95.間に合うと思った
直轄部隊に編入されてから、ひと月が過ぎていた。
屋敷の朝は相変わらず静かで、窓辺に差す光も柔らかい。けれど、エルディオの身体だけが、もう「静かさ」を信じていなかった。
眠りは浅く、夢の輪郭は薄い。浅い眠りの底で、剣を握る指だけが先に目を覚ます。
夜明け前。鳥が鳴くより少し早い時間に、胸の奥がひやりとした。
――来る。
そう思った瞬間、来た。
耳で聞く呼び鈴ではない。扉を叩く音でもない。
頭の奥に、冷たい水を一滴落としたみたいな感覚。そこからじわりと広がって、言葉になる。
『特務少将、エルディオ・アルヴェイン。緊急招集。十分以内に念話回線を固定せよ』
念話――通信魔法は、直轄部隊の「鎖」だ。
呼び出しは遠慮がない。眠りも、朝も、心も、全部を切り裂いてくる。
エルディオは布団を蹴り、床に足を下ろした。脳が「まだ」と言うより先に、身体が鎧の在り処を覚えている。
手順はもう迷わない。背の留め具、腰のベルト、剣帯。誰かに見せるための整えではない。生きるための整えだ。
それでも――背後の気配に、指先が一瞬だけ止まった。
「……もう行くの?」
シャルロットが上体を起こしていた。毛布が肩から落ちて、白い肌が夜明けの薄さに透ける。眠っていたはずなのに、目だけが覚めている。
「ああ。任務だ」
口にした瞬間、その言葉が以前より軽く出ることに気づく。
軽く出るのに、重い。
シャルロットはベッドの端を掴み、ゆっくりと身体を起こした。足を床に下ろすわけでもない。ただ、そこにいる。起きて見送るために。
「……今日は、どんな?」
「結界維持地点の確保と、魔獣の掃討。危機等級は四に届かない。……多分、早い」
嘘ではない。だから余計に、逃げ道がない言い方だった。
多分、早い。――つまり、早くない可能性を含んでいる。
シャルロットはエルの胸元を見た。紋章。小さな金属片。冷たくて、重いもの。
彼女はそれを見てから、エルの顔に視線を戻す。
「……無理は、しないで」
いつも言う言葉なのに、今日の声音は少しだけ深い。
命令じゃない。懇願でもない。祈りに近い。
「しない。撤退判断もある」
言いながら、心臓のどこかが痛んだ。
撤退判断。――ある。確かにある。けれど、それが「使える」かどうかは、別の話だ。
エルは手袋をはめ、シャルロットの額に軽く口づける。以前は躊躇した仕草が、今は自然に出る。
自然に出るから、シャルロットのまつ毛が一瞬だけ震えた。
「……行ってくる。すぐ戻る」
「うん。……帰ってきて」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
落ちたまま、引っかかった。
エルは笑って見せた。笑えば、彼女は安心する。彼女が安心すれば、エルは前に進める。
そんな回路が、ひと月でできあがってしまった。
♢
念話回線を固定すると、頭の奥の空気が変わった。
冷たく、乾く。
まるで王城の訓練棟の中にいるときみたいに、温度が奪われる。
『任務概要を投影する』
視界の端――いや、意識の端に、情報が流れ込む。地図。座標。時間制限。撤退ライン。支援到着予定。
整いすぎた情報は、現場の泥を隠すための布にも似ていた。
『結界維持地点「ルーアの楔」周辺に魔獣反応。結界の歪みが報告された。現地の守備班は負傷者多数。君が最寄りだ。現地判断で掃討および楔の再固定を行え』
現地判断。
その言葉が、ひどく便利に聞こえる。
エルは心の中で確認した。撤退条件は明確だ。
――「結界歪みの増加率が閾値を超えた場合」
――「想定戦力を超える反応が確認された場合」
――「支援到着までの時間超過」
『支援は第二小隊。到着予定、現地時間で二刻後。撤退ラインは開始から一刻。超過した場合は戦闘を中断し、楔の情報だけ持ち帰れ』
撤退ライン。
明確な命綱。
『繰り返す。一刻を超過した場合、戦闘を中断し撤退せよ。成果より生還を優先する』
その言葉は「優しさ」みたいな形をしていた。
でも、こういう優しさは、必要なときに届かないことがある。
「了解」
エルは短く返した。返した途端、頭の奥の冷たさが少しだけ増した。
返事をした瞬間から、もう戻れない。
♢
現地は、王都より空気が薄かった。
結界維持地点――楔は、山間の尾根に刺さるように築かれている。古い石の柱が幾つも立ち、それぞれが地脈の流れを縫い留めている。
人の目にはただの石だ。だが魔力の目には、糸で織った布みたいに、そこから張り巡らされる線が見える。
その線が、ほんのわずかに――揺れていた。
揺れ。
それは異常の初期症状だ。放置すれば、揺れは裂け目になる。裂け目は穴になる。穴は「向こう側」を呼ぶ。
エルは剣を抜かなかった。まず、耳を澄ませた。
気配は多い。
魔獣の気配だけじゃない。負傷者のうめき声。焼けた木の匂い。血の匂い。焦げた土。
「起きている」――その匂いは、地面からも空気からも出ていた。
「少将殿!」
守備班の隊長が駆け寄ってきた。鎧はへこみ、腕に包帯。目の下に深い影。
それでも、敬礼の形だけは崩さない。崩せば、崩れるから。
「状況を」
「魔獣は――確認できているだけで五体。逃がした個体もいます。結界の歪みが増している。楔の周辺で、魔力が吸われるような現象が――」
吸われる。
エルの胸の奥が、ほんの少しだけ冷えた。
「負傷者は?」
「半数が戦闘不能。楔の補修に回せる術者が不足しています。……ですが、もし楔が裂ければ、ここ一帯が――」
隊長は言い切れなかった。言い切れば、恐怖が形になる。
恐怖が形になれば、士気が崩れる。
エルは頷いた。
「僕が行く。楔は守る」
その言葉は、今の自分の仕事だ。
だから言える。言えるから、危ない。
♢
戦闘は、ひと月の積み重ねの延長にあった。
つまり――「慣れた戦い」だった。
一体目は、森の斜面から飛び出してきた。狼型。牙が長い。
エルは一太刀で斬り伏せる。血が散り、土に吸われる。
二体目は、すぐ後ろから。
その動きが、少しだけ“賢い”。間合いを測る。誘う。
エルは膝を落とし、低い斬撃で脚を断つ。倒れたところへ、息を止めて首を落とした。
三体目、四体目。
攻撃は鋭い。だが、勝てる。
勝てるからこそ、撤退という言葉が遠のく。
問題は五体目だった。
尾根の向こうから現れたそれは、他より大きい。
魔力の濃度が違う。周囲の空気が重くなる。結界の線が、目に見えて揺れた。
エルの中で警告が鳴る。
――撤退条件。想定戦力超過。
頭の冷静な部分が、確かに言った。
「これは一人で当たる相手じゃない」と。
その瞬間、念話が入る。
『撤退ラインまで残り十分。状況報告せよ』
頭の奥が冷たくなる。
冷たさが、判断を研ぎ澄ませる……はずだった。
エルは目の前の魔獣を見た。
背後には負傷者がいる。楔がある。
この場で引けば、五体目は楔に近づく。守備班では止められない。
撤退は正しい。
でも撤退は、間に合わないかもしれない。
エルは、念話回線に短く返した。
「敵は想定より強い。だが――処理できる。続行する」
返事の瞬間、頭の奥で空気が固まった。
『撤退判断は明確だ。撤退せよ。繰り返す。撤退せよ』
命令が来た。
ここで撤退すれば、規定は守れる。生還の確率は上がる。支援が到着すれば、連携できる。
だが。
エルは、魔獣の動きで確信した。
こいつは楔に向かう。――狙っている。
楔が裂ければ、被害はこの場だけで終わらない。
王都まで波及する可能性がある。そういう「裂け方」を、エルは知っている。
知っているから、選ぶ。
エルは歯を食いしばった。
「……間に合う」
誰に言うでもなく、呟いた。
間に合うと思った。いや、思わなければ進めなかった。
念話回線に、もう一度だけ返す。
「続行する。楔を守る」
『――判断は記録される』
冷たい一言。
それは脅しではない。事実だ。事実だから、逃げ場がない。
エルは回線を切った。意識の中で線を断つ。断った瞬間、耳が少しだけ楽になった。
楽になった分だけ、自分の心臓の音がうるさくなる。
♢
五体目は速かった。
爪が地面を抉り、石を砕く。
エルは受けるのではなく、躱した。躱して、斬る。斬って、離れる。
その繰り返しが、いつもより一拍だけ速い。
速くしなければならない理由がある。
撤退ラインを超える前に終わらせる。終わらせれば、撤退指示は「結果」で黙る。
その考え方が、危険だと分かっている。
分かっているのに、止められない。
魔法で牽制を入れる。
火球。雷。風。
魔力の流れが、ほんの少しだけ乱れる。――吸われる感覚がある。だが今は、深く考えない。
考えたら、手が止まる。手が止まれば、誰かが死ぬ。
エルは最後の一撃に、魔力をまとめた。
剣に流し、刃を光らせる。光った刃が、獣の胸を裂いた。
獣は叫んだ。獣の叫びではない、何かの声。
その声が空気に溶ける前に、エルは止めを刺した。
地面に崩れ落ちる巨体。
楔の線の揺れが、少しだけ収まる。
――間に合った。
その瞬間、膝が笑った。
呼吸が、肺の奥まで届かない。心臓が早い。視界の端が白い。
それでも、倒れなかった。
倒れたら、この成功が崩れる気がした。
♢
撤退ラインは、超過していた。
守備班の隊長が駆け寄ってくる。
負傷者は増えていない。楔も裂けていない。
結果だけ見れば、勝利だ。
「少将殿……助かりました」
「……いや」
エルは息を整えながら、ゆっくり頷いた。
「楔は?」
「歪みは沈静化しています。補修も……今なら」
「よし。すぐに補修を」
言葉は冷静。
冷静でいられるのは、こういうときほど危ない。
支援が到着したのは、その少し後だった。
第二小隊の隊長が駆け寄り、状況を見て、眉をひそめた。
「撤退指示が出ていたはずだ」
「出ていた」
「……それでも、やったのか」
「やった」
短い会話。短いから、刺さる。
刺さるけれど、今はその痛みを拾わない。
拾えば、ここまでの結果が揺れる。
♢
本部での報告は、淡々としていた。
戦果は大きい。被害は最小。楔は守られた。
上官は紙面に目を落とし、視線を上げて言う。
「結果は出した。だが、撤退指示に背いた事実は残る」
「承知しています」
「理由は」
ここで、言い訳はできない。
言い訳をすれば、責任逃れになる。責任逃れは、直轄部隊では死ぬ。
エルは正直に言った。
「間に合うと思いました。撤退して支援を待てば、楔が裂ける可能性があった」
上官は一拍置いて、言う。
「判断は記録する。次も同じことをするな。――だが、よくやった」
褒め言葉の形をした、承認。
承認は成功体験になる。成功体験は、次の判断を縛る。
エルは敬礼した。
胸の奥に、小さな棘が残ったまま。
♢
屋敷に戻ると、シャルロットが待っていた。
彼女はいつも通りの顔で迎えた。
いつも通りに見えるよう、全身の力で「いつも通り」を作っている顔だと、エルは気づけなかった。
「……おかえり」
「ああ」
シャルロットはエルの鎧の留め具をほどき、傷の具合を見た。傷は浅い。裂けた箇所は少ない。
なのに、エルの皮膚の下に、疲労が濃く沈んでいる。
シャルロットは治癒を始めた。
掌から温かな光が溢れ、傷口をなぞる。血の気配が引き、皮膚が閉じる。
だが――閉じるはずのものが、閉じきらない感覚があった。
魔力の流れ。
いつもなら、治癒の光に反応して、エルの身体の奥がふっと柔らかくなる。回復が「戻る」感覚がある。
けれど今日は、戻り方が薄い。
回復している。確かに。
でも、“器”の深いところが、空洞のままみたいに感じる。
シャルロットは顔に出さない。
出せば、エルが気づいてしまう。気づけば、彼は「また」自分を責める。
責めると、彼は前を向けなくなる。
前を向けなくなると、彼は過去に沈む。
沈んだ彼を引き上げるために、シャルロットはどこまででも潜ってしまう。
だから、言わない。
ただ、治癒の光を丁寧に重ねる。
「……今日は、長かったね」
シャルロットが、できるだけ軽く言う。
「ああ。少し手間取った」
少し。
その言葉が、危うい。
シャルロットは、治癒の手を止めずに訊いた。
「撤退ライン……あったでしょう?」
声は責めていない。
責めていないからこそ、エルは隠さなかった。
「あった」
「……越えた?」
「越えた」
シャルロットの睫毛が、ほんの一瞬だけ震える。
震えはすぐに消える。消えるように、彼女は笑う。
「そう……でも、帰ってきた」
帰ってきた。
その事実が、彼女の言葉を強くする。
エルは息を吐いた。
吐いた息に、疲労が混じる。
「間に合うと思ったんだ」
ここまでなら、まだ物語は普通だった。
判断の話。現場の話。兵士の話。
シャルロットは頷く。
「……うん。あなたなら、そう考える」
彼女は肯定する。
肯定することで、エルは救われる。救われることで、エルは次も同じ判断ができる。
その循環が、優しさの形をしているのが怖かった。
エルは、少しだけ笑ってしまった。
笑って、安心させたかった。
安心させる言葉を、自然に探してしまった。
「……大丈夫だよ」
シャルロットの手の光が、ほんの少しだけ揺れる。
揺れはすぐに整えられる。整えられるから、エルは気づかない。
「何が?」
「今回も、ちゃんと戻ってきた」
「うん」
「だから……」
だから、の後に来る言葉を、エルは選んでいない。
選ぶ前に、口が言った。
「シャルがいるから、大丈夫だと思った」
言った瞬間、部屋の空気が一拍だけ止まった。
エルはそれを感じない。
彼にとってその言葉は、救いの告白だった。
ようやく言えた本音だった。
シャルロットは、笑う。
いつも通りに。エルが安心できる笑い方で。
「……うん」
声は柔らかい。
柔らかいから、エルは安心する。
「そう思えるなら、よかった」
肯定。
否定しない。止めない。責めない。
それは、彼女の愛し方だった。
でも。
彼女の胸の奥でだけ、何かが小さく結ばれる。
――私がいるから、彼は進んだ。
――私がいるから、彼は止まらなかった。
その因果は、まだ刃ではない。
まだ種だ。
小さくて、軽くて、今は誰にも踏まれない場所に落ちた種。
けれど種は、落ちた瞬間から「芽を出す準備」を始める。
シャルロットは治癒を終える。
光が消え、彼の皮膚が温度を取り戻す。
戻ったのは、表面だけだ――と感じても、言わない。
言わないかわりに、彼女はエルの指を取った。
指先を包む。握る。逃げないようにではなく、帰ってこられるように。
「……次も、帰ってきてね」
「ああ」
エルは頷いた。
頷けた自分に、少しだけ誇らしさを覚える。
誇らしさが、次の戦場へ向かう足を作る。
足が作られれば、人は進める。進めるから、止まれない。
シャルロットは笑ったまま、心の中でだけ、息を吸った。
――私が、彼を強くしている。
それは誇りに似ている。
誇りに似ているから、怖い。
この夜、屋敷の灯りは穏やかだった。
静かな火が揺れて、影が二つ重なっている。
重なっているからこそ、誰も気づかない。
その影の片方が、ほんの少しだけ先に――
未来の崖のほうへ伸び始めていることに。
♢
エルは眠った。
倒れるように、ではない。いつも通りの顔で、眠った。
シャルロットは、眠る彼の横顔を見つめる。
そして、何も言わずに、彼の手を握り続けた。
握る力は優しい。
優しいのに、重い。
まだ、この物語は壊れていない。
ただ、歯車が「正しく」回っただけだ。
正しく回ったからこそ、誰も止められなかった。
――背筋の冷える一言だけが、静かに残る。
「シャルがいるから、大丈夫だと思った」
それは救いの告白で、
同時に、最初の呪いだった。
この話は、誰かが悪かった話ではありません。
判断も、行動も、結果も、その時点では「正しい」ものでした。
だからこそ、止まれなかった。
守りたいものがあること。
信じてくれる人がいること。
それが人を強くする一方で、どこまで無理をしていいかの線を、曖昧にしてしまう。
「間に合うと思った」
その言葉が、救いであり、同時に始まりだったことを、
この時の二人はまだ知りません。
少しずつ、確実に、歯車は噛み合っていきます。




