142 第六給水所
すいません、パソコンの調子が悪くて、更新が遅くなりました (ノ_・、)
半蔵門をスタートしてからすでに十キロ。
しかし、いまだに敵を捕捉できないでいる現況。
なるべく早く追いつかないと、この後さらに上昇する気温とともに体力的心理的ダメージは増すばかり。
焦燥感にせきたてられ、懸命に足を動かすが、心中は暗澹たる予測に塗りつぶされていく。
青梅街道には寺社が多い。
成願寺・宝仙寺・妙法寺など大寺のつらなる路は清見寺の先で、進路を西北にかえた。
右サイドからの強い日差しに耐えつつ進めば、第三給水所・天沼八幡参道前にいたる。
ここの担当は、久保田藩(秋田藩)佐竹家。
久保田藩とは奥羽越列藩同盟結成当初、「入れる・入れない」のゴタゴタがあったせいか、藩士の態度もどこかよそよそしく、俺たちはさっさと給水を終え、そこを後にした。
ほどなく下荻窪・上荻窪・天沼・下井草四村の境、石の常夜灯がたつ『四面塔の辻』にさしかかる。
江戸にほど近いこのあたりは情報もよく伝わっているようで、オフィシャル団扇を振って応援してくれるマダムやオネーサン諸姉もすくなくない。
―― お買いあげ、ありがとうございま~す ――
感謝の念をこめ、営業スマイルをプレゼント。
レース後の物産展集客も大事なオシゴトのひとつだ。
遅野井八幡宮(=井草八幡宮)の大鳥居前をすぎると、街道沿いの並木がイチョウからケヤキに変わる。
ケヤキ並木が提供してくれる木陰に助けられながら、若干ペースを上げていく。
下肥の強烈な臭気と、盛大に繁殖中の草木のモワッとした青臭いにおいが混じりあった農村独特の空気の中をひた走り、第四給水所・伊勢殿橋にたどり着く。
伊勢殿橋は、青梅街道と、江戸六上水のひとつ・千川上水が交わる場所にかけられた小橋で、橋名の『伊勢』は千川上水開設を監督した御道奉行・伊勢平八郎に由来する。
「草鞋を替えたら、すぐ出発するぞ」
「はっ」
スペシャルドリンクを飲みほした男たちは、慣れた手つきで草鞋を替え、
「世話になった」
給水所の津軽(弘前)藩士たちに謝意を述べると、俺たちは走路にもどった。
五日市街道との分岐から北西に向かっていた街道は、伊勢殿橋のすこし先でゆるやかに曲がり、真西に向かって伸びていく。
その街道がふたたび北西方向にむかう手前の、東伏見稲荷神社敷地内に第五給水所がもうけられている。
ここは庄内十五万石、酒井家の持ち場だ。
「ぉお、お疲れさまでござ、ございますっ!」
疲労困憊の現在、最も見たくない顔が幔幕の中から飛び出してきた。
「摂津殿、かようなところまで……恐れ入る」
「な、なんの! かか、容保さまのお役に立ちとうて、まかりこしました!」
摂津守が満面の笑みで差し出す竹筒を、複雑な思いで受け取る。
「と、ときに容保さま、その水筒の中はいったいなんなのですか?」
一見笑顔ながら、その目は刺すようにするどい。
見ると、カタバミくんの後ろには、すでに筆をかまえてスタンバっている速記者集団が。
「家臣に試飲させてみたところ、冷水に似ているが、冷水にしては塩気が多く、妙な味がすると申しておりまして」
『冷水』というのは、旧暦五月になると江戸市中で売られはじめるつめたい水のこと。
ただし、水といっても中に砂糖と白玉団子が入っている、いわば江戸時代の清涼飲料水だ。
冷水は真鍮や錫などの金属椀で供され、一杯四文(約百円)のお手頃価格で買えるのだが、砂糖を増量してもらうと八~十二文と値がはね上がる。この時代、砂糖はゼイタク品なのだ。
閑話休題
「冷水だと? つまり貴公らは、われらの貴重なスペシャルドリンクを勝手に飲んだということか?」
松平のエア銀縁がキラリと光った気がした。
「いったいだれの許しを得て、さようなマネを?」
「毒見のためだ。ご公儀の要人たる肥後守さまに万が一のことがあってはならぬゆえ、この第五給水所をあずかる当家としては当然の仕儀。その配慮を『勝手に飲んだ』とは、聞き捨てならぬな?」
譜代名門の貴公子は、松平の眼を真っ向から見かえして、食ってかかった。
「ふん、まことはいつものように、侯の一挙手一投足をかぎまわっておるのであろう」
「「「無礼な!」」」
松平のひと言に庄内藩士たちがブチ切れる。
「やめぬか! つまらぬところで力を使うな!」
犬猿の仲の両者の間に割って入り、松平の背を押す。
「さあ、行くぞ!」
「あいや、お待ちを! この水の正体をお聞きするまでは、放しませぬぞー!」
カタバミ一派の包囲網をたくみに突破し、俺たちは街道に飛び出した。
北西に向かっていた道は、尉殿大権現(=田無神社)の手前で、ふたたび西に転じ、青梅街道に四カ所しかない馬継場・田無宿に入る。
宿場内のチマチマと折れ曲がる通りを進んでいると、
―― ピリッ ――
左太ももに鈍い痛みが走った。
(ヤバっ!)
と、思ったときには、すでに左足全体に違和感がひろがっていた。
「容保さま?」
すぐ横を走る松平が怪訝そうにふり返る。
「足が攣った。わたしにかまわず、先に行け!」
「「「しかし……」」」
全員の表情が一気に曇る。
「何度も言わせるな! わたしは決して棄権しない。これより先は集団走ではなく、個々に行こう。おのおのすべてを出し切れ!」
「「「はっ」」」
男たちは動揺しつつも、つぎつぎに俺の傍から離れていった。
『走友』の文字がゆれながら遠ざかっていく。
小さくなるチームメイトの背を見送りながら、動きの鈍くなった重い足を必死で前へ運ぶ。
(……情けない……)
汗とも涙ともつかない汁がほほを伝う。
自信満々で叩きつけた挑戦状だった。
なのに、盲点を突かれ、スタートと同時に勝敗は決した。
大野に、「塩大福への遺恨は必ずはらしてやる」と豪語しておきながら……。
そのうえ、俺が第一集団を引っ張ると宣言したのに、この為体。
道が大きく湾曲しているせいで、仲間の姿が完全に視界から消えた。
(せめて……あいつにだけは……)
後ろから追いかけてきているはずのあの男――阿部正弘にだけは負けられない。
それが、その敵愾心だけが、痛みをこらえ、足を動かす原動力になっていた。
小氷期といわれるこの時代にしては強すぎる晩春の日射が、容赦なく降りそそぐ。
大量の汗とハンパない疲労感。
(……やはり)
一ヶ月半後に、いきなり三十キロなど、どだい無理だったんだ。
本当は、ウォーキングから慣らしはじめて、週三回程度の速足練習を徐々に増やして一時間くらいこなせるようになってから、五~十キロレース、つぎにハーフと上げていくべきだったんだ。
今回のような三十キロちかいレースなら、ふつうは数か月間にわたってランニング一時間×週三回程度のトレーニングを積んでから臨むところ。
いくつも給水所を設置して脱水症対策をしていたとはいえ、長距離は心肺はじめ、各臓器に過度な負荷がかかる。
このぶんだと、後方のチームメイトたちの中にも痙攣等のアクシデントを起して棄権しているやつが出はじめているかもしれない。
(なんでいつも……)
なんでいつも、俺のやることはダメなんだろう?
俺は……きっと俺は、慢心していたんだ。相手がメタボ中年だからと。
あいつが率いる農民隊も、陸上長距離経験がないから、大したことないと驕って、侮って、そのあげく詰めが甘くなって……。
一番得意とする長距離走で、このザマとは。
宿場町をぬけると、街道は北に大きく湾曲しながら、西に向かっていく。
かすむ頭とぼやける視界が、はるか遠くに見なれたマークを捕える。
―― 徳川宗家・御三家のものより葉の密度が細かい、会津三葵紋 ――
街道の三叉路・橋場の辻に置かれた第六給水所は、わが会津松平家の担当だ。
「殿!」
会津葵紋の幔幕内に入るやいなや、両側から伸びてきた腕に体を拘束される。
「お加減はいかに!?」
小姓頭の浅田が血相をかえて問いただす。
「毛氈を敷き、屏風で囲め!」
耳もとでがなり立てるなつかしい大音声は、近習をはなれたはずのあいつのもの。
「うぐうぐ……冬馬……すまぬ……わたしは、わたしは……」
「いまはなにもおっしゃいますな。とりあえず手当てをいたしましょう」
どうやら先に給水に来た松平たちが、俺の異変を伝えておいてくれたらしい。
あっというまに股引・足袋・草鞋を脱がされ、あられもない恰好で毛氈の上にうつぶせに寝かされる。
(ちなみに、ふんどしはつけていないので、スッポンポンですぅ)
「うぇっ、えふっ、冬馬~」
「お静かに」
冷ややかに一蹴され、条件反射で口をつぐむ。
「うっ! なにを!?」
大野の反対側に陣取った浅田が、両足になにかヌルっとしたものを垂らし、臀部から足の裏までまんべんなく塗りたくる。
「ガマの油でございます。これを塗ることで手がなめらかに滑りますゆえ」
痙攣を起していた左大腿部に、大野のあたたかい掌が置かれ、やさしくモミモミクニクニほぐされる。
「いかがですか?」
「うむ……悪うない」
てか、めちゃくちゃイイ!
問答無用で施術されるうちに、だんだんと足の違和感が薄れていく。
そういえば、容さんはもともと大野との親和性が高かったから、そっちの効果も付与されているのか?
「そなた、いつ、かような技を!?」
「ふふふ、こんなこともあろうかと、吉田流の按摩術を習得しておいたのです」
え、この日のために、トレーナースキルを身につけていただと!?
さすが会津一のスーパー能吏、大野冬馬っ!
「ガマの油を提案したのは、忠兵衛でございます」
「忠兵衛が!?」
「はい、ガマの油は本来は傷用の軟膏でございますが、この軟膏には鎮痛作用があるようですので、疲労で傷んだ部位にも効くかと存じまして」
おだやかな声に、若干自慢げなひびきが混ざる。
「なるほど、ガマの油をマッサージオイルとして使うは、ある意味、理にかなったチョイス。あっぱれじゃ、忠兵衛!」
「もったいなきお言葉」
主君からの称賛に、新婚の小姓頭はうれしそうに会釈。
「さて、いまは時間もございませぬゆえ、このくらいにしておきましょう」
元小姓頭はそう言って、マッサージを終え、手についた油分を拭き取った。
一方浅田は、俺を支えて立ちあがらせ、脱がした股引をもとどおりに着つける。
いつのまにか、足袋と草鞋は新品に替えられ、その間、口に含ませられたウメボシのタネも忘れずに回収済みだ。
傷んだ左太ももだけでなく、腰から両脚の足裏までマッサージされたことで、痛みはもちろんのこと、疲労もかなり薄らいでいる。
「ふたりとも、ようやってくれた」
ああ、うちの家臣たち、優秀すぎー!
それに引きかえ、俺は…………。
「すまぬ、冬馬。そなたの恨み、はらしてやりたかったが、力およばず……」
ドリンクを飲みながらそう詫びると、
「もう降参なさるのですか?」
そのしずかな眼差しが心をえぐる。
「なれど、農民隊は出立直後からわれらを引き離しておるゆえ、おそらくいまごろは……」
たぶんあの感じだと、塩大福以外の十二人はもうゴールしているだろう。
だとすると、俺たちが今後どうがんばっても、敗北は確定。
「ふっ、はたして、そうでしょうか?」
ダークな笑みをうかべた大野は、
「浅田、例のものをお見せしろ」
「はっ」
浅田がまわりにめぐらせていた屏風をたたむと、大野は目線で幔幕の隅を見るよう、俺に示した。




