126 春暉
十九世紀 中葉
俺の心象風景そのものの、凍てつく冬枯れの景色。
冷涼な空気が、わずかなすき間から室内に忍びこむ。
百五十年前の紐育。
空を埋めつくす高層ビル群ではなく、石とレンガでできたヨーロッパ風の町並み。
市の、というより二十一世紀では国のシンボルになっている巨大な像はなく、それが立つ島の名すらちがうなじみの薄い異国の街。
――自由の島に立つ『世界を照らす自由の像』すらない1855年の大都市。
俺の記憶にあるのとは、まったく別の場所。
[Oh, say can you see, by the dawn's early light
What so proudly we hailed
at the twilight's last gleaming?]
(ああ、見えるだろうか、きのうの薄暮に、われらが歓呼したものが曙光の中に)
ちいさく口ずさんでみる。
このころはまだ国歌ではなかった彼の歌を。
Whose broad stripes and bright stars,
through the perilous fight.
O'er the ramparts we watched
were so gallantly streaming?
(太き縞とかがやく星々の旗が、死闘を経た城壁のうえに雄雄しく翻っているではないか)
And the rockets' red glare,
the bombs bursting in air,
Gave proof through the night that
our flag was still there,
(ロケット砲が赤く光り、轟音とともに炸裂する夜を、われらの旗は耐えぬいた)
[ Oh, say does that star-spangled
banner yet wave.
O'er the land of the free
and the home of the brave! ]
(ああ、星条旗はいまもたなびいているだろうか、自由の国に、勇者の故郷に!)
歌い終わると同時に、熱い涙がほほを伝った。
「the land of the free ……自由の国……自由……自…………」
思いがあふれ、言葉がつづかない。
「肥後守」
夢想をやぶる無粋な中年の声。
「……おかげんでも?」
「さきほどから腹をかかえておいでだが、どこか痛みますか?」
さっきとはちがう声が、いたわりの言葉をかける。
腹をかかえているわけじゃない。
体育ずわりをしているだけだ。
でも、裃姿での体育ずわりはけっこうむずかしいんだぞ?
なにしろ、あの日以来、コレが基本姿勢になってて……。
「なぜだ?」
「「は?」」
「てかさ、最後に(終)出ただろ? だったら、あとはワーグナーとかマーラーとか、なんかテキトーに十九世紀っぽい音楽がバーッと流れて、それに合わせてエンドクレジットがしずしずスクロールみたいな感じでフェードアウトする予定が……なんで……こんなことに……(ブツブツ)……」
「大和守! 紀伊守! 評議にもどられよ!」
外気より冷ややかな声がふたりを叱責する。
「なれど……あまりにただならぬごようすにて……」
ためらいがちに抗議する越後村上藩主・内藤紀伊守信親。
「やはり、どこぞお身体の具合でも悪いのではございませぬか? 元旦以来御登城もひかえておいででしたし……」と、親身になって心配してくれる関宿藩主・久世大和守広周。
「案ずるにはおよばぬ。たんにオコチャマがすねているだけだ」
老中歴十一年のベテランがエラそーに、ニューフェース信親・広周――チカチカコンビに言い放つ。
ブチッ。
心中でなにかがキレた。
「なん……だと?」
膝に乗せていた額を昂然とふりあげ、半身をよじる。
「いま、なんと?」
ところがオヤジは、
「貴公らは入閣したばかりでご存じなかろうが、肥後守はオコチャマゆえ、ときどきあのように幼稚なふるまいをなさるのだ。閣老としてあるまじき言動なれど、そこはわれらがオトナになって対応してゆかねばならぬ。
とは申せ、オコチャマであるがゆえに、われらオトナが見過ごしがちな問題点にお気づきになられ、常識では思いつかない発想をなさることもすくなくない。オコチャマはオコチャマなりに見るべき点も多いのだ」
上役をガン無視し、新入閣の二大名に無礼なレクチャーをつづける塩大福こと、備後福山藩主・阿部伊勢守正弘。
「お、おのれっ!」
憤怒のあまり目の前が真っ赤に染まる。
「くっ、そなたのせいで……わたしはーっ!」
「肥後守っ! 落ちつかれよ!」
後ろからはがい締めにする上田藩主・松平伊賀守忠優。
「ふっふっふ、そのようにすぐに激高するところがオコチャマなのではありませぬか」
小バカにしたような物言いに、いつしか視界がぼやけはじめる。
「信じて……いたのに……感謝さえ……それを……それを……」
そう、俺はずっと感謝していたんだ、あの日まで。
亡命が失敗したあの瞬間まで、俺は愚かにも阿部正弘を信じていたんだ。
あの日 ―― 日本では安政に改元されていた昨年十二月中旬。
グレゴリオ暦では、年も明けた1855年一月中旬のある日。
運よく横浜に向かうオランダ船も見つかり、急ピッチで帰国準備がすすむ中、あるとき俺のまわりから人影が消えた。
覚醒して以来、四六時中だれかがウロウロしていた周囲がはじめて無人に ―― といっても、それは偶然ではなく、亡命するチャンスを自ら作り出したのだが。
「帰国にあたり、公方さまはじめ御三家・御三卿・幕閣への土産を準備するように」と命じ、家臣・幕臣らを街に放ったからだ。
これはいうまでもなく連中を追っ払うための口実で、出航日が目前に迫っていたためか、やつらはおもしろいように引っかかった。
そして、ついにその瞬間が!
細心の注意をはらいつつ、客室のドアをそっと開ける。
「だれかおるかー?」
念のため、そっと呼びかけてみる。
だが、それに応える声はない。
それもそのはず。随員たちのお買いものツアーには、事前にアメリカ商館員の同行を頼んでおり、館内のアメリカ人もほとんど出払っているのだ。
(いまだ!)
いざ、自由の国に~。
『では、お元気で! (終)』
足音をしのばせ、廊下から階下へ。
目指すは、この日のために手なずけておいた中国人下男がいる裏口横の小部屋。
そいつに銀貨数枚をにぎらせ、アメリカ領事館まで道案内をさせる……完璧な計画だ。
二階客室のドアとはくらべものにならない薄っぺらい板戸のまえに立ち、ノックを ――――
「かようなところで、なにをなさっておられるのですか?」
至近にわくイヤなくらい聞きなれた低音。
「まさか供も連れず、おひとりで他出なさるおつもりでは?」
「いくら鎮圧されたとはいえ、広州はいまだ危険にございます」
オグちゃんによく似た声もくわわる。
「お出かけならば、われらもお供つかまつりまする」
甲高い声がハキハキ言い添える。
(……バ、バカな……)
俺の亡命計画は完璧だったはず。
なにしろ、オリバーには超VIP用赤べこを贈ったとき、白扇子に『こっそりそっちに行くからヨロシク』と書いてプレゼントの中にしのばせ……ふつうの手紙だと大野に検閲されるから、バレにくい形でメッセージを書いて手渡したし……なのに……なぜ!?
呆然と立ちつくす俺の背後には、複数のおサムライさんたちの気配が。
どうやら水も漏らさぬ包囲網がしかれているらしい。
「と、供は無用じゃ。近くを散策するだけじゃ」
背をむけたまま絞りだした言葉は、なさけないほど震えていた。
「ほう、近くを散策?」
般若の声に笑いがにじむ。
「では、御手にお持ちのその包みは?」
「こ、こここ、これは……」
「粂之介!」
カミカミする主君を無視し、大野はかつての部下を呼んだ。
「殿に物をお持たせするとは何事ぞ! 即刻お預かりいたせ!」
「はっ!」
「あ、そ、それは……」
瞬時にさらわれる亡命用全財産。
荷物を取り返そうととっさに身をよじると…………そこには外交使節団全員集合。
「そ、そなたら……買物に出かけたはずでは?」
半泣きで問いかけると、
「よもやとは存じますが」
大野が真顔でマジマジ。
「こたびの企て、まさか露見しておらぬと、本気で思われておいでで?」
「……ぇ? ……ぇえっ!?」
「「「……はぁ……」」」
唱和する複数のため息。
オッサンたちのあわれむような瞳が、心に突き刺さる。
「「「……やはり……」」」
「とうに看破されておりましたものを……」
小栗の眉宇にただよう憂愁の陰。
「しかし、なにゆえアメリカなどに?」
「ア、アメリカ~? いったいなんのことじゃ~?」
もはや声だけでなく、全身ガクブル状態。
「とぼけてもムダです。証拠はあがっておりまする」と、大野が懐から取り出したのは、本当ならここにあるはずのない扇子。
「あー! なぜそれをそなたがーっ!?」
「オリバー殿に手引きを依頼されたのですね?」
「は……はて、なんのことやら……」
「殿……扇子は、当家の隠密が荷から抜き取り、別のものと差し替えておきました」
現小姓頭がためらいがちに言い添える。
「隠密!?」
いつから、そんなヤツが会津に!?
そんな特殊技能者がいるなんて、俺は一度も聞いたことないぞ!
「いえ、会津だけでは……幕府随員の中にも従者をよそおい、多数の公儀隠密が……」
浅田のひと言が俺にトドメをさす。
「公儀隠密!」
もう、スペクタルすぎて、ついていけません。
「すべては阿部伊勢守さまの御指図によるもの。伊勢守さまは殿のごようすに不穏なものを感じられ、御用繁多な小栗さま岩瀬さまをあえて随員に加え、一挙手一投足を注視するよう厳命されたそうにございます」
「伊勢が!?」
「「「いかにも」」」
大野の言葉に、幕臣全員が神妙な顔でうなずく。
「「「われら随員一同、ご老中方より侯を江戸まで無事お連れするよう命ぜられております」」」
つまり、この亡命計画はスタート時からすでに見ぬかれ、終了していた……と?
「ま、まさか……さようなはずは……」
全身から力が抜け、俺は背後の粗末なドアにもたれかかった。
アメリカ国歌についてですが、作詞されたのが200年前なので、なろうの規定『50年以上』はクリアしていると思い、作中に使いました。
また、日本語訳の方は規定にひっかかるおそれがあるので、辞書で引きながらテキトーに意訳しました。
ということで、訳が間違っていたら、お詫び申しあげます。




