08.春が終わるまで-1
夜になると呼吸が浅くなる。
理由は分かっている。
分かっているから、慌てない。
だって、いつものことだから。
ベッドに横になり、天井を見つめながら、
私はゆっくりと呼吸を整える。
吸って、吐いて。
胸の奥が軋む感覚にも、だいぶ慣れてきた。
――大丈夫。
まだ、今日は大丈夫。
身体の痛みよりも、胸に広がる別の感覚の方が、ずっと厄介だった。
(……もう、エルにばれたかもしれない。)
昼間のことが頭から離れない。
立ち上がる時、足が言うことをきかなかった。
ほんの一瞬。
ほんの少し、世界が傾いただけ。
それなのに――
エルの顔が、やけにはっきり浮かぶ。
彼は、気づく人だ。
優しくて、鈍感で
そして――無駄に聡い。
(やだな…)
喉の奥で、言葉にならいい気が零れる。
春は好きだった。
でも同時に、一番怖い季節でもある。
だって春は、
全部がなくなってしまう季節だから。
♢
私は春が好きだった。
この地域の冬は、ただ寒いだけじゃない。
骨の奥まで冷えて、息を吸うたびに肺が縮むような、容赦のない冷たさが続く。
雪は音を吸い取って、世界を白く塞いでしまうのに――私の身体の中だけは、逆に騒がしくなる。
冷えると痛みが増す。
皮膚の上じゃない。もっと深いところ。関節の奥、筋の内側、血の流れの先。
そこに針を落とされて、ゆっくり回されるみたいに痛む。
痛いから動けないのか、
動けないから痛いのか、
冬はそれすら分からなくなる。
布団の中で丸くなって、指先を握って、息を数えて、
「大丈夫」と言い聞かせて、
それでも夜になると、痛みは必ず追いついてくる。
暖炉の火が揺れても、
厚い毛布を重ねても、
身体の芯の冷たさだけは、どうしても取れない。
そういう冬を、私は毎年、黙ってやり過ごしてきた。
黙るのは得意だった。
痛いと言ってもどうにもならないことを、私は知っていたから。
だから、春が来ると、嬉しかった。
春になると寒さが和らいで、空気が少しだけ軽くなる。
朝、窓を開けたときに入り込む風が、冬の刃みたいな冷たさじゃなくて、
ほんのわずかに湿った匂いを含んでいる。
土の匂い。
草の芽の匂い。
溶けた雪が残した、水の匂い。
それだけで、胸の奥が少しだけほどける。
息がしやすい、と思える瞬間が増える。
痛みは消えない。
でも、少しだけ薄まる。
「今日なら歩けるかもしれない」と思える日がある。
そうすると、自然と外に出られる日も増えてくる。
春は、私の身体にとっての「猶予」だった。
何も良くならなくても、まだ決定的に悪くもならない時間。
その短い間に、私はいつも、畑へ向かった。
畑、と言っても立派なものじゃない。
村の外れの、誰も使わなくなった小さな庭。
雑草の間から薬草が顔を出して、
それを、彼が――エルが、黙々と手入れしていた。
最初に見たとき、私は驚いた。
貴族の子どもが、土を触っている。
それだけで、普通じゃない。
でも、もっと驚いたのは、
彼がそこにいる時だけ、肩の力が抜けていることだった。
エルは、何かを背負っている顔をしている。
それが何かは聞かなかった。
聞いたら、きっとここが壊れてしまう気がしたから。
彼は私を見て、名前を聞いて、
「エル」とだけ名乗った。
たった二文字。
なのに、その二文字が、私の胸の奥にすっと落ちてきた。
坊ちゃまでも、様でもなく、
誰かの期待を背負う呼び名でもなく、
ただの「エル」。
それは、彼がこの場所でだけ許される自分の名前みたいに聞こえた。
私は春が好きだった。
春になると、畑に行ける。
畑に行けるということは、エルに会えるということだ。
いつも通りの私で、畑に行き、彼と言葉を交わす。
短い挨拶。短い会話。
作業の音。風の音。
葉が擦れる音。
それだけの時間が、私にとっては充分だった。
「それ、何の草?」
「苦い」
「……薬の名前じゃないよね」
「うん。でも、苦い」
そんな会話をして、彼が困ったみたいに笑う。
その笑顔を見ると、私は少しだけ胸が温かくなった。
エルは、優しい子だ。
そして、怖い子だ。
優しいのは、たぶん本当。
怖いのは、彼自身がそれに気づいていないところ。
彼は時々、無自覚に人を救おうとする。
救おうとするというより、
「救わなきゃいけない」と思ってしまう。
その目を、私は何度か見た。
自分のことを、まるで誰かの代わりみたいに扱っている目。
望まれることに慣れすぎて、
望まれるままに動いてしまう目。
私は、そういう目を知っている。
そういう目の人が、最後にどうなるかも。
だから私は、彼に「大丈夫」をあげたかった。
否定も肯定もしないで、
ただここにいていいと、態度だけで伝えたかった。
――でも今は、春が嫌いだ。
春が嫌いなんじゃない。
春の終わりが、怖い。
今年の春は、少し長いと思っていた。
去年より歩ける日が多い。
息が苦しくなるまでの間隔が長い。
痛み止めの効き方が、ほんの少しだけ良い。
だから、私は内心で数えていた。
あと何回、畑に行けるか。
あと何回、エルの声を聞けるか。
あと何回、「またね」と言えるか。
春が続いているあいだは、まだ大丈夫。
そんなふうに、私は勝手に決めていた。
でも、春が深くなるほど、身体は正直になっていった。
朝、起き上がるのが遅くなる。
立ち上がる時に、一拍余計に息を吸う。
歩幅が小さくなる。
畑に入る前、ほんの一瞬だけ立ち止まってしまう。
歩き方が変わったわけじゃない。
足を引きずっているわけでもない。
それでも、自分の身体が「慎重になっている」のが分かる。
痛みは、私に命令する。
無理をするな。
今日は抑えろ。
次の一歩を急ぐな。
それに従うたび、私は少しずつ、何かを失っていく気がした。
そして、エルにも、きっとバレている。
彼は賢い。
いや、賢いというより、観察するのが上手い。
自分のことには鈍いのに、人の小さな変化には気づいてしまう。
彼が私から少しだけ距離を取る瞬間があった。
触れようとする手が、ほんの少しだけ止まる瞬間があった。
笑顔のまま、目だけが揺れる瞬間があった。
私はそれを見て、胸が痛くなった。
バレたくない。
でも、バレてほしくもある。
その矛盾が、私を苦しくした。
バレたら、エルはきっと救おうとする。
救えないものまで救おうとして、
自分を削って、壊れてしまう。
私は、エルが壊れるのを見たくない。
だから私は、いつも通りに振る舞った。
いつも通りの声。
いつも通りの笑顔。
いつも通りの「大丈夫」。
「なにか、あった?」
「なにも」
そう言う時、私は本当は言いたかった。
――あるよ。
――ずっと前から。
――でも、言えない。
言ってしまったら、
ここが終わる気がした。
畑が、
春が、
エルの「エル」でいられる場所が。
私はそれを壊したくなかった。
この春を乗り切ったとしても、夏を越えられる保証はない。
夏は熱に体力を奪われる。
汗をかけば、それだけで眩暈がする。
夜が長くなれば、呼吸は浅くなる。
秋はきっとつらい。
冷え始める頃に、身体はもう拒む。
痛みが戻る。
眠れない夜が増える。
それでも、季節は止まらない。
冬は……考えたくない。
冬の厳しさを、私は知っている。
冬が、私の身体から何を奪うのか、私は知っている。
だから、春が怖い。
春が好きだからこそ、怖い。
好きなものが終わるのを、私は知っているから。
終わったあとに残る冷たさを、私は知っているから。
それでも、私は畑へ行く。
今日も「こんにちは」と言う。
今日も「またね」と言う。
それが、私にできる精一杯の祈りだった。
エルには、春を信じていてほしい。
「春はまだ続く」と言っていてほしい。
その言葉が、どれだけ無邪気で、
どれだけ残酷でも。
私は、あの子のその残酷さに、救われてしまう。
――今年の春は、少し長い。
そう思えるうちに、
私は、できるだけ「いつも通り」を続けようと思った。
壊れる前に。
終わる前に。
エルが気づいてしまう前に。
そして私は、畑へ向かう。
春の匂いの中で、
自分の終わりを、見ないふりをしながら。
♢
それは、「痛い」とか、「苦しい」とか、
そういう分かりやすいものじゃなかった。
最初におかしいと思ったのは、
自分の身体が、自分のものじゃなくなる瞬間が増えたことだった。
立ち上がろうとした時、
足に力を入れたはずなのに、
ほんの一瞬、命令が届かない。
息を吸おうとした時、
胸は動いているのに、
酸素だけが、少し遅れてくる。
それは“できない”というより、
“ずれている”感覚だった。
自分の身体なのに、
少しずつ、距離ができていく。
村の医師であるヘルマンさんは、はっきりとは言わなかった。
ただ、同じ言葉を何度も繰り返した。
――「進行は、止められません」
――「回復は、期待しないでください」
――「これ以上、良くなることはありません」
治らない。
魔法でも、薬でも。
時間が解決することもない。
むしろ時間は、
確実に、それを悪化させる側だった。
私は、自分の身体が
“壊れていくもの”だと知った。
そして――
あの時、エルが私に触れた瞬間、
私の中で何が起きたのかも。
彼の魔力は、温かかった。
優しくて、まっすぐで、
本来なら、人を癒すはずの流れだった。
でも、私の身体は
それを拒んだ。
弾くように。
押し返すように。
「入るな」と言うみたいに。
その瞬間、私は確信した。
――ああ、これは
――触れられたら、分かってしまう病気だ。
彼は、きっと気づいた。
気づかないふりをしてくれているだけで。
だから私は、
あの日から、
彼に触れられるのが、怖くなった。
怖かったのは、痛みじゃない。
終わりじゃない。
彼が、全部分かってしまうことだった。
だからこそ、私は彼の前でいつも通りを続ける。
♢
私がいつも昼前に畑に行くのは、
朝から医師の経過観察があるからだ。
この村で、私の身体を一番長く診てきた人。
一番多くの「大丈夫じゃない」を見てきた人。
「今日はどうだい、リィナ」
診察台に腰掛けたまま、
ヘルマン先生はいつもの声でそう聞く。
「いつもと変わらないよ」
自分でも驚くくらい、
すんなりと嘘が出た。
「本当に?」
その一言で、
胸の奥が少しだけ、きゅっと縮む。
「……うん」
私は視線を逸らしたまま頷いた。
先生は、それ以上何も言わなかった。
ただ、私の手首に指を当て、
呼吸を数える。
長年続いた、このやり取り。
今さら取り繕っても、
通じないことくらい分かっている。
――着実に、私の身体は蝕まれている。
足に力が入りにくくなり、
立ち上がるまでに時間がかかり、
息は浅く、長く吸えない。
正直、
朝起きて、ここまで歩いてくるだけで、
かなりの体力を使っている。
それでも私は、「平気な顔」をやめなかった。
「無理をしているね」
ぽつりと、先生が言った。
責めるでも、諭すでもない。
ただ、事実を確認するような声。
「……うん」
否定しなかった。
否定できなかった。
「どうしてそこまでして、外に出る?」
その問いに、私は少しだけ考えてから答えた。
「……外に出ないと、生きてる感じがしなくなるから」
先生は、小さく息を吐いた。
「君は、昔からそうだ」
それ以上、何も言わなかった。
♢
私がエルの畑で見つけた薬草。
それは、私自身の病の進行を、
ほんの少しだけ遅らせることができるものだった。
初めてそれを持ち帰った日。
先生は、薬草を見た瞬間、表情を歪めた。
「それが、どういうものか分かっているのかい、リィナ」
「うん……分かってる」
「これは……」
「私の病気を、少しだけ抑える薬草。でしょ?」
先生は言葉を詰まらせた。
「そうじゃない……。
確かに、この薬草は薬にすれば、
君の症状の進行を遅らせるだろう」
私は、先回りする。
「でも、強い毒性を持ってる。
使い続ければ、身体に別の負担がかかる」
「……そうだ」
「最終的に、寿命を縮める可能性もある、でしょ?せんせ」
先生は、黙って頷いた。
「でもね、いいの」
私は、はっきり言った。
「この身体は長く持たないんでしょう?」
言葉にした瞬間、
少しだけ空気が冷えた気がした。
「リィナ……」
「延ばすために苦しむより、
今をちゃんと生きたい」
先生は、何も言えなくなった。
♢
エルが、
私の病気を治そうとする未来が、
私には、はっきり見えていた。
彼は優しい。
だから、きっと――
“救えるかもしれない”と思ってしまう。
でも、私は知っている。
これは、
治らない病だ。
魔法でも。
奇跡でも。
努力でも。
そして何より、
誰かに縋って治るものじゃない。
私は、エルを必要としていない。
彼がいなくても、私は私として、生きていく。
――たぶん、
それが一番残酷なのだと思う。
「エルがいないと生きられない」
そんなこと、思わない。
「エルのおかげで救われた」
そんな役割、彼に背負わせたくない。
私はただ、
彼と一緒に畑にいて、
同じ時間を過ごしたいだけ。
それだけで、十分だった。
「一緒にいられるなら、嬉しいな」
それ以上を、彼に求めてしまったら。
彼はきっと、“生きる理由”を私に見出してしまう。
そんなの、あまりにも、重すぎる。
私は、彼の人生を支える柱にはなれない。
だからこそ、彼の隣に立っていたい。
♢
「せんせ」
診察室を出る前、
私は一度だけ振り返った。
「私、ちゃんと生きるよ」
「……ああ」
「誰かのためじゃなくて」
「……ああ」
「私として」
先生は、何も言わなかった。
でも、その沈黙は、
同意だったと思う。
私は外に出る。
春の空気は、
今日も少しだけ、優しかった。
――今年の春は、
少し長いと思っていた。
それが、
終わりに近づいていることを、
私はもう、知っている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、
春という季節のやさしさと、その裏側にある静かな終わりを描いてきました。
エルにとっての春、リィナにとっての春。
同じ時間を過ごしながら、
二人がまったく違う景色を見ていることが、
少しでも伝わっていれば嬉しいです。
リィナは、誰かを救うための存在ではありません。
誰かに縋るための存在でもありません。
ただ、自分として生きようとする一人の少女です。
だからこそ、彼女はエルを救いません。
それが、彼にとって一番残酷で、
一番忘れられない出会いになるからです。
この先、春は少しずつ終わりへ向かいます。
そして、見ないふりをしていた現実も、
ゆっくりと、でも確実に姿を現していきます。
もしよろしければ、
ブックマークや評価、感想などをいただけるととても励みになります。
皆さんがどこで立ち止まり、
どこで胸が苦しくなったのか、
教えてもらえたら嬉しいです。
もう少しだけ、二人の春にお付き合いいただけたら幸いです。




