表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

97/97

97. 沈黙は、優しすぎた

 

 帰還の道は、いつもより静かだった。


 馬の蹄の音も、荷車の軋みもある。護衛の兵が交わす声も、最低限の指示が混じる。風は冷たく、草は乾き、空は高い。変わらない。変わらないはずなのに、エルディオにはどこかが薄く感じられた。


 ――戦場が、終わったはずなのに。


 終わった、と言い切れる形が、まだ身体のどこかに残っている。刃を振り抜いたときの手首の重さ。鎧の中で汗が冷えていく感覚。魔力を流したはずの筋肉が、流し終えた感触だけを失っている。


 それでも、帰る。


 帰る場所がある。


 その事実が、今は救いだった。


 門が見えた。城壁の影が伸び、番兵の槍が光る。いつもの合図、いつもの確認、いつもの手続き。名前を呼ばれ、荷が通され、部隊が解散していく。雑踏が少しだけ増え、匂いが変わる。


 ああ、戻ってきた。


 身体が先にそう思った。


 そしてそのすぐあとに、思い出す。


 戻ってきた場所には、彼女がいる。


 ♢


 扉を開けた瞬間、温度が違った。


 火の匂いがする。燃えた薪の甘い焦げ。湯が沸く音。鍋のふたが小さく鳴る。食卓の上に布が敷かれ、器が並んでいる。清潔で、整っている。いつもの家だ。いつもの――はずだ。


「おかえり」


 声は軽かった。


 シャルロットが、台所から顔を出す。髪が整えられている。頬が少しだけ赤いのは火のせいだろう。目は、笑っていた。


 それが、ひどく安心だった。


 エルディオは靴を脱ぐ動作の途中で、ほんの一瞬だけ立ち止まった。立ち止まるほどの理由はない。けれど身体が、勝手に確認してしまう。


 大丈夫そうだ。


 彼女は、大丈夫そうに見える。


「ただいま」


 声が自分のものではないみたいに聞こえる。喉が硬い。戦場の呼吸のまま帰ってきてしまったのだと、遅れて気づく。


 シャルロットはそれに触れない。触れないまま近づいて、彼の外套を受け取った。


「寒かったでしょ。湯、すぐに入れるよ」


 その言い方が、いつもより柔らかい。


 柔らかい、というより――丁寧だ。


 丁寧すぎるほど丁寧で、何も引っかからない。何も引っかからないからこそ、エルディオは息を吐けた。


「助かる」


 言ってから、気づく。


 “助かる”。


 あの夜も、言った。自分は、彼女の言葉で助かっているのだと。


 胸の奥で何かがかすかに鳴ったが、シャルロットは微笑んだだけだった。


「うん。今日はちゃんと、温まって」


 命令ではない。叱責でもない。お願いに近い声だった。


 彼女が弱音を吐かないことが、なぜか嬉しい。


 以前のシャルロットは、もっと、言っていた。


 怖かった。疲れた。不安だった。眠れなかった。手が震える。胸が苦しい。大丈夫って言ってほしい。そばにいてほしい。


 そういう言葉を聞くたび、エルディオは自分の存在価値を確かめられる気がしていた。守る理由になる。戻る理由になる。剣を振る理由になる。


 でも今の彼女は、言わない。


 何も言わない代わりに、笑う。


「今日ね、あなたの好きなやつ。久しぶりに作った」


 ――好きなやつ。


 その言い方が、なんでもないことのようで、胸に刺さる。刺さるのに、痛くない。痛くないから、危ない。


「……覚えてたんだな」


「忘れるわけないでしょ」


 笑う。軽い声。軽い笑顔。軽い仕草。


 軽いのに、手つきがやけに念入りだった。


 外套を受け取る指が、鎧の留め具に触れないように避ける。肩口の泥を見つけると、布でそっと払う。乱れた髪を目の端で捉えたのか、彼女は一歩引いてから「後で結び直そうね」と言った。


 まるで、壊れ物に触るみたいに。


 エルディオはその印象をすぐに打ち消した。


 違う。壊れ物じゃない。自分はいつもこうやって帰ってきて、シャルがこうして迎えてくれる。前からそうだった。今日もそうだっただけだ。


 そう思うと、ようやく身体の奥が戻り始める。


 ――ああ、戻ったんだ。


 先日の戦のあと、ずっと残っていた薄い違和感が、ここで消える。


 消えたように見える。


 ♢


 湯が満ちる音を背に、エルディオは部屋へ向かった。鎧を外す。手袋を外す。剣を壁に立てかける。その動作が、思ったよりも遅い。遅いことに気づいて、やっと疲労を自覚した。


 剣を置いた瞬間、指が軽く痺れた。


 握り続けた形が、まだ残っている。剣を握っていないのに、握っている。


 エルディオは拳を開いたり閉じたりして、痺れをごまかした。


 ――大丈夫。


 大丈夫、と言うのは自分の役目だ。そう思ってきた。いつもそうしてきた。


 でも今日は、シャルロットの方が先に言う。


「大丈夫だよ」


 湯気の向こうから声がした。見えないのに、声だけが届く。


「無理しないでね」


 無理――という言葉に、少しだけ引っかかる。無理はしていない。計算した。できると判断した。だからやった。それだけだ。


 それなのに、彼女は無理という言葉を使う。


 しかし彼女の声には、責める温度がない。問い詰める温度もない。だからエルディオは、安心の方へ傾いてしまう。


「うん」


 返事をした。


 湯に沈むと、骨まで温まる。身体が重くなる。重いのに、力が抜ける。熱が筋肉を解かしていく。


 ――本当に、戻ってきた。


 そう思えることが、怖いくらい嬉しい。


 湯から上がると、シャルロットがタオルを差し出した。乾いた布の匂いがする。洗い立てだ。


「髪、ちゃんと乾かして。風邪ひくよ」


「わかってる」


「わかってるって言う人ほど、やらない」


 いつもの調子だ。


 いつもの調子なのに、彼女は笑いながら、彼の髪の水気を少しだけ拭いた。指先が髪を梳く。その動きが丁寧で、丁寧で――


 エルディオはその丁寧さを、愛情だと思った。


 思ってしまった。


 ♢


 食卓に座る。湯気が立つ。味噌の香り。焼いた肉。野菜の煮物。パンの代わりに硬めの主食。戦場では食べられない、家庭の味。


 シャルロットは座らない。立ったまま、味を確かめる。ひと口すくって、舌に乗せて、少しだけ考えて、塩をほんの一つまみ足す。もう一度確かめて、今度は頷く。


 その確認の回数が、多い。


 以前の彼女は、もっと気楽だった。味が薄い日もある。焦げる日もある。失敗して笑う日もある。そういう日が、あった。


 今日は違う。


 完璧に近づけようとしている。


 エルディオはそれを、気遣いだと思った。


 思ってしまった。


「……美味い」


 言うと、シャルロットは少しだけ目を細めた。


「よかった。今日は、ちゃんと美味しく作りたかったから」


 ちゃんと――という言葉が、ひどく穏やかに響いた。


 その穏やかさの裏側にあるものを、考えたくなかった。考えたら、また戦場の違和感が戻る気がした。


 だからエルディオは話題を変える。


「部隊は?」


「大丈夫。皆、無事に帰ってきてる。連絡も来た」


「そうか」


 無事、という言葉が軽く流れる。軽く流れることが、良いことだと思える。


 シャルロットは箸を揃えて置き、エルディオの皿に肉を一切れ足した。


「今日は、いっぱい食べて」


 その言い方が、少しだけ過剰だった。


 いっぱい食べて。いっぱい温まって。いっぱい眠って。いっぱい――


 まるで、先に決めた手順を確認するみたいに。


 でも彼女は笑っている。だからエルディオは、気にしない。


 気にしないふりが、いつから習慣になったのか、考えない。


 ♢


 食後、シャルロットは皿を洗った。水音が一定で、心地よい。一定すぎる。一定のリズムは安心を生む。安心は思考を鈍らせる。


 エルディオは椅子にもたれ、火の揺れを見る。炎は揺れるのに、部屋の空気は揺れない。揺れないのは、整っているからだ。


 シャルロットが笑う。


「ねえ、今日ね」


「ん?」


「帰ってくるの、早かったでしょ」


 早かった。そう言われて、エルディオは心の中で一瞬だけ計算をやり直す。撤退判断、前進、斬り込み、帰還。確かに早かった。早くした。早く終わらせた。終わらせれば被害が減る。減った。だから正しい。


 その連鎖が、火の揺れよりも自然に脳内を走る。


「……そうだな」


 シャルロットは、頷いた。


「偉い」


 その言葉は、少しだけおかしかった。


 偉い、という評価が、戦場に向く言葉に思えない。だが彼女の声は穏やかで、からかいでもない。真剣な評価の声だった。


 エルディオは苦笑した。


「子ども扱いするな」


「してないよ。ちゃんと帰ってきたから、偉いの」


 ちゃんと帰ってきた。


 その言葉に、エルディオは一瞬だけ黙った。


 帰ってきた。帰ってきたから、偉い。帰ってきたことを褒める。


 それは、戦場に行く人間が、帰ってこない可能性を前提にされている言い方だ。


 ――いや。


 気にしすぎだ。


 シャルはただ、心配していた。心配して、言葉が丁寧になっただけ。明るくなったのは、あのあと落ち着いたからだ。そう解釈すれば全部が繋がる。


 エルディオは安心したかった。


 安心は、ここにある。


 シャルロットが笑っている。


 だから大丈夫だ。


「……ありがとう」


 言うと、彼女は少しだけ目を伏せた。


「ううん。私も、嬉しい」


 その“嬉しい”の言い方が、少しだけ薄かった。


 薄いのに、形が綺麗だった。


 綺麗な言葉ほど、怖いときがある。


 でもエルディオは、その怖さを無視できた。


 無視できてしまった。


 ♢


 夜が深まる。火が小さくなる。外の音が減る。窓の向こうで風が鳴る。鳴る音が遠い。


 エルディオは寝具を整えながら、ふとシャルロットを見る。彼女は片付けを終えると、机の方へ向かった。いつもなら、先に寝室へ来る。疲れていると言う。今日は違う。


「まだ起きてるのか?」


「うん。ちょっとだけ」


 ちょっとだけ、という言い方が、嘘みたいに軽い。


 彼女は椅子に座り、紙を広げた。筆を取る。文字を書く。書いて、止まる。止まって、少しだけ紙を見つめる。


 エルディオはその背中を見て、妙に安心した。


 家のことだ。記録だろうか。報告書だろうか。あるいは、部下への連絡か。彼女は騎士団の長だ。やることはいくらでもある。


 そう思えることが、良い。


 彼女が仕事をしているという事実が、正常に見える。


「無理するなよ」


「うん。無理しない」


 無理しない。


 その返事の速さが、少しだけ早い。


 早すぎる返事は、準備していた言葉みたいだ。


 でも、彼女は微笑む。振り返らないまま、肩だけが柔らかく動く。笑っている、と分かる。


 エルディオはそれ以上言わず、寝具に入った。


 眠気がすぐに来る。戦場の疲れは正直だ。身体は、休みたがっている。


 目を閉じかけた瞬間、紙の擦れる音がした。


 シャルロットが、紙を破いた。


 破いた紙が、静かに折りたたまれる音。捨てる音。次の紙を出す音。


 書いては、破る。


 書いては、破る。


 エルディオは目を開けたまま、天井を見つめた。


 ――何を書いている?


 問いが浮かびかけて、すぐに引っ込む。


 聞かない方がいい。


 理由はない。理由がないのに、そう思った。


 聞かない方がいい、と思う自分に、驚く。


 エルディオはゆっくり息を吐いた。


 その息が、戦場の呼吸ではないことに、少しだけ安心した。


 ♢


 夜中に、目が覚めた。


 喉が乾いている。水を飲もうとして起き上がる。部屋は暗い。火は小さくなっている。静かだ。


 机の方を見る。


 シャルロットが、まだ座っていた。


 背中がまっすぐだ。肩が落ちていない。眠っているようには見えない。手が動いている。筆が走る。止まり、また走る。


 その集中の仕方が、戦場のときの“計算”に似ている。


 似ていることが、怖い。


 エルディオは音を立てないように水を飲んだ。喉の乾きが少しだけ治る。戻って布団へ戻ろうとする。


 そのとき、シャルロットが小さく息を吐いた。


 ため息ではない。泣き声でもない。息を吐いただけだ。


 でも、その吐息は――ひどく軽かった。


 軽すぎて、怖い。


 人間の吐息は、もっと重い。疲れや感情が混じる。軽い吐息は、何も混じっていないみたいで、生きていないみたいに感じる。


 エルディオは、声をかけようとして、やめた。


 理由はない。


 ただ、やめた。


 声をかければ、彼女は笑うだろう。大丈夫と言うだろう。平気と言うだろう。楽しかったと言うだろう。


 その言葉を聞けば、安心できる。


 安心できるから、怖い。


 エルディオは布団に戻った。戻って、目を閉じた。


 紙の擦れる音が、しばらく続いた。


 そしてまた、破く音がした。


 ♢


 朝。


 シャルロットは先に起きていた。起きているどころか、もう台所に立っていた。湯気。包丁の音。器の音。香り。


「おはよう」


 彼女の声は明るかった。


 明るすぎるほど明るい。


「……おはよう」


 エルディオは寝ぼけた声で返しながら、彼女の顔を見る。目の下に影がない。肌が整っている。髪も整っている。


 夜更かししていたはずなのに。


 それが不自然だと思う前に、シャルロットが笑う。


「昨日の夜、寒くなかった?」


「平気だ」


「よかった。今日も寒くなるから、上着は厚いやつにして」


 上着を選ぶことまで、彼女が言う。


 いつもより、生活の指示が細かい。


 それが優しさなのだと分かる。分かるから、受け取ってしまう。


「……わかった」


 返事をすると、彼女は満足そうに頷いた。


「うん。えらい」


 また、その言葉。


 えらい。


 帰ってきたから。言う通りにしたから。えらい。


 エルディオは笑った。笑えてしまう。笑うことができる朝が、救いだった。


 朝食は美味かった。美味いのに、味が均一で、揺れがない。昨日よりもさらに“整って”いた。


 シャルロットはエルディオの皿を見て、足りなそうならすぐに足す。水が減れば注ぐ。パンが硬ければ温め直す。


 彼女はよく笑った。


 よく笑うのに、笑い声が少しだけ短い。


 短くて、切れる。


 切れるたびに、そこに余白ができる。その余白を、彼女は次の言葉で埋める。


 大丈夫。平気。楽しい。


 その三つが、繰り返される。


 繰り返されるほど、呪文みたいになる。


 エルディオはそれでも安心した。


 安心したかった。


 ♢


 昼前、エルディオは装備の点検を始めた。剣の刃、鎧の継ぎ目、革紐、金具。傷が増えている。増えた傷が、戦場の証だ。証があることが、正しいと思える。


 シャルロットはその隣に座り、黙って手伝った。


 手伝い方が、念入りだった。


 革紐の結び目をほどいて結び直す。結び直した後に、もう一度引いて確かめる。金具を磨く。磨いた後に、布を替えてもう一度磨く。


 それは整備ではなく、儀式みたいだった。


「……そんなに磨かなくても、すぐ汚れるぞ」


 軽く言うと、シャルロットは笑った。


「うん。でも、今はきれいにしておきたい」


 今は。


 今は、という言葉が、胸に残る。


 エルディオはその残りを飲み込むように、刃を布で拭いた。


 シャルロットはふと、刃先ではなく柄の方を見た。指が、そこに触れそうになって、触れない。


 触れないまま、彼女は手を引っ込めた。


「……手、痛くない?」


「平気だ」


 平気だ、と言うのは自分の役目だ。


 でもシャルロットも、平気だと言う。


「よかった。私も平気」


 何の話だ?


 エルディオがそう思う前に、シャルロットは笑って立ち上がった。


「お茶、入れてくる」


 その声が軽い。軽いのに、背中が硬い。


 エルディオは刃を拭きながら、自分の指を見る。昨日まで残っていた痺れは薄い。戻ってきている。戻ってきているから大丈夫だ。


 大丈夫なのに、昨日の“戻れた”が、脳裏で何度も反響する。


 戻れた。


 戻れたのは、自分の力か。


 それとも――


 考えかけて、やめる。


 やめることが、上手くなっている。


 ♢


 夕方、シャルロットは小さな用事で外へ出た。戻ってきたとき、手に封筒を持っていた。


 白い封筒。まだ封がされていない。中身は見えない。


 エルディオの視線に気づくと、彼女は封筒を背中に隠すでもなく、ただ机の上に置いた。


「それ、何だ?」


 問うと、シャルロットは瞬きをした。


 一拍だけ、遅れて笑った。


「んー、ただのメモ」


「封筒に?」


「うん。大事なメモだから」


 大事なメモ。


 その言い方が、柔らかい。


 柔らかいから、追及できない。


 追及しないことが、優しさだと錯覚してしまう。


「……そうか」


 エルディオがそう返すと、シャルロットは嬉しそうに頷いた。


「うん。ありがとう」


 ありがとう?


 何に対して?


 エルディオが口を開く前に、シャルロットは台所に向かった。


「今日の夜はね、軽いものにしよう。あなた、疲れてるもん」


「もう平気だ」


「平気でも、軽いものにする」


 その言い方だけは、少しだけ強かった。


 強いのに、優しい。


 優しいのに、逃げ道がない。


 エルディオはその矛盾を、咀嚼できないまま飲み込んだ。


 ♢


 夜。


 シャルロットはまた机に向かった。


 紙。筆。封筒。封筒が、増えている。増えていくのに、彼女は一つも送らない。誰かに宛てていない。宛名がない。


 エルディオは寝具の上で、横目でそれを見た。


 見たところで、何も分からない。


 分からないことが、怖い。


 怖いのに、聞かない。


 聞かないことが、正しい気がする。


 シャルロットが、紙を一枚書き終えた。書き終えた後、封筒に入れようとして――止まる。


 止まったまま、紙を見つめる。


 そして、破る。


 破いた紙片が、音もなく落ちる。


 その所作が、あまりにも静かで、丁寧で、残酷だった。


 破る、という行為は乱暴なはずだ。だが彼女は乱暴に見えない。丁寧に破る。丁寧に捨てる。丁寧に次の紙を出す。


 まるで、壊すことを作業にしている。


 エルディオの背筋に、薄い冷えが走った。


 戦場の冷えとは違う。血の気が引く冷えでもない。もっと生活に近い冷え。湯が冷める前の冷え。火が小さくなる前の冷え。


 終わりが近づくときの冷え。


 エルディオは思わず口を開いた。


「シャル」


 呼ぶと、シャルロットはすぐに顔を上げた。


「なに?」


 即答。明るい。笑っている。


 その速さが、怖い。


 怖いのに、エルディオは言葉を選ぶ。


「……眠れないのか?」


「眠れるよ」


 返答が早すぎる。


「じゃあ、なんで」


「ちょっとだけ、整理してるだけ」


 整理。


 何を?


 問いが喉に引っかかる。引っかかったまま、出ない。


 シャルロットは椅子から立ち上がり、こちらに来た。布団の端に座る。近い。近いのに触れない。触れない距離で、彼女は笑う。


「大丈夫」


 その言葉が、今日だけで何度目か分からない。


「私、元気だよ。ね」


 ね、という語尾が、お願いみたいだった。


 エルディオは頷いた。


「……元気そうだ」


 言った瞬間、シャルロットの目が少しだけ細くなる。


 嬉しい顔。


 嬉しい顔なのに、奥が見えない。


 奥が見えないのに、エルディオは安心する。


 安心したくて、安心する。


「よかった」


 シャルロットはそう言って、エルディオの髪をひと撫でした。触れたのは一瞬。撫でたというより、確認に近い触れ方だった。


 触れられると、身体が少しだけ戻る。


 戻る、という感覚が、怖いほど気持ちいい。


 だから、エルディオは言ってしまう。


「……ああ。安心した」


 シャルロットは、笑った。


 笑ってから、ほんの一瞬だけ呼吸が止まった。


 止まったのに、すぐに戻る。


 何事もなかったみたいに。


「うん。よかった」


 そして彼女は、布団から立ち上がる。


「寝よ。明日もあるから」


 明日もある。


 当たり前の言葉。


 当たり前の言葉が、なぜか喉に残る。


 ♢


 その夜、エルディオは眠れた。


 眠れたことが、救いだった。


 目を閉じると、火の揺れが見えた。戦場の閃光ではない。家の火だ。湯気の匂いがする。料理の匂い。布の匂い。彼女の声。


 大丈夫。


 平気。


 楽しかった。


 その三つが、子守唄みたいに耳の奥に残る。


 安心していい。


 安心してしまえ。


 そう言われている気がした。


 そしてエルディオは、その誘いに従った。


 眠りの底へ沈む直前、紙の擦れる音が聞こえた気がした。


 それが夢なのか現実なのか、判断できないまま、意識が落ちる。


 ♢


 朝。


 シャルロットはいつも通りだった。


 いや、いつもより、丁寧だった。


 朝食。衣服。装備。会話。すべてが滑らかで、引っかかりがない。引っかかりがないことが、幸福に見える。


 だからエルディオは、確信してしまう。


 ――大丈夫だ。


 シャルは落ち着いた。


 あの戦の後、ちゃんと休めた。


 彼女は強い。


 彼女は戻った。


 エルディオはそう思い、思ったことで救われた。


 救われたまま、気づかない。


 彼女が弱音を吐かなくなったこと。


 それが、強くなったからではないこと。


 それが、優しすぎる沈黙であること。


 エルディオは、まだ知らない。


 この明るさが、準備であることを。


 この丁寧さが、別れの手順であることを。


 この笑顔が、盾として完成していく顔であることを。


 ♢


 シャルロットは、今日も言った。


「大丈夫」


 その声は軽くて、柔らかくて、優しい。


 優しすぎて、危なかった。


 彼女は弱音を吐かなくなった。


 それは、強くなったからではなかった。


 それでもエルディオは安心してしまう。


 安心してしまう自分が、どれほど致命的か、まだ分からないまま。

この回では、何も起きていません。

だからこそ、取り返しがつかなくなりました。


シャルロットは強くなったのではなく、

「言わない」ことを選んだだけです。


エルディオは安心します。

読者だけが、その違和感に気づきます。


沈黙は、優しすぎました。

次は、何もない朝です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ