96.それでも剣は、下ろされなかった
戦場は、最初から歪んでいた。
魔獣の荒い気配に混じって、魔族特有の魔力反応がある。
それ自体は珍しくない。近年では、魔獣を“使う”魔族も増えた。
だが――配置がおかしかった。
魔獣が前に出すぎている。
魔族は後方にいない。
指揮を取る位置に、“誰もいない”。
それなのに、動きだけが揃っている。
その「揃い方」が、嫌だった。
揃っているのは、統率があるからではない。
怒鳴る声がない。合図がない。旗もない。
なのに、噛み合う。噛み合いすぎる。
魔獣は本来こうはならない。
欲望のままに突っ込み、穴を作り、散っていく。
魔族は本来こうはしない。
誇示する。嘲る。勝ちを演じる。余裕を見せる。
だがこの混成は――勝ちを演じない。
勝つための動きだけをしていた。
まるで命令ではなく「手順」そのものが身体に刻まれているみたいに。
誰かが上にいる気配はない。
それなのに、全員が“同じ目的”で動いている。
目的。
それが何かは分からない。
ただ、こちらの心拍に合わせて、刃が入ってくる感触だけがある。
戦闘が始まる直前、シャルロットは喉の奥に冷たいものを感じた。
息の仕方を間違えたような、薄い異物感。
それは恐怖と呼ぶには淡く、予感と呼ぶには生々しかった。
彼女は一度だけ、隣を見た。
エルディオの横顔は、強張っていない。
怯えてもいない。
ただ――いつもより、静かだった。
静かすぎる。
嫌な予感が遅れて胸に落ちてくる。
落ちてきたそれは、胸の底で音を立てずに沈んだ。
♢
次の瞬間、世界の色が変わった。
魔獣が突進する。
だが、ただの直線ではない。角度を変え、逃げ道を削り、退路の“形”を決める。
前衛を押し潰すためではない。
後衛の足を止めるためだ。
魔族の詠唱が重なる。
高位の破壊魔法ではない。
音も熱も派手さもない、地味で均一な術式。
傷を作るというより、「削る」ための魔法。
シャルロットは、そこで一つの違和感に気づいた。
魔族の詠唱が、攻撃を“当てよう”としていない。
威力を誇示しない。
殺し切ろうともしない。
ただ、タイミングだけが正確だった。
魔獣が踏み込む瞬間。
エルディオが剣を振る直前。
鎧の内側に魔力を流し込む、その一拍前。
必ず、魔族の魔法が滑り込んでくる。
傷は浅い。
致命打ではない。
だが、そのたびに――空気が抜ける。
エルディオの周囲に張られていたはずの“魔力の膜”が、
一瞬だけ、確実に薄くなる。
それは破壊ではない。
干渉だ。
押し潰すのではなく、
削り取るのでもなく、
通り道を奪う。
魔力はある。
だが、流れない。
シャルロットは、息を呑んだ。
魔獣の動きも、それに噛み合っている。
追わない。
逃げない。
前にも出ない。
ただ、位置を変える。
エルディオが一歩踏み込めば、
魔獣は半歩だけ退く。
退きながら、別の魔獣が横に滑る。
包囲ではない。
挟撃でもない。
――“立ち位置の誘導”。
前に出させる。
前に出た人間に、仕事をさせる。
そして、その間に――削る。
シャルロットの背筋を、冷たいものが走った。
これは戦闘じゃない。
殲滅でもない。
消耗を前提に組まれた、作業だ。
魔力が多い者ほど、削れる。
前に出る者ほど、削れる。
――エルに、向いている。
その事実が、まだ言葉になる前に、
撤退判断が下された。
空気が薄くなる。
薄くなるのに、重くなる。
息は吸えるのに、肺の奥に“入ってこない”感じがする。
シャルロットは矢継ぎ早に指示を飛ばした。
隊列を崩さない。負傷者を出さない。
そのためのいつもの判断。
いつもの声。いつもの距離。いつもの冷静。
部下は応える。
連携も崩れていない。
誰も怯えてはいない――はずだ。
それでも戦場の空気だけが噛み合わない。
こちらが動くより先に、敵が「次の形」を用意してくる。
判断を先読みしているように、対応が“早い”のではなく“早すぎる”。
エルディオが前に出る。
当たり前のように。自然のように。
剣が走り、魔獣の喉を断つ。
血が散る。土が湿る。
それなのに、匂いが薄い。温度が薄い。
生き物が死んだときの“手応え”が、どこか足りない。
倒れた個体の影を踏み越え、次が来る。
間がない。
息継ぎの瞬間を、最初から与えない。
エルディオは一体を落とすたびに、ほんの僅かだけ魔力を流しているはずだった。
鎧の内側に薄い膜を張る。筋肉の反射を補強する。
魔力おばけの彼にとって、それは呼吸と同じ程度の負担で済む――はずだった。
だが、シャルロットには分かる。
魔力の流れが、戻ってこない。
“消費している”のではない。
“循環していない”。
押し出した魔力が、どこにも帰ってこない。
回復のために空気を吸い込むように魔力を引こうとしても、引けない。
器の底が、薄く削られていくような感覚。
――これは、魔獣の牙じゃない。
理解が追いつくより先に、肌が理解していた。
彼女の皮膚の下で、危険の色だけが濃くなる。
♢
撤退判断が落ちたのは、偶然ではなかった。
「全体、後退! これ以上は損耗が大きい!」
その声は冷静だった。
冷静だからこそ、そこに込められた“数字”が重い。
これ以上は死者が出る。
このまま続ければ、帰れない。
シャルロットは反射でエルディオを見る。
彼は、その一言で揺れない。
揺れないまま、目だけが動く。
敵の位置、味方の距離、地形の逃げ道。
そして――自分の残量。
――まだ、間に合う。
そういう目だった。
間に合うという判断は、冷静に見えた。
そこが、残酷だった。
“間に合う”と判断できる人間ほど、撤退を遅らせる。
そして遅らせたぶんだけ、誰かが死ぬ。
エルディオは前に出た。
撤退を無視するためではない。
撤退を“成立させる”ために、前に出た。
その瞬間、シャルロットの胸が――小さく鳴った。
壊れる音ではない。
歯車が噛み合いすぎて、軋む音。
エルが前に出る。
味方が助かる。
だから止められない。
止められないまま、続く。
続くたびに、少しずつ何かが削れていく。
それが“正しい”まま進むことが、何より恐ろしかった。
撤退命令が落ちた瞬間、戦場の音が一段“揃った”。
声が揃ったのではない。足音が揃ったのでもない。
人間の迷いが、同じ方向へ折れただけだ。
前衛が半歩下がる。後衛が一歩引く。
それは訓練通りの動きで、正しく、だからこそ遅い。
遅いのは恐怖のせいじゃない。
撤退という動作は、戦う動作よりも確認が多い。
負傷者を拾う。隊列を崩さない。背中を見せない。
“誰も死なせない”撤退ほど、手順が増える。
その手順の一つ一つを、敵が待っている気がした。
魔族の詠唱は派手さを増さない。
魔獣の咆哮も、勝ち誇らない。
ただ、こちらが下がる分だけ、敵は“詰める位置”を変える。
追撃のためではない。
逃げ道を狭めるためでもない。
“下がる最中に削れる距離”を、最適化している。
シャルロットの喉の奥が、もう一度ひやりとした。
今度は予感ではなく、確信に近い異物感だった。
撤退という正しい行為が、敵にとって“工程”になっている。
彼女は声を張った。張らなければ、誰かの足が遅れる。
遅れれば、そこだけが削られる。削られれば、そこで途切れる。
「右列、負傷者優先! 左は間を空けるな、間を――」
言いかけて、言葉が途切れた。
目が、勝手にエルディオを探したからだ。
彼は下がっていない。
下がれないのではなく、下がらない。
撤退命令を理解したまま、理解した目をしたまま、前を見ている。
あの目は何度も見た。
短い時間で地形と人数と残量を並べて、最小の損耗を選ぶ目。
――まだ、間に合う。
“間に合う”という言葉は、ここでは呪いに近い。
間に合うなら、行ける。
行けるなら、行くべきだ。
行けば助かる。助かるから、誰も止めない。
理屈が、正しさの顔で喉元を掴む。
シャルロットは一瞬だけ、撤退命令を出した指揮官の方を見た。
視線を交わす暇もない。
誰もが、自分の手順を実行することで精一杯だ。
その“隙”の中で、エルディオだけが自由だった。
自由というより――
“最前線に立ち続けることだけが許された人間”みたいに。
エルディオが一歩、前へ踏み出す。
その足取りは軽い。軽いのに、地面が沈む気配がした。
彼の周囲だけ、空気の密度が変わる。
魔力を張る。筋肉を補強する。視界を研ぐ。
呼吸の一拍でやってきたことを、彼は呼吸の一拍でやる。
――本来なら。
今は、その“本来”が戻ってこない。
シャルロットには分かる。
魔力が燃えているのに、燃えた跡が残らない。
使ったはずの力が、彼の身体の内側に積み上がらない。
減っている。
でも、減ったという実感すら薄い。
まるで、力を出した瞬間だけ、底が抜けていくみたいに。
彼女は叫びそうになった。
やめて、と。戻って、と。撤退して、と。
だけどその言葉は、誰を守る言葉なのか分からなかった。
撤退すれば、この場は守れる。
続行すれば、もっと多くが守れるかもしれない。
守れるかもしれない――その言葉が、いちばん危険だ。
だから彼女は、叫ばなかった。
叫ばない代わりに、喉の奥で息を殺す。
エルディオの背中が、戦場の中心へ溶け込んでいく。
溶け込むほどに、“彼がいれば戦線が持つ”という事実だけが強くなる。
その事実が、撤退命令を弱くする。
命令は強い。
でも、強い命令ほど“成功した結果”に黙らされる。
シャルロットは、その黙らされ方を知っていた。
そして今、まさにそれが起きようとしている。
彼が前へ出た。
だから、撤退は成立する。
成立するために、彼は削られる。
その構造が、骨に触れるほど冷たかった。
♢
剣が閃く。
魔獣の首が落ちる。
魔族の詠唱が止まる。
止まったのは一瞬だけだ。
次の魔族が詠唱を引き継ぐ。
まるで役割が最初から決まっていたみたいに。
引き継ぎの速さが、息継ぎと同じ速度で行われる。
個体の意思が薄い。
恐怖も昂揚もない。
「命令されたから」ではなく、「そうするから」そうしている。
それが、命そのものを軽くする。
エルディオの呼吸が、わずかに荒くなる。
魔力が足りない。
いや、足りないという感覚すら、薄い。
あるはずのものが、そこにない。
失われたのは“魔力”ではない。
魔力が戻ってくるための余地。
生まれ直すための深さ。
器の底が削られていく、あの嫌な感覚。
それでも身体は動く。
動くから勝つ。
勝つから誰も止めない。
止めないから、また削れる。
正しさが、刃物みたいに連鎖していく。
♢
最後の一体を斬り伏せたとき、戦場は静まり返った。
敵意は消えた。
魔力反応も収束していく。
勝利だ。
間違いなく、勝利だった。
なのに――
なのに、戦場は“終わった音”を出さなかった。
敵意は消えている。
魔力反応も収束していく。
それでも、耳の奥だけがずっと鳴っている。
戦闘の最中に聞こえていた音――刃が肉を裂く音、骨が砕ける音、土が抉れる音。
それらが止んだあとに残るべき静けさが、来ない。
代わりに残っているのは、作業の音だ。
誰かが息を整える。
誰かが負傷者の名を呼ぶ。
誰かが鎧の留め具を外す。
その全部が、戦闘の“続き”みたいに聞こえる。
シャルロットはエルディオの隣にいて、気づいてしまう。
彼の視線が、まだ敵を数えている。
敵はもういない。
なのに彼の目だけが、戦場の奥で「次」を探す。
それは警戒ではない。
警戒なら、終われば戻る。
戻らないのは、もっと根の深い反射だ。
――終われない。
終われない、という状態がある。
それは傷より厄介で、疲労より残酷だ。
剣を振ったから終われないのではない。
剣を振り続けたことで、“終わり方”を身体が忘れる。
シャルロットは、彼の手の甲に視線を落とした。
手袋の革が、わずかに歪んでいる。
握りしめる力が、まだ抜けていない。
剣の柄が、彼の指を支えているのではない。
彼の指が、剣を支えることをやめられない。
剣を離した瞬間に、何かが崩れる。
崩れるのが身体なのか、精神なのか、あるいは――
彼自身なのか。
彼はそれを判断する余地すら削られている。
シャルロットは一瞬だけ、治癒魔法の回路を開いた。
傷は浅い。治せる。
血も止められる。痛みも和らげられる。
――でも。
彼の内側に触れる感覚が、薄い。
治癒の魔力が届くはずの場所に、壁がある。
壁ではない。穴だ。
届く前に、吸われていく“空白”。
治癒が失敗しているわけじゃない。
成功しているのに、戻ってこない。
それが最悪だった。
傷は癒える。
だから「大丈夫」に見える。
見えるから、誰も止めない。
そして、止めないまま“次”が来る。
その次で、戻れないものが戻れなくなる。
シャルロットが呼吸を整えようとした瞬間、
エルディオの肩が、ほんの僅かに跳ねた。
敵はいない。
攻撃もない。
それでも身体が“次”に反応している。
まるで、音のない合図がまだ続いているみたいに。
そして――
エルディオは、剣を下ろさなかった。
下ろせなかった。
腕が硬直している。
指が、剣を離すことを拒んでいる。
勝って終わる戦場の後には、普通、安堵が来る。
力が抜け、膝が笑い、ようやく呼吸が戻る。
だが彼の呼吸は、まだ“戦っている”音だった。
喉の奥が乾ききっている。
視線だけが前に固定され、周囲が見えていない。
シャルロットは駆け寄った。
鎧の上から、彼の腕に触れる。
「……終わったよ、エル」
声が震えないように、細心の注意を払った。
震えたら、彼の中の何かが戻れなくなる気がした。
その声で、ようやく剣が揺れた。
刃先が地面を向く。
エルディオの身体が、微かに前のめりになる。
シャルロットが、支える。
抱き寄せるほど近くはない。
でも、離れれば倒れる距離。
彼は息を整えながら、ぽつりと呟いた。
「……戻れた」
その言葉が、シャルロットの胸を締めつけた。
胸を締めつけたのは、言葉そのものではない。
その言葉が「自然に出た」ことだった。
戻れた。
戦いの後に出るべき言葉じゃない。
勝てた。終わった。帰る。
そういう言葉なら分かる。
でも彼は「戻れた」と言った。
戦場から戻れたのではない。
戦う状態から戻れた、と言っている。
つまり、彼は自分で戻れなかった。
シャルロットが触れたから。
声をかけたから。
彼は戻れた。
その事実が、肌に貼り付くように重かった。
誰も気づかない。
気づく必要がない。
勝ったから。
生きているから。
それで十分だと処理される。
だからこそ、誰にも奪えない場所でだけ、恐怖が育つ。
♢
処置が始まり、戦場に余白が生まれる。
命令が飛び、応答が返り、仕事が進む。
負傷者は運ばれ、装備が点検され、周囲の安全が確認される。
正常な戦場の後処理。
それを見ていると、さっきまでの異常が嘘のように見える。
嘘ではないのに。
シャルロットは、エルディオの手に視線を落とした。
剣は下がった。
でも指はまだ固い。
柄を握りしめた形のまま、解けない。
戦いが終わっても、終われない。
それは疲労のせいではない。
疲労なら眠れば戻る。治癒で補える。
でもこれは、筋肉の奥の「決め打ち」だ。
生き残るために刻んだ反射が、解除されない。
彼は強い。
強いからこそ、解除できない。
強い人間ほど、最後まで振る。
最後まで振って、最後に壊れる。
その考えが脳裏に浮かび――シャルロットはすぐに消した。
消したつもりで、残った。
残ったまま、沈黙の底で膨らんだ。
そのとき、衛生兵が短く叫んだ。
軽傷のはずだった兵の傷が、急に開いた。
「血が――」
布が赤く染まる。
治癒が遅れる。
遅れた一瞬で、兵の顔色が落ちる。
不思議なことに、傷そのものは深くない。
深くないのに、血だけが“抜けていく”。
シャルロットは治癒を重ねた。
魔力を流す。縫い合わせる。塞ぐ。止める。
止まる。
止まるのに――何かが戻ってこない。
兵の目がぼんやりする。
生きているはずの目が、遠い。
それは、さっきエルディオの目にあった遠さと同じだった。
この戦場は、殺すためじゃない。
壊すためでもない。
“抜いていく”ためだ。
抜かれたものは、目に見えない。
だから、人は自分が何を失ったのか言えない。
言えないまま、次の戦場へ行く。
視線を感じたのは、そのときだった。
敵意ではない。
監視でもない。
もっと淡いのに、もっと逃げ場がない。
――最初から、見られていた。
そう思ったのは、背後の気配が「増えた」感じがしなかったからだ。
突然現れたなら、空気が揺れる。魔力がざわつく。
でもそうじゃない。
ただ、こちらが“気づいた”だけ。
瓦礫の向こう。
戦場の外れ。
影が濃い場所。
そこに、女が立っていた。
銀灰色の髪は、光を拾わない。
いや、拾っているのに反射しない。
色があるのに温度がない。
存在しているのに存在感だけが薄い。
黒と紫の衣装は、戦場の汚れを拒むみたいに整っていた。
裾が地面に触れているのに泥が付いていない。
近づけば匂いがするはずなのに匂いがない。
血の匂いが強いはずの場所で、その“無臭”だけが際立つ。
まるで、彼女の周囲だけが別の空気でできている。
戦場の湿り気も、熱も、死の匂いも、近づけない。
異常なのに、異常と断定できない。
断定する前に、喉が固まる。
女はエルディオを見ない。
この場で最も危険な“剣”を見ない。
シャルロットを見る。
まるで――最初から目的が、こちらだったみたいに。
♢
「……あなたは、盾ね」
声は静かだった。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、もう決まっている分類を読み上げるように。
シャルロットは答えを探した。
敵か。味方か。何者か。
問いを言葉にする前に、女が続けた。
「盾がある剣は、折れるまで振られる」
それだけ。
説明はない。
脅しもない。
警告という温度すらない。
ただ、既に起きていることを、置いていくみたいに言った。
その言葉を聞いた瞬間、
シャルロットの身体が、ほんの僅かに遅れた。
理解ではない。
感情でもない。
もっと原始的な反応。
胃の奥が、静かに沈む。
重たいものが落ちたように、
臓器の位置が、わずかにずれる。
喉が渇いた。
唾を飲み込もうとして、飲み込めない。
指先が、冷える。
血の気が引く感覚が、手袋越しにも分かる。
さっきまで剣を握っていたエルディオの指と、
同じ冷え方だった。
――ああ、と。
言葉になる前に、身体が理解した。
彼は、戻るために振っている。
戻れると分かっているから、限界を越える。
そして――
戻れる場所がある限り、
誰も、止めない。
シャルロットは、無意識にエルディオの袖を掴みかけた。
ほんの数センチ、指が動いて――止まる。
触れれば、彼は戻る。
触れなければ、彼は振り続ける。
どちらも、彼を削る。
その二択しか残っていないことを、
彼女の身体は、もう理解していた。
だから、手を伸ばさない。
伸ばさない代わりに、笑う準備をする。
“盾”として、
完璧な顔を作るために。
沈黙。
沈黙が長いほど、シャルロットの中で言葉が勝手に増殖した。
増殖して、繋がって、一本の線になる。
撤退判断。
間に合うという目。
前に出る背中。
勝った後に下ろせない剣。
触れないと戻れない呼吸。
盾があるから、剣は振れる。
振れるから、振り続ける。
振り続けるから、折れる。
折れるまで。
――私が、いるから。
その結論は震えを伴わなかった。
泣きも、怒りも、拒絶もない。
ただ、静かに“腑に落ちた”。
腑に落ちた瞬間、世界が薄くなる。
色彩が少し褪せ、音が少し遠のく。
周囲の人間の動きだけが、演技のように見える。
生きているのに、遠い。
笑っているのに、遠い。
女は、もう何も言わない。
ただそこにいる。
シャルロットが瞬きをしたとき――
次の瞬間には、いなかった。
消えた、という感覚すら残らない。
最初からいなかった、と言われたら否定できない。
それなのに言葉だけが残る。
盾がある剣は、折れるまで振られる。
♢
エルディオが顔を上げる。
「……今の、誰だ?」
その問いは、現実に戻ろうとする人間の声だった。
戻りたがっているのに、戻り方が分からない声。
シャルロットは微笑む。
「気にしなくていい」
完璧な笑顔。
声も、形も、いつも通り。
いつも通りに見せられるほど、彼女は強い。
だからこそ――彼女の中で“確信”が定着する。
この日、誰も死ななかった。
誰も致命傷を負わなかった。
それでも、確実に一つ、取り返しのつかないものが生まれた。
それは傷ではなく、理解だった。
♢
撤退判断を越えたことについて、誰も責めなかった。
戦果は十分だった。
死者はいない。
結果だけを見れば、判断は“成功”だった。
だから誰も、そこに触れない。
触れないことが、正解として処理される。
エルディオも、口にしなかった。
撤退命令を聞いていたこと。
それでも前に出たこと。
計算した上で、続行したこと。
言わなければ、問題にならない。
問題にならなければ、間違いにならない。
シャルロットは、それを分かっていた。
だから彼女は、責めない代わりに、近づいた。
近づいたのは、衝動じゃない。
衝動なら、触れていた。
肩に。腕に。あるいは、背中に。
触れれば、彼は戻る。
戻ってしまう。
シャルロットは、その「戻る」という言葉の中身を、もう直感で分かっていた。
戻るとは、戦場を終わらせることじゃない。
痛みを消すことでも、疲労を癒すことでもない。
――“次も、振れる状態”に戻すことだ。
彼女は自分の手を見た。
手袋越しでも分かる。指先が、まだ微かに震えている。
さっきまで剣を支えていた彼の腕。
その重さを受け止めた自分の体重。
倒れそうな身体を、ほんの一瞬だけ預けられた感触。
あれは支えだった。
確かに、支えだった。
でも同時に――
「戻れる場所」を、はっきりと示す行為でもあった。
彼女の手がある。
声がある。
呼び戻してくれる存在がある。
だから彼は、限界まで振れる。
シャルロットは、ゆっくりと手を下ろした。
何も持たない手。
何も触れていないのに、まだ重たい。
夜営の準備が始まる。
火が起こされ、鍋が置かれ、水筒が回る。
誰かが笑い、誰かが冗談を言う。
それら全部が、“帰ってきた光景”だった。
帰ってきた。
帰ってきてしまった。
戦場の異常は、ここでは語られない。
語られない異常ほど、確実に次へ持ち越される。
シャルロットは、エルディオの横に立った。
近い。近いが、触れない。
触れない距離でいることが、
こんなにも意識を使う行為だとは知らなかった。
彼の呼吸は落ち着いている。
落ち着いているように見える。
だが、呼吸の“深さ”が違う。
吸ってはいるが、奥まで入っていない。
吐いてはいるが、底まで出ていない。
戦闘の呼吸を、まだ畳めていない。
シャルロットは一瞬だけ、治癒の詠唱を考えた。
考えて、やめた。
治せる傷はない。
見える異常もない。
だから――
何もしないことが、正解として残る。
何もしないまま、彼の隣に立つ。
それが、今の彼女にできる最大の介入だった。
彼女は、ふと気づく。
自分が“待つ側”に回っていることに。
これまでは違った。
守る側だった。
支える側だった。
戻す側だった。
今は違う。
彼が戻ってくるのを、待つ側だ。
しかも、戻らせないために待つ。
その矛盾が、胸の奥で静かに軋んだ。
シャルロットは、火の揺れを見る。
揺れる炎は、戦場の閃光よりも穏やかで、だからこそ残酷だ。
この炎の前で、
今日の判断は“正解”として整理される。
正解だったから、次も同じことが起きる。
同じように削られ、
同じように戻され、
同じように「大丈夫」と言われる。
その循環の中で、
壊れるのは、きっと最後だ。
最後だから、誰も気づかない。
シャルロットは、そっと息を吐いた。
吐いた息が白くならないことに、少しだけ安心する。
まだ寒すぎない。
まだ、耐えられる。
そうやって判断してしまう自分が、
どこまで“盾”として出来上がっているのかを、
彼女自身がいちばん分かっていた。
火の向こうで、部下たちが笑った。
小さな笑いだ。戦場の後の、いつもの笑い。
その笑いが続くほど、今日が“いつも通り”になっていく。
いつも通りは、救いの形をしている。
だから誰も拒めない。
シャルロットの視界の端で、
エルディオが水を受け取った。
飲む。咽せない。
それだけで、人は安心する。
安心は、残酷だ。
安心した瞬間から、人は「次も大丈夫だ」と思う。
大丈夫だと思った回数だけ、壊れるまでの距離が縮む。
彼女はその理屈を、もう言葉にできた。
言葉にできるのに、口にはできない。
口にすれば、それは止める言葉になる。
止める言葉は、彼の役目を否定する。
否定すれば、誰かが死ぬかもしれない。
――かもしれない。
その不確かな未来が、
確かな現在の破滅よりも強い。
だから、彼女は言えない。
だからこそ、会話は静かに始まる。
「……さっきの判断」
シャルロットは静かに切り出した。
問いではない。確認でもない。
ただ、そこに置くための言葉。
エルディオは一瞬だけ視線を逸らす。
その仕草が、すべてを語っていた。
「間に合うと思った」
それだけだった。
言い訳はない。
正当化もない。
“そう判断した”という事実だけ。
シャルロットは、その横顔を見つめる。
強い。迷いがない。
そして――疲れている。
疲労ではない。
消耗でもない。
もっと深いところが、削れている。
彼女は言葉を選ばなかった。
選んでしまったら、止める言葉になるから。
「……正しかったと思う」
自分でも驚くほど静かな声だった。
エルディオが、ゆっくりと彼女を見る。
「被害は最小限だった。
あそこで引いていたら、追撃が来てた」
それは評価だ。
判断の肯定だ。
彼女は続ける。
「あなたが前に出なかったら、
たぶん、もっと誰かが傷ついてた」
事実だった。
だから否定できない。
エルディオは、ほんの少しだけ笑った。
安堵の笑み。
理解された人間の顔。
「……そう言ってもらえると、助かる」
その言葉が、静かに致命的だった。
助かる。
彼は、彼女の言葉で“助かっている”。
助かるから、次も前に出る。
助かるから、限界を越える。
助かるから、戻れなくなる。
シャルロットは、その構造を理解している。
理解した上で、肯定した。
だから、否定しない。
だから、止めない。
「……次も、ちゃんと戻ってきて」
それは願いの形をした命令だった。
命令にしてしまえば、彼は従う。
従うことでしか、彼は帰れない。
エルディオは頷いた。
「シャルがいるから、大丈夫だと思った」
その言葉は軽かった。
軽くて、自然で、疑いがない。
だからこそ、深く刺さる。
シャルロットは微笑む。
「うん」
肯定する。
完全に。
この瞬間、二人の間で構造が完成した。
盾があるから剣は折れるまで振られる。
剣が折れるまで、盾はそこにいる。
そこにいる限り、剣は振られる。
誰も悪くない。
誰も間違っていない。
それが、最悪だった。
♢
この日、誰も死ななかった。
誰も傷つかなかった。
それなのに、何かが、確実に狂い始めていた。
狂いは叫びにならない。
血にもならない。
ただ“正しいまま”進んでいく。
そして正しいものほど、止め方が分からない。
シャルロットは笑っていた。
笑える自分の強さが、いちばん怖かった。
エルディオは火の揺れを見ていた。
その瞳がまだ、戦場の奥を見ているのが分かった。
剣は、下ろされた。
だが――
剣を下ろせない場所が、彼の中に残ったままだった。
その場所に、彼が戻るたび、
シャルロットはきっと、また声をかける。
声をかけたぶんだけ、彼は戻れる。
戻れるから、また前へ出る。
そして、いつか。
いつか、その“戻り方”だけが、彼の生き方になる。
火が小さく爆ぜた。
誰かが笑い声を上げた。
それが、あまりにも日常で。
だからこそ、シャルロットは思う。
この日が“無事”だったことが、
未来のどこかで、誰かの首を締める。
締めるのは敵じゃない。
命令でもない。
この夜の、肯定だ。
この日、誰も死ななかった。
だからこそ、
誰も、この狂いを“異常”と呼べなかった。
この戦いで、誰も死にませんでした。
だから、誰も「間違い」を探しませんでした。
敵は強かったのではなく、正確でした。
殺すのではなく、削る。
勝つのではなく、手順に落とす。
エルは前へ出ました。
撤退を無視するためじゃなく、撤退を成立させるために。
それが英雄の正しさで、だからこそ止められません。
シャルは支えました。
支えたから、彼は「戻れた」。
戻れたから、次も振れる。
ここで生まれたのは傷じゃなく、構造です。
盾があるから剣は折れるまで振られる。
そして盾は、その正しさを否定できない。
この回の怖さは、血でも叫びでもなく、
“無事だった”という結果が全部を肯定してしまうことです。
次回、何も言わなくなるのは、弱くなったからじゃない。
壊れないために、壊れる準備に入るからです。




