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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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94.削られる

 

 呼び出しは、夜が完全に終わる前だった。


 窓の外はまだ暗く、東の空だけがわずかに白み始めている。鳥の声もない。屋敷の中の空気は冷え切っていて、布団の温度だけがこの部屋が「眠る場所」だったと教えてくれる。


 眠りは浅かった。――けれど、それは「眠れなかった」のとは違う。


 呼び鈴が鳴るより先に、エルディオは目を覚ました。


 身体が、先に反応していた。


 直轄部隊に編入された人間の睡眠は、こうなるのだろう。完全に休むことを、身体が許さない。深く沈む前に、水面へ引き戻される。引き戻されるたびに、心臓が小さく跳ねる。戦場の癖が、寝台の中にまで入り込んでくる。


 エルディオは上体を起こし、静かに息を整えた。胸の奥に刺さるような冷えはない。まだ大丈夫だ。まだ、何も壊れていない。


 立ち上がり、鎧を身につける。動作は早い。だが雑ではない。紐の締め具合、金具の位置、革の擦れる音。すべてがいつも通りであることが、彼にとっての「平常」だった。


 剣を腰に差したとき、背後から小さな気配がした。


「……もう行くの?」


 シャルロットの声だった。まだ眠りの縁にある、柔らかい声。呼ばれた名前ではなく、呼び止めるだけの短い問い。けれどその短さの中に、彼女の全部が入っている。


「ああ。初任務だ」


 そう答えながら、エルは振り返る。


 彼女は上体だけを起こし、毛布を肩にかけている。髪が寝癖のまま落ちて、いつもの強さより先に人間らしさが見えた。目はまだ半分眠っているのに、エルを見上げる視線だけが妙に冴えている。


「調査任務だよ。軽い」


 自然にそう言っていた。説明というより、安心させるための言葉だった。


 シャルロットは、少しだけ目を細める。


「……本当に?」


「危機等級三だ。第二部隊と合同になる予定だし、長引かない」


 それは、資料上の事実だった。だから口にした。事実だから、嘘じゃない。嘘じゃないのに――言葉の形が、約束に近くなる。


 シャルロットはそれ以上聞かなかった。聞かないという選択を、もう身につけている。聞けば引き止めたくなる。引き止めれば、彼の前進を折ってしまう。彼女はそれを恐れている。恐れているのに、恐れていると言わない。


「……分かった。気をつけて」


「ああ。すぐ戻る」


 その約束を、エルは疑っていなかった。疑わないために、彼は笑った。ほんの少しだけ。


 シャルロットは、笑い返さない。代わりに、毛布の端をぎゅっと握り直した。指が白くなるほど強くはない。けれど離さない強さだ。


「……戻ってきて」


 小さく、しかし確かに言った。


 その一言が、胸の奥のどこかを温めた。温めたぶんだけ、エルはまた無理をするだろう。――そのことに、彼自身はまだ気づいていない。


 ♢


 指定された地点は、王都から半日ほど離れた山間部だった。


 馬を降り、徒歩で進むにつれ、空気が変わる。湿り気を帯び、肌にまとわりつくような重さがある。朝の冷えではない。山の水気でもない。もっと別の、呼吸を鈍らせる重さだった。


 ――おかしい。


 それが最初の感覚だった。


 魔獣発生地域では珍しくない、と言えばそうだ。だが今回は、記録と一致しない。危機等級三。単独での対処も不可能ではないが、基本は複数で当たる想定。合同で行動するのは、そういう「手順」のためだ。


 エルは、地面に残る痕跡を確認する。


 爪痕が深い。数ではなく、力が違う。土が抉れて、石が割れている。痕はひとつひとつが荒いのに、無駄がない。暴れたのではなく、壊すべき場所だけを壊した痕だ。


 さらに進むと、崩れた家屋が見えた。


 廃村だ。だが、放棄されてからそれほど経っていない。木材がまだ新しい。焼けた痕も古くない。屋根の梁が黒く煤けているのに、折れた木口が白い。


 ここで、はっきりとした違和感が生じた。


 ――調査ではない。

 ――すでに“起きている”。


 通信を入れる。


「こちらエルディオ。現地に異常あり。第二部隊との合流地点を再確認したい」


 返答は、少し遅れて返ってきた。遅れたというより、返答のために一度“確認”を挟んだ気配がある。


『第二部隊は別件で足止めされている』


 一拍。


『君が最も近い。現地判断で対処してくれ』


 エルは、口を閉じたまま息を吸う。


 この時点で判断は二つあった。撤退し、再編成を待つ。あるいは――。


 村の奥へ続く道を見た。魔力の流れが、はっきりとそこへ向かっている。見えるわけじゃない。だが皮膚の裏側が、引かれていく。細い糸が複数、一本の川に合流していくような感覚。


 ――放置すれば、被害が出る。


 その可能性を、彼は無視できなかった。


「……了解」


 通信を切る。


 誰かに「行くな」と言われるのを、どこかで期待していた。だが、そんな言葉は来なかった。来ないなら、自分が行くしかない。いつもそうだった。いつもそうだったから、これもそうする。


 通信を切った瞬間、森の音が戻ってきた。葉擦れ、鳥の声、どこか遠い水の流れ。――それらが、逆に不自然だった。


 静かすぎる、のではない。


 “普通すぎる”。


 魔獣の縄張りに入ると、生き物が消える。獣が逃げ、鳥が黙り、風の音だけが残る。だから「静けさ」は危険の合図だ。だがここは違う。鳥は鳴く。葉も揺れる。水も流れる。世界は平然としている。平然としているのに、胸の奥だけが危険だと鳴り続ける。


 理由は、魔力の流れだった。


 誘導されている。


 偶然と見せかけた必然。敵が仕掛けた罠の匂い。戦場の経験が、その匂いだけは誤魔化さない。


 エルディオは村の入口で足を止めた。


 廃村――だが“新しい”。倒れた柵の木口が白い。割れた窓枠にまだ樹脂の匂いが残り、焼けた壁の煤が雨で完全には落ちきっていない。火事は数日前、あるいは昨日。


 足元に落ちているのは、壊れた鍋。転がる木皿。焦げた布の切れ端。生活の痕だ。つまりここは、すでに空ではなかった。


 エルは無意識に掌を握った。指先が汗ばんでいる。


 撤退するべきか。


 頭の冷静な部分がそう言う。合同のはずが単独。危機等級三という報告の矛盾。そしてこの誘導。撤退して報告して再編成を待つ。軍としては正しい。


 だが村の奥へ向かう魔力の流れが、まるで「遅れるほど被害が増える」と告げている。


 もし、まだ誰かが生きていたら。


 もし、逃げ遅れた子どもがいたら。怪我をした老人が瓦礫の陰で息を潜めていたら。今この瞬間、助けを待つ声があるなら。


 正しさは、間に合わないことがある。


 エルディオは息を吸った。剣の柄を軽く叩き、身体を整える。


「……行く」


 声に出すと決断が形になる。形になれば、もう戻れない。


 ――誇りだ。使命だ。守るためだ。


 そう言い聞かせることができた。その言い聞かせが、少しだけ甘いことに気づかないまま。


 村の中へ入ると、足元の土が黒く湿っていた。血ではない。水でもない。焦げた土に、何かが混ざったような湿り。鼻の奥に鉄の匂いが刺さる。その匂いが戦場の記憶を呼び戻す。


 ――ここは、もう戦場だ。


 家屋の影に身を寄せ、耳を澄ませる。


 気配は三つ。


 遠い。だが確かにいる。そして動きが遅い。


 魔獣は獲物を見つけたときもっと荒い。荒く早く、欲望のままに動く。なのに今の気配は奇妙なほど待っている。


 待っている。待っているから狙っている。狙っているから誘導している。


 背筋に冷たいものが走った。


 ――誰かが、これを使っている。


 その直後、家屋の影がふっと歪んだ。


 風でも陽の加減でもない。影そのものが重さを持って動いた。


 エルが剣を抜いた瞬間、歪みは獣の形をとり、地面を叩き割るように跳び出した。


 咆哮が空気を裂く。だがその咆哮は獣の叫びではなく、命令を受けた道具が出す音に近かった。


 ――来る。


 エルは体重を落として受けた。


 ♢


 戦闘は、想定よりはるかに過酷だった。


 過酷だった、では足りない。――狂っていた。


 最初の一撃で分かった。硬い。重い。速い。そしてただの力押しではない。獣は間合いを測っていた。エルが剣を振るえば半歩引く。魔法を詠唱すれば詠唱の隙に合わせて踏み込む。


 ――学習している。


 これが危機等級三であるはずがない。


 剣が肉を裂き、骨を断つ感触が腕に返ってくる。だが倒れない。怯むふりをして次の角度から噛みついてくる。回避し、鎧に爪が走った。金属が悲鳴を上げる。皮膚は裂けない。だが衝撃が内臓を揺らす。


 呼吸が乱れる。


 ――落ち着け。


 命じる自分の声が遠い。遠いのに身体は動く。身体だけが、いつも通りに戦っている。


 エルは魔法で距離を取ろうとした。風を起こし、砂を巻き、視界を遮る。いつもならこれで一瞬の間が作れる。


 だが、間が作れない。


 風が伸びない。


 魔法が薄い。


 魔力を込めたはずなのに威力が足りない。注いだ水が途中で漏れているみたいに、手応えだけが消える。


 ――減っている?


 感覚は背筋に刺さった。魔力が減るのは当たり前だ。だがこれは消費じゃない。削られている。削れている。魔力が燃えた感触が、どこにも残らない。


 それでも止まれない。止まれない理由は簡単だった。敵が止まらせてくれない。


 二体目が背後から来た。同時ではない。一体目が押さえ役になり、回避の方向を誘導して背後へ追い込む。


 ――連携。


 戦場の兵士のような動き。


 エルは踏み込み、一体目の喉を切り裂いた。血が噴き、黒い粘液が飛ぶ。それが頬にかかり、熱い。熱いのに冷たい。生き物の血の温度じゃない。


 違和感が刹那を遅らせた。


 二体目の牙が鎧の隙間を狙う。咄嗟に腕で受ける。金属が噛まれる感触。歯が滑り皮膚まで届かない――はずなのに痛い。骨に響くような痛み。魔力で補強されているはずの鎧が、内側から軋む。


 ――魔力が薄い。


 守りが薄い。薄いのに身体は動けと言う。動けるのは訓練のおかげだ。死なないために身につけた反射だ。だが反射は、止まれない反射でもある。


 二体目を蹴り上げ、剣を逆手に持ち替え斬り上げた。骨を断つ感触。それでも敵は倒れない。倒れないまま叫び、地面に爪を立て、脚を引き裂こうとする。


 そこで三体目が来た。


 最初からいたのに動かなかったやつ。待っていたやつ。


 ――指揮していた。


 三体目は明らかに格が違った。大きいだけじゃない。魔力の濃度が違う。空気が重くなる。視界の端が歪む。眩暈がする。疲労じゃない。魔力に触れたときの、圧。


 危機等級四か、五。


 判断した瞬間、胸の奥が一度だけ冷たくなった。


 ――最初から、そうだったのか?

 ――報告が誤っていたのか?

 ――それとも……。


 考える暇はない。


 三体目が地面を蹴った。速い。獣の速度じゃない。魔法で加速している。刃で受ける。爪と刃がぶつかり火花が散る。腕が痺れる。衝撃が重すぎる。それでも剣は折れない。折れないから振り続ける。


 エルは詠唱を短縮し雷を落とす。だが雷が薄い。敵が焼けない。焼けないまま、笑うような気配で近づく。


 ――嘘だろ。


 魔力が足りない。回復が追いつかない。いつもならここまで削れる前に一度退ける判断ができる。だが今日は、その判断が遅い。


 遅いのは敵が速いからじゃない。自分の中の余白が削れているからだ。余白が削れれば撤退という思考が生まれにくい。生まれにくいから前へ出る。前へ出るからまた削れる。


 悪循環。


 それでも。


 それでも止まれない。


 ――守るものがあるから。


 胸の奥でその言葉が光った。光った瞬間、気づく。自分は今、シャルロットの顔を思い浮かべた。その顔を思い浮かべたから踏み込めた。踏み込めたから勝てる。


 勝てる。だが、その勝ち方は自分を削る勝ち方だ。


 最後はほとんど本能だった。


 三体目の一瞬の隙。隙じゃない。罠の隙だった。だが罠でもいい。ここで終わらせなければ、もっと終わる。


 エルは魔力を一気に燃やした。


 身体の奥の“道”を全開にして、残っている魔力を全部、刃に流し込む。視界が白くなる。音が遠のく。心臓の音だけがうるさい。


 剣が光る。


 光って、獣の胸を貫く。


 その瞬間、獣が――人間みたいな声で呻いた気がした。


 気のせいだ。気のせいであってほしい。


 獣が崩れ落ちる。


 同時に、エルの身体も限界を迎えた。


 膝が落ちた。剣を地面に突き立て、身体を支える。呼吸が痛い。肺が砂を吸ったみたいに重い。身体の中が空洞になったように軽いのに、立ち上がる力だけがない。


 生きている。勝った。


 それだけが確かだった。


 けれど、いつもの確かさと違う。


 魔力を使い切ったときに残る“燃え尽き”の感覚が、ない。燃えたはずなのに、燃えた痕がない。灰も残っていない。燃やしたという記憶だけがある。


 ――奪われた。


 そう言いかけて、エルは首を振った。


 今は考えるな。帰れ。戻れ。約束がある。


 ♢


 帰還は予定より大きく遅れた。


 王都に戻った頃には、空はすっかり夜だった。鎧に致命的な損傷はない。刃も折れていない。だが歩調が重い。重いというより、身体が“自分のもの”ではない感覚に近い。


 本部での報告は簡潔だった。


「よくやった」

「助かった」

「初任務としては十分だ」


 難度のズレについては誰も触れない。触れないまま処理される。書類が回り、印が押され、結果が整えられる。現地判断は正しかった、と結論だけが残される。


 ――では、なぜ単独だった。


 疑問は胸の奥に沈められた。成果が出ている以上、否定する材料がない。材料がないから、口に出せない。口に出せないものは、なかったことにされる。


 エルは敬礼し、退出した。


 廊下を歩く足音が、妙に空っぽに響いた。


 ♢


 屋敷に戻ると、シャルロットが待っていた。


 灯りが落とされ、暖炉の火だけが部屋を赤く染めている。彼女は椅子に座っていた。待つ姿勢が崩れていないのに、指先だけが微かに動いている。数えるように、祈るように。


 扉の音で、顔が上がる。


「……おかえり」


 その声はいつも通りなのに、喉の奥がほんの少し擦れていた。ずっと起きていた声だ。


「ああ」


 エルは笑おうとした。笑いは形にならなかった。唇だけが動いて、呼吸が浅くなる。


 シャルロットは立ち上がり、近づく。鎧の傷を一目で確認する。血の匂いを嗅ぐより早く、彼の瞳の奥を見る。瞳の奥が、いつもより“遠い”。


「座って」


 短い命令。だが命令の形を借りた懇願だった。


 エルは椅子に腰を下ろす。鎧を外そうとして手が止まる。指が言うことを聞かない。疲労のせいだと片づけようとして、片づけられない。


 シャルロットは黙って、鎧の留め具に手をかけた。外す手つきは慣れている。戦場から戻るたびに彼女が繰り返してきた動作だ。


 鎧が外れ、下に隠れていた浅い裂傷が見える。擦過傷。打撲。どれも致命ではない。致命ではないのに、彼の肌の色が薄い。血が足りないのではない。体温が足りない。


「……痛む?」


「いや」


 即答だった。痛みの種類が違う。痛いというより、力がない。


 シャルロットは掌を当て、治癒を始める。彼女の魔力が温かい光になって傷を撫でる。いつもなら、その瞬間にエルの呼吸が落ち着く。身体が「戻ってくる」。


 だが。


 今日の治癒は、手応えが薄かった。


 傷は閉じる。皮膚は戻る。血も止まる。生命の反応は整う。――なのに、奥が戻ってこない。何かが、底の方で欠けている。


 シャルロットは眉をわずかに動かした。表情は崩さない。崩せば、彼が「大丈夫だ」と言い張るのを知っているからだ。


 彼女は、魔力をもう少し深く流した。


 通常の治癒は、表層の肉体に届けば足りる。だが今日は、深い場所に“空洞”がある。空洞の縁が、妙に冷たい。


 ――魔力の器が、薄い。


 そう感じた瞬間、指先が微かに震えた。


 ありえない。


 エルは魔力おばけだ。器が薄くなるほど消耗する前に、回復する。回復できる。回復するはずだ。彼は“燃え尽きる”タイプじゃない。燃費が悪いタイプでもない。


 なのに、戻らない。


 回復しているのに、戻ってこない。


 治したはずなのに、治した感触だけが残らない。


 まるで、注いだ水が途中で漏れていくように。


 ――消費じゃない。


 シャルロットの背筋を、冷たいものが走った。


 彼女は平静を装ったまま、エルに問いかける。


「……今日、何体と戦ったの?」


「三体だよ」


 数字は合う。報告とも合う。けれど感覚が合わない。三体で、ここまで削れるはずがない。削れるとしても、削れ方が違う。


「……ちょっと、無理した?」


 言い方を柔らかくした。責める形にしたくない。追い詰める形にしたくない。彼が“正しさ”の檻に戻るのを、何より恐れている。


 エルは笑った。


「初任務だしな。気合いが入っただけだ」


 笑い方までいつも通りにしようとして、笑い方が少しだけ下手だった。


 シャルロットはそれ以上言わなかった。言えなかった。


 材料が足りない。


「気のせい」と結論づけるためにも、

「異常だ」と断定するためにも。


 ただ確かなのは、彼の中で何かが“減った”という感覚だけだった。


 そしてそれは、怪我ではない。


 怪我なら治せる。


 だが、これは――治癒の手応えが、届かない。


 シャルロットは唇を閉じ、もう一度だけ治癒を重ねた。重ねるほど確信が強くなる。傷は閉じるのに、空洞は埋まらない。埋めた瞬間に、どこかへ抜ける。


 ――削られている。


 彼女は、その言葉を飲み込んだ。


 飲み込むしかない。


 今、口にしたら、エルは明日から任務を拒否するだろう。拒否できない規定があるなら、拒否できないまま壊れるだろう。あるいは、自分を責めて過去に沈むだろう。


 シャルロットは、彼を沈ませたくない。


 沈ませないために、彼女は黙る。


 黙るために、笑う。


「……もう休んで」


 それだけ言って、布をかける。枕を整える。いつもと同じことを、いつもより丁寧にする。丁寧にするほど、指先の震えを隠せるからだ。


 ♢


 その夜、エルはすぐ眠った。


 眠りは深いようで、浅かった。呼吸は落ち着いているのに、身体が時々びくりと跳ねる。戦いの最中の反射が、寝台の中で再生されている。眉間に小さな皺。唇がわずかに開き、喉が乾くような息。


 シャルロットは、彼の寝顔を見つめた。


 眠っているのに、遠い。


 そこにいるのに、どこかへ引かれている。


 ――直轄部隊だから。

 ――初任務だから。

 ――慣れれば、きっと。


 そう思うことでしか整理できなかった。整理できないものを整理しようとすれば、心が割れる。割れたら、彼を支えられなくなる。


 彼女は、支える側でいると決めている。


 だから、今は“気のせい”に寄せる。


 まだ、誰も壊れていない。

 ただ、歯車がひとつ、静かにずれただけだ。


 そのずれに気づいたのは、彼女だけだった。


 だが彼女はまだ、それを異常とは呼ばなかった。


 呼べば、何かが始まってしまうから。


 そして――始まってしまったら、彼女は最後まで責任を取ってしまうから。


 シャルロットは、そっとエルの手を取った。冷たくはない。けれど、いつもより軽い。軽いのに、重い。重いのは、未来の重さだ。


「……戻ってきて」


 朝の言葉と同じ言葉を、今度は声にしない。


 声にすれば現実になる。現実にしたくない。けれど祈りは止められない。


 彼女は、指を絡めたまま目を閉じた。


 まだ、この夜は静かに終わる。


 けれど静けさは、終わりではない。


 次の呼び出しまでの、わずかな猶予だ。


 そう理解してしまった自分を、シャルロットは叱らなかった。


 叱れなかった。


 理解した者から先に、壊れ方を知ってしまう。


 ――そして、それを隠すのもまた、理解した者の役目になる。


 火は小さく爆ぜ、影が揺れた。


 部屋の中にいるのは、二人だけ。


 だが、二人の間に生まれた“見えない空洞”だけが、確かに増えていた。


直轄部隊の“初任務”は、勝利で終わったはずでした。

でも、エルが持ち帰ったものは傷だけじゃなく、治せるはずのものが「戻らない」という違和感でした。


シャルはそれを言葉にしません。

言葉にした瞬間、現実が始まってしまうから。

だからこの夜は静かに終わります――静かすぎるほどに。

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