141 南部藩 主席家老 楢山佐渡
淀橋で神田川を渡り、中野の坂を登る。
坂上につづく街並みは、青梅街道最初の宿場町・中野宿だ。
中野宿を抜けて1.5キロほど行くと、主街道から右手に道が分岐する。
ここは、青梅街道と井草道の分岐点・中野追分。
三叉路脇に置かれた馬頭観音の台座にも『左 あふめ道 右 いくさ道』という道標が刻まれている。
この三叉路が第二給水所で、担当は陸奥南部藩(盛岡藩)だ。
街道沿いの空き地には、藩主である南部氏の家紋・南部鶴の幔幕が張られ、その中ではすでに藩士たちがスタンバっていた。
「世話になる」
仲間とともに幕内に入り、差し出された竹筒を受け取る。
「すまぬが、草鞋の替えをお願いいたす」
松平が藩士のひとりに声をかける。
たしかに、八キロちかく走ってきたので、そろそろ傷んだ草鞋を替えておいたほうがいいだろう。
ただでさえ遅れを取っているのに、途中で草鞋が切れてしまったらペースが落ちて、さらに差が開いてしまう。
「そうだな、みなも替えておけ」
「「「はっ」」」
ほかのメンバーたちも、あたらしい草鞋を受け取り、手早く替えていく。
「肥後守さま」
草鞋を取り替え、ふたたび特製ドリンクを飲んでいると、横あいから二十代半ばの身なりのいいニーチャンが進み出てきた。
「お初にお目もじつかまつります。主席家老をつとめます楢山佐渡にございます」
「ほう、主席家老ほどの重臣が、わざわざかような遠地に……ありがたいことじゃ」
「もったいなきお言葉」
藩主みずから応援にきてくれた米沢藩といい、主席家老が出張ってくれた南部藩といい、奥羽越列藩同盟のみなさん、本当にありがとう!
サポートしてくれたお礼として、レース後「優勝記念セール!」をやりたかったけど、この分だと「応援ありがとうセール」になりそう。
でも、どっちにしろ合同物産展ってことなんで、ぜひ南部藩も南部鉄器やら南部せんべいやらバンバン売りまくって、ガッポガッポもうけてくださいね。
みんな仲よくバンバンガッポガッポ、ウィンウィンでウッハウハ~ ♡
(……ん!?)
なんと、給水所の一隅で、CRC刻印つき瓦せんべい(実際は『走友』だけどな!)と南部せんべいをセット販売しているではないか!
俺がオススメするまでもなく、すでに自発的にバンバンガッポガッポしている抜け目のなさ。
ほ~、ご家老、若いのにやるなぁ。
そういえば、南部藩のある陸奥北部って、このころの稲作栽培北限地なんだよね。
それでなくても、十四世紀半ばから十九世紀半ばの約五百年間は、地球規模で寒冷期に入っていたという説もあって(小氷期)、江戸時代は全国的に凶作や飢饉が絶えなかった。
中でも南部藩は、江戸期二百五十年のあいだに飢饉が八十回ちかくあったとかで、本当に悲惨だったらしい。
そんなこんなで南部藩では一揆がたびたび発生し、つい最近も総勢三万五千人という江戸時代最大の百姓一揆『三閉伊一揆』が起きたばかり。
ある意味、会津よりさらにビンボーな藩なのだ。
考えてみれば、明治時代に会津藩が追いやられた斗南藩も旧南部領だ。
あそこは寒冷なうえ、土地も痩せていて、田んぼどころか畑ですら十分な収穫がのぞめず、会津の移封後はじめての冬には食料不足と寒さから、四ケタにおよぶ死者がでた。
(ううっ、松平容保の大事な家臣たちが……)
なんか他人事とは思えなくなってきた。
(多摩のみなさん、南部せんべい、いっぱい買ってあげて~!)
複雑な思いでせんべい販売ブースをながめていると、
「ときに、肥後守さま」
なぜか血走った目でにじり寄ってくる若き執政。
「じつは、内々にご相談したき儀がございまして」
「と言われてものう……」
ぶっちゃけ、いまは面倒な話は勘弁してほしいなぁ。
「いまは取りこみ中ゆえ、後日あらためて」
「そこを、まげてっ!」
「…………」
気迫に呑まれフリーズしたのを『了承』と誤解されたのか、
「お聞き届けいただき、かたじけのうございます」
おい! 一ミリも聞き届けてねーぞ!?
「じつは、なにゆえかは存じませぬが、近ごろ当藩に大勢の巡礼者が押し寄せてまいり、難儀しておるのです」
「巡礼?」
「とくに西海道からが多いようで」
西海道 ―― 九州のことだよね?
「仄聞するところによりますと、巡礼どもは西海道より発し、京の鞍馬寺、伊勢、久能山、江戸の芝・上野・川越・世良田・日光・会津・仙台・南部と巡礼いたさば、今世のみならず来世まで、神のふかき恩寵が得られるとか」
「鞍馬、伊勢はともかく、あとは東照宮があるところばかりじゃのう?」
東照宮イコールあのキンキラキンの日光東照宮のことだと思われがちだけど、徳川家康を祀る神社『東照宮』は全国各地にあり、多いときは七百もの東照宮があったようで、二十一世紀においても、日本全国に約百三十社ほど残っているらしい。
「げに。その者らの申すには、なんでも東照大権現さまは、若きころ、わが南部領で修行され、大往生を遂げられたのもまた南部だったとか。巡礼どもは、その足跡をたどっているようにございます」
「面妖な。神君家康公は三河岡崎で生まれ、若きころは東海で戦三昧の日々をすごされた。また、亡くなられたのも駿河じゃ。どこからそのような飛語が?」
「出どころは長崎のようにございます。巡礼どもは年明け早々よりあらわれはじめ、口々に、
『神君家康公の墓所はいずこかー!?』
『天狗がー!』
『神輿はー!』
『於大の方は、釈迦の生母麻耶と同じく、生娘のまま受胎なされた!』
などと、口々にワケのわからぬことを叫びつつ、わが領内を徘徊し、人里はなれた山奥にあるという東照宮を探しておるのでございます」
(……あれ?)
それって……まさか……。
「国許の家臣がその者らを捕え、問いただしたところ、みな一様に、
『ある日、長崎に東照大権現さまの使いがあらわれ、さような御託宣を告げたのち、天に昇っていった』と」
長崎……御託宣……もしや…………アレか?
―― イエスの聖なる墓所は、南部領のどこかにある ―― っていうあのホラ話のことでは……。
ってことは、俺のせい?
い、いや、まてまてまて。
たしかに俺は長崎で、キリストやら南部藩うんちゃらの話はした。
だが、俺が語ったのは、キリストとその弟イスキリの墓の話だ!
家康なんてひとっことも言ってないぞ!
どっから出てきたんだよ、家康?
「しかし、楢山。盛岡には、人里はなれた山奥に東照宮があるのか?」
ふつうは参詣しやすいところにあるよね?
「それで困っているのです。巡礼どもに尋ねられても、もとよりわが領内には該当するような社はございませぬ」
「なにゆえ、さような誤解が生じたのであろう?」
「なんでも神君家康公の前世は、千九百年ほどまえのイスラエル王で(イ、イスラエル?)、幼きころ、わが南部領にて修行を積み、立派な武人となられて帰国され、その後戦に勝ちつづけて、版図を欧州全土からペルシャ・天竺にまでひろげたとか(進化系アレキサンダー大王?)。
また、そのかたわら、あたらしき教えの祖となり(え? 王さまなのに教祖?)、王国の基礎が盤石となったのを見届けてから、サル・イノシシ・キジの供を連れて布教の旅に出(西遊記? 桃太郎?)、ふたたびこの日ノ本に戻ってこられたそうにございます。
そして、三つ葉葵の印籠を手に諸国を漫遊した後、ついの住処としてわが南部の山中にて余生を過ごされ、百有余歳で大往生をとげられたとのこと。
なれど、わが日ノ本が戦国の世となったため、この地にふたたび太平の世を築かんと、極楽から蜘蛛の糸を伝って降臨したのが東照大権現さまだというのです」
ちょ、ちょ、ちょっとー!
いつから、そんなグローバルかつ時空を超えた壮大な英雄伝説になっちゃったの!?
しかも、キリスト教やヘンな伝承がいろいろ混ざってるし。
なんなんだよ、いったい?
(―― っ ――!?)
…………ま、まさか?
『イエス』 ―― 『イエ(ヤ)ス』 ―― 『家康』!?
ひぇ~~~、恐怖の伝言ゲーム~~~!?
(つーても……)
俺は、長崎で出会ったキリシタンたちに、うかつにしゃべるなと固く口止めをした。
だが、何百年も隠れて信仰をつづけてきたキリシタンはうれしくなって、ついついあちこちでちょこっとずつポロポロもらしてしまったのかもしれない。
伝えられた断片的な話は、地下ネットワークを通じて多くのキリシタンたちの間に拡散され、その中でドカドカ尾ひれがついていき……。
もしや、家康ネタがくわわったのは、徳川家康の孫・保科正之を祖に持つ松平容保があいつらにやさしくしてやったからか?
俺への好意と敬意、謎変換した『イエ(ヤ)ス』が合体して、いつのまにか話がデカくなっていき、南部領内は墓所を探す巡礼者であふれかえり、いまや完全にパワースポット化 ―― な流れ?
蒼白になって黙りこむ姿になにか感じるものがあったのか、
「そのほかにも、江戸に立ち寄りし際には、会津藩中屋敷にて赤牛の吊紐を入手いたし、神の憑代とせねばならぬそうにございまする。この一連の騒動、なにかお心あたりは?」
「ぶはっっっ!」
思わずドリンクを噴いてしまった。
赤牛の吊り紐!?
ギャー! ヤバイヤバイヤバイ!
なにがヤバイって、これは御禁制のキリシタンがらみの案件。
いまは運よく妙な尾ひれがついてカモフラージュされているけれど、ネタ元を特定されたら、巻きこんだ方の会津も巻きこまれた方の南部も、共倒れ=ダブル改易の危機だ!
「こ、心あたりなど、ごご、毫もないわっ!」
「なにとぞお知恵を「みな、休憩は終わりじゃ! 参るぞっっ!」
「「「応っ」」」
「お待ちくだされっ!」
「先を急ぐゆえっ!」
阿修羅のごとき形相で追いすがるニーチャンを必死にふり払い、なんとか街道に逃れる。
ったく、リフレッシュどころか、メンタルがっつり削られたわ!
(これからは、口八丁はほどほどにしよう……)
暑さを増す陽光の中、つめたい汗をしたたらせながら、俺は固く心に誓ったのであった。
中野追分から1.6キロ、ふたたび分岐にさしかかる。
ここ馬橋は、青梅街道と五日市街道の分岐点。
五日市街道は多摩の木材や炭、農産物を江戸に運ぶ輸送路として整備され、青梅街道とともに多摩と江戸をむすぶ主要道路として多くの人々に利用されている。
また、途中から千川上水・玉川上水沿いを通るため、小金井桜目あての花見客なども多く、『小金井桜道』と呼ばれることもある。
今回のゴール・小金井橋たもとの花見茶屋『柏屋』は、五日市街道沿いにある。
ゴールの位置を考えれば、マラソンコースは青梅街道より五日市街道の方が適しているのだが、今回はある理由により青梅街道が選ばれた。
それは、大会主催者の家定が五日市街道を利用するからだ。
将軍さまの外出『御成り』が決まると、沿道の町村では地域をあげて清掃活動に駆りだされ、道筋を整備しなくてはならない。
つまり、将軍のためにきれいにした道を、先に通った俺たちが埃をまき散らして台なしにするおそれがあるので、ちがう街道にまわされたというわけだ。
サダっちは、俺たちがスタートした直後、同じ半蔵門から馬で出発し、途中、気分がおもむくまま、風景を楽しみながら水路沿いをサイクリングするらしい。
またしてもオトナの事情で、風光明媚な五日市街道は将軍御成道として明け渡さざるをえず、俺たちは茫洋とひろがるおもしろみのない青梅街道をひた走ることになったのだ。
このおかげで、ラスト二キロは青梅街道から高低差のある玉川上水までのアップダウンを、疲労がピークになった状態で乗り越えなければならなくなった。
(……きつっ……)
そして今回、街道に交通規制をかけている関係で、フィニッシュは巳の刻(午前十時)までと定められている。
したがって、制限時間内にゴールできないときは失格と見なされてしまう。
つまり、CRCで一番タイムが遅い第三集団も、巳の刻までに柏屋に到着しないと、たとえ最後まで走りきったとしても、途中棄権あつかいになってしまうのだ。
(みんな、かならず来てくれよ!)
春にしては強すぎる陽ざしを背に受けながら、俺は後ろから追ってくるであろう仲間にそう呼びかけた。
於大の方=家康公のご生母




