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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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07.触れられない手

 あの日から、僕はリィナの手に触れるたび、

 ほんの少しだけ躊躇うようになった。


 意識して距離を取っているわけじゃない。

 触れないと決めたわけでもない。

 ただ、彼女の指先に触れそうになる瞬間、

 身体のどこかが、わずかに強張る。


 あの時、確かに感じた。

 彼女の中で、何かが弾けた。


 決して魔力が暴走したわけではない。

 術式も正しかった。

 流れも、量も、循環も、すべて問題なかったはずだ。


 それでも――

 確実に、彼女の中の“何か”を壊してしまった感覚が残っている。


 その感覚は、

 時間が経っても薄れることはなかった。


 夜、目を閉じるたびに、

 彼女が一瞬だけ見せた表情が脳裏に浮かぶ。

 痛みを訴える声はなかった。

 叫びも、拒絶もなかった。


 だからこそ、余計に怖かった。


 もしあれが、

 彼女自身も気づかないほど静かな破綻だったとしたら。

 もし僕が、

 “壊した”ことに気づいているのが僕だけだとしたら。


 そんな考えが頭を占め、

 眠ることができなくなった。


 僕は家の書庫に通い詰めた。

 魔力循環異常。

 先天性の体質不和。

 魔力感受性の過剰反応。

 神代魔法と肉体の乖離。


 思いつく限りの項目を調べ、

 彼女の症状に当てはまりそうな記述を探し続けた。


 けれど、見つからない。


 どの書物も、

 “魔法が使える者”を前提に書かれている。

 平民で、魔力を自覚できず、

 それでも魔力の影響を受けてしまう存在についての記述は、

 ほとんどなかった。


 あれは、気のせいだった。

 僕の思い込みだ。

 ただの錯覚だ。


 そう思おうとするたび、

 あの時の感覚が、指先に蘇る。


 何かに触れてはいけなかった、

 そんな確信だけが、残っていた。


 耐えきれなくなって、

 僕はミレイユにそれとなく尋ねてみた。


「母上……魔力が、人に悪影響を及ぼすことって、ありますか」


 不意の質問に、母は少しだけ首を傾げた。


「悪影響、というほどのものは、基本的にはないわねぇ。

 適切な量と循環が保たれていれば、だけど」


「……そう、ですか」


「どうしたの? 急に」


 僕は視線を逸らし、曖昧に首を振った。


「いえ……なんでもありません」


「そう?」


 母はそれ以上、踏み込んでこなかった。

 それが、ありがたくもあり、

 少しだけ、苦しかった。


 答えが得られなかったわけじゃない。

 “分からない”という答えを、

 はっきり突きつけられただけだ。


 それからというもの、

 リィナに触れることが、怖くなった。


 また彼女の中の何かを壊してしまうのではないか。

 今度は、取り返しのつかない何かを引き起こしてしまうのではないか。


 そんな考えが、頭の中を埋め尽くしていく。

 それでも、僕はリィナと会うのをやめなかった。


 やめられなかった、が正しい。


 僕の不安を悟られてはいけない。

 彼女を不安にさせてはいけない。

 今まで通りでいなければならない。


 それだけを考えて、

 彼女との時間を過ごした。


 笑顔を向け、

 必要以上に距離を詰めず、

 それでいて、避けていると悟られないように。


 以前より、ほんの少しだけ、慎重に。


 彼女は気づいていない。

 ――いや、

 気づいていないふりをしているだけなのかもしれない。


 畑で並んで作業をしていても、

 以前より、指先が触れ合うことは減った。


 それでも、彼女は何も言わない。


 いつも通りの声で、

 いつも通りの表情で、

「またね」と言って帰っていく。


 その背中を見送るたび、

 胸の奥に、重たいものが沈んでいった。


 守っているつもりだった。

 でも本当は、逃げているだけなのかもしれない。

 それでも僕は、この距離を選ぶしかなかった。


 壊してしまうくらいなら、触れない方がいい。

 そう思い込むことでしか、自分を保てなかった。


 ♢


「こんにちは、リィナ」

「こんにちは、エル」


 いつもと同じ挨拶。

 同じ声量、同じ間、同じ距離。


 ――いや、距離だけが、違った。


 ほんの半歩。

 それだけ、彼女から離れた位置に立っていた。


 意識しなければ分からないほどの差。

 でも、僕自身にははっきり分かる。

 近づかない。

 触れない。

 触れてはいけない。


 あの日、彼女の中で何かが弾けた。

 魔力が暴走したわけじゃない。

 術式が壊れたわけでもない。

 それなのに、確かに“拒絶”があった。


 身体が、魂が、

「これ以上入ってくるな」と叫んだ感覚。


 あれ以来、

 彼女の手に触れるのが怖くなった。


 もし、また――

 もし、次は取り返しのつかない何かを壊してしまったら。


 そんな考えが、頭から離れない。


「エル?」


 名前を呼ばれて、はっとする。


「……なんでもないよ」


 そう言って笑う。

 いつも通りの笑顔。

 少しだけ口角を上げて、目を細める。


 演技は得意だ。

 ずっとそうやって生きてきた。

 誰にも悟られず、求められる役を演じることだけは、

 昔から上手だった。


「リィナが可愛いから、見とれてただけ」


 軽口。

 いつも通りの冗談。


「ふぅん……」


 そっけない返事。

 でも、彼女は少しだけ視線を逸らした。


 頬が、ほんのり赤い。


「照れてるんだ」


 僕がそう言うと、

 彼女はすぐに否定した。


「照れてない。その……春だから。日差しが強いだけ」

「ふぅん?」

「……なに?」

「べつに?」


 いつも通りのやり取り。

 軽くて、他愛なくて、何の問題もない会話。


 大丈夫だ。

 僕は“いつも通り”を演じきれている。


 ……そう、思っていた。


 畑に目を向ける。

 芽吹いたばかりの薬草が、柔らかい風に揺れている。

 春の匂い。

 土の湿り気。

 命が動き出す気配。


 でも、リィナはその風の中で、

 少しだけ動きが鈍かった。


 草を抜く手が、時折止まる。

 腰をかがめる時間が、いつもより長い。

 立ち上がる時、ほんの一瞬、呼吸が乱れる。


 気づかないふりをした。

 見ていないふりをした。


 見てしまえば、

 声をかけてしまう。

 声をかければ、

 距離が縮まる。

 距離が縮まれば――


 触れてしまう。


「……エル?」


 また名前を呼ばれる。


「ん?」

「さっきから、ちょっと変」


 胸が跳ねた。


「そうかな」

「うん。なんか……遠い」


 遠い。

 その言葉が、胸の奥に刺さる。


 でも、否定する。


「気のせいだよ」

「……そっか」


 彼女はそれ以上、踏み込んでこなかった。

 それが、ありがたくて。

 同時に、苦しかった。


 沈黙が落ちる。

 風の音だけが、畑を撫でる。


 僕は、彼女を守っているつもりだった。

 でも本当は、

 自分が壊れるのが怖かっただけかもしれない。


 もし、彼女の病が

 僕の魔法によって進行していたら。

 もし、あの日の循環が

 “引き金”だったとしたら。


 そんな可能性を、

 考えずにはいられなかった。


「……ねえ、エル」


 リィナがぽつりと言う。


「なに?」

「春って、好き?」


 少し考えてから答える。


「嫌いじゃないよ」

「そっか」


 彼女は空を見上げた。

 白い髪が、風に揺れる。


「私ね、春はちょっと苦手」

「どうして?」

「始まる感じがするから」


 始まる。

 その言葉が、なぜか怖かった。


「終わるより、いいんじゃない?」

「……そうかな」


 リィナは小さく笑った。


「エルは、変わらないでね」

「……なにが?」

「今のまま」


 今のまま。

 距離を取って、触れずに、

 優しくて、嘘をついている僕のまま。


「うん」


 そう答えたけれど、

 それが約束にならないことを、

 僕は知っていた。


 春は、

 まだ始まったばかりだ。


 でも、確実に――

 何かが、静かに歪み始めていた。


 ♢


 ある日のことだった。

 その日は、少し涼しいくらいの心地いい風が吹いていた。


 春の陽射しは和らぎ、

 畑を抜ける風が、薬草の葉を静かに揺らしている。

 暑くも寒くもない、

 本来なら一番過ごしやすいはずの日だった。


 それなのに。


「……リィナ?」


 彼女は、作業を始めてから早い段階でベンチに腰を下ろしていた。

 それも、ほんの一息、という感じではない。

 明らかに、休む時間が増えている。


「大丈夫?」

 そう声をかけると、リィナは少し遅れて顔を上げた。


「うん……だいじょうぶ」


 返事が、遅い。

 ほんの一拍。

 でも、その一拍が、胸に引っかかる。


 以前なら、

「大丈夫だよ」

 と即座に返ってきたはずなのに。


 僕は何も言わず、彼女の様子を見ながら作業を続けた。

 薬草を摘み、土を整え、水をやる。

 いつも通りの動き。

 でも、意識はずっと彼女に向いていた。


 しばらくして。


「……そろそろ、戻ろうか」


 僕がそう言うと、

 リィナは小さく頷き、ベンチに手をついた。


 立ち上がろうとして――

 動きが止まる。


「リィナ、手……貸そうか?」


 そう言って、自然に手を差し出す。


 一瞬。

 彼女の視線が、僕の手に落ちた。


「大丈夫……一人で、立てるから」


 その声は、少しだけ強がっていた。


 彼女はゆっくりと体重を移し、

 時間をかけて立ち上がる。


 以前なら、何気ない動作だったはずなのに。

 今日は、ひどく慎重だった。


「……大丈夫?」


 思わず、もう一度聞いてしまう。


「うん、大丈夫」


 そう答えながらも、

 彼女の指先はベンチの端を離さない。


「少し……休めば、治るから」


 その言葉を聞いた瞬間、

 胸の奥が、きゅっと締め付けられた。


 ――明らかに、大丈夫じゃない。


 大丈夫な人間は、

 こんなふうに言葉を選ばない。


 大丈夫な人間は、

 こんなふうに、立つことに時間をかけない。


 大丈夫な人間は、

 こんな目をしない。


 それでも、彼女は笑おうとする。

 何事もないふりをして、

 いつも通りを守ろうとする。


 僕は、その笑顔を壊すことができなかった。


 だから、

 それ以上、何も言えなかった。


「……そっか」


 それだけ言って、

 一歩、距離を取る。


 触れたいのに、

 触れてはいけない気がして。


 支えたいのに、

 支えることで、彼女の“平気”を奪ってしまいそうで。


 春の風が、二人の間を通り抜ける。


 その風は、やさしかった。

 でも、どこか冷たかった。


 ――このままじゃ、いけない。


 そう思いながら、

 それでも僕は、何もできずに立ち尽くしていた。


 ♢


 別のある日だった。


 春の陽射しはやわらかく、

 畑に立っているだけで、身体の芯まで温められるような日だった。


 薬草の収穫もひと段落し、

 土の上には、摘み取られた葉の残り香が漂っている。


「これで今日は終わりかな」


 僕がそう言って、腰を伸ばす。


 リィナは、少し遅れて同じように立ち上がろうとした。


 その瞬間だった。


 彼女の身体が、ほんのわずかに傾いた。


 本当に、一瞬だった。

 風に煽られたような、

 気のせいだと流せてしまいそうな程度の揺れ。


 でも――


「……っ」


 声にならない音が、彼女の喉から漏れた。


 次の瞬間、

 リィナの足が、地面を踏み外す。


「リィナ!!」


 考えるより先に、身体が動いていた。


 僕は手にしていた薬草をすべて投げ捨て、

 土を蹴って彼女のもとへ駆け寄る。


 腕を伸ばし、

 その細い身体を、強く引き寄せた。


 軽い。

 驚くほど、軽い。


 抱き留めた瞬間、

 彼女の体重がほとんど感じられないことに、

 胸の奥がざわついた。


「リィナ、大丈夫!?」


 彼女の身体は、僕の腕の中で小さく震えていた。


 指先が冷たい。

 さっきまで春の陽気に包まれていたはずなのに。


「う、うん……」


 リィナは、息を整えるように小さく吸ってから、

 視線を逸らした。


「大丈夫……だから、離して」


 その声は、震えていた。


 拒絶ではない。

 でも、明らかに――怯えていた。


 一瞬だが、

 彼女の目の奥に、はっきりとした恐怖が浮かんでいた。


 それは、

 転びそうになったことへの驚きじゃない。


 痛みへの恐怖でもない。


 もっと別の、

 自分の身体そのものを信用できなくなったような目だった。


 僕は、その表情から目を逸らせなくなった。


「……リィナ」


 呼びかけると、

 彼女はようやく僕を見た。


 その瞬間、

 また、いつもの笑顔を作ろうとする。


「ほら、言ったでしょ。大丈夫」


 でも、その笑顔は、どこか歪んでいた。


「ちょっと立ちくらみしただけだから」


 言葉は軽い。

 けれど、額には薄く汗が滲んでいる。


 僕は、彼女を支えたまま、

 ゆっくりとベンチへ向かった。


「少し、座ろう」


 彼女は小さく頷き、

 僕の腕に体重を預ける。


 その感覚が、

 怖かった。


 支えていないと、

 崩れてしまいそうで。


 ベンチに腰を下ろさせると、

 リィナは深く息を吐いた。


「……ごめんね」


「謝らなくていい」


 そう言いながらも、

 胸の奥がざわざわと落ち着かない。


「さっきの……」


 言いかけて、言葉が詰まる。


 ――あの時の魔法。

 ――あの時、彼女の中で弾けた“何か”。


「この前の、魔法の……」


 僕の声は、震えていた。


 リィナは一瞬だけ目を伏せ、

 それから、首を横に振った。


「違うよ」


 きっぱりとした声だった。


「前から、だから」


 その言葉に、

 胸を殴られたような感覚が走る。


「エルのせいじゃない」


 前から。


 その一言で、

 すべてが繋がってしまった。


 彼女が走らない理由。

 慎重な歩き方。

 時折見せる、理由の分からない疲労。


 全部。


「……前から、って」


 問いかけようとして、

 言葉が出てこなかった。


 聞いてしまえば、

 もう戻れない気がした。


 リィナは、僕の視線から逃れるように、

 膝の上で手を組んだ。


「ね、エル」


 彼女は、穏やかな声で言う。


「今日は、もう帰るね」


「……もう?」


「うん。ちょっと疲れただけだから」


 そう言って、

 立ち上がろうとする。


 僕は反射的に、

 彼女の腕に手を伸ばしそうになった。


 ――触れてはいけない。


 あの感覚が、脳裏をよぎる。


 触れたら、

 また何かを壊してしまうかもしれない。


 結局、

 手は空を掴んだままだった。


 リィナは、僕のためらいに気づいたのか、

 一瞬だけ悲しそうな目をした。


 でも、すぐにいつもの笑顔に戻る。


「平気だよ」


 一歩、踏み出す。


 二歩目は、少しだけ遅い。


 それでも、彼女は何事もなかったように歩いた。


「またね、エル」


「……またね」


 その背中を見送りながら、

 僕はベンチに残されたまま、動けなかった。


 春の風が、

 畑を吹き抜ける。


 さっきまで、

 こんなにも穏やかだった景色が、

 今はひどく不安定に見えた。


 ――前から。


 その言葉が、

 何度も頭の中で反響する。


 前から苦しんでいて。

 前から隠していて。

 前から、終わりに向かっていた。


 僕だけが、

 何も知らなかった。


 その日、リィナは何事もなかったかのように過ごした。


 笑って。

 いつも通り話して。

 いつも通り、帰っていった。


 でも。


 今日という日は、

 僕の中で、確実に何かが始まった日だった。


 それは、希望じゃない。


 覚悟ですらない。


 ただ――

 取り返しのつかない何かが、静かに動き出した日だった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


今話はエルも、リィナも、

お互いを大切に思っているからこそ、

踏み込めず、言えず、壊さないように振る舞っている。

そのやさしさが、少しずつ状況を歪めていく――

そんな時間を書いています。


春は、始まりの季節です。

でも同時に、

「気づいてしまう季節」でもあると思っています。


この章では、まだ大きな出来事は起きていません。

それでも、確実に何かが変わり始めています。


もし、

「この空気が苦しい」

「この沈黙が怖い」

そう感じてもらえたなら、

それはきっと、正しい読み方です。


ここまで読んで、

少しでも何か感じるものがあれば、

ブックマークや評価、感想などをもらえると励みになります。

一言でも、スタンプでも大丈夫です。


この物語は、まだ続きます。

そして、これから先は、

もう戻れない場所へ進んでいきます。


よければ、

もう少しだけ、一緒に歩いてもらえたら嬉しいです。

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