26.冬を手放す-1
朝、屋敷の中庭に出たとき、
空気が一段、硬くなっていることに気づいた。
吐いた息が、白くならない。
けれど、確かに冷たい。
冬だ、と判断するには、まだ早い。
霜は降りていない。
雪の気配もない。
それでも、秋とは明らかに違う空気だった。
冷たさが、表面だけではない。
皮膚の内側まで、じわりと染み込んでくる。
指先を握ると、感覚が少し鈍い。
——始まった。
そう思った。
季節が変わる瞬間は、いつも静かだ。
誰にも告げず、音も立てず、
ただ、戻れない線を引くだけ。
マントを羽織る。
今までは「寒いから」ではなかった。
今日は違う。
羽織らなければならない、と身体が判断していた。
靴を履き、扉を閉める。
金具の音が、いつもより乾いて響いた。
村へ向かう道は、変わっていない。
けれど、土の色が違う。
湿り気が抜け、踏みしめるたびに軽い音がする。
木々の葉は、もうほとんど残っていない。
枝の間を風が抜けるたび、
何も遮られず、冷気がそのまま頬に当たる。
——冬が来る。
そうではない。
冬は、もう来てしまった。
♢
店の裏口をノックする。
返事が、すぐには返ってこなかった。
今までは、必ずすぐに聞こえた声。
今日は、一拍遅れる。
「……どうぞ」
扉を開けると、薬の匂いが濃かった。
煮詰めた根、乾かした葉、鉄のような苦味。
部屋は、前と同じ配置のまま。
窓、寝台、椅子、小さな机。
変わったのは、一つだけだった。
リィナが、眠っている。
眠っている、というより——
起きていない。
胸が上下するのを確かめて、ようやく息を吐く。
生きている。
それだけは、確かだ。
近づく。
足音を、無意識に殺している自分に気づく。
起こしてはいけない。
起こせるかどうかも、分からない。
寝台のそばに立ち、
彼女の顔を見る。
頬は、さらに削げていた。
まつ毛が、影を落としている。
呼吸は浅く、一定ではない。
「……リィナ」
小さく、名前を呼ぶ。
反応は、ない。
今までは、必ず何かあった。
瞼が動くか、指が僅かに動くか、
声にならない息が返ってくるか。
今日は、何もない。
待つ。
数を数えることはしない。
数え始めたら、終わりが近づく気がした。
しばらくして、ようやく、
彼女の眉がわずかに動いた。
瞼が、ほんの少し開く。
「……エル……?」
声は、ほとんど空気だった。
「うん」
それだけ答える。
それ以上、何も言わない。
言葉を増やすと、彼女が追いつけなくなる。
「……寒い?」
問いかけは、短く。
「……ちょっと」
それで会話は終わる。
それ以上、続けられない。
沈黙が、部屋に落ちる。
音が消えるわけじゃない。
呼吸の音も、外の風の音も、確かにある。
それでも、言葉だけが、そこに存在しない。
僕は、沈黙を破らない。
破ってはいけない気がした。
ここで何かを言えば、
それは会話ではなく、
彼女を現実に引き戻す行為になる。
今のリィナに、現実は少し重すぎる。
だから、待つ。
彼女が眠るのか、
意識を手放すのか、
それとも、もう一度こちらを見てくれるのか。
判断しない。
期待もしない。
ただ、隣にいる。
以前なら、この距離は近すぎた。
夏の畑では、触れないことで守ってきた距離。
今は違う。
触れなければ、そこにいられない。
それが、季節の変化なのか、
彼女の変化なのか、
僕には、もう区別がつかなかった。
リィナの肩が、わずかに上下する。
呼吸が、少しだけ乱れる。
それを見て、
胸の奥が、きゅっと縮む。
——まだだ。
そう思う自分と、
——もう、かもしれない、
と考えてしまう自分が、同時に存在している。
どちらも否定しない。
否定した瞬間、何かが壊れてしまう気がした。
彼女の時間は、確実に短くなっている。
でも、それを口にした瞬間、
それは“終わり”という言葉になる。
だから、僕は言葉を選ばない。
選ばないことで、
終わりを、まだ呼ばない。
沈黙の中で、
季節だけが、先に進んでいく。
それを止める方法を、
僕は、もう探していなかった。
♢
身体を起こすのを手伝う。
背中に腕を回すと、以前より力が要らない。
軽い。
思考が、そこに触れそうになるのを、
意識的に遠ざける。
軽い、という感覚に、
意味を持たせてはいけない。
椅子に座らせ、毛布を整える。
手順は、もう完全に身体に染みついていた。
薬を用意する。
量を測る。
器を口元に運ぶ。
彼女は、すぐには口を開かない。
待つ。
待つことに、慣れてしまった自分がいる。
ようやく、少しだけ飲む。
喉が動くのを確認して、器を下げる。
「……ありがとう」
声が、途中で途切れる。
「うん」
それだけでいい。
会話を成立させようとしない。
成立しないことを、もう受け入れている。
窓の外を見る。
薄い雲。
陽は出ているのに、光が弱い。
「……雪、降るかな」
彼女が、ぽつりと言った。
未来の話だ。
今までなら、避けていた。
でも、その一言には、
期待も、計画も、願いも含まれていない。
ただの、観測。
「……たぶん」
曖昧な返事をする。
彼女は、それ以上、何も言わなかった。
♢
その日から、
起きている時間は、目に見えて短くなった。
目を開けている時間。
声が出る時間。
意識が、こちらに向いている時間。
すべてが、少しずつ削られていく。
でも、削られている、という表現すら、
どこか正確じゃない。
戻らない。
それだけだ。
午後に訪れても、眠っていることが増えた。
声をかけても、反応がない。
それでも、話しかける。
返事がないことに、もう驚かなくなっていた。
以前は、
声をかけて反応がないたびに、
胸の奥が一瞬、跳ね上がっていた。
今は違う。
反応がないことを前提に、
言葉を選んでいる自分がいる。
それが、怖かった。
返事がない世界に、
身体の方が先に慣れていく。
「……今日は、雲が低い」
言葉は、空気に落ちるだけだ。
届くかどうかを、考えない。
考えた瞬間、
その言葉は意味を持ってしまう。
意味を持った言葉は、
希望になるか、
絶望になるか、
どちらかに傾く。
今は、そのどちらも、
彼女には重すぎる。
だから、
意味を持たせない。
ただ、音として置く。
それでも、話しかける理由は、ある。
リィナが起きていなくても、
聞いていなくても、
ここに「誰かがいる」ことだけは、
空間に残したかった。
誰もいない部屋と、
誰かが隣にいる部屋は、
たとえ眠っていても、
まったく違う。
それを、僕は知ってしまった。
彼女の手に触れる。
指先は冷たい。
以前のような温度は、ない。
それでも、
完全に失われたわけではない。
触れていれば、まだここにある。
その事実だけで、
息ができた。
「……無理しなくていい」
返事はない。
それでも、その言葉は言わなければならなかった。
誰に向けた言葉か、
僕自身にも分からない。
彼女にか。
自分にか。
それとも、
この時間そのものにか。
答えは出ない。
答えを出さないことが、
今は、唯一の正解だった。
時間が、ゆっくり流れていく。
時計を見ることはしない。
見れば、量が分かってしまう。
残っている量。
削られていく量。
量として把握した瞬間、
それは管理になり、
管理は、終わりを意識させる。
だから、見ない。
ただ、光の角度が変わるのを感じる。
窓の外で、風が枝を揺らす音がする。
冬は、音が少ない。
だから、わずかな音がよく響く。
彼女の呼吸も、その一つだった。
浅く、
不規則で、
それでも、確かに続いている。
それを聞いているあいだ、
僕は、何も考えない。
考えないことにこれほど集中したのは、
初めてだった。
もし、この時間が終わったら。
もし、もう呼吸の音が聞こえなくなったら。
その「もし」が、
頭を掠めるたびに、
僕は、それを押し戻す。
今ではない。
今、ではない。
冬は始まった。
けれど、
終わりは、まだ確定していない。
確定させるのは、
季節ではない。
人の、認識だ。
だから、
僕は認識しない。
まだ、ここにいる。
それだけで、今日という日は成立する。
彼女が目を開けなくても、
言葉を返さなくても。
僕が、ここにいる限り。
それが、この冬の最初の約束だった。
「今日は、霜はまだだった」
返事はない。
「村の通り、静かだったよ」
ない。
「……寒くなったね」
しばらくして、ほんのわずかに、
指が動いた。
それだけで、
話しかける理由が成立してしまう。
♢
夜、屋敷へ戻る。
アインは、何も言わない。
ミレイユは、視線を逸らす。
メイリスは、次の日の準備を整える。
誰も、
「やめろ」とも、
「続けろ」とも言わない。
世界は、
静かに終わりの準備を進めている。
それを止める言葉は、
どこにもない。
屋敷の外では、
変わらない日常が続いている。
使用人たちは、いつも通りに動く。
庭師は冬支度を始め、
倉庫では保存食の準備が進む。
誰も、声を潜めたりしない。
誰も、悲しみを共有しない。
冬は、毎年来るものだから。
命が終わることと同じくらい、
それは自然な流れとして扱われる。
僕だけが、その“自然”から取り残されていた。
彼にとって冬は、
気候ではない。
季節でもない。
時間切れの合図だ。
それでも、屋敷は静かだ。
悲劇の気配を、
誰も表に出さない。
そうやって世界は、
終わりを“特別なもの”にしない。
それが、いちばん残酷だった。
♢
翌朝、庭の水桶に、
薄い氷が張っていた。
初霜ではない。
初雪でもない。
でも、確かに——
凍り始めている。
それを見て、
胸の奥が、ゆっくり冷えた。
今日は、行かなくてもいい理由は、ない。
行く。
それだけ。
♢
リィナは、その日、
一度も目を開けなかった。
呼吸はある。
体温も、まだある。
でも、言葉はない。
それでも、話しかける。
「……来たよ」
返事はない。
椅子に腰を下ろし、
彼女の手を包む。
冷たい。
でも、拒まれてはいない。
それだけで、今日も来た理由が成立する。
守ることしか、できなくなった。
何かを変えることも、
何かを選ぶことも、
まだ、しない。
——まだ、しなくていい。
待っていれば、終わる。
そのフェーズに、
静かに、足を踏み入れただけだ。
僕は、考えないようにしていた。
もし、この時間が、
彼女にとって苦痛になったら。
もし、眠りが楽になってきたら。
そう考えること自体が、
裏切りのように感じられた。
彼女は、生きている。
今、この瞬間も。
それ以上の意味を、
僕は、まだ与えない。
与えた瞬間、
冬が、完全な形で始まってしまう気がした。
冬は、もう始まっている。
けれど、
終わりは、まだ来ていない。
それが、
この季節のいちばん残酷なところだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
冬は、音もなく始まります。
はっきりとした区切りも、劇的な出来事もなく、
ただ「戻れない線」を静かに引いていくだけです。
この話では、何かが起きるよりも先に、
“何も起きなくなっていく”時間を描きました。
返事が減り、言葉が薄れ、
それでも隣にいることだけが残っていく——
そんな日々です。
守ることしかできなくなったとき、
それでも人は、そばにい続けることを選べるのか。
その問いだけを、ここに置いています。
もし感じたことがあれば、
感想や評価、レビューとして残していただけると嬉しいです。
それが、この物語が誰かに届いた証になります。
次は、冬編の続きを書いていきます。
最後まで、見届けていただけたら幸いです。




