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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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26/33

26.冬を手放す-1

 朝、屋敷の中庭に出たとき、

 空気が一段、硬くなっていることに気づいた。


 吐いた息が、白くならない。

 けれど、確かに冷たい。


 冬だ、と判断するには、まだ早い。

 霜は降りていない。

 雪の気配もない。


 それでも、秋とは明らかに違う空気だった。


 冷たさが、表面だけではない。

 皮膚の内側まで、じわりと染み込んでくる。

 指先を握ると、感覚が少し鈍い。


 ——始まった。


 そう思った。


 季節が変わる瞬間は、いつも静かだ。

 誰にも告げず、音も立てず、

 ただ、戻れない線を引くだけ。


 マントを羽織る。

 今までは「寒いから」ではなかった。

 今日は違う。


 羽織らなければならない、と身体が判断していた。


 靴を履き、扉を閉める。

 金具の音が、いつもより乾いて響いた。


 村へ向かう道は、変わっていない。

 けれど、土の色が違う。

 湿り気が抜け、踏みしめるたびに軽い音がする。


 木々の葉は、もうほとんど残っていない。

 枝の間を風が抜けるたび、

 何も遮られず、冷気がそのまま頬に当たる。


 ——冬が来る。


 そうではない。

 冬は、もう来てしまった。


 ♢


 店の裏口をノックする。


 返事が、すぐには返ってこなかった。


 今までは、必ずすぐに聞こえた声。

 今日は、一拍遅れる。


「……どうぞ」


 扉を開けると、薬の匂いが濃かった。

 煮詰めた根、乾かした葉、鉄のような苦味。


 部屋は、前と同じ配置のまま。

 窓、寝台、椅子、小さな机。


 変わったのは、一つだけだった。


 リィナが、眠っている。


 眠っている、というより——

 起きていない。


 胸が上下するのを確かめて、ようやく息を吐く。


 生きている。

 それだけは、確かだ。


 近づく。

 足音を、無意識に殺している自分に気づく。


 起こしてはいけない。

 起こせるかどうかも、分からない。


 寝台のそばに立ち、

 彼女の顔を見る。


 頬は、さらに削げていた。

 まつ毛が、影を落としている。

 呼吸は浅く、一定ではない。


「……リィナ」


 小さく、名前を呼ぶ。


 反応は、ない。


 今までは、必ず何かあった。

 瞼が動くか、指が僅かに動くか、

 声にならない息が返ってくるか。


 今日は、何もない。


 待つ。


 数を数えることはしない。

 数え始めたら、終わりが近づく気がした。


 しばらくして、ようやく、

 彼女の眉がわずかに動いた。


 瞼が、ほんの少し開く。


「……エル……?」


 声は、ほとんど空気だった。


「うん」


 それだけ答える。


 それ以上、何も言わない。

 言葉を増やすと、彼女が追いつけなくなる。


「……寒い?」


 問いかけは、短く。


「……ちょっと」


 それで会話は終わる。


 それ以上、続けられない。


 沈黙が、部屋に落ちる。


 音が消えるわけじゃない。

 呼吸の音も、外の風の音も、確かにある。

 それでも、言葉だけが、そこに存在しない。


 僕は、沈黙を破らない。

 破ってはいけない気がした。


 ここで何かを言えば、

 それは会話ではなく、

 彼女を現実に引き戻す行為になる。


 今のリィナに、現実は少し重すぎる。


 だから、待つ。


 彼女が眠るのか、

 意識を手放すのか、

 それとも、もう一度こちらを見てくれるのか。


 判断しない。

 期待もしない。


 ただ、隣にいる。


 以前なら、この距離は近すぎた。

 夏の畑では、触れないことで守ってきた距離。


 今は違う。

 触れなければ、そこにいられない。


 それが、季節の変化なのか、

 彼女の変化なのか、

 僕には、もう区別がつかなかった。


 リィナの肩が、わずかに上下する。

 呼吸が、少しだけ乱れる。


 それを見て、

 胸の奥が、きゅっと縮む。


 ——まだだ。


 そう思う自分と、

 ——もう、かもしれない、

 と考えてしまう自分が、同時に存在している。


 どちらも否定しない。

 否定した瞬間、何かが壊れてしまう気がした。


 彼女の時間は、確実に短くなっている。


 でも、それを口にした瞬間、

 それは“終わり”という言葉になる。


 だから、僕は言葉を選ばない。

 選ばないことで、

 終わりを、まだ呼ばない。


 沈黙の中で、

 季節だけが、先に進んでいく。


 それを止める方法を、

 僕は、もう探していなかった。


 ♢


 身体を起こすのを手伝う。

 背中に腕を回すと、以前より力が要らない。


 軽い。


 思考が、そこに触れそうになるのを、

 意識的に遠ざける。


 軽い、という感覚に、

 意味を持たせてはいけない。


 椅子に座らせ、毛布を整える。

 手順は、もう完全に身体に染みついていた。


 薬を用意する。

 量を測る。

 器を口元に運ぶ。


 彼女は、すぐには口を開かない。


 待つ。


 待つことに、慣れてしまった自分がいる。


 ようやく、少しだけ飲む。

 喉が動くのを確認して、器を下げる。


「……ありがとう」


 声が、途中で途切れる。


「うん」


 それだけでいい。


 会話を成立させようとしない。

 成立しないことを、もう受け入れている。


 窓の外を見る。

 薄い雲。

 陽は出ているのに、光が弱い。


「……雪、降るかな」


 彼女が、ぽつりと言った。


 未来の話だ。

 今までなら、避けていた。


 でも、その一言には、

 期待も、計画も、願いも含まれていない。


 ただの、観測。


「……たぶん」


 曖昧な返事をする。


 彼女は、それ以上、何も言わなかった。


 ♢


 その日から、

 起きている時間は、目に見えて短くなった。


 目を開けている時間。

 声が出る時間。

 意識が、こちらに向いている時間。


 すべてが、少しずつ削られていく。


 でも、削られている、という表現すら、

 どこか正確じゃない。


 戻らない。


 それだけだ。


 午後に訪れても、眠っていることが増えた。

 声をかけても、反応がない。


 それでも、話しかける。


 返事がないことに、もう驚かなくなっていた。


 以前は、

 声をかけて反応がないたびに、

 胸の奥が一瞬、跳ね上がっていた。


 今は違う。


 反応がないことを前提に、

 言葉を選んでいる自分がいる。


 それが、怖かった。


 返事がない世界に、

 身体の方が先に慣れていく。


「……今日は、雲が低い」


 言葉は、空気に落ちるだけだ。

 届くかどうかを、考えない。


 考えた瞬間、

 その言葉は意味を持ってしまう。


 意味を持った言葉は、

 希望になるか、

 絶望になるか、

 どちらかに傾く。


 今は、そのどちらも、

 彼女には重すぎる。


 だから、

 意味を持たせない。


 ただ、音として置く。


 それでも、話しかける理由は、ある。


 リィナが起きていなくても、

 聞いていなくても、

 ここに「誰かがいる」ことだけは、

 空間に残したかった。


 誰もいない部屋と、

 誰かが隣にいる部屋は、

 たとえ眠っていても、

 まったく違う。


 それを、僕は知ってしまった。


 彼女の手に触れる。


 指先は冷たい。

 以前のような温度は、ない。


 それでも、

 完全に失われたわけではない。


 触れていれば、まだここにある。


 その事実だけで、

 息ができた。


「……無理しなくていい」


 返事はない。


 それでも、その言葉は言わなければならなかった。


 誰に向けた言葉か、

 僕自身にも分からない。


 彼女にか。

 自分にか。

 それとも、

 この時間そのものにか。


 答えは出ない。


 答えを出さないことが、

 今は、唯一の正解だった。


 時間が、ゆっくり流れていく。


 時計を見ることはしない。

 見れば、量が分かってしまう。


 残っている量。

 削られていく量。


 量として把握した瞬間、

 それは管理になり、

 管理は、終わりを意識させる。


 だから、見ない。


 ただ、光の角度が変わるのを感じる。


 窓の外で、風が枝を揺らす音がする。

 冬は、音が少ない。

 だから、わずかな音がよく響く。


 彼女の呼吸も、その一つだった。


 浅く、

 不規則で、

 それでも、確かに続いている。


 それを聞いているあいだ、

 僕は、何も考えない。


 考えないことにこれほど集中したのは、

 初めてだった。


 もし、この時間が終わったら。


 もし、もう呼吸の音が聞こえなくなったら。


 その「もし」が、

 頭を掠めるたびに、

 僕は、それを押し戻す。


 今ではない。


 今、ではない。


 冬は始まった。

 けれど、

 終わりは、まだ確定していない。


 確定させるのは、

 季節ではない。


 人の、認識だ。


 だから、

 僕は認識しない。


 まだ、ここにいる。

 それだけで、今日という日は成立する。


 彼女が目を開けなくても、

 言葉を返さなくても。


 僕が、ここにいる限り。


 それが、この冬の最初の約束だった。


「今日は、霜はまだだった」


 返事はない。


「村の通り、静かだったよ」


 ない。


「……寒くなったね」


 しばらくして、ほんのわずかに、

 指が動いた。


 それだけで、

 話しかける理由が成立してしまう。


 ♢


 夜、屋敷へ戻る。


 アインは、何も言わない。

 ミレイユは、視線を逸らす。

 メイリスは、次の日の準備を整える。


 誰も、

「やめろ」とも、

「続けろ」とも言わない。


 世界は、

 静かに終わりの準備を進めている。


 それを止める言葉は、

 どこにもない。


 屋敷の外では、

 変わらない日常が続いている。


 使用人たちは、いつも通りに動く。

 庭師は冬支度を始め、

 倉庫では保存食の準備が進む。


 誰も、声を潜めたりしない。

 誰も、悲しみを共有しない。


 冬は、毎年来るものだから。


 命が終わることと同じくらい、

 それは自然な流れとして扱われる。


 僕だけが、その“自然”から取り残されていた。


 彼にとって冬は、

 気候ではない。

 季節でもない。


 時間切れの合図だ。


 それでも、屋敷は静かだ。

 悲劇の気配を、

 誰も表に出さない。


 そうやって世界は、

 終わりを“特別なもの”にしない。


 それが、いちばん残酷だった。


 ♢


 翌朝、庭の水桶に、

 薄い氷が張っていた。


 初霜ではない。

 初雪でもない。


 でも、確かに——

 凍り始めている。


 それを見て、

 胸の奥が、ゆっくり冷えた。


 今日は、行かなくてもいい理由は、ない。

 行く。


 それだけ。


 ♢


 リィナは、その日、

 一度も目を開けなかった。


 呼吸はある。

 体温も、まだある。


 でも、言葉はない。


 それでも、話しかける。


「……来たよ」


 返事はない。


 椅子に腰を下ろし、

 彼女の手を包む。


 冷たい。

 でも、拒まれてはいない。


 それだけで、今日も来た理由が成立する。


 守ることしか、できなくなった。


 何かを変えることも、

 何かを選ぶことも、

 まだ、しない。


 ——まだ、しなくていい。


 待っていれば、終わる。


 そのフェーズに、

 静かに、足を踏み入れただけだ。


 僕は、考えないようにしていた。


 もし、この時間が、

 彼女にとって苦痛になったら。

 もし、眠りが楽になってきたら。


 そう考えること自体が、

 裏切りのように感じられた。


 彼女は、生きている。

 今、この瞬間も。


 それ以上の意味を、

 僕は、まだ与えない。


 与えた瞬間、

 冬が、完全な形で始まってしまう気がした。


 冬は、もう始まっている。


 けれど、

 終わりは、まだ来ていない。


 それが、

 この季節のいちばん残酷なところだった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


冬は、音もなく始まります。

はっきりとした区切りも、劇的な出来事もなく、

ただ「戻れない線」を静かに引いていくだけです。


この話では、何かが起きるよりも先に、

“何も起きなくなっていく”時間を描きました。

返事が減り、言葉が薄れ、

それでも隣にいることだけが残っていく——

そんな日々です。


守ることしかできなくなったとき、

それでも人は、そばにい続けることを選べるのか。

その問いだけを、ここに置いています。


もし感じたことがあれば、

感想や評価、レビューとして残していただけると嬉しいです。

それが、この物語が誰かに届いた証になります。


次は、冬編の続きを書いていきます。

最後まで、見届けていただけたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
読み進めるうちに、目が潤んでいました。 静謐な痛みを感じながら、次話に進みます。
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