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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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81/97

81.帰る場所-1

 

ノックの余韻は、部屋の空気の中に残っていた。

 音が消えたあとに残るもの――それは静けさではなく、外がこの部屋に触れた痕跡だ。


 朝の薄い光はまだやさしいままなのに、扉の向こうだけが現実の硬さを持っている。

 世界は動き出す。動き出した世界は、必ず何かを整えに来る。

 整える、という言葉が、エルの肩をほんの一瞬だけ固くした。


 シャルロットは、その固さを責めない。

 責める代わりに、指を握る。

 強くは握らない。外れない程度。外に逃げなくていい程度。

 ――帰ってこさせる、の強さは、暴力じゃなくて、繋ぎ止める温度だ。


「入って」


 返事をして、扉が開く。

 入ってきたのは、見覚えのある使用人ではなかった。

 制服の色も、歩き方も、違う。


 屋敷の人間の歩き方は“規律”を背負っている。足音を均し、視線を均し、呼吸すら均す。

 この男は違う。

 速さがある。疲労がある。汗がある。つまり――生きている。


 早馬だ、と分かる。

 早馬でしか運べないものは、言葉の形をした刃だ。


 男は深く頭を下げた。

 下げ方に礼儀はあるが、ここがどこかを理解しているほどの“怖さ”も混ざっている。

 怖さは正しい。この屋敷は、怖がるに値する。


「失礼いたします。急使にございます」


 男は懐から包みを取り出した。

 封蝋が二つ。

 紙の色が違う。

 封蝋の匂いが違う。


 ――二通。


 シャルロットの喉の奥が、わずかに冷えた。

 現実は一つではない。

 外の現実と、家の現実は別の速度で刺さってくる。刺さる場所も違う。

 外の現実は、身体の外側から来る。役目、責任、期限。

 家の現実は、身体の内側を知っている顔で来る。昔の呼吸、昔の癖、昔の恐怖――そこに指を入れてくる。


 男は、先に一通を持ち上げた。

 封蝋は柔らかい色。家紋が押されているが、威圧の押し方ではない。整っている。

 整っているものほど危険だ、とシャルロットは思う。

 整っているものは、拒否権を奪いながら優しさの顔をする。


「こちらはシャルロット様へ、エレオノーラ様からです」


 シャルロットはその名を聞いた瞬間、胸の奥の奥で、何かが“定まった”。

 アルベルト。

 アイン。

 父の名は、いつも刃の形で現れる。

 そして母の名は、刃の鞘のように現れる。

 鞘は刃を隠すためにある。

 隠された刃は、刺さる前に見えない。


 男はもう一通を差し出す。

 封蝋は濃い。色が深い。

 家紋が押されている。押し方に躊躇がない。

 印の角が、紙の繊維を僅かに潰している。

 押した人間が、紙の向こうの抵抗を想像していない押し方だ。


「もう一通ありまして……こちらはアルヴェイン様へです」


 エルの指が、ほんの僅かに動く。

 動いて、止まる。

 受け取る動作が、途中で凍る。

 凍るのは、勇気がないからじゃない。

 凍るのは、知っているからだ。

 封蝋の匂いで、何が書かれているか分かるほどに――ここで言葉に切られてきた。


 シャルロットは、まず男の手から二通を受け取った。

 受け取る、という行為を、エルにさせない。

 これは優しさではなく、順番だ。

 エルの手に最初に刺さるべきは、紙ではない。

 ――現実の温度だ。手の温度。息の温度。ここが崩れないという温度。


 男が一礼して去る。

 扉が閉まる。

 閉まった音が、部屋に“外”を置いていく。


 空気が少しだけ重くなった。

 重いのに、暴力ではない。

 暴力ではない重さは、選ぶ余地を残す。

 選ぶ余地が残ることが、どれほど贅沢かを、エルは知っている。

 贅沢を許されない場所で、生きてきたから。


 シャルロットは二通を卓に置いた。

 置き方に意味を持たせない。

 意味を持たせた瞬間、屋敷の手順になるからだ。

 ただ、現実として置く。

 現実は、置くことができる。置かれた現実は、逃げない。


 エルはまだベッドの上に座っていた。

 布団を胸まで引き上げている。

 守りの反射。恥ではない。

 ここでは、反射すら責めない。


 シャルロットは先に言った。


「読まない選択もある」


 命令じゃない。

 許可でもない。

 “選択がある”という事実を、先に床に置く。


 エルの喉が鳴った。

 その音が、屋敷の夜には許されなかった音だと、シャルロットは知っている。

 屋敷では音は拾われる。拾われたものは形を変えて戻ってくる。

 ここでは拾われない。拾わない。

 拾わないという選択を、シャルロットは毎秒している。


「……でも」


 エルが言う。

 声が掠れている。

 掠れた声は弱さではない。

 掠れた声は、まだ戻ってきたばかりの人間の声だ。


「……読まない、って選択は」


 一拍置く。

 言葉を探す時間。

 探しているのは“正しい答え”ではない。

 自分が壊れない言い方だ。

 壊れない言い方を探す癖は、彼を生かした。

 でも同時に、彼を孤独にした。


「……僕の中に、残る」


 残る。

 残るのは痛みだ。

 開けない封筒は、いつか夢の中で開く。

 夢の中で開いた刃は、現実より深く刺さる。

 夢は防げない。夢は拒否できない。夢の中で拒否したものほど、目覚めたあとも喉に残る。


 シャルロットは頷いた。


「うん」


 肯定でも否定でもない。

 ただ受け止める。

 受け止める、は整えるの手前だ。

 整えないための受け止め方がある、と彼女は知っている。


 エルの視線が卓に落ちる。

 二通の封蝋。

 二種類の匂い。

 二種類の“母”。


 シャルロットは、エルの前に座らない。

 向かい合うと、対決の形になる。

 対決は屋敷の形だ。

 代わりに、斜めに座る。

 視線が重なっても、逃げられる角度。

 逃げるためじゃない。息をするための角度。

 逃げる余地があると分かるだけで、人は前へ進める。


「どっちから?」


 シャルロットが問う。

 問うのは、選ばせるためじゃない。

 “あなたが決めていい”を、手順として与えるためだ。

 手順はときに刃になる。

 でも手順は、ときに命綱にもなる。

 屋敷の手順は人を均す。

 シャルロットの手順は、人を生かす。


 エルは少しだけ目を閉じた。

 閉じた瞼の裏に、屋敷の廊下が浮かんだのだろう。

 夜の静けさ。音を許さない壁。拾われるため息。

 そして、ミレイユの声。

 母の声は、いつも柔らかい形をしていた。柔らかい形のまま、人を逃げられなくする。


 エルは先に、濃い封蝋の方へ手を伸ばした。

 触れた瞬間、指が止まる。

 触れた瞬間に、身体が“知っている”反応をする。

 これを開けば、戻れなくなる。

 戻れなくなることが怖い。

 怖いのに、戻れない方が救いになる時があるのも知っている。


 シャルロットは、何もしない。

 止めない。促さない。

 ただ、机の端に指を置く。

 そこにいる、という現実だけを置く。


 エルは、封蝋を割らなかった。

 濃い封蝋の手紙から手を離し、もう一通――柔らかい色の封蝋に触れた。


「……母さんの方から」


 ミレイユの方。

 “母”という言葉が、屋敷の中でどれだけ危険なものか、シャルロットは知っている。

 母は優しい顔で刃を持ち込む。

 父は刃で切る。

 母は刃を“守る”と呼ぶ。

 守るという言葉は本来あたたかいはずなのに、ここでは息を止めるための合図になる。


 エルの指が震えた。

 封を切るのに時間がかかる。

 時間がかかるのは躊躇じゃない。

 これは、恐怖だ。

 恐怖は正しい。

 正しい恐怖を、ここでは否定しない。

 恐怖があるまま選ぶことが、彼が初めて手に入れた自由だからだ。


「開けなくてもいい」


 シャルロットはもう一度言った。

 矛盾ではない。

 “いつでも選び直せる”という事実を、繰り返し置くだけだ。

 選び直せると分かった瞬間、人は一度だけ選べる。

 選び直せないと分かった瞬間、人は最初から選べない。


 エルは、封を切った。


 紙が擦れる音がした。

 屋敷の夜なら、あの音だけで誰かが来る。

 ここでは来ない。

 代わりに、シャルロットが息を吸う。

 息を吸って、吐く。

 自分が均されないために。

 自分が均されれば、彼も均される。

 彼が均されれば、彼がここへ帰ってきた意味が消える。


 エルは手紙を開く。

 文字が見えた瞬間、目がほんの僅かに揺れた。

 母の筆跡。

 筆跡は、記憶そのものだ。

 筆跡で殴られる。

 殴られて、立っている。

 立っていることが、美徳ではない世界で、彼は立ってしまう。


 エルは、読み始めた。



 紙の上の文字は、整っている。

 整っているのに、丁寧すぎない。

 丁寧すぎないのは、母が“私的”を残そうとしている証拠だ。

 でも私的は、この屋敷では弱点になる。

 弱点を握られた人間から先に均される。

 だから母は、私的を残したまま、私的を守る鎧も着ている。

 その鎧の硬さが、読んでいる側の喉を締める。


――――――――――――――――――

ミレイユからエルディオへ

――――――――――――――――――


エルディオへ


あなたがこの封を切るかどうかは、あなたが決めていい。

読まずに捨ててもいい。燃やしてもいい。閉じたままでもいい。

それでも私は書く。

あなたに許されたいからではなく、私がずっと“言葉を使って整えてきた”ことに、最後まで言葉で責任を取るしかないから。


 ――最初の二行で、エルの指が紙の縁を強く押した。

 “決めていい”という言葉が、彼の中でいちばん信用できない種類の言葉だったからだ。

 決めていい、と言いながら、決めた瞬間に責めるのがこの家だった。

 彼はそれを、身体で知っている。


昨夜、あなたは私に怒鳴った。

怒鳴ったことを、どうか恥じないで。

恥じるのは、あなたの癖ではなく、私があなたに植え付けたものだから。


 エルは息を吸い損ねた。

 吸うべきところで吸えない。

 それは、屋敷で“怒り”を許されなかった人間の癖だ。

 怒りは醜い、と教えられた。醜いものは片付けられる、と教えられた。

 だから怒りは、喉の奥で窒息した。


あなたが言ったことは、正しかった。

「大丈夫」という言葉は、大丈夫ではない人間に向けて使われる。

私は何度もそれをあなたに言った。

あなたの顔を見ながら。あなたの声を聞きながら。

あなたが息をしているだけで精一杯だった日にも。


 シャルロットの指が、机の端を一度だけ撫でた。

 撫でる、という動作でさえ、彼女は慎重になる。

 慰めに見えた瞬間、それは“整え”になる。

 整えられた痛みは、本人のものじゃなくなる。

 彼女は彼の痛みを、彼のものとして残したい。


私は、母として寄り添わなかった。

寄り添えなかった、ではなく。

寄り添わなかった。

私は“母の位置”に立たなかった。


――リィナの時、私はそこにいなかった。


 ここで、エルの視線が一度だけ紙から浮いた。

 浮いて、空を見た。

 空を見る癖は、泣かないための癖だ。

 泣けば拾われる。拾われれば形にされる。形にされれば責められる。

 だから空を見る。

 空なら、誰も拾えない。


 シャルロットは、空を見ない。

 彼の逃げ道を奪わないために、彼女は彼の逃げ方を真似しない。

 ただ、呼吸の速度を落とした。

 “ここでは拾われない”という温度だけを、部屋に置く。


あなたの隣に立つべきだった。

あなたの手を握るべきだった。

あなたが何を失っているのかを、あなたより先に見て、止めるべきだった。

でも私は、見てしまうのが怖かった。

見た瞬間に、母として何かをしなければならない。

何かをした瞬間に、屋敷の空気に逆らう責任が生まれる。

私は、その責任を取る勇気がなかった。


私は、あなたを守るという言葉を使って、あなたから“母”を奪った。

母を奪われた子は、泣き方を忘れる。

私はあなたから泣き方を奪った。

そのくせ、泣かないあなたを「立派だ」と言った。

立派だと言えば、私は母でいなくてもよかったから。


 紙の上の「立派だ」が、エルの喉を直接殴った。

 言われた回数だけ、彼は“泣く”という動作を忘れた。

 忘れたふりをして、忘れたことにして、忘れることで生き延びた。

 生き延びたはずなのに、今さら返される。

 返されるのは、罪だ。

 返されるのは、“あなたは泣けたはずだった”という残酷な事実だ。


私は、母でいる資格が欲しかった。

資格が欲しいと言うのは醜い。

でも私は、ずっと醜かった。

母であることを“役割”にして、その役割をうまくこなしている自分に安心したかった。

あなたを愛していたのに。

愛していることを理由に、あなたを整えた。


 エルの指が紙を折りかけた。

 折れば、続きが読めない。

 読めなければ、今の痛みが途中で止まる。

 止まれば助かる。

 助かるはずなのに、彼は折らない。

 折らないのは、彼が優しいからじゃない。

 折らないのは、彼が“整えられてきた自分”を、今さらでも否定したいからだ。

 否定できるなら、否定していいと言ってくれる人がここにいるからだ。


――メイリスの時、私は気づいていた。


 この一行で、エルの肩が小さく跳ねた。

 跳ねるのは驚きじゃない。

 確認だ。

 やっぱり、という確認だ。

 “気づいていたのに止めなかった”という形で、世界が固まってしまう確認だ。


早くから気づいていた。

あなたの目の焦点がどこに合っていないか。

あなたの呼吸がどこで止まるか。

あなたがどんな言葉を飲み込む癖があるか。

私は知っていた。

リィナの時に、知ってしまったはずだった。


なのに私は止めなかった。

止められない状況だった、と言えば私は少し楽になります。

でもそれは嘘になる。

私は止めなかった。

分かっていて、止めなかった。

あなたがまた同じように削られていくと分かっていて、見ている側に立った。


それが、私の罪です。

気づけなかった罪ではない。

気づいていたのに、動かなかった罪です。


 エルの唇が開いた。

 声が出そうで、出ない。

 出すべき言葉が、どれか分からない。

 怒りか。悲しみか。拒絶か。許しではない。

 許しだけは、彼の中にいちばん早く出てくる癖がある。

 許せば静かになる。静かになれば助かる。

 その癖で何度も死にかけた。

 だから今、出さない。


 シャルロットが、机の上に置いていた自分の手を、ほんの数センチだけ近づけた。

 触れない。

 触れない距離で、そこにいる。

 “今は許さなくていい”という距離。


私が“守る”と言うたびに、あなたは黙った。

あなたが黙るたびに、私は安心した。

あなたが声を上げないほど、屋敷は静かになる。

静かになれば、私は「家庭は保たれている」と思えた。

家庭が保たれていることと、あなたが生きていることは、同じではないのに。


あなたは昨夜、私に言った。

「分かった顔をされるのがいちばん嫌だ」と。

その言葉で、私の中の何かがほどけました。

私はあなたを理解したいのではなく、理解した“ことにしたい”だけだったのだと。


私は、あなたの帰る場所に触れた。

触れてはいけないものに触れた。

あなたが“帰る場所にしたい”と言った人に、私が屋敷の言葉で触れようとした。

「節度」「手順」「擦り合わせ」――そういう言葉で。

その瞬間、私はまた母ではなく、屋敷の一部になった。


 “帰る場所”という単語のところで、エルの瞼が震えた。

 震えるのは涙じゃない。

 泣けない自分の、最後の抵抗だ。

 帰る場所は、彼の中でまだ怖い。

 帰る場所を持つと、失う怖さが増える。

 失う怖さを増やさないために、彼は今まで帰らなかった。

 帰れなかった。

 帰る、と言ってしまえば、この家が触ってくるから。


エルディオ。

私はここで、あなたに謝って許してほしいとは言いません。

許してほしいと言った瞬間、あなたは優しいから、私を許してしまう。

あなたの優しさを、私はもう使いたくない。


 ――ここで、彼の喉が鳴った。

 優しいから、許してしまう。

 その“癖”を、母に言語化されるのは残酷だ。

 彼の優しさは武器だったのに、今は弱点として暴かれる。

 弱点は、均される。

 均される、と思った瞬間、彼の背中が硬直した。


 シャルロットが、椅子の脚をわずかに動かした。

 音がしない程度。

 “対決”にならない角度を、ほんの少しだけ彼に寄せる。

 寄せるのは近づくためじゃない。

 彼が硬直したままでも、倒れない距離にするためだ。


だから私は、許可を書きます。

許可は、あなたの人生の主導権をあなたに返すための言葉です。

母が出していい種類の言葉ではないのかもしれない。

でも私は、母としてできなかったことを、今さらでもやる。


私は、あなたの結婚を止めない。

あなたが選んだ人を、屋敷の言葉で裁かない。

あなたが帰る場所を作ることを、整えない。

管理しない。

“守る”という言葉で縛らない。


 「止めない」の一行で、エルの呼吸がいったん戻った。

 戻って、すぐに詰まった。

 止めない。

 止めない、という言葉は許可に聞こえる。

 でも許可は、許可を出せる側が存在することを前提にする。

 母が許可を書くという形で、母はまだ“上”にいる。

 それが、彼を苦しくする。

 苦しいのに、嬉しい。

 嬉しいのに、腹が立つ。

 混ざったままの感情を、彼はまだ言葉にできない。


私は、あなたを整えようとしてしまった。

それが私の癖であり、罪であり、弱さです。

整えることで、私は自分が正しい側にいる気がした。

正しい側にいれば、あなたが傷ついている現実を見なくて済んだ。


私は、もうその逃げ方をやめます。

あなたが私を許さなくてもいい。

あなたがこの屋敷を二度と見なくてもいい。

あなたが私の名前を呼ばなくてもいい。


ただ、あなたが生きることだけは、やめないで。

あなたが“帰る場所”に帰ることを、罪にしないで。


最後に、私の中でずっと言えなかったことを一つだけ書きます。


私は、あなたを愛している。

愛しているのに、母でいなかった。

その矛盾を、もう言い訳で薄めない。


あなたの未来に、私が居場所を持てなくてもいい。

でもあなたの未来が、あなたの手の中にあることだけを、私は願う。


ミレイユ


追伸

アインは、近く何かを動かすでしょう。

私は、止めません。止められないのではなく、止めないのです。

あなたがもう“止められること”を前提に生きないために。


――――――――――――――――――



 読み終えた瞬間、エルの指先が紙の端を強く掴んだ。

 強く掴むのは、破らないためだ。

 破れば、読まなかったことにできる。

 読まなかったことにしたくない。

 ――読んでしまった。読んでしまったから。


 読んでしまった以上、母の罪は母のものとしてだけでは終わらない。

 受け取った側の肉になる。

 肉になった言葉は、抜けない。


 呼吸が、一度だけ途切れる。

 途切れた瞬間、部屋の空気が変わる。

 変わるのは、涙の前だ。

 泣く前の人間は、もっとも危うい。

 泣く前の人間は、泣けない自分を最後まで守ろうとする。

 守ろうとするほど壊れる。

 でも泣くのは、ここでは許されている。

 許されていることが、逆に怖い。


 エルは、追伸の行をもう一度見た。

 “止めない”

 その語尾が、喉に残る。

 止めない、は冷たい。

 止めない、は優しい顔をしている。

 優しい顔の冷たさは、いちばん人を切る。


 シャルロットは何も言わない。

 言葉を置けば、整えるになる。

 整えたくない。

 彼の中で今ほどけているものを、形にしたくない。

 形にした瞬間、屋敷の手順に似てしまう。

 似てしまったら終わりだ。

 彼は“似ている”だけで戻ってしまう。戻って、均される。


 エルの唇が僅かに震えた。

 震えは怒りではない。

 恐怖でもない。

 ――理解だ。

 理解してしまうと、人は泣く。泣くと決めていなくても、理解が涙を引きずり出す。


 紙が小さく鳴った。

 手紙が、エルの手の中で震えた音だ。

 音が鳴っても、ここでは誰も拾わない。

 拾わないことが、こんなにも残酷で、こんなにも救いだと、シャルロットは知っている。


 シャルロットは卓の上の濃い封蝋――エレオノーラの手紙を見た。

 封蝋の濃さが、別の種類の刃を予告している。

 ミレイユの刃は柔らかい。

 エレオノーラの刃は、柔らかさを装って硬い。


「……次」


 エルが言った。

 声が幼い。

 幼い声は、恥ではない。

 生きている声だ。

 生きている声は、屋敷ではすぐに均される。だから彼は、幼い声を出すたびに自分を恥じてきた。

 でもここでは、幼い声が許される。許されるだけで、泣けてしまう。


 シャルロットは頷く。

 頷くことで、彼が選んだ順番を肯定する。

 選ぶ権利を、守る。

 守るという言葉を使いながら、守りを縛りにしない。その難しさを、彼女は知っている。

 だから彼女は、言葉ではなく姿勢で守る。

 選ぶ権利を奪わない姿勢で守る。


 濃い封蝋を、シャルロットが受け取った。

 受け取るのは彼女の役目だ。

 エルに最初の刃を握らせない。

 彼の手は、今、泣くために残す。

 泣くための手を、刃で汚させない。


 封蝋に押された家紋。

 押された形は、ただの印ではない。

 「家」そのものだ。

 個人を均し、意思を均し、言葉を均す装置。

 装置は感情を持たない。感情を持たないものは、責任も持たない。

 責任を持たないまま、正しさだけで人を殺す。


 シャルロットは封を切った。

 音は小さい。

 でも、部屋の温度が一段下がる。

 ――紙の音は、時に氷より冷たい。

 氷は溶ける。

 紙に刻まれた正しさは、溶けない。


 中の紙は厚い。

 上質だ。

 つまり、丁寧だ。

 丁寧な刃は、よく切れる。切れたことに気づくのが遅れる。

 気づいた時には、もう血が止まらない。


 シャルロットは読み始めた。



 最初の行で分かる。

 これは“母”からの手紙だ。

 でも同時に、母が母のままでいられる範囲を、母自身が必死に測っている文字だ。

 測りながら書く文字は、揺れる。

 揺れた文字のまま、整えようとする。

 整えようとするほど、母は母でなくなる。

 その矛盾が、紙の上ににじむ。


――――――――――――――――――

エレオノーラからシャルロットへ

――――――――――――――――――


シャルロットへ


突然の手紙を許してちょうだい。

本当なら、あなたの目を見て言うべきことだと分かっている。

けれど私は、目を見てしまうと、言葉を“選ぶ”ことに逃げる。

選んだ言葉は綺麗で、綺麗な言葉は人を縛る。

あなたが嫌うのは、そういう縛りでしょう。

だから今日は、綺麗にしない。綺麗にできない形のまま書く。

母親が母親であるために、逃げないで書く。


まず、これだけははっきり書きます。


一度、アルヴェイン様を、こちらへお連れなさい。


 ――命令だ、とシャルロットの胸が即座に判断した。

 判断した瞬間、反射で笑いそうになった。

 この家の言葉はいつも命令の形をしている。

 命令を命令だと認めた瞬間、負ける気がする。

 だから笑う。

 笑うことで、痛みをごまかす。

 ごまかしが癖になっている。

 それに気づいた瞬間、笑えなくなった。


命令の形になってしまったことを、先に謝ります。

けれど私は、“お願い”という形で書くことを選びません。

お願いは断れるように見えて、断った人間だけが責められる形になる。

あなたが責められる形を、私は母として残したくない。


あなたは、アルヴェイン様の隣に立つことを選んだ。

選んだなら、あなたはもう一人ではありません。

喜びではなく、現実として書きます。

一人ではない人間には、一人ではない現実が押し寄せる。

押し寄せるものの中に、“家”が含まれる。


当家当主アルベルトは、近くあなたに正式な招待を出すでしょう。

礼儀と形式の整った、拒否権があるように見える招待です。

けれどあなたは知っているでしょう。

拒否権があるように見える招待ほど、拒否権は薄い。

薄い拒否権は、拒否した人間の方を悪者にする。


私は母として、あなたが悪者になるのを見たくない。

あなたが悪者になれば、あなたはきっと“正しい顔”で耐えてしまう。

耐えるあなたは美しいでしょう。

けれど美しさは、あなたを救わない。

美しさは、あなたをさらに孤独にする。

孤独になった人間は、最後に誰にも見えない場所で壊れる。


 シャルロットの視線が一行だけ止まった。

 “誰にも見えない場所で壊れる”

 そこに、覚えがある。

 覚えがあるのは、自分のことじゃない。

 エルのことだ。

 彼は壊れるとき、静かだ。

 静かだから、誰も気づかない。

 気づかないふりをするのが、屋敷の礼儀だった。


私は、あなたがそうなる未来を見たくない。

見たくないのに、私は見てきた。

家の中で、何人もそうやって壊れていくのを。

壊れた後で、家は言うのです。

「守った」と。

「最善だった」と。

「これが正しい」と。


あなたは、その正しさを嫌っている。

嫌っているからこそ、あなたはアルヴェイン様を抱きしめたのでしょう。

抱きしめるという行為が、どれほど勇気かを、私は知っている。

抱きしめるのは、相手の壊れ方を引き受けることだから。

抱きしめた瞬間から、相手の痛みはあなたの生活に混ざる。

それを“生活”として引き受ける覚悟が、あなたにはある。


だから私は、母として言う。

あなたの覚悟を、軽く扱わないで。

軽く扱うのは、家のやり方です。

家は“覚悟”を、手順に変える。

手順に変えれば、誰も痛まないように見えるから。

でも痛みは消えない。消えない痛みは、誰かの内側に溜まる。


あなたは、痛みを薄めない人ね。

薄めないから、あなたは重い。

重いあなたを、私は怖いと思ったことがある。

怖いと思った自分を、私は恥じている。

母が娘を怖がるなんて、滑稽でしょう。

けれど私は、怖かった。

あなたが“選ぶ”ことを恐れなかったから。

選ぶ娘は、家を壊す。

家が壊れれば、守られてきたはずのものが露出する。

露出したものの醜さを、私は見たくなかった。


――でも、あなたはもう選んだ。

選んだことを、私は誇りに思う。


 誇り、という言葉が喉に刺さった。

 褒め言葉は縛りになる。

 縛られたくない。

 縛られたくないのに、誇りと言われると、少しだけ救われる。

 救われるのが悔しい。

 悔しいのに、救われたい。

 その矛盾を、シャルロットは黙って飲み込んだ。

 飲み込んだ瞬間、屋敷の空気に似る。

 似たくない。

 だから彼女は、次の行へ進む。

 飲み込んだまま、歩く。


誇りに思うと言うのは、あなたを縛るかもしれない。

だから誇りではなく、事実として書く。

あなたは選んだ。

選んだあなたは、強い。

そして強いあなたは、きっと壊れ方も知っている。

壊れ方を知っている人間の強さは、優しい。


アルヴェイン様についても書きます。

これは母の手紙だから。

あなたにだけ伝える、母の言葉として書く。


アルヴェイン様は、弱い方ではありません。

ただ、弱さを許されなかった方です。

許されなかった弱さは、いつか別の形で噴き上がる。

噴き上がるとき、本人が一番驚く。

驚いたまま、自分を責める。

責めながら、正しい顔に戻ろうとする。

正しい顔に戻った瞬間、助けを求める力が消える。


 シャルロットの指先が、紙の端を一度だけ押した。

 押すのは、折らないためだ。

 折れば、ここで終わる。

 終わらせたくない。

 終わらせれば、家の都合で終わる。

 家の都合で終わる物語にしたくない。


――あなたは、それを止められる人です。


止める、と書くと乱暴ね。

でも私は乱暴でも書く。

止めるというのは、縛ることではない。

戻ってこさせること。

帰ってこさせること。

本人が本人に戻るまで、そこに居続けること。


あなたは居続けられる。

居続けると決めた人間の目を、私はあなたの中に見た。


だからこそ、家はあなたに触れます。

触れることで、家は安心する。

安心するために、家は形を欲しがる。

形は便利です。

形は人を整える。

整えられた人間は、表面だけ美しい。

美しい表面の裏側で、息ができない。


私は、あなたに息をしてほしい。

あなたが息をしていなければ、アルヴェイン様も息ができない。

あなたが倒れれば、家は言うでしょう。

「あなたは頑張りすぎた」と。

「あなたのため」と。

その言葉で、アルヴェイン様はまた黙る。

黙って、正しい顔をする。

それを私は見たくない。


だから、一度。

一度でいいから、こちらへ彼をお連れください。


日取りはあなたに委ねます。

ただし、“先延ばし”だけはしないで。

噂が均されるまで待つことは、家にとって最も都合のよい時間稼ぎです。

均された後に残るのは、あなたの意思ではなく、既定の形になります。

形になったものは元に戻らない。

戻らない形は、あなたを疲れさせる。


これは、私の母としての願いです。

あなたの願いではない。

あなたに背負わせる願いにはしたくない。

だから願いは願いとして、紙の上で終わらせる。

あなたはあなたの責任で選びなさい。

選んだなら、母として私も責任を取ります。


――アルベルトは急かすでしょう。

急かすことが正しいと信じている人だから。

けれどあなたが急かされる必要はありません。

急がされる必要があるのは家の側です。

家は、均す前に確保したい。

均す前に、あなたを“形”にしたい。

形にしてしまえば、あなたの怒りも悲しみも“扱えるもの”になるから。


最後に、これは母親としての言葉です。

あなたにだけ言います。

誰にも見せないで。誰にも聞かせないで。

あなたが信じる人にだけ、心の中で渡して。


私は、あなたが怖い。

怖いのは、あなたが間違えるからではない。

あなたが正しいからです。

正しさは、家にとって最大の敵です。

正しい人間は、家の嘘を見抜いてしまう。

嘘を見抜かれた家は、必ず何かをする。

何かをする前に、あなたをこちらへ連れてきなさい。

連れてきて、家の目の前で、あなたの覚悟を“現実”にしてしまいなさい。

現実になった覚悟は、簡単には消えない。

消えないものは、家にとって扱いにくい。

扱いにくいものほど、人を救う。


私は、あなたの味方だとは言いません。

味方と言った瞬間、あなたは私の言葉を信じすぎる。

信じすぎると、あなたはまた誰かを背負う。

背負わないで。

あなたは、もう十分背負っている。


――お願いではなく、母としての現実です。

一度、お連れください。


エレオノーラ


追伸

あなたがもし、手紙を読んで泣きたくなったなら、泣いていい。

泣いたからといって、あなたは弱くならない。

弱くならないあなたが、私はときどき怖かった。

怖かったのに、あなたが泣かないことを“立派”だと褒めた。

褒めた言葉で、あなたを縛った。

そのことを、私は忘れません。


――――――――――――――――――



 読み終えた瞬間、紙の重さが変わったように感じた。

 重さが変わるのではない。

 読む前は“未知の刃”だった。

 読んだ後は“形を持った刃”になった。

 形を持った刃は、逃げられない。


 シャルロットは息を吐いた。

 息を吐いて、整えない。

 整えたい衝動が喉に上がる。

 喉に上がった衝動を、喉の奥に戻す。

 これは、彼女の戦いだ。

 優しくまとめるのは簡単だ。

 でもそれは屋敷のやり方だ。

 屋敷と同じやり方で守った瞬間、守りは縛りになる。


 紙の上の「泣いていい」という追伸が、シャルロットの喉を少しだけ刺した。

 母は娘に泣いていいと言った。

 それが本当の優しさなのか、遅すぎる優しさなのか。

 遅すぎる優しさは、刃になる。

 でも優しさが刃になったからといって、優しさが嘘だったわけではない。

 ――真実の優しさほど、人は扱い方を間違える。


 エルが、怯えた目でシャルロットを見る。

 その目は、手紙の内容を聞かずに理解しようとしている目だ。

 理解は、彼にとっていつも“次に来る刃”だった。

 理解した瞬間に、次が来る。

 次のために、正しい顔を作る。

 その反射が、彼を生かしてきた。

 生かしてきた反射が、今は彼を苦しめる。


 シャルロットは言った。

 要約はする。

 でも、薄めない。

 薄めたら、彼はまた“分かったふり”で死ぬ。


「……一度、連れて来いって」


 エルの肩が、ほんの僅かに上がる。

 上がる肩は、拒否の準備だ。

 拒否しなければならない。

 拒否してはいけない。

 その矛盾の中で、人は固くなる。

 固くなって、動けなくなる。動けなくなった人間は、屋敷の望み通りの形になる。


「……タイミングが」


 エルが言う。

 言い終わる前に、自分で分かってしまったのだろう。

 タイミングが良すぎることが、支配の証明だと。

 家は偶然を装う。

 偶然の形で現実を固定する。

 固定された現実は、抵抗する側を悪にする。


 シャルロットは頷いた。


「タイムリーすぎる」


 言語化する。

 怖さを言葉にする。

 言葉にした怖さは、刃ではなくなる。

 怖さを“共有できる現実”に変える。

 共有できる現実は、二人の間で温度になる。温度は鎧になる。


 エルの指が、ミレイユの手紙を握りしめたまま、微かに震えた。

 震えが止まらない。

 止めようとするほど震える。

 止めようとするのは癖だ。屋敷では震えは未熟の証明になる。

 未熟は処理される。処理される前に、震えないふりをする。

 その癖が、いまも彼の筋肉に残っている。


「……母さんも、最後に言ってた」


 追伸を思い出した声だ。

 声が硬い。

 硬い声は、涙を止めるための声だ。

 涙を止めるために声を硬くするほど、涙は内側で増える。

 増えた涙は、ある日突然溢れる。

 溢れた時、人は自分を責める。責めると、屋敷に戻る。


「父が、動くって」


 アイン。

 アルベルト。

 父の名は、どちらも“動く”とき、個人の感情ではない形で動く。

 それが恐ろしい。

 恐ろしいのに、止められない。

 止められないものに対して、人は「耐える」しかなくなる。

 耐えるしかなくなると、人は正しさにすがる。正しさは人を殺す。


 シャルロットは、エレオノーラの手紙を卓に戻した。

 戻して、エルの方へ視線を移す。


「条件、思い出して」


 昨日――いや、今朝。

 朝の極甘の中で置いた条件。

 それは縛りではなく、呼吸のための柵だ。

 柵は閉じ込めるためじゃない。

 落ちないためにある。


「壊れそうな日は、言う」


 エルの喉が鳴る。

 言う、という言葉が、彼にはまだ怖い。

 言えば拾われる。拾われれば形になる。形になれば管理される。

 その連鎖が身体に刻まれている。


「“大丈夫”は禁止」


 エルの唇が震える。

 禁止という言葉が、屋敷では命令だった。

 ここでの禁止は、彼を殺した言葉を追放するための禁止だ。

 同じ単語でも意味が違う。

 意味が違うと信じることが、彼にはまだ難しい。


「嘘で優しくしない」


 震えが、少しだけ深くなる。

 嘘で優しくする癖は、彼の命綱だった。

 命綱を外すのは怖い。

 でも命綱のせいで、彼はずっと“外”に帰ってしまっていた。


 シャルロットは最後を言った。

 言うのは命令じゃない。

 彼に戻る場所を思い出させるためだ。


「帰ってくる」


 その言葉で、エルの目から何かが落ちた。

 落ちたものは涙だ。

 涙が落ちる音は小さい。

 でも、屋敷ではその小さい音が拾われ、刃に変えられる。

 ここでは拾われない。

 涙は涙のまま落ちる。

 落ちた涙は、彼の罪にならない。

 罪にならない涙がある、と知っただけで、人は泣けてしまう。


 シャルロットは、泣かない。

 泣きたい。

 泣きたいのに、今泣くと“慰め”になる。

 慰めは危険だ。

 慰めは、正しさの匂いを帯びる。

 正しさは、彼を殺す。

 彼は正しさで殺されてきた。

 正しさの香りがしただけで、息が止まる。


 だからシャルロットは、泣く代わりに手を伸ばした。

 頬には触れない。

 頬に触れたら涙が増える。

 涙を増やしてしまうのは、彼の意志ではなく自分の意志になる。

 それはしたくない。

 彼の涙は、彼のものとして落ちてほしい。

 誰の許可でもなく、誰の整理でもなく。


 指先に触れる。

 指先は逃げられる。

 逃げられる触れ方は、彼に選択を残す。

 選択が残るだけで、泣き方は少しずつ思い出せる。


「……行く?」


 シャルロットは訊いた。

 訊く、ではない。

 置く。

 “選ぶ場所”を置く。

 行くことを正解にしない。行かないことを逃げにしない。

 選べる状態を作るのが、彼女の役目だ。


 エルは、息を吸って、吐いた。

 吐いた息が震える。

 震える息のまま、言う。


「……怖い」


 怖い。

 その一言は、屋敷で言えなかった言葉だ。

 怖いと言った瞬間、人は管理される。

 管理される前に、怖いと言えなくなる。

 彼は今、管理されない場所で怖いと言った。

 それだけで、少しだけ救われる。

 救われることが、また怖い。救いは裏切りの形で返ってくると知っているから。


 シャルロットは「大丈夫」と言わない。

 代わりに言う。


「怖いまま、行く」


 怖さを消さない。

 怖さを持ったまま進む。

 それが彼らのやり方だ。

 恐怖を“無かったことにする強さ”ではなく、恐怖を“抱えて進む強さ”。


 エルが笑う。

 笑いは苦い。

 苦い笑いは、覚悟の笑いだ。

 覚悟の笑いは、幸福とは違う。

 幸福は温かい。覚悟は冷たい。

 でも冷たさは絶望じゃない。

 冷たさは、刃に触れた手の温度だ。


「……僕、行かなきゃって言いそうになる」


 屋敷の癖。

 義務で生きる癖。

 正しさで息をする癖。

 癖は簡単に抜けない。抜けない癖を責めると、人はまた嘘をつく。

 嘘をついた瞬間、彼は屋敷へ帰る。


 屋敷へ帰らせない。

 帰るのはここだ。

 帰る場所を、言葉で確定させる。


 シャルロットは即答した。


「言いそうになった、って言えたなら十分」


 十分。

 十分という言葉が、彼を生かす。

 屋敷は十分と言わない。

 屋敷はいつも、もっとと言う。

 もっと正しく。もっと強く。もっと整えて。

 もっと、もっと、と言われ続けた人間は、自分の呼吸の速度を忘れる。


 エルの喉が鳴った。

 また涙が落ちる。

 落ちる涙を、シャルロットは拭わない。

 拭うのは片付けだ。

 片付けた瞬間、彼の痛みは整理され、管理される。

 管理された痛みは、本人のものではなくなる。本人のものではなくなった痛みは、あとで本人を刺す。


 シャルロットは、ただ言った。


「……ここに戻ってくる」


 宣言。

 約束ではない。

 約束は破られる前提で人を縛る。

 宣言は、自分の責任で生きる言葉だ。

 自分の責任で生きる、は彼にとってまだ怖い。

 でも怖いまま、生きるしかない。

 怖いまま生きられる場所を作るのが、彼女の仕事だ。


 エルは小さく頷いた。

 頷きの中に、恐怖が混ざる。

 でも頷きの芯に、今朝の“帰ってきた”が残っている。

 残っている温度がある限り、彼は外へ行っても戻ってこられる。


 シャルロットは、二通の手紙を重ねた。

 重ねるのは、均すためではない。

 二枚の現実があることを、見失わないためだ。

 二枚の現実を、これから二人で持つ。


 そして、最後に――ミレイユの追伸の一行が、部屋の隅で静かに立ち上がる。


 当主は、近く何かを動かすでしょう。


 動く。

 動くものは止められない。

 止められないものに対して、彼らができるのは一つだけだ。


 ――帰ってくる場所を、動かないものにする。


 シャルロットは、エルの指を握り直した。

 強くない。

 でも外れない。


「エル」


 名前を呼ぶ。

 呼ぶだけで責任を取らされない場所で、呼ぶ。

 呼んでも均されない場所で、呼ぶ。


「行こう。――終わらせるためじゃない。始めるために」


 エルは、涙のまま笑った。

 笑いながら、震える息で言う。


「……うん」


 その「うん」は、今朝の「うん」より冷たい。

 でも冷たさは絶望じゃない。

 冷たさは、刃に触れた手の温度だ。

 刃に触れた手でしか掴めない未来がある。


 外は動く。

 家は動く。

 父は動く。

 そして――彼らも動く。


 動いても、帰る場所は消さない。

 消さないと決めた人間の目を、シャルロットは見た。

 見てしまったから、もう引き返せない。

 引き返せないことが、今は救いだった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


この話は、何かが起きた話ではありません。

剣も、魔法も、叫びもない。

あるのは、二通の手紙と、朝の静けさと、帰ってくる場所を失わないための選択だけです。


でもたぶん、

ここで一番大きなものが動きました。


「行く」ことよりも先に、

「戻ってくる」と決めたこと。

それが、この物語にとっての事件です。


エルは、救われる側ではありません。

そしてシャルロットも、救う側ではありません。

二人がしているのは、

壊れないように一緒に立つことだけです。


ミレイユの手紙は、謝罪ではありません。

許しを求める言葉でもありません。

あれは、母が初めて「子どもの人生に触らない」と決めた証です。

遅すぎるかもしれない。

それでも、書かれなかったよりは、ずっと救いがある。


エレオノーラの手紙もまた、味方の言葉ではありません。

でも敵でもない。

あれは、家の中で長く生きてしまった母親が、最後に娘へ渡した現実です。

優しさと残酷さが同じ筆圧で書かれているのは、そのせいです。


この章で描きたかったのは、

「怖くない選択」ではありません。

怖いまま選ぶことが、もう孤独ではないという事実です。


次から、世界はちゃんと牙を剥きます。

家は動きます。

父は動きます。

均そうとします。

正しさを振りかざします。


でも、もう一度だけ言わせてください。


彼らには、帰る場所があります。

動いても、壊れても、泣いても、

戻ってきていい場所があります。


それを守る話が、ここから始まります。

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