33.最前線
辺境伯領の夜は、音が少ない。
だから、ひとつ悲鳴が上がるだけで――世界が割れる。
窓の外が、白んでいた。
雪ではない。祝福の白でも、静けさの白でもない。
森が燃えている光だった。
炎は、夜を昼に変える。
なのに温かくない。
それは火ではなく、災いの明るさだ。
僕は椅子に座っていた。
ちゃんと腰掛けているのに、体のどこも落ち着かない。
心だけが先に、椅子から抜け落ちている。
外から、叫び声が聞こえる。
「逃げろ」だとか、「子どもを」だとか、言葉の輪郭だけが飛び込んでくる。
木が爆ぜる音。屋根の軋む音。足が雪ではない何かを踏みしめる音。
世界が、また始まってしまっている。
――どうでもいい。
その考えが、恐ろしく自然に浮かぶ。
罪悪感すら遅れてくる。
リィナがいない。
それだけで、他のすべてが色を失う。
彼女は、僕の世界から消えた。
あの日から、息の仕方が分からない。
だから――
死んだって、良かった。
胸の奥でそう思った瞬間、遠くで誰かが泣いた。
泣いたのは誰か。
僕じゃない。僕の喉は、もう泣き方を忘れている。
扉の向こうで、鎧が擦れる音がした。
短い、迷いのない足音。
「――エルディオ」
アインの声だった。
父の声は、いつも通り低く、切り替えの速い声だった。
戦う者の声。
「ミレイユは前へ出る。私も行く。ここは――」
「分かってる」
僕の返事は、驚くほど乾いていた。
心配も、怒りも、勇気も混ざらない。
ミレイユが、ほんの一瞬だけ僕を見た。
視線は刺さらない。刺すのはいつも、優しさだ。
「……動かないで。お願い」
お願い。
その言葉だけが、この屋敷にまだ“家族”があることを思い出させる。
でも僕は、うなずかなかった。
うなずく理由が、僕の中に残っていない。
扉が閉まる。
父と母が、剣聖と大魔道士として外へ出ていく音がする。
その背中は強い。
強いからこそ、世界は彼らに頼る。
世界は、強いものを前に押し出し、
弱いものを後ろに隠し、
壊れているものには気づかないふりをする。
僕は静かに目を閉じ、指先を動かした。
気配探知。
空気の温度が一枚剥がれて、遠くまで透ける感覚。
人の気配――村の中、逃げ惑う数。
敵の気配――森の縁、丘の向こう、川沿い。
数が、勝手に頭に入ってくる。
……百。
……二百。
……五百。
……八百。
千には、届かない。
それが“多い”という感想すら、浮かばない。
ただ、数字だけがある。
僕は立ち上がった。
部屋着のまま、外套に袖を通す。
紐を結ぶ指が、少し遅れる。
躊躇ではなく、力が入らない遅れだ。
扉を開けると、冷気が頬を叩いた。
火の光が、屋敷の壁を赤く染めている。
夜空に煙が伸び、森の影が踊っている。
村の道は、人の声で満ちていた。
泣き声。怒号。犬の吠え声。
誰かが担架を運び、誰かが戸を叩き、誰かが祈っている。
僕は、その中を歩いた。
急がない。立ち止まらない。
まるで、これが日課の散歩みたいに。
砦が見えた。村の近くの小さな砦。
石壁の上で、光が弾ける。ミレイユの魔法だ。
青白い閃光が夜を裂き、魔族の影が一瞬だけ浮かび上がる。
だが数は減らない。押し寄せる波のように、暗い塊が前へ前へとにじむ。
兵たちの声が近づいてくる。
鉄がぶつかる音。矢の風切り音。
怖さと必死さが混ざった声。
その混乱の中で、ひとりの兵士が僕に気づいた。
「エルディオ様!? どうしてここに!!」
驚きと恐怖が混ざった声だった。
恐怖は敵に対してではない。僕に対してだ。
僕は答えない。
足だけが砦へ向かう。
「おやめ下さい! 今は魔族が攻めてきております! 早く避難を――!」
「……うるさい」
自分の声が、思っていたより低かった。
怒っていない。ただ、遮っただけだ。
「そんなことは分かってるよ」
兵士が息を呑む音がした。
彼の中で、僕は“守られるべき貴族の子”で、
“ここにいてはいけない存在”なのだろう。
でも、僕はもう――どこにいても同じだった。
指先を軽く振る。
転移。
「――き、消えた!?」
次の瞬間、僕は戦場の上空にいた。
転移の衝撃も、着地の感覚もない。
浮遊魔法が、足元の空気を静かに固めている。
風が外套を引き、下からは燃えた森の熱が昇ってくる。
上から見る戦場は、ひどく整って見えた。
兵の列。
砦の射線。
森の燃える境界線。
死と生が、地図みたいに配置されている。
迷いも、感情も、そこにはない。
ただ役割だけが並んでいる。
そして――魔族の群れ。
黒い潮。
夜そのものが動いているような影の集合体。
僕は、目を細めた。
「……リィナ」
名前を口に出した瞬間、胸の奥がきしむ。
痛むのに、何も戻らない。
戻らないと分かっているから、視線を逸らさなかった。
「君が眠るのを妨げるやつらを……今から消してあげる」
それは復讐じゃない。
正義でもない。
ただ――考えなくていい時間をつくるための言葉だった。
僕は、両手をゆっくりと広げる。
魔力が、皮膚の内側で冷たく鳴った。
鋭く、澄んだ冷え。
冬の夜の底に沈んだ空気みたいな感触。
この魔法は、守るためのものじゃない。
勝つためのものでもない。
終わらせるための魔法だ。
戦いを。
騒音を。
生きているという理由づけを。
魔法陣が、空に浮かび上がる。
村からでも見えるほどの巨大な円。
幾重にも重なる同心円。
星図のように絡み合う線。
中心には、ひとつだけ欠けた月の形。
まるで、空そのものに弔いの印を刻むみたいだった。
兵も、魔族も、ふと動きを止める。
誰もが、反射的にそれを見上げてしまう。
美しすぎるものは、恐怖より先に視線を奪う。
僕は、息を吸った。
この魔法に、説明はいらない。
けれど、これは僕のための名前だ。
リィナを失った痛みを、言葉に変えるために。
世界が続いてしまうことへの怒りを、形にするために。
自分がまだ生きているという矛盾を、押し込めるために。
だから、名前を与える。
声が落ちた瞬間、魔法陣が淡く鳴った。
音はない。
けれど、耳の奥が震える。
空気が薄くなる。
酸素が減るのではなく、世界が一枚、遠ざかる感覚。
光が降り始めた。
炎の赤とも違う。
昼の白とも違う。
雪の白にも似ていない。
“終わり”の色だった。
光は一直線に落ちない。
螺旋を描き、円をなぞり、ゆっくりと下降していく。
そして、魔族の群れを包み込む。
叫び声が上がる。
それは痛みの悲鳴じゃない。
自分が消されると理解した瞬間の、獣の驚きだ。
空気が裂ける感覚。
森の炎が、一瞬だけ暗く見えた。
この光は“熱”じゃない。
“意味”として働いている。
魔族の影が、輪郭を失っていく。
砕けるわけでも、焼けるわけでもない。
ただ、
そこにあったはずの“存在”が、
最初からいなかったみたいに薄れていく。
兵の一列が、恐怖に足を取られ、崩れかける。
僕は光の角度を、わずかに調整した。
兵の上には落とさない。
森の火に、余計な風も起こさない。
それは優しさじゃない。
ただ、後処理を増やしたくないだけだ。
光が収束する。
円が縮む。
最後に、中心の欠けた月が、ぽつりと瞬いた。
そして――静かになった。
魔族の密度が、明らかに減っている。
波が引いたあとの海みたいに、戦場が広く見えた。
けれど、勝利の歓声は上がらない。
人は、理解が追いつかないとき、歓声を上げられない。
ただ息を吸って、現実を確かめることしかできない。
僕は、空の上でそれを眺めた。
心は動かない。
達成感もない。
救った実感もない。
あるのは、空っぽの時間だけ。
――考えなくていい。
それが、ここに来た理由だった。
そして、最後に。
戦場に向けて、告げる。
——冬葬天環。
♢
砦の上。
アインは、剣を握ったまま動けずにいた。
老いたわけではない。戦い慣れている。
だが、それでも“想定外”は人間を止める。
夜空に展開された巨大な魔法陣。
村の上に浮かぶ、弔いの輪。
その圧は、魔族のものとは違う。
「……なに、あれは」
ミレイユの声が、ひどく小さかった。
いつもなら魔法の術式を読み解き、すぐに対処を考える女が、
ただ目を見開いている。
兵が叫ぶ。
「敵の大規模魔法か!?」
アインは反射的に前へ出かけて、止まった。
敵の魔法なら、もっと汚い。もっと乱暴だ。
これは――整いすぎている。
「……違う」
ミレイユが言った。
声に震えがない。震えないように、喉を固めている。
「あなた……よく見て」
光の中心。
円の核。
そこに、ひとつの影が浮かんでいる。
外套の端。
浮遊の姿勢。
風に揺れる髪。
「……エル……ディオ……?」
アインの喉が鳴る。
父として呼ぶべき名前が、戦場の口に合わない。
ミレイユは、息を吸った。
魔法を放つ前の呼吸ではない。
泣く前の呼吸でもない。
壊れそうなものを押し戻すための呼吸だ。
「……あの子、部屋着のままよ」
信じられない、というより、理解したくない言い方だった。
それは“無謀”を責める声ではない。
“生きる意志の薄さ”を見つけてしまった声だ。
アインは、剣の柄を握り直した。
力が入らない。
剣聖の手が震えているのではない。
父の手が、冷たくなる。
「……止めるべきか」
言った瞬間、アインは自分で分かってしまう。
止める、とは何だ。
戦いを止めるのか。魔法を止めるのか。
それとも――あの子の“終わり”を止めるのか。
ミレイユは答えなかった。
答えられないのではない。
答えてしまえば、後悔が決定してしまうからだ。
空では、光が収束し、魔族の群れが薄れていく。
砦の下で、兵たちが呆然としている。
助かった。生き延びた。
その事実だけが先に届き、感情は遅れて追いつく。
ひとりの兵が、震える声で言った。
「……い、一騎で……」
別の者が、言葉を探しながら続ける。
「……賢者……いや……」
「英雄……?」
誰も確信がない。
ただ、名前を与えたがる。
あまりにも大きい出来事には、名前が必要だ。
名前がないと、人は恐怖を収納できない。
アインは、その言葉を聞きながら、視線を空から逸らせなかった。
英雄だの賢者だの――そんなものはどうでもいい。
あそこにいるのは、息子だ。
そして、息子は――
生きる理由を持たない目をしている。
ミレイユが、唇を噛んだ。
噛むというより、言葉を殺した。
(私たちは、あの子を“強い子”だと思いすぎた)
口に出さなくても、その後悔が空気に滲む。
魔法も剣も、才能も、理解も、覚えも早くて。
手がかからなくて。
いつも「大丈夫です」と言って。
大丈夫じゃない顔を、見せなかった。
――見せなかったのではない。
見せる必要がないほど、最初から“執着が薄かった”のかもしれない。
気づいた瞬間、背中が寒い。
リィナを看取ったあの日、
壊れる許可を与えた。
壊れていい場所を与えた。
それで救えると思った。
けれど今、息子は別の場所で壊れようとしている。
戦場という、最も分かりやすい“消耗”の場所で。
悲しみを忘れるために。
考えなくていい時間を増やすために。
そして――いつ死んでもいい形で。
アインが、低く呟いた。
「……あいつは、強いんじゃない」
ミレイユが、目だけで続きを促す。
「……諦めが早いだけだ」
その言葉は、父としての告白だった。
叱責ではない。理解だ。
遅すぎる理解。
砦の上で、二人は立っている。
指揮を取らなければならない。
兵を動かさなければならない。
村を守らなければならない。
それでも、視線の半分は空に縫い付けられたままだ。
息子が――自分たちの知らない顔で、戦っている。
♢
空の上で、魔法陣は消えていく。
光の名残が、薄い輪となって夜に溶ける。
僕は、まだ浮かんでいた。
風が冷たい。
森の火の熱が、下から上がってくる。
魔族の気配は、ほとんど消えた。
残党の影が散り、兵たちが追撃に移っていく。
どこからか歓声が上がりかけて、途中で止まった。
人は、歓声を上げる前に僕を見てしまう。
見てしまって、言葉をなくす。
僕はそれが少しだけ、面倒だった。
(やめてくれ)
称賛も、感謝も、祈りも、全部。
僕にとっては余計な音になる。
僕はただ――
考えなくていい時間が欲しいだけだ。
浮遊を解き、ゆっくり降りる。
地面の土が近づく。
血と煙の匂いが濃くなる。
兵士たちが道を開ける。
恐れと期待が混ざった目で、僕を見る。
誰かが呼ぶ。誰かが頭を下げる。
誰かが“英雄”という言葉を、飲み込む。
僕は何も言わない。
言うべきことが見つからない。
ただ、目を伏せる代わりに、遠くを見る。
燃える森の向こう。
闇の向こう。
もっと先に、もっと多くの魔族がいるのを知っている。
これから先、戦いは増える。
戦場は広がる。
悲鳴は続く。
世界は続く。
だから――
ここにいれば、考えなくていい。
リィナのいない世界を、正面から見る必要がなくなる。
息ができない夜を、別の苦しさで塗り潰せる。
僕は、剣を抜かない。
抜くほどの理由がない相手しか、残っていないからだ。
代わりに、外套の襟を掴んで立て直す。
寒いからではない。
体裁のためでもない。
“僕がまだここにいる”という形を、辛うじて保つためだ。
誰かの声が背後で弾けた。
「……すげぇ……」
尊敬でも、賞賛でもない。
恐怖の混じった、ひどく正直な声。
僕は振り返らない。
その代わり、心の中でだけ言う。
――リィナ。
君が眠るのを妨げるものは、消したよ。
でも君は、戻らない。
それだけは、どんな魔法でも変えられない。
僕は一歩、前に踏み出した。
燃える森の光の中へ。
最前線へ。
戦う理由は、もう守るためじゃない。
救うためでもない。
まして勝つためでもない。
悲しみを、考えずに済む場所へ――
自分を追い込むためだ。
世界が続いてしまうなら、
僕はせめて、続くことを“感じない”場所で生きていたかった。
それが、今の僕に許された、唯一の最前線だった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
リィナ編で「終わった」はずなのに、世界は終わってくれない。
悲しみがどれだけ深くても、火は燃え、悲鳴は上がり、夜は進みます。
第33話で描きたかったのは、強さの讃歌ではありません。
エルの力は、誰かを救うためにあるようでいて、同時に――自分が“考えないため”の道具にもなってしまう。
守ることと、逃げることが、同じ形になってしまう瞬間がある。
勝ったのに、救ったのに、心は動かない。
それでも世界は「英雄」という名前を与えたがる。
名付けられた瞬間に、本人の空洞は見えなくなるから。
最前線は、敵がいる場所ではなく、
「悲しみを感じずにいられる場所」になってしまった。
そんなすり替えの始まりを、ここに刻みました。
次から、戦場は広がっていきます。
そして、エルの“生き残り方”も、少しずつ歪んでいきます。




