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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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29.冬を手放す-4

 部屋は静かだった。


 窓の外で風がひとつ、枝を鳴らす。

 それだけで、この家の冬は十分だと思えるくらい、音が少ない。


 寝台の上で、リィナは深く眠っていた。

 呼吸は穏やかで、浅くもない。

 胸が上下するたび、布が微かに擦れて、すぐに元の静けさへ戻る。


 痛みの兆候がない。

 眉が寄らない。

 喉が引っかからない。

 指先が震えない。


 だから僕は、声をかけなかった。


「起こさない」という判断は、今日に限って降ってきたわけじゃない。

 ここ数日、リィナは眠りの底を深くしていた。

 起こせば、起きる。──たぶん。

 起こせば、目は開く。──きっと。

 けれど、その「たぶん」と「きっと」の間に、僕はもう言葉を置きたくなかった。


 起こすための声は、希望に似ている。

 希望は、形にした瞬間に、彼女の肩に乗る。


 だから今日は、起こさない。


 守るために動いてきた僕が、

 守ることすらしない場所へ、足を置いた。


 椅子に腰を下ろす。

 背もたれが軋む音が出ないように、ゆっくりと。

 手を伸ばすか、迷って、そのまま膝の上で指を組んだ。


 触れれば、彼女は起きるかもしれない。

 触れれば、起きなくても、僕の心が勝手に確かめてしまう。

 温度や軽さや骨の角を、言葉にできない情報として拾ってしまう。


 拾ったら、僕の中で「終わりの順番」が始まる。


 それは、彼女のためじゃない。

 僕のためだ。

 僕が壊れないために、彼女を順番にしてはいけない。


 だから、ただ居た。


 部屋の空気を吸って、

 吐いて、

 また吸って。


 生きている。

 それだけで、今日という日を成立させる。


 窓辺の光が、寝台の布に薄く落ちる。

 冬の光は、色が少ない。

 白く、薄く、遠い。


 その光の中で、リィナの顔は穏やかだった。


 眠っているだけだ。

 痛みがない時間が、たまたまここにあるだけだ。


 なのに僕は、どうしても思ってしまう。


 ──もし、彼女がこのまま、痛みのない場所へ行けるなら。


 そんなふうに考えること自体が、裏切りみたいで。

 僕はすぐに、その考えを押し込めた。


 押し込めても、消えない。


 だから、また呼吸に戻る。

 呼吸の数を数えない。

 数え始めたら、僕は医師になる。

 医師になったら、彼女は患者になる。


 彼女は、リィナだ。


 それだけを守る。


 そして僕が何もしないまま時間が流れたとき、

 部屋の静けさが、ふっと別の質に変わった。


 音が減ったのではない。

 世界が、どこか遠くへ引いていく感覚。


 僕の耳に届くのは、呼吸と、風と、時計の針だけ。

 それなのに、どれも現実の音には聞こえなくなる。


 まるで、誰かが布を一枚かぶせて、

 世界の輪郭を柔らかくしたみたいだった。


 僕は目を閉じていない。

 なのに、景色が遠くなる。


 そのとき、確信した。


 ──リィナは、夢を見ている。


 僕は彼女の夢を見たことがない。

 見られるはずもない。

 けれど、今だけは、分かる気がした。


 彼女の呼吸が、少しだけ深くなる。

 胸が上下する、その動きが、痛みではなく、何か別の感情を運んでいるみたいに見える。


 僕は動かない。

 ただ、そこにいる。


 夢の中で、彼女がどこへ行くのかを、邪魔しない。


 ♢


 畑の土は、あたたかい匂いがした。

 水を撒いたばかりの湿り気が、陽を吸って、ふわりと立ちのぼる。

 足元に小さな芽が並んでいて、どれも同じ方向を向いている。

 ――生きているものは、ちゃんと前を向けるんだと、そのときの私は当たり前みたいに思った。


 鍬の柄を握る手が、痛くない。

 指先に力が入る。

 息を吸っても、胸がつかえない。

 呼吸のたびに世界が遠のくこともない。


 それだけで、嬉しくて、泣きたくなるのに。

 夢の私は、泣かない。

 泣く理由がないから。


「……おはよう」


 背後から声がした。

 聞き慣れているのに、初めて聞くみたいに胸が鳴る声。


 振り向くと、そこにエルが立っていた。

 畑に似合わないほど整った服を着ているのに、土の匂いの中に違和感なく馴染んでいて。

 手袋を片方だけ外した指が、ちゃんと“働く人”の形をしている。


「おはよう、エル」


 そう言ったら、エルはほんの少しだけ目を細めた。

 笑っているのに、笑いすぎない。

 嬉しさを隠しているのに、隠しきれていない顔。


「今日は、こっちからやる?」


「うん。昨日、少し水が多かったから」


「……覚えてるんだ」


「忘れないよ。だって私の畑だもん」


 言った瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。

 “私の畑”と言えることが、どうしようもなく幸せだった。

 この場所が、私の居場所だと疑わないでいられることが、何よりの奇跡みたいだった。


 エルは何も言わず、鍬を取る。

 重いはずの道具を軽く扱うのに、乱暴じゃない。

 土を傷つけない角度を、初めから知っているみたいに動かす。


「エル、上手くなったね」


「……君が、教えるから」


「私、そんなに教えてないよ」


「教え方じゃない。……君の見てる方を、見てるだけ」


 その言い方がずるい。

 胸が熱くなる。

 汗じゃなくて、もっと柔らかいものが体の中で溶けるみたいな熱。


「それ、結構ずるい」


「……そう?」


「そう。私の心が、先に負ける」


 エルは一瞬だけ止まって、鍬を地面に立てかけた。

 そして、ほんの少しだけこちらへ近づく。

 距離は近いのに、触れない。

 触れないまま、息だけが近くなる。


「勝っていい」


「……え?」


「君が勝っていい。僕に、全部」


 その言葉が胸の中に落ちて、土の匂いより先に熱が広がった。

 ただの畑なのに、ここに二人の時間が積み上がっていく気がして、怖いくらい嬉しい。


「……ねえ、エル」


「なに?」


「今の、もう一回言って」


 エルが瞬きをする。

 少しだけ困ったみたいな間。

 それから、ほんの少しだけ口元が緩む。


「君が勝っていい」


「……うん」


「僕に、全部」


 その“全部”がどこまでの全部なのか分からないのに、分かってしまう。

 分かってしまうから、胸が痛い。

 痛いのに、私は笑ってしまう。


「……ほんと、畑で言うことじゃない」


「畑だから言える」


「どうして」


 エルは土を見る目のまま言った。

 土を見る目は、嘘がつけない。


「……ここは、君が“()()”でいられる場所だろ」


 喉が、きゅっと鳴った。


「君が、何者でもなくいられる場所。

 だから、ここで言う」


 普通。

 私が一番欲しかったものを、この人は当たり前みたいに言う。


「……私、普通?」


「うん」


 即答だった。


「普通に、可愛い」


 言葉が短い分、逃げ場がない。

 私は土を見て、手袋の上から指をぎゅっと握る。

 握っても、胸の熱は収まらない。


「……そういうの、反則」


「反則していい」


「よくない」


「よくないなら、君が止めればいい」


 止められるわけがない。

 止めたくない。


 私は結局、負けたまま言った。


「じゃあ、止めない」


 エルの目がほんの少しだけ細くなる。

 嬉しいのに嬉しさを隠そうとして失敗している顔。

 その失敗が、愛おしい。


 その日、畑仕事はいつもより長引いた。

 二人とも、要領が悪くなったからだ。

 草を抜きながら隣の気配が気になって手が止まる。

 水をやりながら声をかけたくなってまた止まる。


 何をしても、時間が“作業”の顔をしなくなる。

 それが嬉しくて、少しだけ怖い。


 でも夢の私は、薄まることを信じない。

 信じないでいられる。


 ♢


 昼、木陰に座ると、エルが水筒を差し出した。

 木陰の影は涼しくて、陽は優しくて、風がちゃんと抜けて、息が楽だった。


「ねえ、エル」


「うん」


「……このままずっと、こんな日が続けばいいのに」


 言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

 幸せすぎる言葉ほど、どこかに棘がある。


 でもエルは、少し考えてから言った。


「続くよ」


「……ほんと?」


「続ける。僕が」


 その返事は未来の約束なのに、軽くない。

 握る手の力みたいに確かで、逃げない声。


 私は笑ってしまう。

 笑いながら、涙が出そうになる。

 なのに夢の私の涙は出ない。


 代わりに、私は言った。


「じゃあ、明日も来る」


「明日も?」


「うん。明日も。明後日も。……ずっと」


「……ずっと、は」


 エルが言い淀む。

 その瞬間だけ、夢の空気が薄く揺れた。


 私の胸の奥で、知らないはずの感覚が鳴る。

 “ずっと”は禁句だ、と。


 けれどエルは、息を吸って言い直す。


「ずっと、に近いだけ。君が嫌になるまで」


「嫌にならないよ」


「分からない」


「分からないの?」


「君の心は、君のものだから」


 その言い方が、またずるい。

 私は膝を抱えて、顔を伏せた。


「……エルはさ」


「うん」


「私のこと、どこまで好き?」


 質問が幼いのは分かってる。

 でも聞きたかった。


 エルは困ったみたいに笑ってから、真面目な目をした。


「君が思うより、深い」


「それ、逃げ」


「逃げじゃない。……測れないだけ」


「測ってよ」


「測ったら、足りないって言うだろ?」


「言う」


「ほら」


 二人で笑う。

 何でもないのに笑う。

 こういう笑い方を、私はずっと知らなかった気がする。


 そうしていると、エルがふと真面目な声になった。


「……リィナ」


 呼び方が、少し違う。

 いつもより名前の形が重い。


「なに?」


「もし、君がよければ」


 心臓が跳ねる。

 言葉の途中なのに、答えが分かってしまう。


「……畑じゃなくても、会いたい」


「え」


「畑以外の、君の時間も」


 胸が熱い。

 世界が柔らかい。

 痛みがない代わりに、甘さが痛い。


「……会うよ」


「ほんとに?」


「うん。だって、好きだから」


 言った瞬間、エルの息が止まったのが分かった。

 驚いた顔。嬉しい顔。隠しきれない顔。


「今、好きって言った」


「言った」


「……畑で言うことじゃない」


「畑だから言うんだよ」


 同じ言葉を返されて、私は笑ってしまう。

 笑いながら、胸の奥に小さな違和感が沈む。


 ――このやり取り、どこかで。


 知らないはずなのに、知っている。

 夢は優しい。

 だから、現実の断片を優しさで包んで紛れ込ませる。


 私はそれを見ないふりをする。

 見ないふりができる世界だから。


 ♢


 季節が進む。


 畑の作物が実り、収穫を終えた夜、

 エルは村の外れの丘に私を連れていった。

 星が綺麗で、寒くもなく、息が白くもならない。


「見て」


 エルが指さす先に、小さな灯りが点々と並んでいる。

 村の家々の灯り。生活の灯り。


「……ここ、好き」


 私が言うと、エルは頷いた。


「君が好きな場所は、僕も好きになる」


「それ、ずるい」


「ずるくていい」


 そして――エルは手を差し出した。

 指先が少し震えている。


「……リィナ。僕と」


 続きが言えないのに、続きを待っている目。


 私はその手を取った。

 取った瞬間、世界が確かになった気がした。

 誰にも否定されない。誰にも取り上げられない。


「うん」


 一言で終わる。

 でも心の中では何百回も言っている。


 エルが息を吐く。

 その息が私の手の甲にかかって、くすぐったい。


「……ありがとう」


「ありがとう、は私の方」


「いや、僕の方だ」


「じゃあ、二人ともだね」


 二人で笑う。

 夜の冷たさが、優しい。


 丘を下りながら、エルはぽつりと言った。


「……君のご両親に、挨拶に行きたい」


 胸が跳ねた。

 未来が“形”になる音がした。


「……いいの?」


「いいの、じゃない。必要だ」


 その言い方が、いつものエルだった。

 怖さを見せない。

 怖さを、手順に変える。


「うちのお父さん、怖いよ」


「……怖いのは、僕も同じだ」


「エルが?」


「君の大事なものを、僕が大事にできるかどうか、試されるだろ」


 その真面目さに、胸が柔らかく痛んだ。


 ♢


 村の端の家は、畑とは違う匂いがした。

 薪の匂い。干した布の匂い。生活の匂い。


 玄関の前で、エルが一度だけ息を整える。

 その横顔を見て気づく。


 この人は、戦場よりもここを怖がっている。

 剣を抜くより、頭を下げる方が苦手なのだ。


 扉を叩くと、お母さんが出てきた。

 視線が、優しいのに鋭い。


「……あら、リィナ。こちらが……?」


 私が頷く前に、エルが一歩前へ出て、深く頭を下げた。


「エルディオと申します。突然の訪問をお許しください」


 言葉が綺麗すぎて、少しだけ場が止まる。

 村の家に似合わないほど、礼儀の形が完璧だった。


 お母さんは一瞬驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「……どうぞ。中へ」


 家の中は暖かかった。

 火のそばの温度。鍋の湯気。床板の軋み。


 お父さんがいた。

 腕が太く、背が低い。

 視線だけが大きい人。


「……お前が、例の」


 お父さんの声は低い。

 敵意じゃない。確認だ。


 エルは真っ直ぐにお父さんを見た。


「はい。リィナさんと、これからも一緒に生きていきたいと思っています」


 お父さんは黙ったままエルを見た。

 長い沈黙。

 その沈黙の間に、私の心臓だけが忙しい。


 やがてお父はさん、エルの手元を見た。


「……手」


 エルは戸惑って、でも差し出す。

 お父さんはその手を取って、指の腹を確かめるように撫でた。


「……綺麗な手だ」


 褒め言葉じゃないと分かる。


 お父さんは、畑の人だ。

 綺麗な手は、畑を知らない手。


 エルは一瞬だけ視線を落として、それから言った。


「今日から、綺麗じゃなくします」


 息が止まった。


 お父さんが、ほんの少しだけ眉を動かす。


「……言うじゃねえか」


 エルは続けた。

 言い訳じゃない。宣言だった。


「リィナさんの畑に立ちます。

 彼女の好きな場所で、彼女の好きな時間を、僕も覚えます。

 ……上手くできるかは分かりませんが、逃げません」


 お父さんは黙ったまま、しばらくエルを見ていた。

 それから短く言った。


「逃げないなら、いい」


 それだけ。


 お母さんが目元を指で押さえるふりをして、笑った。


「……あなた、いつもそうね」


 お父さんは咳払いをして、少しだけ目を逸らす。


「……うるせえ」


 帰り道、エルは肩の力を抜いて言った。


「……怖かった」


「うん。顔が怖かった」


「……君も?」


「私も怖かった」


 そう言うと、エルは少しだけ立ち止まって私の手を取った。


「じゃあ、もう逃げられないな」


「うん」


 逃げられない。

 その言葉が、こんなに甘いなんて知らなかった。


 ♢


 家は小さかった。

 畑の端から見える位置。

 窓が大きくて、朝の光が台所に入る。


 エルは釘を打つのが下手で、指を軽く叩いて眉をひそめた。

 私は笑って絆創膏を貼ってあげる。


「エル、貴族なのに、こういうのもやるんだ」


「君が好きな場所で生きるなら、こういうのも必要だろ」


 必要。

 その言葉が「君が必要」みたいに聞こえて、胸が詰まる。


 夜、完成したばかりの家で床に座ってスープを飲む。

 まだ椅子も揃っていないのに、妙に満たされている。


「……ねえ、エル」


「うん」


「この家、変な匂いする」


「木の匂いだろ」


「違う。……幸せの匂い」


 言った瞬間、エルが咳き込んだ。

 変なところで動揺する。

 その動揺が可愛くて、私は笑う。


「今、動揺した」


「してない」


「した」


「……したかもしれない」


 私は、エルの肩にもたれた。

 木の匂い。スープの匂い。それから、エルの匂い。

 それだけで、世界が完成してしまう。


 日々は静かに積もった。

 朝は一緒に起きて、畑に行って、昼は同じものを食べて。

 夜は窓辺で風の音を聞く。


 特別な会話は少ない。

 それでもエルは必ず私を見た。

 見て、頷いて、必要なら手を伸ばして。

 伸ばして、でも奪わない。


 その距離の取り方が、愛だと分かるようになる。


 ある夜、私はふと思って、口にした。


「……式は、どうする?」


 エルが、少しだけ目を大きくする。

 驚いたのは、聞かれたことじゃない。

 聞かれた“未来”の重さの方だ。


「君が望む形で」


「大げさじゃなくていい。

 でも、ちゃんと……あなたの隣に立ちたい」


 エルは頷いた。

 頷き方が、誓いみたいに重い。


「じゃあ、君の好きな場所で」


 好きな場所。

 丘の上。風が抜けるところ。


 ――式の日、私は白い布を纏った。

 豪華じゃない。

 でも陽の光を受けると、布の繊維が柔らかく光った。


 お父さんは相変わらず無口で、お母さんは笑いながら泣いた。

 丘の上で、エルは私の前に立つ。


「リィナ」


 その呼び方が、今日だけ少し震えている。


「僕は、君を守る」


 夢の私は怖がらない。

 守るという言葉が、支配じゃなく誠実だと知っているから。


「僕の人生の中で、君をいちばん大事にする」


 いちばん。

 順位の言葉なのに、嫌じゃない。

 むしろ救われる。


 私は笑って言った。


「じゃあ私は、あなたの人生の中で、いちばん普通にする」


 エルが目を丸くする。


「普通?」


「うん。ごはん食べて、笑って、眠って。

 あなたが一人で重い顔をしないように」


 エルは少しだけ息を吐いて笑った。


「……君は、本当にずるい」


「ずるくていい」


 指先があたたかい。

 その温度だけで、誓いが形になる。


 ♢


 季節がまた進む。


 ある朝、畑の端で立ち止まった。

 土の匂いがいつもより濃く感じる。

 胸の奥が妙にむかむかする。


「……リィナ?」


 エルが気づいて、すぐに駆け寄ってくる。

 その慌て方が、戦場のそれじゃないのが可笑しい。


「大丈夫?」


「……たぶん」


 たぶん、と言いながら、夢の私は分かってしまう。

 分かってしまって、怖いのに嬉しい。


 その夜、母に確認すると、母は黙って私の手を握った。


「……おめでとう」


 その言葉で、世界の輪郭が一段くっきりする。


 家に戻って、エルの前に立つ。

 言おうとして言葉が喉でつかえる。


 エルは察してしまう。

 察してしまって、表情が一瞬、壊れそうになる。


「……言って?」


 声が弱い。


 私は笑って言った。


「家族が、増えるみたい」


 エルの息が止まる。

 止まったあと、ゆっくり吐かれる。


 そして――泣いた。

 静かに。でも止まらない。


「……ごめん」


 そう言うから、私は慌てて首を振る。


「泣いていいよ。嬉しいんでしょ」


「……嬉しい」


「じゃあ泣いていい」


 エルは私の額に額を寄せる。

 その触れ方が、壊れ物じゃなく、確かなものに対する触れ方だった。


「……君が頑張る分、僕が全部支える」


 支える。

 その言葉の温度に、夢の私は安心してしまう。


 ♢


 お腹が大きくなるにつれて、畑の距離が変わる。

 同じ畑なのに歩幅が小さくなる。

 しゃがむのが少し苦しくなる。


 でも夢の私は痛くない。

 ただ、重いだけだ。

 命の重さ。


 エルは先回りが増える。

 水桶を持たせない。

 段差を先に見つける。

 風が強い日は外に出る時間を短くする。


「過保護」


 私が笑うと、エルは真面目に言う。


「過保護でいい」


「……私、歩けるよ?」


「歩けるけど、転んだら嫌だ」


「そんなに心配?」


「心配だ」


 即答。

 その即答が、私の心を溶かす。


 夜、寝る前に、エルが私のお腹に手を当てる。

 恐る恐る触れる。

 赤子の存在が神聖すぎて怖いみたいに。


「……動いた」


「うん」


「……ここにいるんだな」


 その言葉で、胸がいっぱいになる。


「ねえ、エル。名前、どうする?」


 未来の話。

 夢の世界では未来の話ができる。


 エルは少し考えて、笑った。


「君が決めて」


「またそれ」


「だって、君が笑う名前がいい」


「ずるい」


「ずるくていい」


 私は笑う。

 笑いながら、胸の奥にほんの少しだけ、薄い影が落ちる。


 ――ずるい、って言える時間は、永遠じゃない。


 そんなこと、夢の私は知らないはずなのに。

 知らないはずなのに、ほんの少しだけ、知ってしまっている。


 だから私は余計にエルを見つめる。

 今の顔を、覚えたくて。


 ♢


 出産の日は、静かに始まった。


 空が明るくて、風が優しい。

 こんな日に痛みが来るなんて、世界は不公平だと思う。


 でも夢の痛みは、怖すぎない。

 怖すぎないように、世界が調整してくれている。


 エルは私の手を握っている。

 握り方が強い。

 でも壊さない強さ。


「……リィナ」


 声が震えている。


「大丈夫」


 私が言うと、エルが首を振る。


「大丈夫じゃない。……僕が」


 その告白が愛おしい。


「じゃあ、私が大丈夫にしてあげる」


 痛みの合間に、私は笑う。

 笑ってしまう。


 しばらくして、部屋に小さな声が生まれた。


 泣き声。

 命の声。


 世界が一瞬だけ真っ白になるほど眩しい。


 エルが赤子を抱く。

 抱き方が不器用で、でも泣きたくなるほど丁寧。


「……可愛い」


 その一言に、全部が詰まっている。


「君に似てる」


「え、私?」


「目が。……君の目」


 “君の目”と呼ばれることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。


 エルは赤子を抱いたまま、私の額に額を寄せた。


「……愛してる」


 夢の中で一番、真実だった。


 私は息を吸って、静かに言った。


「私も。……愛してる」


 ♢


 それからの日々は、砂糖みたいに甘くて、胸の奥がずっと痛かった。


 夜、子供が眠ったあと、二人で窓辺に座る。

 風の音は優しくて、光は柔らかい。


「ねえ、エル」


「うん」


「来年は、畑どうする?」


 未来の話。

 未来の話ができる。

 怖くない。


 エルは笑って言う。


「全部、君の好きにしていい」


「じゃあ、もう少し花も植える」


「いいね」


「色、増やす」


「君の笑う色が増える」


「またずるい」


「ずるくていい」


 笑う。

 笑って、抱きしめられる。


 その抱きしめ方が、少しだけ強かった。


 ――強い。


 夢の中なのに、なぜか胸が詰まる。

 抱きしめられるのは幸せなのに、

 その強さが“逃がさない”みたいで、少し怖い。


 エルが私の髪に顔を埋めたまま囁く。


「……行かないで」


 私は笑う。


「行かないよ。ここにいるよ」


「……約束」


「約束、する」


 言った瞬間、

 夢の空気が、ほんの少しだけ揺れた。


 約束――。

 それは本当は、私たちが避けてきた言葉。


 なのに夢の私は言ってしまう。

 幸福が、禁句をほどいてしまう。


 そして、揺れの向こうから、

 “現実”みたいなものが滲み出す。


 畑の匂いが、少しだけ薬の匂いに混ざる。

 窓の光が、少しだけ白く冷える。

 子供の笑い声が、遠い呼吸音に変わる。


 私は瞬きをする。


「……あれ?」


 エルの顔を見る。


 エルはいつも通り笑っている。

 でも、その笑い方が――少し違う。

 夢の中のエルは夢のルールで笑っているのに、

 目だけが、現実の底みたいに深い。


「……エル?」


 呼ぶと、エルは頷く。

 頷き方が、やけにゆっくりで、丁寧で、

 まるで“別れ”を知っている人みたいだ。


「大丈夫」


 言葉は優しい。

 でも、音が少し遠い。


 私は胸の奥で理解してしまう。


 ――夢は、終わる。


 終わりはいつも、壊れる音を立てない。

 ただ、違和感が先に増える。


 私は子供の手を見る。

 小さな指が私の指を握っている。

 その温度が、少しだけ薄い。


「……ねえ、エル」


「うん」


「私、眠ってる?」


 エルは答えない。

 答えないのが答えになる沈黙。


 私は笑おうとした。

 でも、笑い方を忘れたみたいに口角が動かない。


 代わりに、息を吸う。


 ――吸える。


 夢の中では、こんなに楽に息ができる。

 それが、いちばん切ない。


 私はエルの手を取った。

 現実に繋ぎ止めるみたいに。


「……私ね」


 言葉が震える。

 夢のはずなのに、涙が出そうになる。


「……この夢、好き」


 エルが少しだけ目を細める。


「うん」


「でも」


 喉が詰まる。

 “でも”の先が、もう決まっているから。


「……でも、私は」


 私はエルの手をぎゅっと握る。


「現実を選ぶ」


 そう言った瞬間、

 畑の匂いが遠のいて、

 家の光が薄れて、

 子供の笑い声がほどけていく。


 エルの顔だけが残る。

 最後に残るのが、いつだってあなたなのが残酷だ。


「……愛してる」


 夢の中でしか言えないくらい、真っ直ぐに。


 エルは何も言わない。

 ただ、頷く。


 その頷きが、

 “君の選択を壊さない”という頷きだと、私は分かってしまう。


 だからこそ、私は安心して夢を手放せる。


「……またね」


 言った瞬間、世界が白くなっていく。


 最後に、エルの声が聞こえた。


「――ずっと、ここにいる」


 その言葉は約束じゃない。

 未来じゃない。

 “今”の確定。


 その確定が、私の幸福の全部だった。


 そして夢は、静かに終わった。


 ♢


 部屋は静かだった。


 僕は相変わらず椅子に座り、

 何もしていないまま時間を過ごしていた。


 リィナの呼吸が、少しだけ変わった。


 浅くなる、ではない。

 乱れる、でもない。


 どこか遠いところから、戻ってくる呼吸。


 眉が微かに動く。

 唇が、ほんの少し開く。

 喉が、小さく鳴る。


 僕は動かない。

 手を伸ばさない。

 名前も呼ばない。


 けれど、胸の奥で何かが、静かに鳴った。


 ──帰ってきた。


 確信だけが、そこにあった。


 リィナの瞼がゆっくりと上がる。

 焦点が合うまで時間がかかる。

 けれど彼女の視線は、確かに僕を捉えた。


「……エル」


 声は弱いのに、意志があった。


 夢の中の声じゃない。

 現実の声だ。


 僕は息を吸って、吐いた。

 その動作だけで、喉の奥が痛くなる。


「うん」


 それだけ答える。


 彼女は、ほんの少しだけ笑った。

 笑って、何かを確かめるみたいに僕の顔を見た。


 その目が言っている。


 ──私は戻ったよ。


 そして、その戻り方が、彼女の選択だったことも。


 僕は言葉を増やさない。

 増やしたら、彼女の選択に感想を乗せてしまう。


 感想は、いらない。

 評価も、いらない。

 慰めも、いらない。


 必要なのは、彼女が彼女であることだけ。


 僕は膝の上の指をほどいて、ゆっくり手を伸ばした。

 触れるか触れないかの境界で一瞬止まって、

 それでも、そっと彼女の手を包んだ。


 冷たい。

 けれど、そこにある。


「……寒い?」


 短く聞く。


 リィナは、ほんの少し首を振った。


「……大丈夫」


 そして、息を吐くみたいに言った。


「……夢、見てた」


 僕は頷く。


「うん」


「……幸せな夢」


「……うん」


 言葉が足りないのに、足りている。


 リィナは目を閉じかけて、また開いた。

 今度は、ちゃんと僕を見る。


「……ねえ」


「うん」


「……私ね」


 一拍。

 言葉を探す間。


「……戻ってきたの」


 僕の胸が、きゅっと縮む。


 戻ってきた。

 それはただの状況説明じゃない。

「幸せなまま、あっちにいられた」と言っているのと同じだ。


 なのに彼女は戻った。


 理由を僕は聞かない。

 理由は、もう知っている。


「……エルが、ここにいるから」


 夢の中のエルじゃない。

 現実の僕。


 病気の彼女を見ている僕。

 薬の量を測る僕。

 返事がなくても話しかける僕。


 その僕がいる場所が、彼女の居場所だと。


「……私が私でいるために」


 僕は目を逸らさない。


「……ここが、いい」


 ここ。

 痛みがある場所。寒い場所。終わりがある場所。

 それでも彼女は「ここ」を選ぶ。


 それが彼女の強さで、

 彼女の愛で、

 残酷だった。


 僕は喉が焼けるみたいな感覚を抱えたまま、言葉を絞り出した。


「……分かった」


 それだけ言って、彼女の手を包む力を少しだけ強める。

 強く握らない。

 壊れそうだからじゃない。

 壊れてしまうほど、僕の感情を乗せたくないからだ。


 リィナは安心したように息を吐いた。


「……ありがとう」


 ありがとう、は僕のための言葉だ。

 彼女は最後まで、僕を支える言葉を選ぶ。


 僕は頷き、ただ、そこにいる。


 ♢


 それから、しばらくのあいだ、

 二人は何も話さなかった。


 言葉が尽きたわけじゃない。

 言葉を尽くす必要が、もうなかった。


 吸う。

 吐く。


 同じ速さでなくていい。

 同じ長さでなくていい。

 ただ、「ここにいる」ことだけを揃える。


 それが今の僕にできる、唯一の誠実だった。


 椅子に座ったまま、

 僕は視線を落とす。


 床。

 寝台の脚。

 自分の膝。


 そして、自分の指。


 その指は知っている。

 ページをめくる感触を。

 魔方陣を描く重さを。

 血と魔力が混ざる温度を。


 ――“できる”という事実を。


 頭の奥で、それがはっきりと形を取る。


 もし。

 もし、今、ここで。

 彼女が眠りに落ちきる前に。

 禁術を起動できたなら。


 肉体を再構成し、

 魂を定着させ、

 時間を歪め、

 世界の方を曲げて。


 彼女は、生きる。


 歩けるかもしれない。

 話せるかもしれない。

 畑にも、また行けるかもしれない。


 その可能性が、あまりにも具体的で、あまりにも現実的で、

 だからこそ、僕の喉を締めつけた。


 ――できる。


 できる、という事実ほど、人を残酷に追い詰めるものはない。


 僕は、ゆっくりと立ち上がった。

 音を立てないように。

 彼女の眠りを揺らさないように。


 部屋の隅に置かれた鞄に視線を向ける。

 中には、今はもう使われないはずの道具がある。

 書庫で書き写した神代の理論式。

 補助触媒。

 一度も完成させなかった、最終構成。


 指をかける。

 冷たい金属。


 引けば、開く。

 開けば、進める。


 進めば、“終わり”は変えられる。

 彼女が選んだ終わりを、書き換えることができる。


 ――それは、救いだ。


 世界は、そう呼ぶ。


 だが、その瞬間、

 リィナの声が胸の奥で静かに反響した。


「今の私が、好きなの」

「エルが、好きになってくれた私じゃない」


 彼女は拒否した。

 生きることを、ではない。

 延ばされることを、だ。

 “違う私”として生き残ることを。


 僕は、鞄から目を逸らした。

 代わりに寝台を見る。


 リィナは眠っている。

 穏やかに。

 何も知らずに。


 もし、ここで禁術を使えば、

 彼女は知らないまま「別の彼女」になる。


 それは彼女の選択を奪うことだ。

 彼女が最後まで守ろうとした“私”を殺すことだ。


 僕は理解してしまった。


 禁術を使うということは、

 彼女を救うことではない。


 彼女を、否定することだ。

 彼女の人生を、「それでは足りなかった」と書き換えることだ。


 指が、留め具から離れる。

 わずかに震えている。


 震えは恐怖じゃない。

 迷いでもない。


 決断が、身体に追いついていないだけだ。


 僕は鞄を閉じたまま、元の位置へ戻した。

 そして、何事もなかったように椅子に戻る。


 座る。

 息を吸う。

 吐く。


 胸の奥が、焼けるように痛い。

 それでも、決断は揺れない。


 ――使わない。


 使えない、ではない。

 使わない、だ。


 彼女が選んだ現実を、

 僕が壊す権利はない。


 彼女が愛してくれた僕が、

 そんなことをするはずがない。


 リィナの呼吸が、わずかに変わる。

 浅くなる。間が伸びる。


 僕はそっと彼女の手に触れた。


 起こさない。

 確かめない。


 ただ、“ここにいる”ことを伝えるためだけに。


 彼女の指が、わずかに動く。

 無意識の反応。

 でも、拒絶ではない。


 それだけで、

 僕の決断は、完全になる。


「……大丈夫だ」


 誰に向けた言葉でもない。

 彼女にでも、自分にでもない。


 ただ、事実として置いた。


 彼女は、彼女のままでいる。

 僕は、それを守る。

 それ以上も、それ以下も、しない。


 窓の外で、雪がひとつ舞った。

 まだ積もらない。

 溶けて消えるだけの雪。


 冬は確実に深まっている。


 それでも、今はまだ。

 彼女は、ここにいる。


 彼女が選んだ現実の中で、

 彼女が選んだ形のままで。


 僕は椅子に座り続ける。


 何も変えない。

 何も選ばない。


 ――いいや、違う。


 僕は、

 選ばないことを、選び続けている。


 それが、

 リィナを愛するということだと、

 もう疑わなかった。


 静かな部屋で、

 二人分の呼吸だけが、

 ゆっくりと、重なっていた。


冬編の中でも、この第29話は「救い」と「幸福」をあえて同じ場所に置かないための回でした。

痛みのない世界、何も失わない世界、ちゃんと笑って生きていける世界――夢の中でなら、いくらでも作れる。だからこそ、夢は優しくて、残酷です。


リィナの夢は、現実逃避ではなく“最後に一度だけ、全部を確かめるための幸福”にしたかった。

もし何もなければ、もし病気がなければ、もし未来を語っても許される世界だったなら。

その「もし」の中で、彼女はちゃんと愛され、ちゃんと笑って、ちゃんと生きた。


それでも彼女は、現実を選びます。

理由はひとつです。エルがいるから。

そしてもうひとつ。自分が自分でいるために。


夢が甘ければ甘いほど、現実は苦い。

けれどこの物語では、苦い現実を選ぶことが“罰”ではなく、彼女自身の誇りであり、愛の形であってほしいと思っています。

救われたがっていないのではなく、救われ方を選ぶ。

その選択に、誰も手を突っ込めない。たとえ愛していても。


エルの「何もしない」は、無力ではありません。

禁術に手が届くのに、使わない。

未来を語れるのに、語らない。

抱きしめて引き留められるのに、引き留めない。

その全部が、彼の覚悟です。


この回を書きながら、ずっと胸の奥が重かったです。

でも、重いまま描きたかった。

愛は綺麗な言葉だけでは成立しなくて、尊重という形をした痛みを必ず含むから。


次は、冬がもっと冷たくなります。

それでも、二人の手の温度だけは、最後まで確かにそこにあるように。

そのために、ここで“夢”を挟みました。


読んでくれて、ありがとうございました。

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