132 和田倉屋敷役宅
チュンチュンチュンチュン
丸々とした茶色い生き物が冬枯れの庭で何かをついばんでいる。
冬枯れとはいうものの、今日は二月九日。
暦の上では春なのだが、庭には毎日のように霜柱が立っている。
旧暦の二月上旬といえば、グレゴリオ暦では三月はじめころ。どうやら十九世紀の江戸は、二十一世紀の東京よりかなり寒いらしい。
霜柱で持ち上がった地面を避け、踏み石づたいに庭を横ぎり、平屋建ての家屋に向かう。
八分咲きの紅梅の横に目ざす家はあった。
この規模の役宅にしては広い玄関の引き戸を供侍が引き開ける。
「そなたらはここで待て」
近習たちを外に残し、ひとり敷石の上で草履を脱ぐ。
他人の家だが、勝手知ったるなんとやら。内部は知りつくしている。
あわてて奥から出てきた少年を手で制し、さっさと式台を上がる。
黒光りする式台のすぐ右が目ざす場所 ―― 台所だ。
家の北西にあたるうす暗い炊事場は、竃からあがる煮炊きの煙と湯気が充満していた。
薪を燃す酸っぱい臭いに、醤油とダシ、焦げた飯の香ばしい匂いが混じる気体を吸いこみ、土間に目をやる。
「お志賀!」
わきあがる喜びととともに、彼女の名を呼ぶ。
「「お殿さま、おはようございます」」
一段下の土間から、ふたりの女が丁寧に頭を下げる。
「うむ、早くから大儀。して、今日の菜はなんじゃ?」
「玉子焼きと、アサリ飯でございます」
五十歳くらいの女が笑顔で答える。
年相応の老いは見られるものの、品のいいなかなかの美人で、濃紺の襷をかけ、武家風に結った髷を手ぬぐいで覆っている。
「リンゴはウサギさんに切ってくれたか?」
「はいはい、ウサギさんですよ」
「まあ」
隣にいた赤いタスキがけの娘がクスクス笑う。
二十歳ちょいのふんわり系で、こちらも武家髷だ。
「こら、なにがおかしいのじゃ、佐和?」
「も、申しわけございませぬ。お殿さまがあまりにおかわいらしいことをおっしゃるもので、つい……」
「姉上、殿のお許しもなく、直答はなりませぬ!」
笑いをかみ殺す娘を、玄関からついてきた少年が咎める。
「よいのじゃ、源吾」
片膝をついて見あげる切れ長の目が、姉とよく似ている。
「せめてここに来たときくらい、現世のしがらみから離れたいのじゃ」
「……差し出口を申しました」
細めの月代を下げて詫びた少年は、
「弁当はさきほど出来あがり、それがしがお預かりしております」
「そうか。ならば、気をつけて持ってまいれ。わたしはお志賀の弁当だけが楽しみなのだからな」
「はっ」
「さぁさぁ、そろそろご出立なされませんと、講義に遅れますよ?」
土間から上がってきたオバチャンが、俺の羽織の肩山を直す。
「では、行ってまいる」
俺がそう言うと、オバチャンは手ぬぐいをさっと外し、その場に三つ指をついて深々と頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
***
「あいかわらず若さまは甘えん坊さんですな」
式台を降りようとする俺の背に、笑いをふくんだ声がかかった。
年配の男の声だ。
「む?」
声のした方を見やると、最奥の八畳間で四人の男たちがまったり茶を喫している。
「なんじゃ、そなたら、来ておったのか?」
「「「「おはようございます」」」」
式台から引きかえして入室する俺に、男たちは茶碗を下に置き、朝のあいさつを述べる。
「なれど、崋山殿、もはや殿は『若さま』ではおわさぬ。二十八万石会津松平家のご当主にして、大政参与の大任についていらっしゃる閣老ですぞ?」
じいがとなりに座る老人を非難する。
「おお、これはしたり! ついむかしのクセが」
注意されたじいさん ―― 渡辺崋山はらしくない軽口をたたく。
「「「「わははは」」」」
「それにしても、また朝っぱらから他人の家でたまりおって」
『お達者クラブ』開催するなら、じいの役宅でやりゃあいいのに。
こんな時間に押しかけられたら、お志賀もかわいそうだ。
「殿、『また』とおっしゃられますが、渡辺殿も椿殿も、殿にお会いしとうて、かくも早く通われているのですぞ?」
じじいカルテットのうちのふたり ―― 渡辺崋山と椿椿山は、むかし容さんの家庭教師をしていたらしい。
その縁なのか、最近よく会津上屋敷にふらっと立ち寄っては、じいと世間話をして帰っていく。
ところが、上屋敷といっても御殿のほうではなく、敷地内にあるこの役宅に現れることが多く、ときどき知り合いを連れてきたりする。
それは高名な学者だったり、商人だったり、どこかの藩の元家老だったりする。
今日の連れには字幕が出なかったので、容さんも初対面らしい。
そいつは、渡辺の古い蘭学仲間で『沢三伯』と紹介された五十歳くらいの男。
顔にひどいケロイドがあり、沢は親しい人といる時以外は、つねに室内でも頭巾をかぶっているようだが、いまは頭巾を取って茶を飲んでいる。
なんでも蘭方医でもある沢は、むかしまちがって強い薬品を浴びてしまったとかで、顔の皮膚のほとんどがピンク色に爛れてしまっている。
その沢の隣にすわる渡辺は、さっきから俺の顔を見てやけにウルウルしている。
「あのおちいさかった御子がいまや、このお若さで大老格の幕閣とは……」
「しかも、その施策の多くが、かつてこの学習室で学ばれたものを基に発案されたのですからなあ。渡辺殿などはうれしすぎて、とうとう田原の隠居所を引き払い、江戸に引っ越してこられたほどにございます」
渡辺の親友で高弟でもある著名な画家・椿椿山が、いとおしむように師を見つめる。
やはりこいつらも、俺が未来知識総動員で考えた幕政改革プランや外交方針を、幼少期に刷りこまれた教えに則ったものと勘ちがいしているようだ。
(ちきしょう! 全然ちがうわ! すべて俺のオリジナルじゃー!)
とは思ったが、いろいろご苦労の多かったじいさんたちがそう信じて喜んでいるのに、わざわざ水を差すこともないだろう。
「さよう。会津侯の声望は田原にまで伝わってまいりました。なれど、こうしてお会いいたさば、むかしと変わらぬところもおありで……」
ウンチク集で見たのよりグッと老け顔になった渡辺崋山が、しあわせそうにため息をつく。
「若さまのお顔を拝見するたび、寿命がのびる気がいたします」
「まぁ、たしかにわたしはこの時間でなければそなたらに会えぬからな。ゆっくりしていくがいい」
涙目で俺に見とれるじいさんたちに、極上のほほえみをプレゼントしてやり、俺は踵を返した。
将軍からの通学命令を受けた俺は、さっそく翌日から桜田学問所に通いはじめた。
(いまさら勉強かよー!?)とがっくりきたが、毎日登城して家定にムチャブリかまされるよりは一万倍マシと考え直して、まじめに通学することにしたのだ。
それに学問所にはCRCメンバーも多い。
梅の花が終わり桜が咲けば、いよいよわがCRCと塩大福&農民隊とのプライドをかけた勝負。
ということで、俺たちCRCは、朝練にかわり放課後、吹上御庭に移動して練習をおこなっている。
ちなみに学問所の授業は五つ半(午前九時)はじまりの八つ半(午後三時)終わる。
だから、お達者クラブのジジイどもは、通学前のこの時間にここで待ち受けていたらしい。
「ときに、学問は進んでおられますかな?」
行きかけた俺を渡辺が引きとめた。
「なにかと忙しいに、宿題が多くて難儀しておる」
つい日ごろの不満をポロリ。
「おや、宿題をしにきたとおっしゃりながら、ここでくつろがれたあと、源吾がやったものを書き写されるだけでは?」
「じい! よけいなことを申すな!」
ニマニマ笑いながら、安易に極秘情報をもらすジイサンを睨みつける。
数え年十六歳の源吾くんは、俺といっしょに学問所に通うご学友兼CRCメンバーで、去年までは会津日新館に在籍していたが、いまは小姓組に入っている。
「わたしはいま、来たるべき決戦にそなえ、時間がないのじゃ!
それをあのクルチウスめ……フランス語はまぁいい。外交には必須だからな。
また、ドイツ語とロシア語も今後需要がふえるであろうから、まだ許せる。
だが、なにゆえオランダ語なのじゃ?
オランダ語など必死に学んでも、この後あまり使えるとは思えぬ。
なのに、無理矢理カリキュラムに入れおって……しかも毎回毎回宿題をドッサリと……オランダ語などやりとうないのじゃーっ!」
「「「オランダ語?」」」
なぜか顔を見あわせる渡辺・椿・沢。
「では、どうでしょう? しばらくこちらの沢からオランダ語の手ほどきを受けては?」
「沢に?」
「じつは、この沢はかつてシーボ――「渡辺殿っ!」
椿が叫んだ。なぜか顔面蒼白で。
「(げふんげふん)……さ、沢は蘭語は得意でして、かならずやお役に立ちましょう」
「ほう、そうであったか。では、ひとつ頼むとしようか。暮れ六つ、この役宅にまいれ」
「それがしも同行してよろしゅうございますか?」
キラキラ目の渡辺が熱っぽく訴える。
「そなたも蘭学者だったのう。なれば、ともに」
「「はっ」」
「……なにゆえ、それがしの役宅が教場なのでしょうか?」
背後から凍るような冷気が襲ってきた。
「それがしの了解もなしに、さようなことを決められては迷惑千万」
おそるおそるふり返ると、能面をピクつかせたこの家の主が玄関の土間に立っていた。
今回登場した渡辺・椿等と主人公(※ ハードの方)との関係は、外伝『天保十二年 辛丑 一月』の設定と同じです。
興味のある方はそちらをご参照ください。




