154 改変
安政二年 卯月
於:桜田学問所
教場内に充満する流暢なオランダ語……と強烈な悪臭。
香と白粉、鬢つけ油に体臭が入り混じったえもいわれぬニオイが鼻の粘膜をさいなむ。
「くさい……くさすぎて、吐き気がする。頭痛もしてきた。だれぞ、診療室に連れていけ」
周囲にすわる家臣団に小声でそう訴えると、
「私語はなりませぬ」
「講義中ですぞ」
「そもそも、これは殿の発案によって生ぜし事象」
「「「辛抱なさいませ!」」」
あろうことか、視線すら寄こさず、主君の窮状をさらっとスルー。
「この不忠者どもめが!」
「「「お静かに!」」」
罵倒しても微動だにしない頑固な会津武士一同。
しかたなく、一番弱そうなやつをピンポイントで狙うことに。
「これ、源吾」
「なりませぬ」
こちらも冷ややかな口調で一刀両断。
「そなた、主命に従えぬと申すか!?」
「はい。父より『決して殿を甘やかしてはならぬ、殿の御為にならぬ』と厳命されておりますゆえ」
冷然とつげるクソガキ。
「っ、なんじゃと!? まことに気分が悪いのじゃ! 決して、『オランダ語? んなマイナー言語、どーせ役に立ちゃしねーし、やるだけムダだわ! 診療室のベッドで昼寝しよ~』――などと思うて、抜け出そうとしているわけではないぞ!」
「はいはい、それが本音ですね」
「ええい、四の五の言わず、早う連れて行かぬか! 治療が遅れ、重病となったらいかがいたす!?」
「はぁ」
ニキビひとつないツルツル顔をしかめ、わざとらしく嘆息。
「殿……いまさら申し上げるまでもございませぬが、これ以上授業を中座なさっては、オランダ語の単位を落としてしまいます。世俗の権力が通用せぬ当学問所では、いくら幕閣であろうと正四位下参議の殿上人であろうと、教師の評定を覆すことはかないませぬ。『落第などという醜態をさらさぬよう、心を鬼にし、命がけでお諌めいたせ』と、父からも言いつかっておりますれば、従うわけにはまいりませぬ」
「くっ、冬馬め、よけいなことを」
――あ、そうそう――
そういえば、松平容保、外遊の褒賞第二弾として、従四位上から正四位下になったんです。
でも、官位が上がったからといって、幕府内での待遇がかなりよくなったとか、アンテナショップの売り上げが爆発的にアップしたとかはまったくなく、お得感はかぎりなくゼロです。
老中連中に聞いたところ、「きっと、御所に参内したとき実感するよ~、もらっとけば~」……って?
んん…………参内?
まさか、外交交渉のつぎは、対朝廷担当にでもさせる気か!?
それって、態度と腹の中が真逆な「ぶぶ漬け攻撃」の朝廷相手に、メンタル崩壊必至のクレーム処理係ってことだろ?
やだー! そんならまだロジックで抵抗できるガイジンさんの方が百倍マシだ!
こっちには一文の得にもならないばかりか、ヤバい未来への入場券なんて要らないからっ!
……おっと、また脱線しちまったぜ。
「しかし、そなた、日に日に冬馬に似てくるな」
まだ十五歳だっていうのに、あの陰険能面三十男とソックリになってきやがって!
「ふっ、最高の褒め言葉ですね。それはそうと、いいかげん前をむいていただけませぬか? 授業に集中したいのですが」
視線は教壇に立つオランダ語講師クルチウスにむけたまま、こちらを振り返ることもなく、バッサリ。
「ああ、そうか! ようわかった! 今後はなにがあろうとも、そなたには金輪際頼ま――〖閣下っ! Dhr大野!〗
てなことで、俺と源吾は、クルチウス先生から宿題倍増の刑に処せられたのだった。
じつは、この異臭騒動は、俺が最近手がけた学問所改変の余波なのだ。
ことのはじまりは、先日のマラソン大会で、CRC優勝の要因となった例のお手柄四人組の就職斡旋だった。
飛脚の入れ替わり現場をおさえた四人は、あのあと開かれた観桜の宴に招かれ、家定じきじきにお言葉をたまわった。
その際、俺から「こいつら、なかなか見どころあるから、御番入りよろしく」と口添えしてやったのだが、意外なことに中のひとりがそれを辞退してきやがった。
「まことにありがたいお話なれど、それがしは当分オランダ語習得に専念しとうございます。よって、御番入りはご辞退申しあげまする」
辞退者はCRCメンバーで、桜田学問所に通うビンボー旗本の厄介。
たしかに御番入りすれば、勤務時間とかぶるので学問所には行けなくなる。
ちなみに、ほかの三人は、こいつの昌平黌時代の友人で、そっちはよろこんで就職すると言ってきた。
「なれど、よいのか? こう言うてはなんだが、そのほうが暮らしが楽になるのではないか?」
直参には旗本と御家人がいるが、旗本約二千五百人(※ 宝永二年のデータ)のうちの七割ちかくが千石以下で、オグちゃんのような二千五百石の大身旗本はむしろ少数派なのだ。
御家人はそれ以上に微禄で、内職でもしなければ食べていけない家がほとんどだ。
そのうえ、もともとすくない禄米も、支給されるコメが古米や古々米だったりするので、札差に売るときはさらに安く買いたたかれる。
これは、勘定奉行や町奉行などエライ人がもらう米はいい場所で取れた比較的新しい米――高額米なのにくらべ、下っ端には評価額がガクンと落ちる質の悪いコメ(『ポンポチ米』という赤く変色したコメなど)が渡される仕組みになっているからだ。
つまり、量そのものは同じ一俵でも、実際に売って得られる金は天と地ほどちがうのだ。
だから、ビンボー直参の、しかも家督を継げない厄介なら、役職手当ゲットに飛びつくかと思いきや……、
「オタンダ語とな? もしや、そなた、海軍伝習所に?」
「はっ、できますれば、伝習生に推薦していただきとうございます!」
海軍伝習所は、昨春締結した日蘭和親条約の『海軍創設の一環として、海軍伝習所と医学伝習所を開設』条項で設立が決まり、今秋の開所にむけた準備が目下急ピッチですすめられている。
ちなみに、場所は築地にある堀田備中守の中屋敷を接収し、現在リフォーム中。
練習船は、オランダ政府からプレゼントされた蒸気船『スンビン号』(『観光丸』と改名)を使う予定だ。
海軍伝習所は言うまでもなく、日本の海防強化のため、今後購入する西洋式軍艦の乗員養成を目的としてもうけられる教育機関で、ここの教官はオランダから派遣されるので、授業はすべてオランダ語でおこなわれる。
昨年、海軍&医学伝習所開設計画が告知されると、開所前にオランダ語を学んでおこうという輩が桜田学問所に押しかけてきた。
年が明けてからは、俺といっしょに外遊していた使節団メンバー――栗本、田辺、木村、池田や、中島、矢田堀(幕命で甲府徽典館から異動済み)――も学問所に通いはじめた。
ただし、メンバーのひとり小野友五郎は、すでにオランダ語はマスター済みなので、伝習所には入るものの、桜田学問所には通っていない。
「そうであったか。ならば、そのように計らおう」
「ありがたき幸せ!」
ふーん、目先の給料より将来性を選ぶとは。なかなか気骨があるな。
「そなた、名はなんと?」
「はっ、榎本釜次郎と申します!」
「…………」
なんかまたフラグっぽいやつと知り合っちゃった。
(……海軍伝習所かぁ……)
海軍伝習所第一期生は、設備の関係上、幕臣のみ約四十名を募集。
そして、これから海軍を充実させていくには当然これだけの人数で足りるはずがなく、今後も伝習生を募集していくことになる。
また『医学伝習所』も、この秋開所する。
こちらは奥医師の松本良順が中心となって準備をすすめているが、ここもオランダ人医師によるオランダ語での授業になる予定だ。
となると、オランダ語受講希望者は増える一方だろう。
しかし、現在、桜田学問所でオランダ語の助っ人講師をしている松本ら蘭方医たちも、医学伝習生になることが決まっている。
つまり、秋以降、講師数が激減してしまうのだ!
あれ? もしかすると、いまのうちに手を打っておかないと、講師不足で授業が成り立たなくなるかも?
それって……かなりヤバくね?
てなことで、講師不足を補うため、いままで男女別々に行ってきた授業を共学に変え、自分の都合に合わせてコマを選べるように改変したのだ。
その結果、教場をついたてで仕切って、男女いっしょに授業を受けるスタイルになったというわけだ。
そんなこんなで、パーテーションのむこうから流れてくるオネーサンたちの濃ゆいニオイに、繊細なボクの嗅覚は多大なダメージを受けるハメになってしまった。
強烈なニオイで集中力が大幅に減殺されて、講義がまったく頭に入らない!
でも、それはボクのせいじゃない!
国のために改変したのに!
褒められるどころか、家臣たちからも怒られるなんて!
理不尽だ!
俺は伝習所に入らないから、オランダ語は必要ない!
フランス語さえ押さえときゃ、じゅうぶんなんだ!
なのに、
「いきなり男女共学になったら、女子部からブーイングあがるかもしれないから、とりあえずおまえもオランダ語の授業受けて、目が合ったらニコニコ愛想笑いでもしとけ。そうすれば、女子も文句は言わんだろ?」
――って、なんだよ!?
あー、もー、やだー!
ようやく学問所での長い一日も終わり、失意のどん底の俺は足取りも重く、遠侍にむかった。
今日は宿題倍増の刑に処せられたので、放課後練習はムリだな。
早く帰って、オランダ語家庭教師の沢や崋山先生をおだてあげて、チャチャッとやってもらわなきゃ。
(あ、そういえば、沢に学問所講師を頼んだけど、即座に断られたっけ。そのとき、「幕吏ばかりの官営学校などに行ったら……(ごにょごにょ)……官憲の目が……(ぶつぶつ)……正体……露見……危険……(ぼそぼそ)……」――あれはいったいどーゆー意味だろう?)
――とぼとぼ とぼとぼ――
「肥後守さま」
悄然と歩く俺の前に、ビシッとした身ごしらえのオッサンがいきなり膝をついた。
見れば、門内外はこいつの仲間と思われるイカツイお侍さんたちで埋めつくされている。
「「「何者だっ!?」」」
体をはって俺を背にかばう近習たち。
なんだかんだ言っても、いざとなったら頼りになるやつらだ。
「怪しいものではございませぬ」
いやいや、百人ちかい人数で囲んどいて怪しくないっていわれてもね。
「何用じゃ?」
殺気は感じないから、とりあえずテロ目的ではないだろう。
「それがしは、黒田美濃守が臣にて、加藤と申しまする。じつは、当学問所通学生御一姫の儀にて、ある御方が侯じきじきにお話をうかがいたいとおおせでして」
御一?
ああ、この前もめてた女子学生か。
そいつのことで話だと?
待てよ。
それって、もしや…………共学化へのクレームかっ!?
言われてみれば、共学化は学生やその保護者・宿主に事前の了解も得ず、さっくりやっちまった。
そして、この変更はすべて男子部の都合によるもの。
女子部には決定してから通達しただけだ。
女子部のほとんどは元奥女中で、いわば幕臣。
だから、多少文句は出ても、幕閣が決めたことにはしたがうはずだと……。
だが、(いまのいままで忘れてたけど)女子部には黒田家からの通学生がいた!
たしかに、女子校だと思って入学させた学校が、なんの断りもなく突然男女共学になったら、父兄としては、
「おい、なに勝手なことしてんだよ!? んな話、全然聞いてねーぞ! 一度きっちり説明に来いや!」となってもおかしくない。
そのうえ、蘭方医コースは講師補充のめどがたっておらず、このままだと村田監督だけになってしまう。
男子学生は医学伝習所に移れるが、伝習所はこことはちがい、いまのところ女子を受け入れる予定はない。
早い話、御一姫とイネさんにとっては改悪となるのだ。
「ある御方……美濃守か……」
黒田さん、すんごく怒ってるだろうなぁ……(ブルブル)……。
「相わかった。そなたとともにまいろう」
「「「なにをおおせに?」」」
「「「先触れもなく、留守居役も通さぬ待ち伏せのごとき招きを受けられるのですか?」」」
「「「危のうございます!」」」
近侍からわき起こる制止の大合唱。
「よいのじゃ。もとはといえば、事前に承諾を得てから改変をおこなうべきであったに、性急にすすめたため、踏むべき手順を怠ったはわたしの落ち度。いささか遅きに失したが、これより美濃守のもとにおもむき、誠心誠意謝罪したうえで、とくとご説明申しあげ、納得していただかねばなるまい」
「「「……殿……」」」
かくして俺は、通常より多い宿題を放置したまま、黒田家の駕籠に収監されたのであった。




