97. 沈黙は、優しすぎた
帰還の道は、いつもより静かだった。
馬の蹄の音も、荷車の軋みもある。護衛の兵が交わす声も、最低限の指示が混じる。風は冷たく、草は乾き、空は高い。変わらない。変わらないはずなのに、エルディオにはどこかが薄く感じられた。
――戦場が、終わったはずなのに。
終わった、と言い切れる形が、まだ身体のどこかに残っている。刃を振り抜いたときの手首の重さ。鎧の中で汗が冷えていく感覚。魔力を流したはずの筋肉が、流し終えた感触だけを失っている。
それでも、帰る。
帰る場所がある。
その事実が、今は救いだった。
門が見えた。城壁の影が伸び、番兵の槍が光る。いつもの合図、いつもの確認、いつもの手続き。名前を呼ばれ、荷が通され、部隊が解散していく。雑踏が少しだけ増え、匂いが変わる。
ああ、戻ってきた。
身体が先にそう思った。
そしてそのすぐあとに、思い出す。
戻ってきた場所には、彼女がいる。
♢
扉を開けた瞬間、温度が違った。
火の匂いがする。燃えた薪の甘い焦げ。湯が沸く音。鍋のふたが小さく鳴る。食卓の上に布が敷かれ、器が並んでいる。清潔で、整っている。いつもの家だ。いつもの――はずだ。
「おかえり」
声は軽かった。
シャルロットが、台所から顔を出す。髪が整えられている。頬が少しだけ赤いのは火のせいだろう。目は、笑っていた。
それが、ひどく安心だった。
エルディオは靴を脱ぐ動作の途中で、ほんの一瞬だけ立ち止まった。立ち止まるほどの理由はない。けれど身体が、勝手に確認してしまう。
大丈夫そうだ。
彼女は、大丈夫そうに見える。
「ただいま」
声が自分のものではないみたいに聞こえる。喉が硬い。戦場の呼吸のまま帰ってきてしまったのだと、遅れて気づく。
シャルロットはそれに触れない。触れないまま近づいて、彼の外套を受け取った。
「寒かったでしょ。湯、すぐに入れるよ」
その言い方が、いつもより柔らかい。
柔らかい、というより――丁寧だ。
丁寧すぎるほど丁寧で、何も引っかからない。何も引っかからないからこそ、エルディオは息を吐けた。
「助かる」
言ってから、気づく。
“助かる”。
あの夜も、言った。自分は、彼女の言葉で助かっているのだと。
胸の奥で何かがかすかに鳴ったが、シャルロットは微笑んだだけだった。
「うん。今日はちゃんと、温まって」
命令ではない。叱責でもない。お願いに近い声だった。
彼女が弱音を吐かないことが、なぜか嬉しい。
以前のシャルロットは、もっと、言っていた。
怖かった。疲れた。不安だった。眠れなかった。手が震える。胸が苦しい。大丈夫って言ってほしい。そばにいてほしい。
そういう言葉を聞くたび、エルディオは自分の存在価値を確かめられる気がしていた。守る理由になる。戻る理由になる。剣を振る理由になる。
でも今の彼女は、言わない。
何も言わない代わりに、笑う。
「今日ね、あなたの好きなやつ。久しぶりに作った」
――好きなやつ。
その言い方が、なんでもないことのようで、胸に刺さる。刺さるのに、痛くない。痛くないから、危ない。
「……覚えてたんだな」
「忘れるわけないでしょ」
笑う。軽い声。軽い笑顔。軽い仕草。
軽いのに、手つきがやけに念入りだった。
外套を受け取る指が、鎧の留め具に触れないように避ける。肩口の泥を見つけると、布でそっと払う。乱れた髪を目の端で捉えたのか、彼女は一歩引いてから「後で結び直そうね」と言った。
まるで、壊れ物に触るみたいに。
エルディオはその印象をすぐに打ち消した。
違う。壊れ物じゃない。自分はいつもこうやって帰ってきて、シャルがこうして迎えてくれる。前からそうだった。今日もそうだっただけだ。
そう思うと、ようやく身体の奥が戻り始める。
――ああ、戻ったんだ。
先日の戦のあと、ずっと残っていた薄い違和感が、ここで消える。
消えたように見える。
♢
湯が満ちる音を背に、エルディオは部屋へ向かった。鎧を外す。手袋を外す。剣を壁に立てかける。その動作が、思ったよりも遅い。遅いことに気づいて、やっと疲労を自覚した。
剣を置いた瞬間、指が軽く痺れた。
握り続けた形が、まだ残っている。剣を握っていないのに、握っている。
エルディオは拳を開いたり閉じたりして、痺れをごまかした。
――大丈夫。
大丈夫、と言うのは自分の役目だ。そう思ってきた。いつもそうしてきた。
でも今日は、シャルロットの方が先に言う。
「大丈夫だよ」
湯気の向こうから声がした。見えないのに、声だけが届く。
「無理しないでね」
無理――という言葉に、少しだけ引っかかる。無理はしていない。計算した。できると判断した。だからやった。それだけだ。
それなのに、彼女は無理という言葉を使う。
しかし彼女の声には、責める温度がない。問い詰める温度もない。だからエルディオは、安心の方へ傾いてしまう。
「うん」
返事をした。
湯に沈むと、骨まで温まる。身体が重くなる。重いのに、力が抜ける。熱が筋肉を解かしていく。
――本当に、戻ってきた。
そう思えることが、怖いくらい嬉しい。
湯から上がると、シャルロットがタオルを差し出した。乾いた布の匂いがする。洗い立てだ。
「髪、ちゃんと乾かして。風邪ひくよ」
「わかってる」
「わかってるって言う人ほど、やらない」
いつもの調子だ。
いつもの調子なのに、彼女は笑いながら、彼の髪の水気を少しだけ拭いた。指先が髪を梳く。その動きが丁寧で、丁寧で――
エルディオはその丁寧さを、愛情だと思った。
思ってしまった。
♢
食卓に座る。湯気が立つ。味噌の香り。焼いた肉。野菜の煮物。パンの代わりに硬めの主食。戦場では食べられない、家庭の味。
シャルロットは座らない。立ったまま、味を確かめる。ひと口すくって、舌に乗せて、少しだけ考えて、塩をほんの一つまみ足す。もう一度確かめて、今度は頷く。
その確認の回数が、多い。
以前の彼女は、もっと気楽だった。味が薄い日もある。焦げる日もある。失敗して笑う日もある。そういう日が、あった。
今日は違う。
完璧に近づけようとしている。
エルディオはそれを、気遣いだと思った。
思ってしまった。
「……美味い」
言うと、シャルロットは少しだけ目を細めた。
「よかった。今日は、ちゃんと美味しく作りたかったから」
ちゃんと――という言葉が、ひどく穏やかに響いた。
その穏やかさの裏側にあるものを、考えたくなかった。考えたら、また戦場の違和感が戻る気がした。
だからエルディオは話題を変える。
「部隊は?」
「大丈夫。皆、無事に帰ってきてる。連絡も来た」
「そうか」
無事、という言葉が軽く流れる。軽く流れることが、良いことだと思える。
シャルロットは箸を揃えて置き、エルディオの皿に肉を一切れ足した。
「今日は、いっぱい食べて」
その言い方が、少しだけ過剰だった。
いっぱい食べて。いっぱい温まって。いっぱい眠って。いっぱい――
まるで、先に決めた手順を確認するみたいに。
でも彼女は笑っている。だからエルディオは、気にしない。
気にしないふりが、いつから習慣になったのか、考えない。
♢
食後、シャルロットは皿を洗った。水音が一定で、心地よい。一定すぎる。一定のリズムは安心を生む。安心は思考を鈍らせる。
エルディオは椅子にもたれ、火の揺れを見る。炎は揺れるのに、部屋の空気は揺れない。揺れないのは、整っているからだ。
シャルロットが笑う。
「ねえ、今日ね」
「ん?」
「帰ってくるの、早かったでしょ」
早かった。そう言われて、エルディオは心の中で一瞬だけ計算をやり直す。撤退判断、前進、斬り込み、帰還。確かに早かった。早くした。早く終わらせた。終わらせれば被害が減る。減った。だから正しい。
その連鎖が、火の揺れよりも自然に脳内を走る。
「……そうだな」
シャルロットは、頷いた。
「偉い」
その言葉は、少しだけおかしかった。
偉い、という評価が、戦場に向く言葉に思えない。だが彼女の声は穏やかで、からかいでもない。真剣な評価の声だった。
エルディオは苦笑した。
「子ども扱いするな」
「してないよ。ちゃんと帰ってきたから、偉いの」
ちゃんと帰ってきた。
その言葉に、エルディオは一瞬だけ黙った。
帰ってきた。帰ってきたから、偉い。帰ってきたことを褒める。
それは、戦場に行く人間が、帰ってこない可能性を前提にされている言い方だ。
――いや。
気にしすぎだ。
シャルはただ、心配していた。心配して、言葉が丁寧になっただけ。明るくなったのは、あのあと落ち着いたからだ。そう解釈すれば全部が繋がる。
エルディオは安心したかった。
安心は、ここにある。
シャルロットが笑っている。
だから大丈夫だ。
「……ありがとう」
言うと、彼女は少しだけ目を伏せた。
「ううん。私も、嬉しい」
その“嬉しい”の言い方が、少しだけ薄かった。
薄いのに、形が綺麗だった。
綺麗な言葉ほど、怖いときがある。
でもエルディオは、その怖さを無視できた。
無視できてしまった。
♢
夜が深まる。火が小さくなる。外の音が減る。窓の向こうで風が鳴る。鳴る音が遠い。
エルディオは寝具を整えながら、ふとシャルロットを見る。彼女は片付けを終えると、机の方へ向かった。いつもなら、先に寝室へ来る。疲れていると言う。今日は違う。
「まだ起きてるのか?」
「うん。ちょっとだけ」
ちょっとだけ、という言い方が、嘘みたいに軽い。
彼女は椅子に座り、紙を広げた。筆を取る。文字を書く。書いて、止まる。止まって、少しだけ紙を見つめる。
エルディオはその背中を見て、妙に安心した。
家のことだ。記録だろうか。報告書だろうか。あるいは、部下への連絡か。彼女は騎士団の長だ。やることはいくらでもある。
そう思えることが、良い。
彼女が仕事をしているという事実が、正常に見える。
「無理するなよ」
「うん。無理しない」
無理しない。
その返事の速さが、少しだけ早い。
早すぎる返事は、準備していた言葉みたいだ。
でも、彼女は微笑む。振り返らないまま、肩だけが柔らかく動く。笑っている、と分かる。
エルディオはそれ以上言わず、寝具に入った。
眠気がすぐに来る。戦場の疲れは正直だ。身体は、休みたがっている。
目を閉じかけた瞬間、紙の擦れる音がした。
シャルロットが、紙を破いた。
破いた紙が、静かに折りたたまれる音。捨てる音。次の紙を出す音。
書いては、破る。
書いては、破る。
エルディオは目を開けたまま、天井を見つめた。
――何を書いている?
問いが浮かびかけて、すぐに引っ込む。
聞かない方がいい。
理由はない。理由がないのに、そう思った。
聞かない方がいい、と思う自分に、驚く。
エルディオはゆっくり息を吐いた。
その息が、戦場の呼吸ではないことに、少しだけ安心した。
♢
夜中に、目が覚めた。
喉が乾いている。水を飲もうとして起き上がる。部屋は暗い。火は小さくなっている。静かだ。
机の方を見る。
シャルロットが、まだ座っていた。
背中がまっすぐだ。肩が落ちていない。眠っているようには見えない。手が動いている。筆が走る。止まり、また走る。
その集中の仕方が、戦場のときの“計算”に似ている。
似ていることが、怖い。
エルディオは音を立てないように水を飲んだ。喉の乾きが少しだけ治る。戻って布団へ戻ろうとする。
そのとき、シャルロットが小さく息を吐いた。
ため息ではない。泣き声でもない。息を吐いただけだ。
でも、その吐息は――ひどく軽かった。
軽すぎて、怖い。
人間の吐息は、もっと重い。疲れや感情が混じる。軽い吐息は、何も混じっていないみたいで、生きていないみたいに感じる。
エルディオは、声をかけようとして、やめた。
理由はない。
ただ、やめた。
声をかければ、彼女は笑うだろう。大丈夫と言うだろう。平気と言うだろう。楽しかったと言うだろう。
その言葉を聞けば、安心できる。
安心できるから、怖い。
エルディオは布団に戻った。戻って、目を閉じた。
紙の擦れる音が、しばらく続いた。
そしてまた、破く音がした。
♢
朝。
シャルロットは先に起きていた。起きているどころか、もう台所に立っていた。湯気。包丁の音。器の音。香り。
「おはよう」
彼女の声は明るかった。
明るすぎるほど明るい。
「……おはよう」
エルディオは寝ぼけた声で返しながら、彼女の顔を見る。目の下に影がない。肌が整っている。髪も整っている。
夜更かししていたはずなのに。
それが不自然だと思う前に、シャルロットが笑う。
「昨日の夜、寒くなかった?」
「平気だ」
「よかった。今日も寒くなるから、上着は厚いやつにして」
上着を選ぶことまで、彼女が言う。
いつもより、生活の指示が細かい。
それが優しさなのだと分かる。分かるから、受け取ってしまう。
「……わかった」
返事をすると、彼女は満足そうに頷いた。
「うん。えらい」
また、その言葉。
えらい。
帰ってきたから。言う通りにしたから。えらい。
エルディオは笑った。笑えてしまう。笑うことができる朝が、救いだった。
朝食は美味かった。美味いのに、味が均一で、揺れがない。昨日よりもさらに“整って”いた。
シャルロットはエルディオの皿を見て、足りなそうならすぐに足す。水が減れば注ぐ。パンが硬ければ温め直す。
彼女はよく笑った。
よく笑うのに、笑い声が少しだけ短い。
短くて、切れる。
切れるたびに、そこに余白ができる。その余白を、彼女は次の言葉で埋める。
大丈夫。平気。楽しい。
その三つが、繰り返される。
繰り返されるほど、呪文みたいになる。
エルディオはそれでも安心した。
安心したかった。
♢
昼前、エルディオは装備の点検を始めた。剣の刃、鎧の継ぎ目、革紐、金具。傷が増えている。増えた傷が、戦場の証だ。証があることが、正しいと思える。
シャルロットはその隣に座り、黙って手伝った。
手伝い方が、念入りだった。
革紐の結び目をほどいて結び直す。結び直した後に、もう一度引いて確かめる。金具を磨く。磨いた後に、布を替えてもう一度磨く。
それは整備ではなく、儀式みたいだった。
「……そんなに磨かなくても、すぐ汚れるぞ」
軽く言うと、シャルロットは笑った。
「うん。でも、今はきれいにしておきたい」
今は。
今は、という言葉が、胸に残る。
エルディオはその残りを飲み込むように、刃を布で拭いた。
シャルロットはふと、刃先ではなく柄の方を見た。指が、そこに触れそうになって、触れない。
触れないまま、彼女は手を引っ込めた。
「……手、痛くない?」
「平気だ」
平気だ、と言うのは自分の役目だ。
でもシャルロットも、平気だと言う。
「よかった。私も平気」
何の話だ?
エルディオがそう思う前に、シャルロットは笑って立ち上がった。
「お茶、入れてくる」
その声が軽い。軽いのに、背中が硬い。
エルディオは刃を拭きながら、自分の指を見る。昨日まで残っていた痺れは薄い。戻ってきている。戻ってきているから大丈夫だ。
大丈夫なのに、昨日の“戻れた”が、脳裏で何度も反響する。
戻れた。
戻れたのは、自分の力か。
それとも――
考えかけて、やめる。
やめることが、上手くなっている。
♢
夕方、シャルロットは小さな用事で外へ出た。戻ってきたとき、手に封筒を持っていた。
白い封筒。まだ封がされていない。中身は見えない。
エルディオの視線に気づくと、彼女は封筒を背中に隠すでもなく、ただ机の上に置いた。
「それ、何だ?」
問うと、シャルロットは瞬きをした。
一拍だけ、遅れて笑った。
「んー、ただのメモ」
「封筒に?」
「うん。大事なメモだから」
大事なメモ。
その言い方が、柔らかい。
柔らかいから、追及できない。
追及しないことが、優しさだと錯覚してしまう。
「……そうか」
エルディオがそう返すと、シャルロットは嬉しそうに頷いた。
「うん。ありがとう」
ありがとう?
何に対して?
エルディオが口を開く前に、シャルロットは台所に向かった。
「今日の夜はね、軽いものにしよう。あなた、疲れてるもん」
「もう平気だ」
「平気でも、軽いものにする」
その言い方だけは、少しだけ強かった。
強いのに、優しい。
優しいのに、逃げ道がない。
エルディオはその矛盾を、咀嚼できないまま飲み込んだ。
♢
夜。
シャルロットはまた机に向かった。
紙。筆。封筒。封筒が、増えている。増えていくのに、彼女は一つも送らない。誰かに宛てていない。宛名がない。
エルディオは寝具の上で、横目でそれを見た。
見たところで、何も分からない。
分からないことが、怖い。
怖いのに、聞かない。
聞かないことが、正しい気がする。
シャルロットが、紙を一枚書き終えた。書き終えた後、封筒に入れようとして――止まる。
止まったまま、紙を見つめる。
そして、破る。
破いた紙片が、音もなく落ちる。
その所作が、あまりにも静かで、丁寧で、残酷だった。
破る、という行為は乱暴なはずだ。だが彼女は乱暴に見えない。丁寧に破る。丁寧に捨てる。丁寧に次の紙を出す。
まるで、壊すことを作業にしている。
エルディオの背筋に、薄い冷えが走った。
戦場の冷えとは違う。血の気が引く冷えでもない。もっと生活に近い冷え。湯が冷める前の冷え。火が小さくなる前の冷え。
終わりが近づくときの冷え。
エルディオは思わず口を開いた。
「シャル」
呼ぶと、シャルロットはすぐに顔を上げた。
「なに?」
即答。明るい。笑っている。
その速さが、怖い。
怖いのに、エルディオは言葉を選ぶ。
「……眠れないのか?」
「眠れるよ」
返答が早すぎる。
「じゃあ、なんで」
「ちょっとだけ、整理してるだけ」
整理。
何を?
問いが喉に引っかかる。引っかかったまま、出ない。
シャルロットは椅子から立ち上がり、こちらに来た。布団の端に座る。近い。近いのに触れない。触れない距離で、彼女は笑う。
「大丈夫」
その言葉が、今日だけで何度目か分からない。
「私、元気だよ。ね」
ね、という語尾が、お願いみたいだった。
エルディオは頷いた。
「……元気そうだ」
言った瞬間、シャルロットの目が少しだけ細くなる。
嬉しい顔。
嬉しい顔なのに、奥が見えない。
奥が見えないのに、エルディオは安心する。
安心したくて、安心する。
「よかった」
シャルロットはそう言って、エルディオの髪をひと撫でした。触れたのは一瞬。撫でたというより、確認に近い触れ方だった。
触れられると、身体が少しだけ戻る。
戻る、という感覚が、怖いほど気持ちいい。
だから、エルディオは言ってしまう。
「……ああ。安心した」
シャルロットは、笑った。
笑ってから、ほんの一瞬だけ呼吸が止まった。
止まったのに、すぐに戻る。
何事もなかったみたいに。
「うん。よかった」
そして彼女は、布団から立ち上がる。
「寝よ。明日もあるから」
明日もある。
当たり前の言葉。
当たり前の言葉が、なぜか喉に残る。
♢
その夜、エルディオは眠れた。
眠れたことが、救いだった。
目を閉じると、火の揺れが見えた。戦場の閃光ではない。家の火だ。湯気の匂いがする。料理の匂い。布の匂い。彼女の声。
大丈夫。
平気。
楽しかった。
その三つが、子守唄みたいに耳の奥に残る。
安心していい。
安心してしまえ。
そう言われている気がした。
そしてエルディオは、その誘いに従った。
眠りの底へ沈む直前、紙の擦れる音が聞こえた気がした。
それが夢なのか現実なのか、判断できないまま、意識が落ちる。
♢
朝。
シャルロットはいつも通りだった。
いや、いつもより、丁寧だった。
朝食。衣服。装備。会話。すべてが滑らかで、引っかかりがない。引っかかりがないことが、幸福に見える。
だからエルディオは、確信してしまう。
――大丈夫だ。
シャルは落ち着いた。
あの戦の後、ちゃんと休めた。
彼女は強い。
彼女は戻った。
エルディオはそう思い、思ったことで救われた。
救われたまま、気づかない。
彼女が弱音を吐かなくなったこと。
それが、強くなったからではないこと。
それが、優しすぎる沈黙であること。
エルディオは、まだ知らない。
この明るさが、準備であることを。
この丁寧さが、別れの手順であることを。
この笑顔が、盾として完成していく顔であることを。
♢
シャルロットは、今日も言った。
「大丈夫」
その声は軽くて、柔らかくて、優しい。
優しすぎて、危なかった。
彼女は弱音を吐かなくなった。
それは、強くなったからではなかった。
それでもエルディオは安心してしまう。
安心してしまう自分が、どれほど致命的か、まだ分からないまま。
この回では、何も起きていません。
だからこそ、取り返しがつかなくなりました。
シャルロットは強くなったのではなく、
「言わない」ことを選んだだけです。
エルディオは安心します。
読者だけが、その違和感に気づきます。
沈黙は、優しすぎました。
次は、何もない朝です。




