153 第一回 奥羽越列藩合同防災訓練 ⑧
(あー、もー、やだー、帰りたーい!)
絶好のウハウハ日和にもかかわらず、俺の足取りは重かった。
(くそ! あいつ、まだいるのか?)
俺を鬱におとしいれた二大元凶のひとつが、背後をチョコマカとついてくる。
「橋本」
「はっ!」
エアしっぽをブンブン振って飛んでくる青年。
「そなた、そろそろ帰ったらどうだ? わざわざ上方から江戸に来たのだ。やることがあるのであろう?」
やっとの思いで吉田松蔭を排除したのに、なんでこんな不発弾ヤローにつきまとわれなきゃならねーんだ!
ホント勘弁してくれよ!
「いえ、お気づかいなく! その件はすみました!
それより、村田殿からお聞きした侯の兵制改革構想・洋式調練法など、じかにご教授いただきたく存じまして」
「「「ははは、肥後殿は稀代の人タラシじゃの~」」」
火事装束の貴人たちがドッと笑いくずれる。
「そういえば、二本松の世継ぎ・丹羽五郎左殿は、肥後守に教えられた場所を掘ってみたところ、遺跡が出てきたらしいのう?」
――ええ、案の定、出ましたよ、石神井川上端から石器が。
「なんでも考古学的大発見、わが邦の歴史に燦然と輝く壮挙だとかで、その地は発掘者の名を冠し、『五郎左遺跡』と呼ばれるとか」
――後世のみなさん、すいません。鈴木遺跡じゃなくなっちゃいました。
「それ以来、五郎左殿は肥後守を神仏同然に崇めておるそうな」
――顔合わすたび拝んでくるから、まじキモいっすよ。
「人タラシどころか、神仏――まるで神君家康公じゃの~」
「「「わはははは」」」
「神君家康公?」
ボソッとひとりごちるその声音には聞きおぼえがあった。
「……やはり、そなたか」
音源をたどっていけば、予想どおりの人物――盛岡(南部)藩主席家老・楢山佐渡がそこに。
「来ておったのか」
まためんどうくさいやつが。
「はっ、少々家中が立てこんでおりますゆえ、わが主・南部美濃守に代わりまして、それがしが」
楢山の主家・南部家では院政をしいていた先々代が、最近ポックリ亡くなって、かなりゴタついているらしい。
あとから聞いた話だが、青梅マラソンのころは、院政ジジイが幕府から蟄居を命じられたり、その息子も問題行動が多くて、これまた幕命により押込になったりと、けっこう修羅場だったんだとか。
そんなたいへんなときに、俺たちのサポートをしてくれたなんて……めんどくさいやつとか言ったら、バチが当たるよな。
それに、もとはといえばあの巡礼騒動は、俺が長崎でテキトーなこと言いまくったせいで起きたわけだし……なんか申しわけないというか……できれば、なにかの形で助けてあげたいような……。
――神君家康?
……おお、そうだ!
「のう、楢山、先日申しておった件じゃが」
「先日?」
秀麗な眉をあげ、いぶかしそうに見返す。
「ほれ、神君家康公の墓が南部にあるという妙なウワサが流れておるというアレじゃ」
「ああ、東照大権現さまの使いが長崎にあらわれ、妙な御託宣を告げたのち、天に昇っていったという?」
「そのことよ。で、考えたのじゃが、それは、まこと神君家康公の御導きではあるまいか?」
「は?」
うん、そういう反応だよね、ふつう。
「そなたも存じておろうが、いまを去ること二百六十年前、伏見で大地震が起きた折、ほかの大名どもがこぞって豊太閤のもとに駆けつける中、南部信濃守と最上出羽守の二名のみが家康公のもとに地震見舞に伺候したという」
「その儀ならば……」
あまりに大昔すぎる話に、目が泳ぐご家老。
「もしや、神君家康公の御霊は、かつての南部の忠義を思いだし、『南部領内に、新たな東照宮を建てよ』とおおせなのではないか?」
「とおっしゃられましても、領内にはすでに東照宮は……」
このころは全国に七百もの東照宮があったから、南部藩内にもひとつやふたつ、すでにあってもおかしくはない。
でも、そんな豪華なのじゃなくていいんだよ。
とりあえず、あのへんに――小岩●農場のできるあのあたりに、ソレっぽいものを作れば。
じゃあ、そろそろ本題に入りますか。
「いや、東照大権現さまがとくに使者を遣わせたとあらば、なにかご深慮があるのじゃ。
それにな、当藩の赤牛吊紐を憑代にとのことならば、わが会津も他人事ではない。できうるかぎり、力を貸してやれというお告げじゃ!」
「……はぁ」
若き執政の眼にうかぶ憐みの色。
逝っちゃってる人を見るようなその瞳に、心中グサグサ。
「そこで提案なのじゃが、どうだ、赤牛にちなんで牧場を作り、牧畜をはじめてみぬか?」
「牧畜?」
「そうじゃ。こう申してはなんだが、南部領は気候も冷涼にて、正直コメ作りにはあまり適した土地とはいえぬ。少々の旱魃・日照不足でもすぐに飢饉が起き、国の仕置きも容易ではあるまい?」
「まさに、おっしゃるとおりにございます」
今度は真剣な面もちで深くうなずく。
「牧畜は、牧草さえ生えれば、多少の冷夏でもなんとかなる。しかも、まだ手がける藩もすくなく、将来有望な産業ぞ。
それにな、昨年の条約締結により、今後、異国船寄港が増大する。となれば、異人らがよく食す牛の乳から作りしもの――生乳・チーズ・バターは売れる。
また、乳製品は薬としての評価も高い。国内でも需要があろう」
「なるほど」
イケメンの目がだんだんキラキラしてくる。
「そこでじゃ、この牧場を東照宮近くに作り、観光牧場として巡礼者に公開してはどうか?」
「か、観光牧場!?」
そうか、この時代『観光』という言葉そのものがないのか。
幕府軍艦・観光丸の『観光』は、中国の需書『易経』から採った言葉で、「光を観る」という意味。観光が「行楽」の意味になるのは、もうちょい後だ。
「まぁ、物見遊山じゃな。とにかく、来訪者に乳製品を使った洋風料理をふるまい、乞われれば馬に乗せてやり、乳しぼり体験なぞさせてやれば、みなよろこぶであろう。
そなたらは、牧場への入場料・体験料・飲食費でガッポガッポ。
さらに、東照宮の賽銭収入でウハウハということじゃ!」
そう、小●井農場+マザ●牧場みたいなやつを作るんだよ~!
「な、なんと!」
これは南部藩に東照宮を造って、巡礼ツアーを恒常的に引っぱりこみ、お金を落とさせるシステム。
観光客が集まれば、それを収容する旅籠・茶店ももうかり、雇用も創出できるという壮大な事業計画!
そして、これは南部だけでなく、もしかすると、わが会津の将来にもかかわってくるかもしれない問題なのだ。
覚醒以来、俺は倒幕回避に奔走しているけれど、歴史の復元力であっちの世界みたいになる可能性もある。
そうなれば、倒幕 ☛ 会津征討 ☛ 一藩丸ごと流刑(旧南部領・斗南)で、やせた斗南の厳冬に耐えきれず、何千もの藩士が死ぬだろう。
だったら、いまのうちに手を打っておいて、たとえ俺らが流刑になっても、餓死しないような産業を作っておかないと、会津主従も安心できない。
情けは人のためならず、だ!
「しかし、さような試み、うまくいきますかな?」
騒動がつづく家中と苦しい財政難を背負ったご家老は、いまいちノリが悪い。
とはいえ、楢山が不安に思うのもムリはない。
いままで藩営牧場なんてやったところは皆無。
せいぜい暴れん坊吉宗さんが、製薬のために乳牛を飼育させたくらいで、ちょっと勧められたからといって、安易に手を出す気にはなれないだろう。
それじゃあ、
「じつは、当家もな、蝦夷の新領で牧畜をはじめようと考えておるのじゃ」
勧めている当人もやると聞けば、ちょっとは興味をしめすだろう。
「いまはまだ開墾もはじまっておらぬゆえ規模は未定じゃが、ノウハウ習得のため、藩士をオランダに留学させることも検討しておる。その折は、牧畜技術のみならず、ビール・ワインなどの醸造技術も学ばせるつもりだ」
「オランダに留学を!?」
「うむ。欧州は緯度が高く、寒冷で水利にめぐまれぬ地も多い。さような国で確立した農業技術ならば、蝦夷にも応用できると思うてのう」
「ならば、わが南部にても……」
ためらいつつも、やっとその気になったようだ。
「むふふ、またな、西洋リンゴの栽培もはじめようと思うておるのじゃ~」
そうそう、牧畜以外にも、まだまだいいものがあるんだよ。
「リンゴ?」
「さよう。西洋のリンゴはわが国のものにくらべ、実が大きく、甘い。
当家では昨年、伯父の加賀守より伝授され、栽培をはじめたが、まだ収穫するにはいたっておらぬ。
なれど、あれは寒い土地でも育つゆえ、蝦夷に果樹園を作る計画なのじゃ」
あっちの世界で、苦難の末にリンゴ栽培を成功させた余市の元会津藩士たちみたいに、こっちでもリンゴを作ってみようと思ってね。
「会津は、いろいろとお考えなのですね」
フラグ男・橋本が感嘆の声をあげる。
「当然ではないか。近年、奥羽の地はたびたび凶作にみまわれ、つねに勝手向きが苦しいうえ、こたびの蝦夷派兵、江戸湾警備など出費はふえる一方。なにもやらなければ、いつまで経っても貧しいままじゃ」
「そのお話、くわしゅうお聞かせ願えますか?」
楢山がグイグイ迫ってきた。
「わが仙台でもリンゴを育ててみたいのう」
伊達さんも寄ってくるー!
「「当家は、蝦夷にて牧畜を!」」
秋田と津軽の重役も手をあげる。
「そなたら、しかと書き留めたか?」
ストーカーおやじが速記軍団に確認する。
「この奥羽越列藩同盟は、われら奥羽越諸藩がともに手をたずさえ、よりよき領国経営をおこなうためのもの。勝手向きが苦しいのはいずこも同じ。みなで協力し合い、ともに明るい未来のため、はげもうぞ!」
「「「おおー!」」」
この瞬間、奥羽越三十藩の心がひとつになった ♡
「――!?――」
強烈な憎悪の波動を感じ、とっさに目をむける。
「……西郷?」
ごった返す人波のなかに、知った顔を見たような気がした。
「いや……まさかな」
元江戸家老の西郷親子は、去年、一族郎党および取り巻き一家と蝦夷地送りになった。
出発から約二か月後、会津から派遣された藩士たちは、他藩の警備隊とともに内地に呼びもどされた。
例の冬季撤退命令による帰還だった。
しかし、その中に西郷親子の姿はなかった。
なぜならば、西郷たちは行きの輸送船から降りるのを拒み、蝦夷の地を一度も踏むことなく、帰ってきてしまったからだ。
連れていった親族・家来などは置き去りで、彼らも親子の出奔については聞いていなかったらしい。
とはいえ、主命に逆らった藩士にもどる場所などない。
西郷親子は、そのまま脱藩あつかいとなったのだ。
その後ふたりの行方は、ようとして知れない。
国許に家族を残したまま、消えてしまったのだ。
そんなやつらがなぜここに?
それとも、あれは俺の見まちがいだったのか?




