30.『冬を手放す』
僕は、今日もリィナの傍に居た。
窓の外の光は、冬の薄い白さをしている。
明るいのに、温度がない。
昼なのか朝なのか、そんな区別すら曖昧になる光だった。
部屋は静かで、音が少ない。
薪が微かに鳴る気配と、遠い廊下の足音と、時計の針が進む音。
それだけが、この家がまだ世界の中にあることを教えてくれる。
寝台の上で、リィナは起きていた。
起きている。
でも、起きていないのと同じくらい、遠い。
瞼は開いている。
視線は天井のどこかを見ている。
あるいは、何も見ていない。
僕は椅子に座ったまま、立ち上がらない。
近づけば近づくほど、確かめてしまうからだ。
呼吸の浅さ。
胸の上下の間隔。
頬の薄さ。
唇の色。
髪の艶が失われていく速さ。
そういうものを、僕は見ない。
見ないふりをするわけじゃない。
見てしまうことを、今は“仕事”にしない。
僕は数えない。
彼女ができなくなったこと。
失ったもの。
昨日と今日の違い。
数えた瞬間に、世界はそれを「終わりの記録」にしてしまう。
記録になれば、順番になる。
順番になれば、終わりが完成してしまう。
僕は終わりを完成させたくない。
完成させないために、今日もここにいる。
リィナの唇が、わずかに動く。
声が出るまでに、少し時間がかかった。
息を吸う力を、言葉に回すための準備の時間。
「……エル、そこにいる?」
それは、暗闇の中で呼びかける声だった。
怖がってはいない。
泣いてもいない。
ただ、確認だった。
僕の喉が、ひとつ鳴る。
返事をするだけで、声が裏返りそうになる。
裏返ったら、彼女がそれを拾ってしまう。
拾ったら、彼女は自分を責める。
だから、僕は静かな声を選ぶ。
「リィナ……?」
名前を呼ぶだけで精一杯だった。
言葉の形にすると、胸の奥が痛い。
リィナは、少しだけ眉を動かした。
視線が動く。
でも焦点は結ばれない。
「暗いよ……エル、そこにいるの?」
暗い。
部屋が暗いわけじゃない。
冬の光は入っている。
それでも彼女は暗いと言う。
僕は、そこで初めて理解した。
――見えていない。
視力が、もう彼女から離れてしまっている。
だから彼女は“光”ではなく、“僕”を探している。
目では探せないから、声で確かめる。
胸の奥が、きゅっと縮む。
でも僕は、その縮み方に名前を付けない。
悲しみとも、怒りとも、後悔とも呼ばない。
呼んだら、感情が形になってしまう。
形になれば、彼女の前に落ちてしまう。
それは、いちばんしてはいけないことだ。
僕は、手を伸ばす。
伸ばし方は、迷わない。
迷えば、彼女が不安になる。
指先が彼女の手に触れる。
温度は薄い。
それでも、そこにある。
僕は、その手を包み込んだ。
握る力は強くしない。
彼女を縛るためじゃない。
ここにいると伝えるためだけの力にする。
「いるよ」
言葉が短いほど、確かになる。
「ここにいる。君の隣に、ずっと」
ずっと、は禁句だったはずなのに。
今日は言ってしまった。
言ってしまったというより、
言わないと、彼女がここで迷子になる気がした。
リィナの口元が、ほんの少しだけ緩む。
笑ったのかもしれないし、安心して力が抜けただけかもしれない。
「……そっか……よかった」
その“よかった”が、残酷だった。
僕がいることが、彼女にとってまだ救いなんだと分かるから。
僕がいなければ、彼女はもっと怖いのだと分かるから。
「……いつも……ありがとね」
ありがとう。
その言葉が、彼女の口から出るたびに思う。
それは僕のための言葉だ。
彼女は、自分が弱っていく状況ですら、僕の心を支える言葉を選ぶ。
最後まで、そうする。
その優しさが、僕を救ってしまう。
救われるから、余計に苦しい。
「……うん」
僕はそれだけ返した。
ありがとうに、ありがとうを返さない。
返したら会話が続いてしまう。
続いたら、彼女の息が削れる。
僕は彼女の息を、言葉で奪いたくない。
ただ、彼女の手を包んでいる。
暗闇の中で、彼女が触れたもの。
耳で拾うもの。
皮膚で感じるもの。
その全部の中に、「僕がいる」という事実だけを置く。
リィナは、ゆっくり息を吐いた。
「……ねえ、エル」
「うん」
「……私、見えないんだね」
責める声じゃない。
驚く声でもない。
ただ、現実を指先でなぞるみたいな声だった。
僕の中で何かが軋む。
でも、軋んだ音を彼女に聞かせない。
「……うん」
否定しない。
否定したら、彼女の現実を壊すことになる。
彼女は現実を選んだ。
夢の幸福より、ここを選んだ。
だから僕は、ここを嘘にしない。
リィナは、少しだけ笑った。
「……でも、分かるよ」
「何が」
「……エルが、いるの」
見えないのに、分かる。
それは、彼女の中で僕が“光”になっているということだった。
そんなふうに、誰かの世界の中で意味を持ってしまうのは怖い。
失われてしまうのが怖いから。
でも彼女は今、その意味だけでここにいる。
僕は、数えない。
彼女が失ったものを。
できなくなったことを。
終わりまでの距離を。
数えない代わりに、今日の“いる”を繰り返す。
いる。
ここにいる。
君の隣にいる。
それだけで、今日を成立させる。
リィナの手が、わずかに握り返してくる。
力は弱い。
それでも、意志はある。
その握り返しが、僕に言う。
――まだ、間に合ってる。
僕はその言葉を、心の中でだけ受け取った。
声にはしない。
声にしたら、祈りになってしまう。
祈りになったら、彼女はそれを叶えようとしてしまう。
彼女は、もう十分頑張っている。
だから僕は、ただ息をする。
彼女の呼吸に合わせて、ゆっくり。
冬の光が、寝台の布に薄く落ちる。
彼女はそれを見ていない。
でも彼女の指は、僕の手を見失っていない。
それが、今日を今日として保っていた。
♢
「……エル……いる?」
声は、ほとんど息だった。
言葉として形を保つのが、ぎりぎりの音。
「うん。いるよ」
即座に答える。
間を置かない。
疑わせない。
リィナは、少しだけ安心したように息を吐いた。
「……私ね……夢を見たの」
「うん……」
遮らない。
急かさない。
彼女の言葉が、途中で落ちてしまわないように。
「……エルと……結婚する夢」
胸の奥が、静かにひび割れる。
でも、顔には出さない。
ここで崩れたら、彼女が続きを言えなくなる。
「……」
「ふたりで暮らして……結婚も、して……」
言葉の間が、少しずつ長くなる。
息を吸うたびに、胸が上下する。
「……子供も……できて……」
その瞬間、喉が熱くなる。
熱くなるだけで、涙にはならない。
まだ、ならない。
「……幸せ、だった」
それは報告だった。
未練でも、願いでもない。
エルは、ただ頷いた。
「うん……」
夢を否定しない。
現実と比べない。
その幸福を、奪わない。
リィナは、ほんの少しだけ顔をこちらへ向けた。
見えていないのに、確かに“向けた”。
「……エル……」
「ん……?」
呼ばれ方が、ひどく柔らかい。
最期の前の声だと、分かってしまうほどに。
「……キス……して欲しい……な」
お願いだった。
遠慮も、諦めも、混ざっていない。
“恋人としての最後”を、選ぶ声。
エルは、一瞬だけ息を吸った。
胸の奥で何かが崩れる音がした。
それでも、声は揺らさない。
「……わかった」
椅子から立ち上がり、ゆっくりと距離を詰める。
急がない。
確かめない。
引き返さない。
唇を合わせる。
深くもしない。
求め合いもしない。
ただ、触れているという事実だけを、時間に刻むためのキス。
呼吸が混ざる。
温度が重なる。
世界が、静かになる。
長い、長い一瞬。
唇が離れたあと、リィナは小さく息を吐いた。
「あったか……いね……」
それは感想だった。
最期の言葉じゃない。
「……幸せ」
一拍、置いて。
「……これだけが……心残り、だった」
胸が、きつく締めつけられる。
それでも、エルは目を逸らさない。
「……愛した人に……ちゃんと……」
息を吸う音が、かすかに震える。
「……愛を……渡したかった」
エルは、彼女の額に、そっと額を寄せた。
震えは、まだ声にならない。
「……十分すぎるくらい、貰ってるよ……リィナ」
声は、壊れていなかった。
壊れないように、選び抜いた声だった。
「……最初から……最後まで」
リィナの表情が、ゆるむ。
張り詰めていた何かが、ほどけていく。
「……エル」
「……リィナ?」
名前を呼び返す。
彼女の唇が、もう一度だけ動いた。
「……最期まで……そこに、いて」
願いだった。
命令じゃない。
縛りでもない。
“あなたがここにいる世界で、終わりたい”という選択。
エルは、迷わず答えた。
「……いるよ」
その言葉に、条件はない。
未来も、約束も、含まれていない。
ただの事実。
「ここにいる。君の隣に」
リィナは、安心したように目を閉じた。
それは眠りに入る顔だった。
やり残しのない人の顔だった。
エルは、彼女の手を包んだまま、動かない。
離れない。
逃げない。
涙は、まだ落ちない。
落ちたら、彼女が“別れ”を理解してしまうから。
彼女が眠りに落ちきるまで、
エルはただ、そこに居続けた。
――最後まで。
♢
ねぇ、エル。
今ね、あなたの声が、ちゃんと聞こえてる。
触れている手の温度も、呼吸の重なりも、分かる。
だから、私は大丈夫。
私ね、生きたよ。
逃げなかった。
諦めなかった。
怖い日も、苦しい夜も、ちゃんと通ってきた。
強かったとは思わないけど、
それでも――頑張って、生きた。
最期まで、私のままで。
誰かの代わりにならなかった。
違う私にならなかった。
延ばされた時間の中で、迷子にならなかった。
あなたが、そうさせてくれた。
あなたが、毎日そこにいてくれたから。
特別なことをしなくても、
「いつも通り」をくれたから。
声を荒げないで。
希望を押しつけないで。
未来を無理に語らないで。
それでも、ちゃんと愛してくれた。
あなたを残していってしまうのは、つらいよ。
それは、正直な気持ち。
だって、あなたは生きる人だもの。
この先も、時間が続いていく人だもの。
私がいなくなる場所で、
あなたは、また朝を迎えてしまう。
それを思うと、胸がきゅっとなる。
それでもね。
それでも、私は知ってる。
あなたは、私の「いない世界」で、
私を消さない人だって。
私を、終わりにしない人だって。
だから、行ける。
ありがとう、エル。
最期まで、恋人でいてくれて。
最期まで、私を「私」として見てくれて。
私の最愛の人。
⸻
「……愛してる……よ、エル……」
声は、もうほとんど音にならない。
けれど、確かに、そこにあった。
「……また、ね……」
⸻
「……リィナ……?」
返事がない。
すぐに分かったわけじゃない。
最初は、ただの“間”だと思った。
長い間。
よくある間。
これまでも、何度もあった。
だから、エルは名前を呼び返さなかった。
呼び返せば、彼女を引き戻してしまう気がした。
代わりに、呼吸を探す。
胸の上下。
喉のかすかな動き。
耳に届く、微かな音。
――ない。
一拍。
二拍。
それでも、エルは数えない。
数えた瞬間に、それが「確定」してしまうから。
彼女の手を包んだまま、
ただ、待つ。
待って、待って、待って。
そして――
その手の中の温度が、変わらないことに気づく。
冷たくなったわけじゃない。
消えたわけでもない。
ただ、
“返ってこない”温度になった。
エルの喉が、小さく鳴る。
「……リィナ……?」
今度は、確認だった。
祈りじゃない。
願いでもない。
ただの、問い。
返事はない。
呼吸が、ない。
その事実が、
ゆっくり、ゆっくり、身体に落ちてくる。
頭より先に、胸が理解してしまう。
――ああ。
看取った。
ここまで一緒にいて、
この瞬間まで、隣にいて、
彼女は、行った。
エルは、動かない。
泣かない。
叫ばない。
取り乱さない。
それは我慢じゃない。
彼女が、最後にくれた時間を、
壊したくなかったから。
エルは、まだ動かなかった。
泣き方を、思い出そうとしているみたいに。
けれど、思い出す前に――
彼女が、それを望まなかったことを思い出した。
彼女は、眠るみたいに逝った。
それを、ちゃんと“眠り”の形で終わらせてあげたかった。
エルは、額をそっと彼女の額に寄せる。
「……おやすみ」
声は、低く、静かだった。
「……ありがとう」
言葉は、それだけで足りた。
愛してる、は言わない。
もう、渡し終わっているから。
エルは、彼女の手を離さない。
離さないまま、
世界が、ひとつ、先へ進んでしまったことを受け入れる。
窓の外で、風が鳴る。
冬は、変わらずそこにある。
それでも、
この部屋だけは、確かに今、終わった。
それは、誰にも奪われなかった終わりだった。
恋人としての時間が。
彼女の人生が。
ふたりの「いつも通り」が。
エルは、ゆっくりと息を吸った。
苦しくない。
息が詰まらない。
――彼女が、壊させなかったから。
エルは、看取った。
愛した人を。
愛されたまま。
誰にも邪魔されない、
彼女が選びきった終わりだった。
それだけは、確かだった。
この物語を書き終えたとき、
「救われた」と言っていいのかどうか、少し迷いました。
悲しみが消えるわけじゃないし、
失ったものが戻るわけでもない。
それでも、確かに――
書き切った、という感覚だけは残りました。
私は、恋人の最期を看取ることができませんでした。
そばにいることも、声を聞くことも、手を握ることもできなかった。
だからこそ、
「もし、ちゃんと隣にいられたなら」という想いが、
ずっと胸のどこかに残っていました。
この物語で描いたのは、
奇跡でも、救済でもありません。
ただ、最期まで“いつも通り”を失わなかった時間です。
大きな言葉を交わさなくても、
未来を約束できなくても、
そこに「いる」と言い続けること。
それだけで、誰かの終わりは、
奪われるものではなく、
選び取ったものになるのだと、
そう信じたかった。
リィナは強い人ではありません。
エルも、何かを超えた存在ではありません。
それでも二人は、
最後まで恋人であり続けました。
この物語が、
同じように大切な人を失った誰かにとって、
「ちゃんと愛していた」と思える証のひとつになれば、
それ以上のことはありません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




