29.冬を手放す-4
部屋は静かだった。
窓の外で風がひとつ、枝を鳴らす。
それだけで、この家の冬は十分だと思えるくらい、音が少ない。
寝台の上で、リィナは深く眠っていた。
呼吸は穏やかで、浅くもない。
胸が上下するたび、布が微かに擦れて、すぐに元の静けさへ戻る。
痛みの兆候がない。
眉が寄らない。
喉が引っかからない。
指先が震えない。
だから僕は、声をかけなかった。
「起こさない」という判断は、今日に限って降ってきたわけじゃない。
ここ数日、リィナは眠りの底を深くしていた。
起こせば、起きる。──たぶん。
起こせば、目は開く。──きっと。
けれど、その「たぶん」と「きっと」の間に、僕はもう言葉を置きたくなかった。
起こすための声は、希望に似ている。
希望は、形にした瞬間に、彼女の肩に乗る。
だから今日は、起こさない。
守るために動いてきた僕が、
守ることすらしない場所へ、足を置いた。
椅子に腰を下ろす。
背もたれが軋む音が出ないように、ゆっくりと。
手を伸ばすか、迷って、そのまま膝の上で指を組んだ。
触れれば、彼女は起きるかもしれない。
触れれば、起きなくても、僕の心が勝手に確かめてしまう。
温度や軽さや骨の角を、言葉にできない情報として拾ってしまう。
拾ったら、僕の中で「終わりの順番」が始まる。
それは、彼女のためじゃない。
僕のためだ。
僕が壊れないために、彼女を順番にしてはいけない。
だから、ただ居た。
部屋の空気を吸って、
吐いて、
また吸って。
生きている。
それだけで、今日という日を成立させる。
窓辺の光が、寝台の布に薄く落ちる。
冬の光は、色が少ない。
白く、薄く、遠い。
その光の中で、リィナの顔は穏やかだった。
眠っているだけだ。
痛みがない時間が、たまたまここにあるだけだ。
なのに僕は、どうしても思ってしまう。
──もし、彼女がこのまま、痛みのない場所へ行けるなら。
そんなふうに考えること自体が、裏切りみたいで。
僕はすぐに、その考えを押し込めた。
押し込めても、消えない。
だから、また呼吸に戻る。
呼吸の数を数えない。
数え始めたら、僕は医師になる。
医師になったら、彼女は患者になる。
彼女は、リィナだ。
それだけを守る。
そして僕が何もしないまま時間が流れたとき、
部屋の静けさが、ふっと別の質に変わった。
音が減ったのではない。
世界が、どこか遠くへ引いていく感覚。
僕の耳に届くのは、呼吸と、風と、時計の針だけ。
それなのに、どれも現実の音には聞こえなくなる。
まるで、誰かが布を一枚かぶせて、
世界の輪郭を柔らかくしたみたいだった。
僕は目を閉じていない。
なのに、景色が遠くなる。
そのとき、確信した。
──リィナは、夢を見ている。
僕は彼女の夢を見たことがない。
見られるはずもない。
けれど、今だけは、分かる気がした。
彼女の呼吸が、少しだけ深くなる。
胸が上下する、その動きが、痛みではなく、何か別の感情を運んでいるみたいに見える。
僕は動かない。
ただ、そこにいる。
夢の中で、彼女がどこへ行くのかを、邪魔しない。
♢
畑の土は、あたたかい匂いがした。
水を撒いたばかりの湿り気が、陽を吸って、ふわりと立ちのぼる。
足元に小さな芽が並んでいて、どれも同じ方向を向いている。
――生きているものは、ちゃんと前を向けるんだと、そのときの私は当たり前みたいに思った。
鍬の柄を握る手が、痛くない。
指先に力が入る。
息を吸っても、胸がつかえない。
呼吸のたびに世界が遠のくこともない。
それだけで、嬉しくて、泣きたくなるのに。
夢の私は、泣かない。
泣く理由がないから。
「……おはよう」
背後から声がした。
聞き慣れているのに、初めて聞くみたいに胸が鳴る声。
振り向くと、そこにエルが立っていた。
畑に似合わないほど整った服を着ているのに、土の匂いの中に違和感なく馴染んでいて。
手袋を片方だけ外した指が、ちゃんと“働く人”の形をしている。
「おはよう、エル」
そう言ったら、エルはほんの少しだけ目を細めた。
笑っているのに、笑いすぎない。
嬉しさを隠しているのに、隠しきれていない顔。
「今日は、こっちからやる?」
「うん。昨日、少し水が多かったから」
「……覚えてるんだ」
「忘れないよ。だって私の畑だもん」
言った瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
“私の畑”と言えることが、どうしようもなく幸せだった。
この場所が、私の居場所だと疑わないでいられることが、何よりの奇跡みたいだった。
エルは何も言わず、鍬を取る。
重いはずの道具を軽く扱うのに、乱暴じゃない。
土を傷つけない角度を、初めから知っているみたいに動かす。
「エル、上手くなったね」
「……君が、教えるから」
「私、そんなに教えてないよ」
「教え方じゃない。……君の見てる方を、見てるだけ」
その言い方がずるい。
胸が熱くなる。
汗じゃなくて、もっと柔らかいものが体の中で溶けるみたいな熱。
「それ、結構ずるい」
「……そう?」
「そう。私の心が、先に負ける」
エルは一瞬だけ止まって、鍬を地面に立てかけた。
そして、ほんの少しだけこちらへ近づく。
距離は近いのに、触れない。
触れないまま、息だけが近くなる。
「勝っていい」
「……え?」
「君が勝っていい。僕に、全部」
その言葉が胸の中に落ちて、土の匂いより先に熱が広がった。
ただの畑なのに、ここに二人の時間が積み上がっていく気がして、怖いくらい嬉しい。
「……ねえ、エル」
「なに?」
「今の、もう一回言って」
エルが瞬きをする。
少しだけ困ったみたいな間。
それから、ほんの少しだけ口元が緩む。
「君が勝っていい」
「……うん」
「僕に、全部」
その“全部”がどこまでの全部なのか分からないのに、分かってしまう。
分かってしまうから、胸が痛い。
痛いのに、私は笑ってしまう。
「……ほんと、畑で言うことじゃない」
「畑だから言える」
「どうして」
エルは土を見る目のまま言った。
土を見る目は、嘘がつけない。
「……ここは、君が“普通”でいられる場所だろ」
喉が、きゅっと鳴った。
「君が、何者でもなくいられる場所。
だから、ここで言う」
普通。
私が一番欲しかったものを、この人は当たり前みたいに言う。
「……私、普通?」
「うん」
即答だった。
「普通に、可愛い」
言葉が短い分、逃げ場がない。
私は土を見て、手袋の上から指をぎゅっと握る。
握っても、胸の熱は収まらない。
「……そういうの、反則」
「反則していい」
「よくない」
「よくないなら、君が止めればいい」
止められるわけがない。
止めたくない。
私は結局、負けたまま言った。
「じゃあ、止めない」
エルの目がほんの少しだけ細くなる。
嬉しいのに嬉しさを隠そうとして失敗している顔。
その失敗が、愛おしい。
その日、畑仕事はいつもより長引いた。
二人とも、要領が悪くなったからだ。
草を抜きながら隣の気配が気になって手が止まる。
水をやりながら声をかけたくなってまた止まる。
何をしても、時間が“作業”の顔をしなくなる。
それが嬉しくて、少しだけ怖い。
でも夢の私は、薄まることを信じない。
信じないでいられる。
♢
昼、木陰に座ると、エルが水筒を差し出した。
木陰の影は涼しくて、陽は優しくて、風がちゃんと抜けて、息が楽だった。
「ねえ、エル」
「うん」
「……このままずっと、こんな日が続けばいいのに」
言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
幸せすぎる言葉ほど、どこかに棘がある。
でもエルは、少し考えてから言った。
「続くよ」
「……ほんと?」
「続ける。僕が」
その返事は未来の約束なのに、軽くない。
握る手の力みたいに確かで、逃げない声。
私は笑ってしまう。
笑いながら、涙が出そうになる。
なのに夢の私の涙は出ない。
代わりに、私は言った。
「じゃあ、明日も来る」
「明日も?」
「うん。明日も。明後日も。……ずっと」
「……ずっと、は」
エルが言い淀む。
その瞬間だけ、夢の空気が薄く揺れた。
私の胸の奥で、知らないはずの感覚が鳴る。
“ずっと”は禁句だ、と。
けれどエルは、息を吸って言い直す。
「ずっと、に近いだけ。君が嫌になるまで」
「嫌にならないよ」
「分からない」
「分からないの?」
「君の心は、君のものだから」
その言い方が、またずるい。
私は膝を抱えて、顔を伏せた。
「……エルはさ」
「うん」
「私のこと、どこまで好き?」
質問が幼いのは分かってる。
でも聞きたかった。
エルは困ったみたいに笑ってから、真面目な目をした。
「君が思うより、深い」
「それ、逃げ」
「逃げじゃない。……測れないだけ」
「測ってよ」
「測ったら、足りないって言うだろ?」
「言う」
「ほら」
二人で笑う。
何でもないのに笑う。
こういう笑い方を、私はずっと知らなかった気がする。
そうしていると、エルがふと真面目な声になった。
「……リィナ」
呼び方が、少し違う。
いつもより名前の形が重い。
「なに?」
「もし、君がよければ」
心臓が跳ねる。
言葉の途中なのに、答えが分かってしまう。
「……畑じゃなくても、会いたい」
「え」
「畑以外の、君の時間も」
胸が熱い。
世界が柔らかい。
痛みがない代わりに、甘さが痛い。
「……会うよ」
「ほんとに?」
「うん。だって、好きだから」
言った瞬間、エルの息が止まったのが分かった。
驚いた顔。嬉しい顔。隠しきれない顔。
「今、好きって言った」
「言った」
「……畑で言うことじゃない」
「畑だから言うんだよ」
同じ言葉を返されて、私は笑ってしまう。
笑いながら、胸の奥に小さな違和感が沈む。
――このやり取り、どこかで。
知らないはずなのに、知っている。
夢は優しい。
だから、現実の断片を優しさで包んで紛れ込ませる。
私はそれを見ないふりをする。
見ないふりができる世界だから。
♢
季節が進む。
畑の作物が実り、収穫を終えた夜、
エルは村の外れの丘に私を連れていった。
星が綺麗で、寒くもなく、息が白くもならない。
「見て」
エルが指さす先に、小さな灯りが点々と並んでいる。
村の家々の灯り。生活の灯り。
「……ここ、好き」
私が言うと、エルは頷いた。
「君が好きな場所は、僕も好きになる」
「それ、ずるい」
「ずるくていい」
そして――エルは手を差し出した。
指先が少し震えている。
「……リィナ。僕と」
続きが言えないのに、続きを待っている目。
私はその手を取った。
取った瞬間、世界が確かになった気がした。
誰にも否定されない。誰にも取り上げられない。
「うん」
一言で終わる。
でも心の中では何百回も言っている。
エルが息を吐く。
その息が私の手の甲にかかって、くすぐったい。
「……ありがとう」
「ありがとう、は私の方」
「いや、僕の方だ」
「じゃあ、二人ともだね」
二人で笑う。
夜の冷たさが、優しい。
丘を下りながら、エルはぽつりと言った。
「……君のご両親に、挨拶に行きたい」
胸が跳ねた。
未来が“形”になる音がした。
「……いいの?」
「いいの、じゃない。必要だ」
その言い方が、いつものエルだった。
怖さを見せない。
怖さを、手順に変える。
「うちのお父さん、怖いよ」
「……怖いのは、僕も同じだ」
「エルが?」
「君の大事なものを、僕が大事にできるかどうか、試されるだろ」
その真面目さに、胸が柔らかく痛んだ。
♢
村の端の家は、畑とは違う匂いがした。
薪の匂い。干した布の匂い。生活の匂い。
玄関の前で、エルが一度だけ息を整える。
その横顔を見て気づく。
この人は、戦場よりもここを怖がっている。
剣を抜くより、頭を下げる方が苦手なのだ。
扉を叩くと、お母さんが出てきた。
視線が、優しいのに鋭い。
「……あら、リィナ。こちらが……?」
私が頷く前に、エルが一歩前へ出て、深く頭を下げた。
「エルディオと申します。突然の訪問をお許しください」
言葉が綺麗すぎて、少しだけ場が止まる。
村の家に似合わないほど、礼儀の形が完璧だった。
お母さんは一瞬驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「……どうぞ。中へ」
家の中は暖かかった。
火のそばの温度。鍋の湯気。床板の軋み。
お父さんがいた。
腕が太く、背が低い。
視線だけが大きい人。
「……お前が、例の」
お父さんの声は低い。
敵意じゃない。確認だ。
エルは真っ直ぐにお父さんを見た。
「はい。リィナさんと、これからも一緒に生きていきたいと思っています」
お父さんは黙ったままエルを見た。
長い沈黙。
その沈黙の間に、私の心臓だけが忙しい。
やがてお父はさん、エルの手元を見た。
「……手」
エルは戸惑って、でも差し出す。
お父さんはその手を取って、指の腹を確かめるように撫でた。
「……綺麗な手だ」
褒め言葉じゃないと分かる。
お父さんは、畑の人だ。
綺麗な手は、畑を知らない手。
エルは一瞬だけ視線を落として、それから言った。
「今日から、綺麗じゃなくします」
息が止まった。
お父さんが、ほんの少しだけ眉を動かす。
「……言うじゃねえか」
エルは続けた。
言い訳じゃない。宣言だった。
「リィナさんの畑に立ちます。
彼女の好きな場所で、彼女の好きな時間を、僕も覚えます。
……上手くできるかは分かりませんが、逃げません」
お父さんは黙ったまま、しばらくエルを見ていた。
それから短く言った。
「逃げないなら、いい」
それだけ。
お母さんが目元を指で押さえるふりをして、笑った。
「……あなた、いつもそうね」
お父さんは咳払いをして、少しだけ目を逸らす。
「……うるせえ」
帰り道、エルは肩の力を抜いて言った。
「……怖かった」
「うん。顔が怖かった」
「……君も?」
「私も怖かった」
そう言うと、エルは少しだけ立ち止まって私の手を取った。
「じゃあ、もう逃げられないな」
「うん」
逃げられない。
その言葉が、こんなに甘いなんて知らなかった。
♢
家は小さかった。
畑の端から見える位置。
窓が大きくて、朝の光が台所に入る。
エルは釘を打つのが下手で、指を軽く叩いて眉をひそめた。
私は笑って絆創膏を貼ってあげる。
「エル、貴族なのに、こういうのもやるんだ」
「君が好きな場所で生きるなら、こういうのも必要だろ」
必要。
その言葉が「君が必要」みたいに聞こえて、胸が詰まる。
夜、完成したばかりの家で床に座ってスープを飲む。
まだ椅子も揃っていないのに、妙に満たされている。
「……ねえ、エル」
「うん」
「この家、変な匂いする」
「木の匂いだろ」
「違う。……幸せの匂い」
言った瞬間、エルが咳き込んだ。
変なところで動揺する。
その動揺が可愛くて、私は笑う。
「今、動揺した」
「してない」
「した」
「……したかもしれない」
私は、エルの肩にもたれた。
木の匂い。スープの匂い。それから、エルの匂い。
それだけで、世界が完成してしまう。
日々は静かに積もった。
朝は一緒に起きて、畑に行って、昼は同じものを食べて。
夜は窓辺で風の音を聞く。
特別な会話は少ない。
それでもエルは必ず私を見た。
見て、頷いて、必要なら手を伸ばして。
伸ばして、でも奪わない。
その距離の取り方が、愛だと分かるようになる。
ある夜、私はふと思って、口にした。
「……式は、どうする?」
エルが、少しだけ目を大きくする。
驚いたのは、聞かれたことじゃない。
聞かれた“未来”の重さの方だ。
「君が望む形で」
「大げさじゃなくていい。
でも、ちゃんと……あなたの隣に立ちたい」
エルは頷いた。
頷き方が、誓いみたいに重い。
「じゃあ、君の好きな場所で」
好きな場所。
丘の上。風が抜けるところ。
――式の日、私は白い布を纏った。
豪華じゃない。
でも陽の光を受けると、布の繊維が柔らかく光った。
お父さんは相変わらず無口で、お母さんは笑いながら泣いた。
丘の上で、エルは私の前に立つ。
「リィナ」
その呼び方が、今日だけ少し震えている。
「僕は、君を守る」
夢の私は怖がらない。
守るという言葉が、支配じゃなく誠実だと知っているから。
「僕の人生の中で、君をいちばん大事にする」
いちばん。
順位の言葉なのに、嫌じゃない。
むしろ救われる。
私は笑って言った。
「じゃあ私は、あなたの人生の中で、いちばん普通にする」
エルが目を丸くする。
「普通?」
「うん。ごはん食べて、笑って、眠って。
あなたが一人で重い顔をしないように」
エルは少しだけ息を吐いて笑った。
「……君は、本当にずるい」
「ずるくていい」
指先があたたかい。
その温度だけで、誓いが形になる。
♢
季節がまた進む。
ある朝、畑の端で立ち止まった。
土の匂いがいつもより濃く感じる。
胸の奥が妙にむかむかする。
「……リィナ?」
エルが気づいて、すぐに駆け寄ってくる。
その慌て方が、戦場のそれじゃないのが可笑しい。
「大丈夫?」
「……たぶん」
たぶん、と言いながら、夢の私は分かってしまう。
分かってしまって、怖いのに嬉しい。
その夜、母に確認すると、母は黙って私の手を握った。
「……おめでとう」
その言葉で、世界の輪郭が一段くっきりする。
家に戻って、エルの前に立つ。
言おうとして言葉が喉でつかえる。
エルは察してしまう。
察してしまって、表情が一瞬、壊れそうになる。
「……言って?」
声が弱い。
私は笑って言った。
「家族が、増えるみたい」
エルの息が止まる。
止まったあと、ゆっくり吐かれる。
そして――泣いた。
静かに。でも止まらない。
「……ごめん」
そう言うから、私は慌てて首を振る。
「泣いていいよ。嬉しいんでしょ」
「……嬉しい」
「じゃあ泣いていい」
エルは私の額に額を寄せる。
その触れ方が、壊れ物じゃなく、確かなものに対する触れ方だった。
「……君が頑張る分、僕が全部支える」
支える。
その言葉の温度に、夢の私は安心してしまう。
♢
お腹が大きくなるにつれて、畑の距離が変わる。
同じ畑なのに歩幅が小さくなる。
しゃがむのが少し苦しくなる。
でも夢の私は痛くない。
ただ、重いだけだ。
命の重さ。
エルは先回りが増える。
水桶を持たせない。
段差を先に見つける。
風が強い日は外に出る時間を短くする。
「過保護」
私が笑うと、エルは真面目に言う。
「過保護でいい」
「……私、歩けるよ?」
「歩けるけど、転んだら嫌だ」
「そんなに心配?」
「心配だ」
即答。
その即答が、私の心を溶かす。
夜、寝る前に、エルが私のお腹に手を当てる。
恐る恐る触れる。
赤子の存在が神聖すぎて怖いみたいに。
「……動いた」
「うん」
「……ここにいるんだな」
その言葉で、胸がいっぱいになる。
「ねえ、エル。名前、どうする?」
未来の話。
夢の世界では未来の話ができる。
エルは少し考えて、笑った。
「君が決めて」
「またそれ」
「だって、君が笑う名前がいい」
「ずるい」
「ずるくていい」
私は笑う。
笑いながら、胸の奥にほんの少しだけ、薄い影が落ちる。
――ずるい、って言える時間は、永遠じゃない。
そんなこと、夢の私は知らないはずなのに。
知らないはずなのに、ほんの少しだけ、知ってしまっている。
だから私は余計にエルを見つめる。
今の顔を、覚えたくて。
♢
出産の日は、静かに始まった。
空が明るくて、風が優しい。
こんな日に痛みが来るなんて、世界は不公平だと思う。
でも夢の痛みは、怖すぎない。
怖すぎないように、世界が調整してくれている。
エルは私の手を握っている。
握り方が強い。
でも壊さない強さ。
「……リィナ」
声が震えている。
「大丈夫」
私が言うと、エルが首を振る。
「大丈夫じゃない。……僕が」
その告白が愛おしい。
「じゃあ、私が大丈夫にしてあげる」
痛みの合間に、私は笑う。
笑ってしまう。
しばらくして、部屋に小さな声が生まれた。
泣き声。
命の声。
世界が一瞬だけ真っ白になるほど眩しい。
エルが赤子を抱く。
抱き方が不器用で、でも泣きたくなるほど丁寧。
「……可愛い」
その一言に、全部が詰まっている。
「君に似てる」
「え、私?」
「目が。……君の目」
“君の目”と呼ばれることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
エルは赤子を抱いたまま、私の額に額を寄せた。
「……愛してる」
夢の中で一番、真実だった。
私は息を吸って、静かに言った。
「私も。……愛してる」
♢
それからの日々は、砂糖みたいに甘くて、胸の奥がずっと痛かった。
夜、子供が眠ったあと、二人で窓辺に座る。
風の音は優しくて、光は柔らかい。
「ねえ、エル」
「うん」
「来年は、畑どうする?」
未来の話。
未来の話ができる。
怖くない。
エルは笑って言う。
「全部、君の好きにしていい」
「じゃあ、もう少し花も植える」
「いいね」
「色、増やす」
「君の笑う色が増える」
「またずるい」
「ずるくていい」
笑う。
笑って、抱きしめられる。
その抱きしめ方が、少しだけ強かった。
――強い。
夢の中なのに、なぜか胸が詰まる。
抱きしめられるのは幸せなのに、
その強さが“逃がさない”みたいで、少し怖い。
エルが私の髪に顔を埋めたまま囁く。
「……行かないで」
私は笑う。
「行かないよ。ここにいるよ」
「……約束」
「約束、する」
言った瞬間、
夢の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
約束――。
それは本当は、私たちが避けてきた言葉。
なのに夢の私は言ってしまう。
幸福が、禁句をほどいてしまう。
そして、揺れの向こうから、
“現実”みたいなものが滲み出す。
畑の匂いが、少しだけ薬の匂いに混ざる。
窓の光が、少しだけ白く冷える。
子供の笑い声が、遠い呼吸音に変わる。
私は瞬きをする。
「……あれ?」
エルの顔を見る。
エルはいつも通り笑っている。
でも、その笑い方が――少し違う。
夢の中のエルは夢のルールで笑っているのに、
目だけが、現実の底みたいに深い。
「……エル?」
呼ぶと、エルは頷く。
頷き方が、やけにゆっくりで、丁寧で、
まるで“別れ”を知っている人みたいだ。
「大丈夫」
言葉は優しい。
でも、音が少し遠い。
私は胸の奥で理解してしまう。
――夢は、終わる。
終わりはいつも、壊れる音を立てない。
ただ、違和感が先に増える。
私は子供の手を見る。
小さな指が私の指を握っている。
その温度が、少しだけ薄い。
「……ねえ、エル」
「うん」
「私、眠ってる?」
エルは答えない。
答えないのが答えになる沈黙。
私は笑おうとした。
でも、笑い方を忘れたみたいに口角が動かない。
代わりに、息を吸う。
――吸える。
夢の中では、こんなに楽に息ができる。
それが、いちばん切ない。
私はエルの手を取った。
現実に繋ぎ止めるみたいに。
「……私ね」
言葉が震える。
夢のはずなのに、涙が出そうになる。
「……この夢、好き」
エルが少しだけ目を細める。
「うん」
「でも」
喉が詰まる。
“でも”の先が、もう決まっているから。
「……でも、私は」
私はエルの手をぎゅっと握る。
「現実を選ぶ」
そう言った瞬間、
畑の匂いが遠のいて、
家の光が薄れて、
子供の笑い声がほどけていく。
エルの顔だけが残る。
最後に残るのが、いつだってあなたなのが残酷だ。
「……愛してる」
夢の中でしか言えないくらい、真っ直ぐに。
エルは何も言わない。
ただ、頷く。
その頷きが、
“君の選択を壊さない”という頷きだと、私は分かってしまう。
だからこそ、私は安心して夢を手放せる。
「……またね」
言った瞬間、世界が白くなっていく。
最後に、エルの声が聞こえた。
「――ずっと、ここにいる」
その言葉は約束じゃない。
未来じゃない。
“今”の確定。
その確定が、私の幸福の全部だった。
そして夢は、静かに終わった。
♢
部屋は静かだった。
僕は相変わらず椅子に座り、
何もしていないまま時間を過ごしていた。
リィナの呼吸が、少しだけ変わった。
浅くなる、ではない。
乱れる、でもない。
どこか遠いところから、戻ってくる呼吸。
眉が微かに動く。
唇が、ほんの少し開く。
喉が、小さく鳴る。
僕は動かない。
手を伸ばさない。
名前も呼ばない。
けれど、胸の奥で何かが、静かに鳴った。
──帰ってきた。
確信だけが、そこにあった。
リィナの瞼がゆっくりと上がる。
焦点が合うまで時間がかかる。
けれど彼女の視線は、確かに僕を捉えた。
「……エル」
声は弱いのに、意志があった。
夢の中の声じゃない。
現実の声だ。
僕は息を吸って、吐いた。
その動作だけで、喉の奥が痛くなる。
「うん」
それだけ答える。
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
笑って、何かを確かめるみたいに僕の顔を見た。
その目が言っている。
──私は戻ったよ。
そして、その戻り方が、彼女の選択だったことも。
僕は言葉を増やさない。
増やしたら、彼女の選択に感想を乗せてしまう。
感想は、いらない。
評価も、いらない。
慰めも、いらない。
必要なのは、彼女が彼女であることだけ。
僕は膝の上の指をほどいて、ゆっくり手を伸ばした。
触れるか触れないかの境界で一瞬止まって、
それでも、そっと彼女の手を包んだ。
冷たい。
けれど、そこにある。
「……寒い?」
短く聞く。
リィナは、ほんの少し首を振った。
「……大丈夫」
そして、息を吐くみたいに言った。
「……夢、見てた」
僕は頷く。
「うん」
「……幸せな夢」
「……うん」
言葉が足りないのに、足りている。
リィナは目を閉じかけて、また開いた。
今度は、ちゃんと僕を見る。
「……ねえ」
「うん」
「……私ね」
一拍。
言葉を探す間。
「……戻ってきたの」
僕の胸が、きゅっと縮む。
戻ってきた。
それはただの状況説明じゃない。
「幸せなまま、あっちにいられた」と言っているのと同じだ。
なのに彼女は戻った。
理由を僕は聞かない。
理由は、もう知っている。
「……エルが、ここにいるから」
夢の中のエルじゃない。
現実の僕。
病気の彼女を見ている僕。
薬の量を測る僕。
返事がなくても話しかける僕。
その僕がいる場所が、彼女の居場所だと。
「……私が私でいるために」
僕は目を逸らさない。
「……ここが、いい」
ここ。
痛みがある場所。寒い場所。終わりがある場所。
それでも彼女は「ここ」を選ぶ。
それが彼女の強さで、
彼女の愛で、
残酷だった。
僕は喉が焼けるみたいな感覚を抱えたまま、言葉を絞り出した。
「……分かった」
それだけ言って、彼女の手を包む力を少しだけ強める。
強く握らない。
壊れそうだからじゃない。
壊れてしまうほど、僕の感情を乗せたくないからだ。
リィナは安心したように息を吐いた。
「……ありがとう」
ありがとう、は僕のための言葉だ。
彼女は最後まで、僕を支える言葉を選ぶ。
僕は頷き、ただ、そこにいる。
♢
それから、しばらくのあいだ、
二人は何も話さなかった。
言葉が尽きたわけじゃない。
言葉を尽くす必要が、もうなかった。
吸う。
吐く。
同じ速さでなくていい。
同じ長さでなくていい。
ただ、「ここにいる」ことだけを揃える。
それが今の僕にできる、唯一の誠実だった。
椅子に座ったまま、
僕は視線を落とす。
床。
寝台の脚。
自分の膝。
そして、自分の指。
その指は知っている。
ページをめくる感触を。
魔方陣を描く重さを。
血と魔力が混ざる温度を。
――“できる”という事実を。
頭の奥で、それがはっきりと形を取る。
もし。
もし、今、ここで。
彼女が眠りに落ちきる前に。
禁術を起動できたなら。
肉体を再構成し、
魂を定着させ、
時間を歪め、
世界の方を曲げて。
彼女は、生きる。
歩けるかもしれない。
話せるかもしれない。
畑にも、また行けるかもしれない。
その可能性が、あまりにも具体的で、あまりにも現実的で、
だからこそ、僕の喉を締めつけた。
――できる。
できる、という事実ほど、人を残酷に追い詰めるものはない。
僕は、ゆっくりと立ち上がった。
音を立てないように。
彼女の眠りを揺らさないように。
部屋の隅に置かれた鞄に視線を向ける。
中には、今はもう使われないはずの道具がある。
書庫で書き写した神代の理論式。
補助触媒。
一度も完成させなかった、最終構成。
指をかける。
冷たい金属。
引けば、開く。
開けば、進める。
進めば、“終わり”は変えられる。
彼女が選んだ終わりを、書き換えることができる。
――それは、救いだ。
世界は、そう呼ぶ。
だが、その瞬間、
リィナの声が胸の奥で静かに反響した。
「今の私が、好きなの」
「エルが、好きになってくれた私じゃない」
彼女は拒否した。
生きることを、ではない。
延ばされることを、だ。
“違う私”として生き残ることを。
僕は、鞄から目を逸らした。
代わりに寝台を見る。
リィナは眠っている。
穏やかに。
何も知らずに。
もし、ここで禁術を使えば、
彼女は知らないまま「別の彼女」になる。
それは彼女の選択を奪うことだ。
彼女が最後まで守ろうとした“私”を殺すことだ。
僕は理解してしまった。
禁術を使うということは、
彼女を救うことではない。
彼女を、否定することだ。
彼女の人生を、「それでは足りなかった」と書き換えることだ。
指が、留め具から離れる。
わずかに震えている。
震えは恐怖じゃない。
迷いでもない。
決断が、身体に追いついていないだけだ。
僕は鞄を閉じたまま、元の位置へ戻した。
そして、何事もなかったように椅子に戻る。
座る。
息を吸う。
吐く。
胸の奥が、焼けるように痛い。
それでも、決断は揺れない。
――使わない。
使えない、ではない。
使わない、だ。
彼女が選んだ現実を、
僕が壊す権利はない。
彼女が愛してくれた僕が、
そんなことをするはずがない。
リィナの呼吸が、わずかに変わる。
浅くなる。間が伸びる。
僕はそっと彼女の手に触れた。
起こさない。
確かめない。
ただ、“ここにいる”ことを伝えるためだけに。
彼女の指が、わずかに動く。
無意識の反応。
でも、拒絶ではない。
それだけで、
僕の決断は、完全になる。
「……大丈夫だ」
誰に向けた言葉でもない。
彼女にでも、自分にでもない。
ただ、事実として置いた。
彼女は、彼女のままでいる。
僕は、それを守る。
それ以上も、それ以下も、しない。
窓の外で、雪がひとつ舞った。
まだ積もらない。
溶けて消えるだけの雪。
冬は確実に深まっている。
それでも、今はまだ。
彼女は、ここにいる。
彼女が選んだ現実の中で、
彼女が選んだ形のままで。
僕は椅子に座り続ける。
何も変えない。
何も選ばない。
――いいや、違う。
僕は、
選ばないことを、選び続けている。
それが、
リィナを愛するということだと、
もう疑わなかった。
静かな部屋で、
二人分の呼吸だけが、
ゆっくりと、重なっていた。
冬編の中でも、この第29話は「救い」と「幸福」をあえて同じ場所に置かないための回でした。
痛みのない世界、何も失わない世界、ちゃんと笑って生きていける世界――夢の中でなら、いくらでも作れる。だからこそ、夢は優しくて、残酷です。
リィナの夢は、現実逃避ではなく“最後に一度だけ、全部を確かめるための幸福”にしたかった。
もし何もなければ、もし病気がなければ、もし未来を語っても許される世界だったなら。
その「もし」の中で、彼女はちゃんと愛され、ちゃんと笑って、ちゃんと生きた。
それでも彼女は、現実を選びます。
理由はひとつです。エルがいるから。
そしてもうひとつ。自分が自分でいるために。
夢が甘ければ甘いほど、現実は苦い。
けれどこの物語では、苦い現実を選ぶことが“罰”ではなく、彼女自身の誇りであり、愛の形であってほしいと思っています。
救われたがっていないのではなく、救われ方を選ぶ。
その選択に、誰も手を突っ込めない。たとえ愛していても。
エルの「何もしない」は、無力ではありません。
禁術に手が届くのに、使わない。
未来を語れるのに、語らない。
抱きしめて引き留められるのに、引き留めない。
その全部が、彼の覚悟です。
この回を書きながら、ずっと胸の奥が重かったです。
でも、重いまま描きたかった。
愛は綺麗な言葉だけでは成立しなくて、尊重という形をした痛みを必ず含むから。
次は、冬がもっと冷たくなります。
それでも、二人の手の温度だけは、最後まで確かにそこにあるように。
そのために、ここで“夢”を挟みました。
読んでくれて、ありがとうございました。




