31.葬送
冬は、まだ終わっていなかった。
屋敷の外気は冷えきっているのに、雪は降らない。
白く覆い隠すことも、音を吸い取ることもない。
ただ乾いた寒さだけが、辺境伯領の朝に居座っていた。
季節は止まらない。
祝わない。
慰めない。
それでも、今日は葬儀の日だった。
屋敷の中は、整いすぎていた。
廊下には黒い布が等間隔に掛けられ、皺ひとつなく伸ばされている。
光を吸うその色は、悲しみの象徴というよりも、規定された形式の一部のようだった。
誰かが泣いて縫い付けたわけでもなく、急いで用意した痕跡もない。
必要だから、そこにある。
それだけだ。
音も、整っていた。
走る者はいない。
声を荒げる者もいない。
靴底が床を叩く強さまで、みんな同じに調整しているみたいだった。
葬儀に相応しい「正しい音量」が、この屋敷には最初から用意されている。
椅子が並べられていく。
距離は等しく、角度も揃い、座れば必ず前を向く配置。
迷う余地のない並び方だった。
誰がどこに座るか。
誰が前で、誰が後ろか。
すでに決まっている。
迷う人間のための余白は、どこにも残されていなかった。
部屋の隅で、低い声が「言葉」を確認している。
式次第。
挨拶。
黙祷の長さ。
呼吸が詰まった場合の沈黙の長さ。
感情ではなく、進行としての言葉。
世界は、滞りなく終わらせる準備をしていた。
エルは、その流れを止めなかった。
止めないという選択は、同意に見える。
沈黙は、了承に見える。
動かない姿勢は、受容に見える。
だから世界は進む。
リィナがいなくなったあとも、屋敷は屋敷の役割を果たし、
人は人の立場を守り、
時間は、次の工程へと進んでいく。
誰も悪くない。
誰も間違っていない。
それが、この朝のいちばん残酷なところだった。
♢
棺は、閉じられている。
蓋は重く、隙間はない。
木目は整い、角も欠けていない。
中が見えないようにではなく、
“もう見る必要がない”という形をしている。
開けない。
誰も、開けようとしない。
そしてエル自身も、開けないと分かっている。
開ける理由が、もうないからだ。
確かめる必要はない。
眠っているかどうかを確認する時間は、すでに終わっている。
呼吸を探す役目も、脈を測る役目も、
ここにはもう存在しない。
それでもエルは、棺の前まで歩いた。
一歩。
もう一歩。
距離は、触れられるほど近い。
腕を伸ばせば、指先は木に届く。
だが、伸ばさない。
伸ばしてはいけない、と分かっているからではない。
伸ばしたら、何が起きるかを、知っているからだ。
触れた瞬間、また「いる」気がしてしまう。
冷たさを確かめて、重さを確かめて、
それでも――
“ここにいる”と錯覚してしまう。
錯覚は、優しい。
優しいからこそ、残酷だ。
彼女は選んだ。
現実を。
終わりを。
眠りを。
その選択の上に、自分の手を重ねてしまうことは、
彼女の意志をもう一度、こちら側に引き戻す行為になる。
それは、救いではない。
愛でもない。
否定だ。
だから、エルは立ち止まる。
棺の前で、何も触れず、何も確かめず、
ただ、そこにある“距離”だけを受け取る。
閉じられた蓋は拒絶しているわけではない。
「もう、ここまでだ」と静かに告げているだけだ。
エルの喉が、わずかに動いた。
声が、そこまで上がってきた。
呼べば届く気がした。
名前を言えば返事があるような錯覚が、
一瞬だけ胸を満たす。
――リィナ。
音になる直前で、エルはそれを飲み込んだ。
呼ばない。
呼べば、彼女を起こすことになる。
起こしてはいけない。
彼女は、眠ることを選んだ。
眠りを破る言葉は、もう誰にも許されていない。
飲み込まれた名前は、声にならないまま胸の奥に沈む。
それはこの先、何度も思い出される言葉になる。
言えなかったこと。
言わなかったこと。
選ばなかったこと。
棺は、何も応えない。
木は静かだ。
沈黙は完成している。
エルは一礼しない。
跪かない。
祈らない。
それらはすべて、まだ“関係が続いている者”の振る舞いだからだ。
ここでは終わったことを、終わったまま置いておく。
触れられない距離が、彼女の選択の最後の輪郭だった。
エルは、その距離を壊さなかった。
壊せてしまう自分を、何より恐れていたからだ。
♢
式が始まる。
合図は音ではなく、空気だった。
人の動きが止まり、言葉が途切れ、視線が一斉に前を向く。
誰かが「始めよう」と言ったわけではない。
始まるべき時間が来た――ただそれだけだ。
当主の位置にはアインが立つ。
家を代表するという役割を、そのまま形にした背中。
年を重ねた重さ。
揺るがない姿勢。
エルは、その半歩後ろにいた。
前に出ない。
前に出る資格がないわけではない。
前に出たくないわけでもない。
“出るべき場所が、ここではない”と知っているからだ。
エルは中心ではない。
だが、無関係でもない。
最前列にいながら、主役にならない位置。
視線が届くのに、言葉は向けられない位置。
黒衣は乱れていない。
襟も、袖も、正しく収まっている。
整える必要がなかったのではない。
整えてしまうことが、いまの自分の唯一の仕事だった。
背筋は伸びている。
崩すと、崩れが連鎖するのが分かっているから。
視線は落とさない。
棺を見るためでも、天を仰ぐためでもない。
目を伏せた瞬間に、この式が“別れ”になる気がした。
泣かない。
それは我慢ではなかった。
耐えているからでもない。
泣いたら、あの最期が間違いだったことになる。
眠るように息を手放した、あの時間。
最後まで誰にも急かされず、誰にも奪われず、
自分で選びきった終わり。
それを悲しみで塗り潰してしまうことが、どうしてもできなかった。
これは正しい終わりだった。
穏やかで、静かで、壊れなかった。
そうでなければならない。
そうでなければ、自分が彼女の選択を否定してしまう。
エルは胸の奥で繰り返す。
――間違っていない。
――彼女は、ちゃんと眠った。
――泣く必要は、ない。
その言葉で、自分を立たせ続けている。
周囲の空気が、勝手に像を作る。
若いのに。
取り乱さず。
声を荒げず。
立っていられる人間。
直接の言葉はない。
それでも視線は語っていた。
“壊れていない者”として、扱われ続ける。
エルはそれを否定しない。
否定すれば、式が揺らぐ気がしたから。
泣かないという選択は、自分のためではない。
彼女の眠りを“正しい終わり”としてこの世界に置くための選択だった。
だからエルは、唇を噛まない。
拳を握らない。
視線を逸らさない。
何も壊さない代わりに、何も解放しない。
葬儀は滞りなく進んでいく。
泣かない一人を含めて、すべてが「正しく」整っていた。
♢
棺の前から一歩、退いたときだった。
視線を感じた。
避けようと思えば避けられた。
だが、避ける理由も、今さらなかった。
リィナの母が、こちらを見ていた。
泣いている。
はっきりと分かるほど、泣いている。
目元は赤く、頬には何度も拭った痕。
袖口は湿り、肩がわずかに揺れている。
それでも、その視線に責める色はない。
怨みも、怒りも、問いもない。
ただ、確かめる目だった。
――この人が。
――この人が、あの子のそばにいたのだ。
母親は何も言わない。
言わない代わりに、ほんのわずか首を傾けた。
礼とも言えないほどの動き。
それでも確かに、その仕草は「ありがとう」と同じ形をしていた。
その瞬間、胸の奥が強く締まる。
責められない。
許されている。
救いではない。
逃げ道が塞がる感覚だった。
「あなたは正しいことをした」
そう突きつけられる。
看取った。
逃げなかった。
選択を尊重した。
だから、恨まれない。
憎まれない。
――それが、いちばんきつい。
次に、父親が動いた。
言葉はない。
ただ一歩前へ出て、深く頭を下げた。
迷いのない角度で。
儀式のように正確に。
評価も感謝も責任の追及もない。
ただ区切りだけがある。
「終わりました」
そう告げる仕草だった。
この瞬間、公式に確定する。
エルは、彼女をちゃんと看取った。
間違っていない。
逃げていない。
壊していない。
世界の前で、それが確定してしまう。
エルは頭を下げない。
下げれば、その確定を受け取ったことになるからだ。
ただまっすぐ立ち、二人の視線を受け止める。
それ以上、何も起きない。
それが、完全な断絶だった。
♢
式の途中――ほんの切れ目で、ミレイユが隣に立った。
距離は近い。
だが、触れない。
声は低い。
抑えられている。
震えはない。
慰めではない。
同情でもない。
事実を置く声だった。
「壊れるなら」
一拍。
「私たちの前だけでなさい」
命令ではない。
忠告でもない。
逃げ道の指定だった。
壊れてはいけない場所。
壊れていい場所。
それをはっきり線引きする言葉。
ミレイユは目を逸らさない。
この言葉がどれほど残酷かを分かったうえで、それでも言っている。
エルは何も返さなかった。
頷かない。
礼も言わない。
否定もしない。
ただ、聞いた。
聞いて、胸の奥に置いた。
ここでは壊れるな。
でも、壊れる場所は用意されている。
それが彼女なりの、最後の配慮だった。
♢
式が終わるとき、終わりは音を立てなかった。
誰かが「では」と頭を下げる。
誰かが礼を返す。
誰かが外套を手に取り、袖を通す。
それだけで世界は次の頁へ移っていく。
扉が開くたびに冷気が差し、閉まるたびにその冷気が部屋に残る。
靴底の音が遠ざかり、話し声が薄くなり、やがて聞こえなくなる。
椅子が片付けられていく。
木が床を擦る音は抑えられている。
乱暴さは一切ない。
丁寧な所作のまま、席は消えていく。
黒い布も外される。
黒布が外れる瞬間が、いちばん残酷だった。
布を剥がしたところで戻るものなどないのに。
布を剥がすだけで、この部屋は「日常」に戻れるのだと、屋敷が思っているみたいだった。
黒は畳まれる。
供花は移される。
香の匂いが薄まる。
そして屋敷は、いつもの顔に戻っていく。
整っている。
静かだ。
正しい。
――何事もなかったように。
世界はもう次に進んでいる。
リィナだけが、ここに残らない。
その事実が、骨の内側に冷えとして入り込む。
涙ではない。
痛みでもない。
ただ、温度が下がるだけの、確かな事実。
最後に扉が閉まった。
外と内を分ける音。
世界が去った合図だった。
残ったのは空間だけ。
薪が爆ぜる小さな気配。
暖炉の火が呼吸するような揺れ。
時計の針が進む音。
人が作る音が消えると、物の音だけが露骨になる。
物は感情を持たない。
持たないから正確で、正確だから残酷だ。
エルは、まだ立っていた。
立っていられる、と思っていた。
今まで何度も、ここで崩れなかった。
崩れなかった自分を、今日も続けられると思っていた。
けれど、体裁を保つ必要が消えた瞬間――
身体の方が、先に終わりを理解した。
膝が、折れる。
音がしない。
膝が床に触れる感触だけがある。
冷たい。
その冷たさが、痛みより先に現実を確定させる。
――ああ。
誰も見ていない。
見られていないという事実が、許可として落ちてくる。
壊れていい。
ミレイユの声が胸の奥で反響する。
壊れるなら、私たちの前だけでなさい。
ここは、その「前」だ。
世界が去ったあとに残る、壊れていい場所。
誰も、いない。
その事実が、ようやく身体に許可として落ちてくる。
僕は、床に膝をついたまま、動けずにいた。
立てないわけじゃない。
立ってしまったら、ここが「彼女のいない場所」だと、確定してしまう気がした。
喉が鳴る。
息を吸おうとして、吸えない。
肺は動こうとするのに、途中で止まる。
胸の奥に、何か硬いものが詰まっている。
「……リィ……」
声が、途中で切れる。
名前の最初だけが、床に落ちる。
続きが出ない。
出したら、終わってしまう気がした。
呼んだ瞬間、彼女が“完全に戻らない側”に行ってしまう気がした。
それでも、口は勝手に動いた。
「……リィナ……」
声が割れる。
割れた音が、空間に残り、逃げ場を失って、僕の耳に戻ってくる。
返事は、ない。
返事がないという事実が、
ゆっくり、ゆっくり、現実になる。
「……起きてよ……」
言ってから、気づく。
これは願いじゃない。
確認でもない。
ただの、否定だ。
「……起きて……」
声が、ひどく弱い。
頼むようでもなく、怒るようでもなく、
ただ、順番を間違えた子供みたいな声だった。
起きるはずがない。
分かっている。
分かっているのに、言葉だけが先に出る。
「……僕……ちゃんと……」
ちゃんと、看取った。
ちゃんと、隣にいた。
ちゃんと、選択を尊重した。
全部、正しかったはずだ。
なのに、
床に額をつけたまま、息ができない。
「……一緒に……いた……」
いた。
最後まで。
隣で。
その事実が、
今の孤独を、余計に鋭くする。
胸が上下する。
でも、空気が入らない。
喉から出るのは、泣き声じゃない。
溺れるときの音だ。
そのときだった。
「……愛してる……」
声が、思ったよりはっきり出てしまった。
言えた。
言えてしまった。
――その瞬間、ほんの一瞬だけ、呼吸が戻りかけた。
胸の奥に溜まっていたものが、
抜ける気配がした。
それが、いちばんいけなかった。
「愛してる」と言えたことで、
僕は――まだ、彼女と繋がっている気になってしまった。
繋がっているなら、
息ができてしまう。
生きてしまう。
その錯覚が、次の瞬間、音もなく砕ける。
繋がっていない。
言葉は、届いていない。
もう、どこにも。
分かった瞬間、肺が急に重くなる。
戻りかけた呼吸が、喉の途中で潰れる。
空気が、完全に遮断される。
――違う。
今のは、救いじゃない。
ただの、最後の幻想だ。
「愛してる」と言ってしまったせいで、
僕はもう一度、
“本当にいない”という現実を、最初から突きつけられる。
胸が締まる。
息が、できない。
さっきより、ずっと深く。
……言わなければ、
まだ、保てたかもしれない。
その考えが、遅れて刺さる。
言わなければ、
彼女がいないという事実を、
ここまで強く、突きつけられずに済んだかもしれない。
自分で、壊した。
自分で、最後の幻想を潰した。
その自己嫌悪が、
さらに胸を圧迫する。
呼吸が、完全に乱れる。
そして、
もうひとつの理解が、
時間差で、静かに落ちてくる。
――彼女は。
彼女は、
この言葉を、聞いていない。
「愛してる」と言ったとき、
彼女はもう、ここにいなかった。
だから、返事がない。
だから、
繋がらなかった。
遅れて理解したその事実が、
今まででいちばん、きつかった。
僕は、床に額をつけたまま、動けなくなる。
声も、息も、
全部、途中で止まる。
泣いているのかどうかすら、分からない。
ただ、
愛していると言ってしまったせいで、
愛している相手が、
もう完全に届かない場所にいることだけが、
はっきりしてしまった。
それが、
僕が看取った代償だった。
リィナ編は、ここで終わります。
この物語で描きたかったのは
「美しい死」でも
「救われる別れ」でもありません。
看取るという行為が、
どれほど残酷で、どれほど優しく、
そしてどれほど取り返しがつかないものなのか。
愛した人を失うことは、
その人の時間が止まることではなく、
生き残った側の時間だけが、
否応なく続いてしまうことだと。
エルは、ちゃんと看取りました。
リィナの選択を否定せず、
夢に逃げず、
奇跡に縋らず、
最後まで恋人であり続けました。
だからこそ、
彼は壊れる権利を得てしまった。
壊れていい場所で、
壊れていい時間に、
誰にも止められずに壊れる――
それは救いではなく、
看取った者が必ず支払う代償です。
この章は、
「愛していた証」を残す物語ではありません。
ちゃんと終わらせるための物語です。
終わらせてしまったあと、
それでも生きてしまう人間の物語へ進むための、
静かで残酷な区切りです。
リィナは、
最期まで自分のままで、
愛されたまま、
選びきって去りました。
だからこの物語は、
悲劇ではあっても、
彼女の敗北ではありません。
次から始まるのは、
彼女を失った世界の話です。
壊れてはいけない場所で壊れ続ける人間の話。
間違え続ける者たちの話。
それでも生きてしまう物語です。
ここまで読んでくださって、
本当にありがとうございました。
そして――
リィナ、おやすみなさい。




