28.冬を手放す-3
その日、部屋に入った瞬間、
僕は「今日は違う」と思った。
違いは、匂いに出る前に、先に身体に出た。
寒さではない。疲れでもない。
“遅さ”だ。
扉を閉める音が、いつもより遅れて耳に届く。
自分の呼吸が、やけに遠い。
世界がひとつ、遅れてついてくる。
そんな感覚。
この家に通うようになってから、僕は何度も同じ朝を繰り返してきた。
同じ道、同じ裏口、同じ匂い、同じ寝台。
同じ「大丈夫」を積み重ねて、同じ「まだ」を握りしめてきた。
けれど今日は、
その“同じ”の中に、見慣れない空洞が混じっていた。
部屋の静けさが、静けさのままではない。
音が少ないから静かなのではなく、
“音が奪われたあと”の静けさに近い。
それが怖くて、僕は一瞬だけ立ち止まり、
自分の手が震えていないか確かめた。
震えていなかった。
――震えない。
それが一番、怖い。
怖いのに、身体が慣れてしまっている。
怖いのに、手順だけは正確だ。
怖いのに、今日もここへ来られてしまう。
「慣れたくない」と思いながら、
「慣れなければ守れない」とも分かってしまう。
その矛盾が、胸の奥に重く沈んだまま、
僕は寝台へ向かった。
理由は分からない。
空気の温度でも、匂いでも、光の具合でもない。
ただ、胸の奥で、何かがひとつだけ強く鳴った。
寝台の上で、リィナは目を閉じている。
けれど、完全に眠ってはいなかった。
眠りの質が違う、と僕は思った。
これまでの眠りは、疲れが勝った眠りだった。
今日の眠りは、たぶん――
身体が“起きる理由”を、ひとつずつ手放している眠りだ。
呼吸の間に、わずかな引っかかりがある。
息を吸うたびに、胸のどこかが小さく抗って、
吐くたびに、その抗いがほどけていく。
彼女の頬に落ちる影は、冬の影だった。
まだ雪は降っていないのに、
その影だけが先に、季節を決めてしまっている。
僕は、目を凝らすことをやめた。
凝らせば凝らすほど、
“違い”が増えてしまうから。
痩せた。軽くなった。
骨の位置が分かるようになった。
唇の色が薄い。まつ毛が長く見える。
呼吸が浅い。
その全部に、名前を付けたくなかった。
名前を付けた瞬間、
それは“病状”になる。
病状になった瞬間、
それは“終わりの順番”になる。
僕は、順番にしたくなかった。
この人を、数えたくなかった。
だから、ただ――
目の前の彼女を、彼女として見た。
呼吸が、いつもより深い。
規則正しいとは言えないが、乱れてもいない。
まるで、意識がどこか遠くから、ゆっくり戻ってきているみたいだった。
僕は足音を殺して近づく。
もうそれは、習慣になっていた。
彼女を起こさないためではない。
起きられないかもしれない現実を、刺激しないための距離。
寝台の脇に立ち、顔を見る。
頬はさらに削げ、
唇の色も薄い。
それでも、穏やかな表情だった。
――まだ、生きている。
その確認を、心の中でそっと済ませる。
声をかけるか、迷った。
今日は、いつもより迷った。
「……リィナ」
名前を呼ぶ声は、思ったよりも静かだった。
返事は、すぐにはなかった。
一拍。
二拍。
そして、ゆっくりと、瞼が動く。
リィナの目が、開いた。
焦点が合うまで、少し時間がかかる。
それでも、視線は確かに僕を捉えた。
「……エル」
はっきりと、そう呼んだ。
息が、詰まる。
ここまで明瞭に名前を呼ばれたのは、いつ以来だろう。
声は弱いのに、意志がある。
今までの「返事」とは、質が違った。
「うん」
僕はそれだけ答えた。
言葉を重ねる勇気は、まだない。
リィナは少しだけ首を動かし、
視線を窓の方へ向けた。
「……明るいね」
「今日は、雲が薄い」
短い会話。
それだけで、胸がいっぱいになる。
沈黙が落ちる。
けれど、さっきまでの沈黙とは違った。
言葉がないのではない。
言葉を、選んでいる沈黙だった。
リィナが、先に口を開く。
「……ねえ、エル」
その呼び方が、昔と同じだった。
「うん」
「……ちゃんと、聞いてる?」
問いというより、確認だった。
意識があるかどうかを、試すような。
「聞いてる」
即答だった。
リィナは、わずかに笑った。
それは、安心した笑顔だった。
「……よかった」
その一言で、僕は悟る。
これは偶然の覚醒ではない。
彼女は、話すために戻ってきている。
「……寒くない?」
僕が尋ねると、
リィナは、ほんの少し考えてから首を振った。
「……大丈夫。
エルが、いるから」
胸が、痛くなる。
それは慰めではない。
事実をそのまま言っている声だった。
僕は椅子を引き寄せ、寝台のそばに座る。
手を伸ばし、彼女の手を包む。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。
その音だけで、彼女の呼吸が乱れたらどうしようと一瞬思う。
もう、そんなことまで怖くなる。
リィナの手を包むと、
彼女の指は、驚くほど細かった。
――細い。
その事実が、また喉に引っかかる。
言葉にすれば崩れる。
だから、触れることでしか確かめられない。
僕は親指で、彼女の指の関節をそっと撫でた。
恋人の仕草に似ている。
けれど、恋人の仕草ではない。
これは、確認だ。
存在の確認。
ここにいる、という確認。
リィナは、手を引かなかった。
拒まない。
それが、彼女の優しさだと僕は知っている。
拒まないのは、許しているからではない。
拒む力を残していないからでもない。
ただ、僕に“悲しい手”をさせたくないからだ。
そういう優しさを、彼女は最後まで手放さない。
それが、残酷だった。
冷たい。
けれど、確かに、そこにある。
「……ね」
リィナが、静かに言った。
「今日さ、
あんまり……疲れてない?」
気遣いだった。
いつも通りの、彼女の。
「大丈夫」
そう答えながら、
僕は言いかけてしまう。
「もし、もう少ししたら――」
その瞬間、
リィナの指が、わずかに動いた。
僕の言葉を、止めるみたいに。
「……先の話は、しないで」
言い方は、柔らかい。
けれど、揺れていない。
それが、彼女の意志の強さだった。
リィナは、泣きそうな顔をしていない。
震えてもいない。
悲しいふりすら、しない。
――悲しいふりをしたら、僕が壊れる。
彼女はそれを知っている。
知っているから、最後まで“普通”の顔を作る。
僕が守ってきたものを、僕に返すみたいに。
「ごめんね」ではなく、
「やめて」でもなく、
「しないで」とだけ言う。
それは、僕の優しさに対する否定じゃない。
僕の優しさを、最後まで優しさのまま置いておくための言葉だ。
未来を語れば、未来が生まれる。
未来が生まれれば、期待が生まれる。
期待が生まれれば、別れが“失敗”になる。
リィナは、別れを失敗にしたくない。
愛を、失敗にしたくない。
だから、未来の話を止める。
それは、彼女の“愛の防波堤”だった。
声は弱い。
でも、はっきりしていた。
責める調子ではない。
怒ってもいない。
ただ、境界線を引く声だった。
僕は口を閉じる。
「……ごめん」
反射的に、そう言ってしまう。
リィナは、首を振った。
「謝らなくていい」
「……だって、
今まで、そうしてくれたでしょ」
未来を語らないこと。
約束をしないこと。
希望を、形にしないこと。
それが、彼女を守ってきた。
「……ねえ、エル」
「うん」
「もしね」
一瞬、言葉を探す間。
「もし……全部、違う形で、
目を覚ましたとしたら」
僕の胸が、強く鳴る。
「もし、
前と同じじゃない身体で、
同じじゃない時間に、
同じじゃない場所で、
“続き”があったとしたら」
それは、名前を出さないままの“可能性”だった。
「……それでも、
僕は、私だって思える?」
問いは、静かだった。
でも、刃のようだった。
僕は答えられない。
「……私はね」
リィナは続ける。
「今の私が、好きなの」
それは、自己肯定ではない。
事実の確認だった。
「エルと、畑で話して、
暑いねって言って、
疲れたら座って、
……こうして、今、ここにいる私」
一つ一つ、
失われてきた時間。
「それを全部、置いてきて、
別の私になるなら」
声が、少しだけ震えた。
「……それは、
僕が知ってる私じゃない」
僕の喉が、締めつけられる。
「エルが、好きになってくれた私じゃない」
この言葉は、拒絶だった。
でも、愛に満ちていた。
「私ね……」
一度、息を整える。
「エルに、ちゃんと愛してもらえたって、
分かってる」
断言だった。
「同情じゃない。
義務でもない。
……逃げでもない」
その一つ一つが、
僕の心を正確に撃ち抜く。
「だから、
私が私じゃなくなる形で、
生き残る必要はないの」
彼女は、笑った。
とても、穏やかに。
「だって、
もう、もらったから」
「……何を」
僕が、かすれた声で問う。
リィナは、ゆっくりと答えた。
「生きた時間」
「愛されたって、確信」
「選んだっていう、実感」
それだけで、
十分だと言う顔だった。
「ねえ、エル」
彼女の視線が、まっすぐに向く。
「救うことが、
いつも、愛だとは限らないよ」
その言葉は、刃なのに、温かかった。
切り裂くための刃じゃない。
僕の手から、危ないものをそっと取り上げるための刃だ。
救いは、甘い。
救いは、正しい顔をしている。
救いは、結果だけを見れば美しい。
でも、リィナは知っている。
結果のために“自分”を差し出したら、
その救いは、最初から愛じゃない。
彼女が欲しかったのは、延命ではない。
次の季節でもない。
“勝ち”でもない。
欲しかったのは、
エルが見てくれた自分のまま、
エルに愛されたまま、
終わっていくことだ。
それは諦めじゃない。
絶望でもない。
――選択だ。
リィナは、最後まで、
自分の人生を誰にも渡さない。
だから僕は、ここで初めて思い知らされる。
救いたい、という気持ちは、
相手の人生を奪う形でも発生するのだと。
愛は、奪わない。
愛は、選択を尊重する。
そして、その尊重は、
ときに“救わない”という形を取る。
それが、どれほど苦しいとしても。
その言葉で、
僕の中の何かが、静かに崩れた。
――ああ、そうか。
救いたい気持ちは、
彼女を想っている。
でも、
彼女が“いまの自分”でいることを、
壊してしまうかもしれない。
「私はね」
リィナは、最後に言った。
「エルが好きな私のまま、
終わりたい」
それは、願いでも命令でもない。
選択だった。
彼女自身が、選んだ。
言葉を言い切った瞬間、
リィナの呼吸が、少し乱れる。
疲れが、一気に出たのが分かる。
「……もう、
少し……眠るね」
「うん」
僕は、それ以上、何も言わなかった。
言えば、彼女を引き留めてしまう。
それは、もう許されない。
リィナの瞼が、ゆっくり閉じる。
手の中の温もりは、まだある。
でも、彼女の意志は、
確かに、僕の中に届いていた。
――救うことが、愛じゃない。
――愛することは、
彼女の選択を、壊さないこと。
僕は、手を離さない。
でも、何も変えようとしなかった。
それが、
彼女を深く愛している証だと、
ようやく理解したから。
冬は、静かに進んでいる。
選択肢は、もう見えている。
見えている選択肢は、ひとつだけじゃない。
禁術だけじゃない。
“何もしない”こと。
“抱きしめて泣く”こと。
“取り乱す”こと。
“最後の瞬間に、願ってしまう”こと。
リィナは、それら全部から、僕を遠ざけた。
遠ざけることで、僕を守った。
僕が壊れるのは、リィナの前ではない。
そう決めてきた人だ。
でも、壊れない人間なんていない。
だから彼女は、壊れ方まで選ばせようとしている。
――私の前では、壊れないで。
――私の前では、最後まで私を“私”として見て。
そう言っている。
残酷なのは、
それが、彼女のためであり、
同時に、僕のためでもあることだった。
彼女は最後まで、愛してしまう。
自分よりも先に、僕の痛みを心配してしまう。
それが、リィナの愛だ。
愛は、綺麗じゃない。
痛い。
苦しい。
しかも、正しい顔をしているから、余計に逃げられない。
僕は手を握り返した。
握り返すだけで、声が震えそうになる。
だから、言葉にしない。
言葉にした瞬間、
彼女の選択に、揺らぎが生まれる気がした。
揺らぎは、優しさの形をしている。
でもその揺らぎは、彼女を“彼女ではない場所”へ連れていく。
リィナはそれを望まない。
僕は、望まないことをしない。
それが、愛だと理解したから。
理解してしまったから、
苦しさは消えない。
消えないまま、
ただ、守る。
守る以外、できない。
冬は、進む。
静かに、容赦なく。
それでも、
彼はまだ、決断しない。
リィナが眠る横で、
ただ、彼女が彼女である時間を、
守り続ける。
リィナの呼吸が、ゆっくりと一定になる。
眠りに落ちたのか。
それとも、ただ目を閉じているだけなのか。
もう、確かめない。
確かめるという行為そのものが、
彼女を“状態”にしてしまう気がした。
僕は、しばらくそのまま動かなかった。
手を握ったまま、
視線を落としたまま、
時間が進んでいるのかどうかも分からないまま。
頭の中には、ずっと一つの言葉が残っている。
――もし。
もし、禁術を使えば。
もし、条件を満たせば。
もし、代償を支払えば。
もし、彼女が目を覚まして、
もし、また歩けて、
もし、また畑に出られて、
もし、同じように笑えたら。
その「もし」は、
どれも甘くて、
どれも正しく見えて、
どれも人を納得させる形をしている。
世界はきっと、許すだろう。
家も、止めない。
医師も、沈黙する。
理由も、正義も、揃っている。
――それでも。
僕は、ゆっくりと視線を上げた。
窓の外は、冬の色だった。
まだ雪はない。
けれど、戻れない寒さだけが、確かにある。
もし、禁術を使ったあとで。
彼女が目を覚ましたとして。
その目が、
「ありがとう」と言ったら。
その瞬間、
自分は救われてしまう。
彼女を救った自分に、
理由を与えてしまう。
正当性を与えてしまう。
“良い選択だった”と、言えてしまう。
――それが、何より怖かった。
救われた自分が、
彼女の言葉を上書きしてしまうことが。
彼女が「私は私でいたい」と言った事実を、
結果で塗り潰してしまうことが。
僕は、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥が、ひどく痛む。
でも、泣かない。
ここで泣けば、それは“決断のための感情”になる。
感情で選んではいけない。
彼女が、そう教えた。
僕は、ようやく理解する。
禁術を使わない、という選択は、
勇気でも、覚悟でもない。
尊重だ。
彼女が選んだ人生を、
彼女が選んだ終わり方を、
自分の願いで壊さないという、
ただそれだけの行為。
それは、
何も得られない。
誰にも褒められない。
結果も、報われもしない。
ただ、
一生、残る。
――自分が殺さなかったのではなく、
――自分が、救わなかったという事実だけが。
僕は、静かに、心の中で言葉を置いた。
使わない。
声にしない。
誓いにも、しない。
宣言もしない。
それは決意というより、
もう変えられない事実として、
胸の奥に沈んでいく。
彼女の人生は、
彼女のものだ。
自分の愛で、
触れていい場所と、
触れてはいけない場所がある。
ここは、
触れてはいけない場所だ。
僕は、彼女の手を、ほんの少しだけ強く握った。
「……大丈夫だよ」
誰に向けた言葉でもない。
彼女にでも、自分にでもない。
ただ、世界に対して。
大丈夫じゃなくても、
それを受け入れると決めた、という意味で。
リィナは眠っている。
彼女は、もう選んだ。
僕は、その選択を壊さない。
それが、
彼女を深く愛した人間に残された、
唯一の行為だった。
冬は、進む。
禁術は、使わない。
救いは、選ばない。
それでも、
彼は、彼女を愛している。
その事実だけを抱えて、
僕は、今日も彼女のそばにいる。
それが、
彼女への、最後の誠実だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
冬は、何かを奪う季節ではなく、
「もう選べなくなること」を静かに突きつけてくる季節だと思っています。
リィナは救われたがっていません。
でも、愛されることを拒んでもいません。
その矛盾の中で、彼女は最後まで「自分でいること」を選び続けました。
エルの優しさは、
何かをしてあげることではなく、
何かを“しない”ことを選ぶ優しさへと変わっていきます。
それはとても苦しく、
とても残酷で、
それでも確かに、愛でした。
この物語が、
「救えなかったから無意味だった」のではなく、
「救わなかったからこそ残ったもの」があると、
少しでも感じてもらえたなら幸いです。
ここまでの感想や評価、レビューなどいただけると、とても励みになります。
もしよければ、言葉を残していってください。
冬は、まだ終わっていません。
けれど、確かにここまで来ました。
最後まで、見届けていただけたら嬉しいです。




