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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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30/31

30.『冬を手放す』

 

 僕は、今日もリィナの傍に居た。


 窓の外の光は、冬の薄い白さをしている。

 明るいのに、温度がない。

 昼なのか朝なのか、そんな区別すら曖昧になる光だった。


 部屋は静かで、音が少ない。

 薪が微かに鳴る気配と、遠い廊下の足音と、時計の針が進む音。

 それだけが、この家がまだ世界の中にあることを教えてくれる。


 寝台の上で、リィナは起きていた。


 起きている。

 でも、起きていないのと同じくらい、遠い。


 瞼は開いている。

 視線は天井のどこかを見ている。

 あるいは、何も見ていない。


 僕は椅子に座ったまま、立ち上がらない。

 近づけば近づくほど、確かめてしまうからだ。


 呼吸の浅さ。

 胸の上下の間隔。

 頬の薄さ。

 唇の色。

 髪の艶が失われていく速さ。


 そういうものを、僕は見ない。

 見ないふりをするわけじゃない。

 見てしまうことを、今は“仕事”にしない。


 僕は数えない。


 彼女ができなくなったこと。

 失ったもの。

 昨日と今日の違い。


 数えた瞬間に、世界はそれを「終わりの記録」にしてしまう。

 記録になれば、順番になる。

 順番になれば、終わりが完成してしまう。


 僕は終わりを完成させたくない。

 完成させないために、今日もここにいる。


 リィナの唇が、わずかに動く。


 声が出るまでに、少し時間がかかった。

 息を吸う力を、言葉に回すための準備の時間。


「……エル、そこにいる?」


 それは、暗闇の中で呼びかける声だった。

 怖がってはいない。

 泣いてもいない。


 ただ、確認だった。


 僕の喉が、ひとつ鳴る。

 返事をするだけで、声が裏返りそうになる。

 裏返ったら、彼女がそれを拾ってしまう。

 拾ったら、彼女は自分を責める。


 だから、僕は静かな声を選ぶ。


「リィナ……?」


 名前を呼ぶだけで精一杯だった。

 言葉の形にすると、胸の奥が痛い。


 リィナは、少しだけ眉を動かした。

 視線が動く。

 でも焦点は結ばれない。


「暗いよ……エル、そこにいるの?」


 暗い。

 部屋が暗いわけじゃない。

 冬の光は入っている。

 それでも彼女は暗いと言う。


 僕は、そこで初めて理解した。


 ――見えていない。


 視力が、もう彼女から離れてしまっている。

 だから彼女は“光”ではなく、“僕”を探している。

 目では探せないから、声で確かめる。


 胸の奥が、きゅっと縮む。

 でも僕は、その縮み方に名前を付けない。

 悲しみとも、怒りとも、後悔とも呼ばない。


 呼んだら、感情が形になってしまう。

 形になれば、彼女の前に落ちてしまう。


 それは、いちばんしてはいけないことだ。


 僕は、手を伸ばす。


 伸ばし方は、迷わない。

 迷えば、彼女が不安になる。


 指先が彼女の手に触れる。

 温度は薄い。

 それでも、そこにある。


 僕は、その手を包み込んだ。

 握る力は強くしない。

 彼女を縛るためじゃない。

 ここにいると伝えるためだけの力にする。


「いるよ」


 言葉が短いほど、確かになる。


「ここにいる。君の隣に、ずっと」


 ずっと、は禁句だったはずなのに。

 今日は言ってしまった。


 言ってしまったというより、

 言わないと、彼女がここで迷子になる気がした。


 リィナの口元が、ほんの少しだけ緩む。

 笑ったのかもしれないし、安心して力が抜けただけかもしれない。


「……そっか……よかった」


 その“よかった”が、残酷だった。


 僕がいることが、彼女にとってまだ救いなんだと分かるから。

 僕がいなければ、彼女はもっと怖いのだと分かるから。


「……いつも……ありがとね」


 ありがとう。

 その言葉が、彼女の口から出るたびに思う。


 それは僕のための言葉だ。

 彼女は、自分が弱っていく状況ですら、僕の心を支える言葉を選ぶ。

 最後まで、そうする。


 その優しさが、僕を救ってしまう。

 救われるから、余計に苦しい。


「……うん」


 僕はそれだけ返した。

 ありがとうに、ありがとうを返さない。

 返したら会話が続いてしまう。

 続いたら、彼女の息が削れる。


 僕は彼女の息を、言葉で奪いたくない。


 ただ、彼女の手を包んでいる。


 暗闇の中で、彼女が触れたもの。

 耳で拾うもの。

 皮膚で感じるもの。


 その全部の中に、「僕がいる」という事実だけを置く。


 リィナは、ゆっくり息を吐いた。


「……ねえ、エル」


「うん」


「……私、見えないんだね」


 責める声じゃない。

 驚く声でもない。

 ただ、現実を指先でなぞるみたいな声だった。


 僕の中で何かが軋む。

 でも、軋んだ音を彼女に聞かせない。


「……うん」


 否定しない。

 否定したら、彼女の現実を壊すことになる。


 彼女は現実を選んだ。

 夢の幸福より、ここを選んだ。


 だから僕は、ここを嘘にしない。


 リィナは、少しだけ笑った。


「……でも、分かるよ」


「何が」


「……エルが、いるの」


 見えないのに、分かる。

 それは、彼女の中で僕が“光”になっているということだった。


 そんなふうに、誰かの世界の中で意味を持ってしまうのは怖い。

 失われてしまうのが怖いから。


 でも彼女は今、その意味だけでここにいる。


 僕は、数えない。

 彼女が失ったものを。

 できなくなったことを。

 終わりまでの距離を。


 数えない代わりに、今日の“いる”を繰り返す。


 いる。

 ここにいる。

 君の隣にいる。


 それだけで、今日を成立させる。


 リィナの手が、わずかに握り返してくる。

 力は弱い。

 それでも、意志はある。


 その握り返しが、僕に言う。


 ――まだ、間に合ってる。


 僕はその言葉を、心の中でだけ受け取った。

 声にはしない。


 声にしたら、祈りになってしまう。

 祈りになったら、彼女はそれを叶えようとしてしまう。


 彼女は、もう十分頑張っている。


 だから僕は、ただ息をする。

 彼女の呼吸に合わせて、ゆっくり。


 冬の光が、寝台の布に薄く落ちる。

 彼女はそれを見ていない。


 でも彼女の指は、僕の手を見失っていない。


 それが、今日を今日として保っていた。


 ♢


「……エル……いる?」


 声は、ほとんど息だった。

 言葉として形を保つのが、ぎりぎりの音。


「うん。いるよ」


 即座に答える。

 間を置かない。

 疑わせない。


 リィナは、少しだけ安心したように息を吐いた。


「……私ね……夢を見たの」


「うん……」


 遮らない。

 急かさない。

 彼女の言葉が、途中で落ちてしまわないように。


「……エルと……結婚する夢」


 胸の奥が、静かにひび割れる。

 でも、顔には出さない。

 ここで崩れたら、彼女が続きを言えなくなる。


「……」


「ふたりで暮らして……結婚も、して……」


 言葉の間が、少しずつ長くなる。

 息を吸うたびに、胸が上下する。


「……子供も……できて……」


 その瞬間、喉が熱くなる。

 熱くなるだけで、涙にはならない。

 まだ、ならない。


「……幸せ、だった」


 それは報告だった。

 未練でも、願いでもない。


 エルは、ただ頷いた。


「うん……」


 夢を否定しない。

 現実と比べない。

 その幸福を、奪わない。


 リィナは、ほんの少しだけ顔をこちらへ向けた。

 見えていないのに、確かに“向けた”。


「……エル……」


「ん……?」


 呼ばれ方が、ひどく柔らかい。

 最期の前の声だと、分かってしまうほどに。


「……キス……して欲しい……な」


 お願いだった。

 遠慮も、諦めも、混ざっていない。


 “恋人としての最後”を、選ぶ声。


 エルは、一瞬だけ息を吸った。

 胸の奥で何かが崩れる音がした。

 それでも、声は揺らさない。


「……わかった」


 椅子から立ち上がり、ゆっくりと距離を詰める。

 急がない。

 確かめない。

 引き返さない。


 唇を合わせる。


 深くもしない。

 求め合いもしない。


 ただ、触れているという事実だけを、時間に刻むためのキス。


 呼吸が混ざる。

 温度が重なる。

 世界が、静かになる。


 長い、長い一瞬。


 唇が離れたあと、リィナは小さく息を吐いた。


「あったか……いね……」


 それは感想だった。

 最期の言葉じゃない。


「……幸せ」


 一拍、置いて。


「……これだけが……心残り、だった」


 胸が、きつく締めつけられる。

 それでも、エルは目を逸らさない。


「……愛した人に……ちゃんと……」


 息を吸う音が、かすかに震える。


「……愛を……渡したかった」


 エルは、彼女の額に、そっと額を寄せた。

 震えは、まだ声にならない。


「……十分すぎるくらい、貰ってるよ……リィナ」


 声は、壊れていなかった。

 壊れないように、選び抜いた声だった。


「……最初から……最後まで」


 リィナの表情が、ゆるむ。

 張り詰めていた何かが、ほどけていく。


「……エル」


「……リィナ?」


 名前を呼び返す。


 彼女の唇が、もう一度だけ動いた。


「……最期まで……そこに、いて」


 願いだった。

 命令じゃない。

 縛りでもない。


 “あなたがここにいる世界で、終わりたい”という選択。


 エルは、迷わず答えた。


「……いるよ」


 その言葉に、条件はない。

 未来も、約束も、含まれていない。


 ただの事実。


「ここにいる。君の隣に」


 リィナは、安心したように目を閉じた。

 それは眠りに入る顔だった。


 やり残しのない人の顔だった。


 エルは、彼女の手を包んだまま、動かない。

 離れない。

 逃げない。


 涙は、まだ落ちない。


 落ちたら、彼女が“別れ”を理解してしまうから。


 彼女が眠りに落ちきるまで、

 エルはただ、そこに居続けた。


 ――最後まで。


 ♢


 ねぇ、エル。


 今ね、あなたの声が、ちゃんと聞こえてる。

 触れている手の温度も、呼吸の重なりも、分かる。


 だから、私は大丈夫。


 私ね、生きたよ。

 逃げなかった。

 諦めなかった。

 怖い日も、苦しい夜も、ちゃんと通ってきた。


 強かったとは思わないけど、

 それでも――頑張って、生きた。


 最期まで、私のままで。


 誰かの代わりにならなかった。

 違う私にならなかった。

 延ばされた時間の中で、迷子にならなかった。


 あなたが、そうさせてくれた。


 あなたが、毎日そこにいてくれたから。

 特別なことをしなくても、

「いつも通り」をくれたから。


 声を荒げないで。

 希望を押しつけないで。

 未来を無理に語らないで。


 それでも、ちゃんと愛してくれた。


 あなたを残していってしまうのは、つらいよ。

 それは、正直な気持ち。


 だって、あなたは生きる人だもの。

 この先も、時間が続いていく人だもの。


 私がいなくなる場所で、

 あなたは、また朝を迎えてしまう。


 それを思うと、胸がきゅっとなる。


 それでもね。


 それでも、私は知ってる。


 あなたは、私の「いない世界」で、

 私を消さない人だって。


 私を、終わりにしない人だって。


 だから、行ける。


 ありがとう、エル。


 最期まで、恋人でいてくれて。

 最期まで、私を「私」として見てくれて。


 私の最愛の人。


 ⸻


「……愛してる……よ、エル……」


 声は、もうほとんど音にならない。

 けれど、確かに、そこにあった。


「……また、ね……」


 ⸻


「……リィナ……?」


 返事がない。


 すぐに分かったわけじゃない。

 最初は、ただの“間”だと思った。


 長い間。

 よくある間。

 これまでも、何度もあった。


 だから、エルは名前を呼び返さなかった。

 呼び返せば、彼女を引き戻してしまう気がした。


 代わりに、呼吸を探す。


 胸の上下。

 喉のかすかな動き。

 耳に届く、微かな音。


 ――ない。


 一拍。

 二拍。


 それでも、エルは数えない。

 数えた瞬間に、それが「確定」してしまうから。


 彼女の手を包んだまま、

 ただ、待つ。


 待って、待って、待って。


 そして――

 その手の中の温度が、変わらないことに気づく。


 冷たくなったわけじゃない。

 消えたわけでもない。


 ただ、

 “返ってこない”温度になった。


 エルの喉が、小さく鳴る。


「……リィナ……?」


 今度は、確認だった。

 祈りじゃない。

 願いでもない。


 ただの、問い。


 返事はない。


 呼吸が、ない。


 その事実が、

 ゆっくり、ゆっくり、身体に落ちてくる。


 頭より先に、胸が理解してしまう。


 ――ああ。


 看取った。


 ここまで一緒にいて、

 この瞬間まで、隣にいて、

 彼女は、行った。


 エルは、動かない。


 泣かない。

 叫ばない。

 取り乱さない。


 それは我慢じゃない。

 彼女が、最後にくれた時間を、

 壊したくなかったから。


 エルは、まだ動かなかった。


 泣き方を、思い出そうとしているみたいに。

 けれど、思い出す前に――

 彼女が、それを望まなかったことを思い出した。


 彼女は、眠るみたいに逝った。

 それを、ちゃんと“眠り”の形で終わらせてあげたかった。


 エルは、額をそっと彼女の額に寄せる。


「……おやすみ」


 声は、低く、静かだった。


「……ありがとう」


 言葉は、それだけで足りた。


 愛してる、は言わない。

 もう、渡し終わっているから。


 エルは、彼女の手を離さない。


 離さないまま、

 世界が、ひとつ、先へ進んでしまったことを受け入れる。


 窓の外で、風が鳴る。

 冬は、変わらずそこにある。


 それでも、

 この部屋だけは、確かに今、終わった。

 それは、誰にも奪われなかった終わりだった。


 恋人としての時間が。

 彼女の人生が。

 ふたりの「いつも通り」が。


 エルは、ゆっくりと息を吸った。


 苦しくない。

 息が詰まらない。


 ――彼女が、壊させなかったから。


 エルは、看取った。


 愛した人を。

 愛されたまま。


 誰にも邪魔されない、

 彼女が選びきった終わりだった。


 それだけは、確かだった。



この物語を書き終えたとき、

「救われた」と言っていいのかどうか、少し迷いました。


悲しみが消えるわけじゃないし、

失ったものが戻るわけでもない。

それでも、確かに――

書き切った、という感覚だけは残りました。


私は、恋人の最期を看取ることができませんでした。

そばにいることも、声を聞くことも、手を握ることもできなかった。

だからこそ、

「もし、ちゃんと隣にいられたなら」という想いが、

ずっと胸のどこかに残っていました。


この物語で描いたのは、

奇跡でも、救済でもありません。

ただ、最期まで“いつも通り”を失わなかった時間です。


大きな言葉を交わさなくても、

未来を約束できなくても、

そこに「いる」と言い続けること。

それだけで、誰かの終わりは、

奪われるものではなく、

選び取ったものになるのだと、

そう信じたかった。


リィナは強い人ではありません。

エルも、何かを超えた存在ではありません。

それでも二人は、

最後まで恋人であり続けました。


この物語が、

同じように大切な人を失った誰かにとって、

「ちゃんと愛していた」と思える証のひとつになれば、

それ以上のことはありません。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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