に入れて権力をにぎり、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世はオレのためにあるようなもんじゃね? 満月(望月)みたいに完璧っすよ)という歌を詠んだあのドヤ顔オヤジのことだ)



 だとすると、俺としても思うところがないわけではなく……、



「再度確認いたしますが、祐宮さまのご生母は中山忠能卿のご息女なのですね?」


 その問いかけに、オッサンはわずかにうなずき、盃を置いた。


「うむ。母君は権大納言中山忠能卿の次女・督典侍だ。そちらは母子ともどもご壮健で、現在は石薬師のご実家におられる」


「……そうですか」


「のう、容保殿。そろそろ腹を割って話さぬか? 先ほどから妙なことばかり聞いてきおって……いったい、なにをたくらんでおるのだ?」


 その探るような視線に、俺はうっそりと笑い返す。


「ふふっ、たくらむとは人聞きの悪い。わたくしはただ、先刻、御一殿から聞いた義父上の構想にもうひらかれたまで」


「蒙を啓く?」


 眉根にシワを寄せ、いぶかしそうに見返すその表情に、ジワジワと愉悦がひろがる。


「ええ。義父上の『天下を陰から支える』というお考えに、わたくしは深く感じ入ったのです」


「さ、支え!?」



 ――そなたは姫を数人もうけ、ひとりは御養君・慶福さまの御台所に、ひとりは今上の儲君・資宮の妃となせば、わしは陰から天下を【あやつる】ことができる――



 目付あたりに聞かれたら、『すわ! 謀反!』と尋問必至の問題発言だが、俺は気づいたのだ。


 会津が朝敵呼ばわりされず、東北の地が蹂躙されない、究極の策がここにあったのを!



「わたくしはいままで御公儀を、いえ、この邦を守るため尽力してきたつもりでした。なれど、義父上のお考えを伝え聞き、己の考えの至らなさを痛感したのです」



 会津藩主・松平容保に憑依してから約一年半。

 俺は、あっちの世界で会津がたどった不幸な未来を回避するためにがんばってきた。


 幕末動乱の契機となり、以後、日本が国際的に不利な立場に立たされることを避けるための外交交渉。


 どんなに(あらが)ってもくつがえせないかもしれない歴史の復元力に備え、家臣を飢餓から救うために導入したアンテナショップ、レンガ作り、蝦夷地での酪農・果樹栽培などの殖産興業政策や、三田の下屋敷ではじめた宗教ビジネス。


 会津同様、朝敵の汚名と貧困にさいなまれる可能性のある奥羽越諸藩との連携を強化し、合同演習や各領での新規事業提案で、西国連合軍侵攻に備えた下地作り。


 そして、ときどきとんでもないムチャぶりはするものの、俺のよき理解者であり、最大の庇護者である家定の健康管理をし、幼少の将軍が立つことで政権内が混乱するリスクを排除し……。



 しかし、俺は完全に見落としていた!

 俺が対策を講じてこなかった盲点にこそ、明治維新で会津がどん底に落とされ、踏みにじられた最大の要因があったことを!


 それは、


『信用していた薩摩に、最後の土壇場で裏切られたこと』


『新帝が倒幕派に囲いこまれ、先帝時代はどの藩よりも信頼されていた会津が朝敵とされたこと』の二点だ。



 あっちの世界の薩摩は、朝廷内の長州系過激攘夷派を追うため、当時京で最大の軍事力をもっていた会津に協力をもとめ、文久三年八月十八日、三条実美らの急進派を追放し、長州藩が画策していたクーデターを阻止――世にいう『八月十八日の政変』を成功させた。


 それから会津と薩摩は、禁門の変などでも協力して戦い、表面的には協調路線を取っていたが、その裏では薩摩は敵だったはずの長州と同盟をむすび、倒幕運動を展開していた。


 ようするに薩摩は、必要なときだけ会津を利用し、不要になったらあっさりポイ――手を組んでいてもウマ味がなくなった会津を使い捨てにしたのだ。


 だったら……そう、会津うちと組むメリットを用意すればいい。

 

 それが、さっき御一から聞いた慶福と資宮の後宮(大奥)支配計画っ!


 将軍と帝、次世代のトップふたりの正妻に、会津松平家と薩摩島津家の血をひく姉妹がつく――そうなったら、薩摩もおいそれと会津を切り捨てられない!



 そしてコレは、二番目の要因『会津が朝敵とされない』ためにも有効な手だてとなる。



 あっちの世界における会津の敗因は、朝廷工作に長けていなかったことだ。


 家康が政権をとってから二百五十年間、政治の中心は江戸だった。


 しかし、慶長二十年に公布された『禁中並公家諸法度』で政治に関与することを禁じられていた帝が、外国との条約勅許問題で一躍回天のキーマンとなり、安政以降、政争の場は帝のおわす京都に移る。


 つまり、帝を自分の陣営に取りこんだ側が勝者となる政治闘争が繰りひろげられていたのに、会津は愚直にも『帝と帝都を護るための軍隊』でありつづけ、親会津派の公家さえつくらなかった、いや、朝廷事情に精通していなかった会津は公家を味方につけることができなかったのだ。 


 結局これが命取りとなり、会津はあれほど孝明帝に信頼されながら、帝の崩御後に朝敵と決めつけられ、討伐対象となってしまった。


 端的に言えば、孝明帝の後継者――あっちの世界で明治天皇になった祐宮が討幕派に囲いこまれてしまったため、会津は一藩玉砕の道を歩まざるをえなくなったのだ。


 そして、祐宮が討幕派の手に落ちたのは、ある意味なるべくしてなった帰結。


 なぜなら、宮の母方親族はガチガチの反幕府派だったからだ!


 祐宮の祖父・中山忠能は、日米修好通商条約締結の勅許をめぐって起きた公家による抗議事件――廷臣八十八卿列参事件にくわわり、叔父の忠光ただみつはかなり早い段階から攘夷派急先鋒として活動し、公武合体派公家の排斥運動(早い話がテロ活動)をしたあと出奔。

 下関で外国船砲撃に参加したかと思うと、奈良の代官所を襲撃したりした(天誅組の変)。


 その後、八月十八日政変で京の攘夷過激派が一掃されると忠光もまた長州に逃れたが、禁門の変・第一次長州征伐を経て長州藩内の主導権が幕府恭順派にわたり、厄介者となった忠光は、長州藩が送りこんだ刺客によって暗殺された。


 生まれたときからそんな環境にいたら、会津や幕府に親しみをもつことなどありえない。


 それがどうだ?


 ナリさんの策に乗っかれば、アンチ徳川の中山家をバックにもつ祐宮ではない次代の帝が義理の息子になるうえに、近衛家を味方にできるのだ!


 これなら会津戦争回避の確率が飛躍的に上がる!!!


 義父(ヤツ)の思惑は若干気にならないではないが、戦国時代ならいざしらず、まさか当代一の賢侯・島津斉彬がこの時期に徳川にとって代われるとは本気で思ってはいないだろう。


 あっちの世界では薩長が倒幕に成功したが、それは軍事政権である徳川幕府が長州一藩の征討に失敗し、二百五十年間ゆらぐことのなかった徳川の武威が地に落ちて、完全に求心力を失い、諸侯に見放されたからだ。


 この世界では、まだ長州征伐もおこなわれていないし、第一、今後起きるかどうかもわからない。


 また、幕府の威光がゆらいだもうひとつの原因である外交については、俺が早期に手を打っておいたので、いまのところ表立って批難の声は上がっていない。


 だからこそ斉彬も、新たに島津幕府をつくるのではなく、将軍の義祖父になって徳川政権の中で実権をにぎろうと画策しているのだ。


 こいつの目標が倒幕ではない以上、このプランは俺にとっても好都合、全面協力するしかない!


 

 ということで……、


「義父上のお考えは『公武一和』にございましょう? 目下わが邦は、異国からの開国圧力という外患、また国内ではうち続く震災・凶作等の内憂にみまわれております。かような折、最も肝心なのは、日ノ本の民が一丸となって未曾有の国難に立ち向かうこと。そのためには、京の朝廷『公』と江戸の幕府『武』が一致協力する姿勢を天下に知らしめる必要があります。義父上は孫娘を媒介にして、『公』『武』をつなぐおつもりなのでは?」


 心にもないタテマエ論を飛びきりの笑顔でご披露すると、


「さ、さよう。婿殿の申すとおり、わしは天下国家のため、この縁組を考えたのだ! けっして私利私欲からではないぞ!」


 目をおよがせつつ、必死に弁解する義理パパ。


「ふふふ、わかっております、義父上。では、わたくしはこの縁組を成就させるため、近々上洛しようと思いますので、義父上もご同道くだされ」


「上洛!? わしも!?」


 いきなりのお誘いに、オッサンはテンパって盃を取り落とした。




 


1855年時点における坊城俊明の肩書き、及び廷臣八十八卿列参事件について、五反田猫さまよりアドバイスをいただきました。


五反田猫さま、ご教授ありがとうございました。




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