第93話 悪い影響
「嘘、だろ……?」
呆然とするエリザベス。
自分に自由を与えてくれ、迫りくる敵を圧倒的な力で倒していたアリスター。
エリザベスの中で、彼は無敵のヒーローのような存在だった。
たとえ、どれほど苦戦したとしても、決して負けることはない。
今回の敵も……終末の化け物も倒し、父を殺したラガエルも倒してくれると、根拠もないのに信じ切っていた。
だが、アリスターは死んだ。
ナナシに……ヘドロの塊の中に取り込まれた。生きているとは思えない。
もし取り込まれた時点で生きていたとしても、毒が全身に回っており、またラガエルの投擲した槍が腹部を貫通している重傷だ。
ずっとあのままだと、アリスターはいずれ死んでしまうだろう。
「…………ッ!!」
エリザベスはアリスターが取り込まれてしまったナナシの元に駆けだしていた。
自分が行って、どうにかなるとは思えない。
アリスターでさえ……魔剣を駆使しても勝つことができなかった化け物だ。
戦う術を何も持たない自分が、いったいどうすることができるというのだろうか?
ナナシを倒すことはもとより、アリスターをあれから引きずり出すことだってできない。
だが……ここでずっと縮こまって、何もしないなんてこと、エリザベスにはできなかった。
「どこに行く、小娘」
そんな彼女の前に立ちはだかったのが、ラガエルである。
彼はふわりと降り立ち、エリザベスがナナシの元に行けないように壁を作る。
「クソ……! どけよ!」
「ならん。貴様には、ルボンに代わって天使教をまとめて率いなければならない。それが、貴様の責務であり、使命だ。私への奉仕精神を出せ」
「……するわけねえだろ」
「なに?」
ラガエルに……自分よりも圧倒的に格上の存在に、エリザベスは食いついた。
彼にとって、戦う術も持たない弱いエリザベスなど、アリと大して変わらない認識である。
簡単に踏み潰すことができる。その命を奪うことができる。
それは、エリザベスも分かっているであろう事実。
それなのに、自分に刃向ってきたということに、目を丸くした。
「親父を殺されて、俺を救ってくれたアリスターも……! そんなお前に、誰が尽くすか! 天使を信仰する天使教なんてクソ喰らえ! 俺は絶対にお前に奉仕もしないし、かしずくこともねえ!!」
ギッと、今までラガエルが向けられたことのないほどの強い目で、そう言い切った。
軽く腕を払うだけで致命傷を負ってしまうほどの実力差があることが分かっていても、これだけの啖呵を切ることができる。
エリザベスの胆力の強さは、驚嘆に値するし称賛されるべきものだろう。
だが……。
「そうか。ならば、死ね」
それを向けられたラガエルは、エリザベスを許さない。
彼にとって、彼女が女でも子供でも関係ない。
自分に刃向った。自分に逆らった。天使に反逆した。
それだけで、エリザベスの命を奪うには十分である。
「や、止めてくれ!!」
集まっていた天使教徒たちが叫ぶ。
彼らにとって、エリザベスは信仰の象徴。天使教の聖女なのだから。
しかし、そんな信者たちの想いに、言葉に答えるつもりは毛頭ない。
ラガエルにとって、彼らは代替の利く駒にすぎないのだから。
「…………!」
エリザベスは、逃げようとはしなかった。
自分の小さな足で逃げようとしても、どうせすぐに捕まってなぶり殺しにされるだろう。
だったら、逃げない。逃げずに、最後まで睨みつけてやる。
それが、弱くてもろい人間の……エリザベスの天使に対する抵抗である。
「死ね」
ラガエルが槍を振り上げる。
そして、それは小さなエリザベスの柔肌を食い破ろうとして……。
「――――――!?」
異質な魔力が吹き荒れるのであった。
◆
「嘘、でしょ……?」
エリザベスがラガエルと何やら話し込んでいる時、マガリもまた愕然としていた。
この時、彼女の頭にどうやって逃げようとか、自分だけは助かろうという考えは吹っ飛んでいた。
ただ、アリスターが死んだ……という強烈な事実で、頭がいっぱいになっていた。
なんだかんだ言って、マガリは彼を信頼していた。
彼なら上手いことやる。どうにかして逃げる。そんな彼を盾にして自分も逃げる。
そういう風に、とてもプラスとは思えないが、それでもマイナスの方で信頼していたのである。
そんなアリスターが、終末の化け物に囚われて、おそらく死んだ。
その事実は、絶対自分主義者であるマガリを硬直させるには十分だった。
「(……いえ、今考えないといけないのは、私がどうやってこの場を逃げて生き延びるか。アリスターのことを考えている場合ではないわ)」
そう自分に言い聞かせる。
しかし……どうしても、彼のことを頭の外に追い出すことができなかった。
「(そもそも、アリスターは死んだの? いえ、私なら間違いなく死んでいるでしょうけど、あのゴキブリ並の意地汚さを持つ彼が、こんなあっさり逝くかしら?)」
アリスターなら、どうしようもなくなった場合は『自分が死ぬくらいならお前らも死ね』ととんでもない理論で大規模な道連れ行為をするはずだ。
それに、直接的に彼が死んだ場面を見ていない。
身体に毒が回り、腹部を槍で貫かれ、あの毒々しいヘドロに取り込まれてはいるが……。
「(……死んでそうね)」
そう思うと、胸が少し……ほんの少し、ちくりと痛んだ。
「(なに? まさか、私がショックを受けているとでも?……バカバカしい。私とあいつは、そんな関係じゃないわ。もっと、憎み合って、脚を引っ張り合って、そして……)」
マガリにとって、アリスターは自分の素を出すことができる、唯一の存在であった。
遠慮なんて一切することなく、むしろお互いを陥れようと動き回り、けなしあう。
お互いを敵視し合っているのに、無防備な姿を見せられるのもアリスターだけだった。
「はあ……馬鹿ね、本当」
マガリはそうため息を吐いた。
彼女の頭の中では、もはやこの場から逃げるという考えがなくなっていた。
マガリが見つめる先には、今にもエリザベスに槍を振り下ろそうとするラガエルの姿があった。
彼と正面から対峙するのは、明らかに下策である。
マガリだって、エリザベス同様戦いの手段なんて持ち合わせていない。
だが……だが、ラガエルに何か報復しなければ、気が済まなかった。
「それに、アリスターが死ぬとも思えないし。絶対に生きているわね、あれ」
ちらりと動きを見せないナナシを見るマガリ。
先ほどまで元気に触手を伸ばしてアリスターを追い詰めていた終末の化け物は、不気味なほど動きを静止させていた。
もしかしたら……。
「まあ、まずはあのクソ天使ね」
マガリに戦う術はない。
だが、聖剣に教えてもらった、聖女としての力がある。
能力を無効化する能力……非常に強力だが、まだ使いこなせているわけではないその能力を、今ラガエルに使おうとしていた。
しかし、つい先ほど使ったばかりで、また連発できるほど力が残っているかわからない。
そもそも、天使という超常の存在に聖女の力が効くのかもわからない。
だが……それでも……!
「……え?」
キッとラガエルを睨みつけ、その力を使おうとした時だった。
彼の後ろにいるナナシが、視界に入っていた。
アリスターを取り込んでから、ビクともしなくなっていた終末の化け物。
それが、まるでもだえ苦しむようにグネグネと動き始めたのだ。
唖然とするマガリ。そんな彼女をしり目に、ナナシの苦しみ様は激しさを増し……。
パァン! とそのヘドロの身体が弾けたのであった。
◆
どうして、俺がこんな目に合わなければならないのか?
俺がいったい、どのような悪いことをしたのか?
……そんなこと、何もしていないだろう。
今回の騒動だってそうだ。たまたまエリザベスとぶつかって出会ってしまい、魔剣に促されてちょっと交流したら、悪影響を与えるとか言われて暗殺者を差し向けられ……。
だから、カルトって嫌いなんだ。っていうか、もう宗教全体が嫌い。バーカ。人に迷惑かけんな、死ね。
で? その結果が、毒で身体中に激痛と苦しみを与えられ、槍で腹を貫かれると?
なんだよ、天使って。わけのわからん存在が出張ってきてんじゃねえよ。気持ち悪いんだよ。
しかも、ラッパ吹いて出てきた化け物はなんだよ。ヘドロじゃん。ドブから生まれたの?
もう身体中痛いよ。こんなの経験したくなかったよ……。
……そもそも、魔剣と出会ってしまったのが運の尽きだ。
シルクを助けたことだって、あんなの俺だけなら絶対に関わっていない。
そりゃあ、彼女がかわいそうだって思う気持ちはある。お家を潰されて奴隷に落とされ夢を奪われていたんだ。傍から見たら同情ものだ。
だけどね、赤の他人なわけですよ。
あいつを助けるために、犯罪組織を丸々敵に回したり貴族をぶん殴ったりさ……ヤバくない?
その後はマルタよ。人魚とかいう人間を海に引きずり込むような危険な亜人に、何故近づくのか。
そして、また貴族とぶつかるし……ってか、この国の貴族って頭おかしい奴ばかりなの?
何で魔剣が首突っ込みたくなるような性格と犯罪ばっかしてんだよ。もう辞めちまえよ、貴族。
人魚の内輪もめにも巻き込まれるしさ。
なに? 欲望が強いから何でも欲しがるとか。知らねえよ、そんなのよぉ。
はぁぁ……痛いし、苦しいし、疲れるし……。俺はこんな人生望んでいなかった。
もっと気楽で、働かなくてよくて、ストレスだって少なくて、のんびり暮らしていきたかったんだ……他人に養ってもらって。
まあ、俺が言いたいことは、精神的にも肉体的にも疲れたってことだ。
……もう、このまま化け物の中でどうにかなるのを待つか。
『それでいいのか?』
……誰だ? お前。魔剣……じゃないな。初めて聞く声だ。
『ああ、そうだな。だが、俺が誰かなんてどうでもいい話だろ? 俺はお前に聞いたぞ。それでいいのか、とな』
いや、よくないけど。俺が死ぬくらいだったら他の奴も死んでほしいし。
『なんだこのはた迷惑なやつ……』
あと、お前に唆されそうなのも嫌。誰だか知らんが、俺を手駒として扱うことなんて神であろうと許さん。
『自分好きすぎだろ、お前……。だが、いいのか? お前が死んだとして、あの場に残された者はどうなる?』
そう言われて、俺はマガリやエリザベスを思い出す。
……うん。まあ、俺の目の前で死なれるのはあれだけど、もう俺いないしそこまで責任持てないわ。
それに、マガリだったら上手いことやるだろう。
シルクから教えられたことだが、舞台から退いた役者がうるさく入りこむことはできないだろう。それと同じだ。
『……じゃあ、お前はここで死ぬのか? それを受け入れるのか?』
……お前が少なくとも魔剣ではないことは明らかだな。
それどころか、俺のことをまったく理解していない。
誰が死ぬか、ボケが!!!!
絶対に嫌だ! 俺はもっと楽しいことしてから老衰で死ぬんだ!
間違っても汚いヘドロに全身突っ込んで死なねえよ!!
『えぇ……なんだ、こいつ? じゃあ、どうするんだよ』
……それは、今から考える。
『……くくっ。何も考えていなかったのに、あれだけ言えるのか。どんだけ自分好きなんだよ、お前』
世界と俺を比べたら俺を優先するくらいかな。
『ぶふっ! はははっ、ヤバい奴だな、お前! いいぜ、面白い。今回のこと、俺に任せてみろよ』
えぇ……。俺、他人のこと信用できないんですけど……。
『いいから、任せろって。あの天使、ボコボコにして翼もぎ取ってやるからよ』
マジ? じゃあ、頼むわ。
俺はあっさりとお願いした。
どんな存在かまったくわからないため信用は一ミリもしていないが、しかしラガエルに腹を貫かれた恨みは非常に大きい。
あいつが生み出した化け物の責任もあいつにある。ゆえに、絶対に苦しい思いをしてほしい。
というわけで、俺はこのわけのわからない存在に任せるのだった。
『ああ、任せろ。地獄を見せてやる』
その言葉を聞いたと同時、俺の意識が黒に染まるのであった。
……あれ? 何か俺にも悪い影響ないか、これ?




