第20話 敵対したくないよおおお!!
「な、なんでここに……」
シルクは声を震わせながら尋ねる。
それを受けたプリーモは、本当に楽しそうに顔を歪めて笑った。
禿げあがった頭に、でっぷりと汚らしく太った身体。
顔いっぱいに髭が生えており、目だけが爛々と輝いているのは何とも言えない不快さを見る者に与えてくる。
「なんで? それは、大切な奴隷が夜な夜な抜け出していれば、心配になって迎えに来るだろう。なあ、エドウィージュ?」
「きひひひっ、そうね、そうね……」
彼はそう言って隣に立っていた護衛の女に話しかけた。
ぼさぼさの長い髪を持つ痩せた女は、とても正常とは思えない笑い方をしていた。
痩せているため、まるで目玉が飛び出ているかのように大きく、その目に見据えられたシルクは身体を思わず震えさせるのであった。
「おや、シルク……お前の持っているそれはなんだ?」
「あ、こ、これは……」
そう言ってプリーモが指さしたのは、シルクが大切そうに抱えていた白いドレス。
嗜虐的な笑みを浮かべながら近づいてくる彼を見て、シルクは強くドレスを抱きしめる。
逃げ出すことは奴隷であるから許されない。
「興味がある。私に見せてみろ」
彼女の眼前に立ったプリーモは、冷たく命令した。
今までのシルクならば、何も反論せずに渡していただろう。
だが、今日彼女は夢の第一歩を踏み出すことができ、そのドレスも大切な共演者からのプレゼントだ。そう簡単に渡せるはずもなかった。
シルクは、今日初めてプリーモに抵抗した。
「こ、これは……先ほどまで私が着ていて……洗濯もまだだから、お渡しするほどきれいではありません」
初めて抵抗されたプリーモは、眉をピクリと動かす。
しかし、この方が面白い。
全てを受け入れる諦めきった者を虐げるよりも、抵抗して反抗心を持っている者を虐げる方が、よっぽど楽しい。
「私は気にせん。ほら、見せてみろ」
「ですが……」
なおも抵抗するシルク。
確かに反抗された方が面白いが、このまま膠着状態に陥るのは望ましくない。
「エドウィージュ」
「きひひっ」
「あっ……!?」
そこで、プリーモは護衛させているエドウィージュに命令した。
プリーモやシルクと違って、荒事にもなれている彼女は、抵抗するシルクから容易くドレスを奪い取ることに成功した。
彼女から受け取ったプリーモは、目を細めてそれを持つ。
「なんだ……白いドレスか?」
それは、貴族である彼からすれば、別に大したことはないただのドレスであった。
確かに、質も見た目もそこそこ良いものではあるのだが……社交界などで見栄を張る貴族たちのドレスを見慣れているプリーモからすれば、なんともみすぼらしいドレスであった。
「しかし、これは……くくっ、劣悪品だな! こんなみすぼらしいドレスなど、私の奴隷が着るにふさわしくないわ!!」
「あっ……!?」
プリーモは嘲笑い、ドレスを地面に投げ捨てた。
思わず悲鳴を上げてしまうシルク。
白いドレスが、土に汚れてしまう。
そんな彼女を見て嗜虐的に笑い、プリーモは足を振り上げ……ドレスを思い切り踏みつけるのであった。
「ふんっ、ふんっ! なに、安心しろ、シルク。私がもっと良いドレスをお前に買い与えてやるさ。こんな劣悪品などとは比べ物にならないほどの、素晴らしい高級品をな」
「――――――ッ!」
何度も、何度も踏みつけた。
美しかった白いドレスは、土やプリーモの靴でボロボロに汚れてしまっていた。
アリスターがプレゼントしてくれた、初めての衣装。
生涯にわたって宝物になるはずであったそれは、見るも無残な姿に変えられてしまった。
とてつもなく高いものではない。確かに、プリーモの財力を持ってすれば、これ以上のドレスなんて簡単に買うことができるかもしれない。
しかし、そうではないのである。
たとえ、王族が着るような最高級のドレスよりも、シルクにとっては価値のあるものだったのだ。
そんな大切なものを目の前で踏みにじられて、なおシルクは涙をこぼしそうになりながらも声を荒げることはなかった。
それは、彼女が奴隷だから。主に逆らうことは許されないから。
「(私は……!)」
アリスターからもらった大切なものを踏みにじられても、どうしても逆らう勇気が出なかった。
しかし、出ないのも当然である。ここで逆らえば、シルクは殺されることだって十分に考えられるのだから。
だが、それでも彼女は自分のことを憎く思ってしまうほど、どうしようもない思いを抱え込むのであった。
「さて、もう隠し持っているものは……うん? その手に持っているものはなんだ?」
「あ……っ!」
ドレスをボロボロにしていい気分に浸っていたプリーモであったが、シルクが手に何か白いものを持っていることに気づいてそれを指摘する。
慌てて背に隠すが、すでに見られているのだから手遅れだった。
「シルク、もう遅い。私にそれも見せろ」
そう言って、手を伸ばす。
主に逆らうことのできない奴隷は、大人しくその白いもの……手紙を引き渡す――――――。
「だ、ダメです。これだけは、絶対に……!」
「なっ……!?」
そのはずだったのだが、ここで初めてシルクは強く抵抗したのであった。
プリーモの手を打ち払い、大切そうに抱きかかえた。
何故なら、それは彼女が夢の第一歩として踏み出し、初めての観客からもらえたファンレターなのだ。
それを渡すということは、自分の夢をも引き渡してしまうことになる。
それだけは、絶対にしてはいけないことだった。
「いいから渡せ!!」
「嫌です……!」
激しい抵抗にあったプリーモは大声を出して怒鳴るが、シルクは決して屈しなかった。
大切そうに胸に抱きかかえ、しゃがみ込んで丸くなる。
そんな姿を見て、頭の血管が破裂してしまいそうになるほどの怒りを覚えるプリーモ。
「この……っ! 奴隷風情が……この私に逆らう気か!!」
「うっ! ぐっ……あぁっ!?」
それゆえに、プリーモは強くシルクの身体を蹴り飛ばすのであった。
悲鳴を上げるシルク。しかし、彼女は決して手紙を手放そうとはしなかった。
「いいから! さっさと! それを! 渡せ!!」
「うっ! っ……!! がはっ……!?」
何度も何度も踏みつけられる。
汚らしい靴底で踏みつけられ、服は汚れきっている。
でっぷりと太った身体で体重をかけながら踏みつけられたため、彼と違ってスリムな彼女の背骨はミシミシと悲鳴を上げる。
骨がきしみ、鈍い痛みが蓄積していく。
薄汚い暴力にあてられても、それでもシルクは身体を丸めて手紙を守り続けた。
「はぁっ、はぁっ……!! くっ……こいつ……!!」
髭面にたっぷりと脂汗をかき、ぎょろぎょろとした大きな目を血走らせるプリーモ。
確かに、抵抗された方が虐げ甲斐があるのだが、こうまでも完璧に拒絶されると腹立たしさを覚える。
自分の都合の悪いことは認めたくない、精神的な幼稚さがこの男にはあった。
しかし、その重たい身体のせいで、これ以上シルクを痛めつけることさえできない。
「エドウィージュ!! こいつを痛めつけろ!!」
そこで、プリーモお得意の他人任せである。
護衛であるエドウィージュに命令して、シルクを痛めつけようとするのであった。
「きひひひっ!!」
「あっ……!?」
まったく鍛えていないプリーモならまだしも、エドウィージュは貴族の護衛を任されるほど荒事になれた女。
そんな彼女の攻撃をも、シルクは防ぎきることはできなかった。
蛇のように素早い動きで彼女に接近したエドウィージュは、細い首を掴んで吊り上げてしまった。
「ぐっ……かはっ……!!」
エドウィージュの腕も非常に細い。
しかし、その見た目からは想像もできないほどの強靭な力でシルクの身体を持ち上げてしまった。
「あぁぁ……あんたの顔、気に入らないわぁ。そんなに可愛らしく整った顔、ぶっ壊したくなる。あの白いドレスだって、あんたなんかに似合うはずがないでしょ? ほーんとムカつく」
「あっ……げほっ……!」
ズイッと顔を寄せて、間近でギョロリとした目でシルクを見据える。
それは、非常に恐ろしい光景であったが、シルクは首を絞められる苦しさに恐怖を覚える暇さえ与えられなかった。
「殺すのはダメなのよね、依頼主さん」
「もちろんだ! こいつの両親には恨みがあるからな……死ぬよりも辛い目に娘を合わせてやる……!」
真っ赤な顔をさらに火照らせて汗を大量にかきながら怒るプリーモ。
そんな彼に確かめて、エドウィージュは残念そうにため息を吐いた。
その臭いに、シルクは顔を歪める。
「まっ、そういうことだから、私は殺したくてもあんたを殺せないのよね……。でも、痛めつけるのはいいんでしょう? たとえば……」
シルクの首を掴んでいない片手で、彼女の顔面をのびきった爪で引っ掻いていく。
「この顔をぐちゃぐちゃにしてやることとか、さぁ……!」
「――――――ッ!」
ビクリと身体を震えさせるシルク。
役者は顔が命である。大きな傷を負っていれば、なかなか劇団に入ることは難しいだろう。
いや、それ以前に顔に一生ものの傷を残されるということは、人間なら誰しも嫌がることである。
それを意図的にしようとしているのだから、エドウィージュの内面が露わになっているだろう。
「くはは……! ああ、いいぞ。殺さないのであれば、何をしたって構わん。悪く思うなよ、シルク。これも、お前の両親のせいなんだからな」
自分では何もできないが、エドウィージュの力を自分のものだと勘違いしているプリーモは、嗜虐的な笑みを浮かべてシルクをあざ笑う。
そもそも、彼女の両親が悪かったり原因であったりということはないのだが……彼の中では、都合よく事実が書き換えられているのだろう。
「きひひひひひっ!! あんたの顔も、ドレスも、ズタズタにしてやるよぉっ!!」
「うっ……ぐっ……!」
エドウィージュがシルクの眼前で歪に笑い、さらに首を絞める力を強める。
自分なんかが夢を持つのは、間違いだったのか?
意識が混濁する中、シルクはそんなことを考えていた。
夢は、誰もが持ってはいいものではなかったのか?
自分のような……自分みたいな奴隷風情が、大劇場の中で活躍する女優を夢見るのは、間違っていたのか?
強く否定したい。だが、否定することはできなかった。
シルクの薄紫の目に涙が溜まり、頬を流れる。
両親が謀殺された今、彼女の味方をしてくれる者は誰もいない。
彼女は、ここで誰にも知られず、ひっそりと夢への階段からはじき出される……はずであった。
「――――――いや、間違いなんかじゃないさ」
「ぎゃぁぁっ!?」
そんな優しい声と金切り声を聞いた。
その優しい声は、彼女もよく知っている声音で……。
その声が聞こえたと同時、首を絞めつけていた強い力から解放され、シルクは地面に崩れ落ちそうになる。
硬い地面に叩き付けられる瞬間、すっとその間に彼女を抱き留めた男がいた。
「げほっ、げほっ!……あ、りすたー……?」
酸素の供給を止められていたため、ぼーっとする頭を必死に動かして目を開ける。
ぼやける視界に映ったのは、うっすらと笑みを浮かべるアリスターであった。
まるで、ヒーローのような登場に、シルクは先ほどまでの絶望の涙とは違い、温かい涙を流すのであった。
「ああ。将来の大女優を、助けに来た」
そんな熱い視線を向けてくるシルクに、優しく微笑み返しながらアリスターは答えるのであった。
「(嫌だああああああああああ!! あんなキモイ女と性悪貴族に敵対したくないよおおおおおおおお!!)」
『ここまで来たんだから腹をくくりなよ!!』
内心は誰も知らない。




