25.『秋は戻らない』
扉の前に立ったとき、秋の冷たさがようやく皮膚の内側まで染みてきた気がした。
呼吸をするたび、肺の奥がひやりとする。
屋敷の廊下は、いつも通り静かだった。
絨毯の上を歩けば足音は消えるはずなのに、今日は自分の靴底だけが妙に存在感を持っていた。
止まらない。
止まれない。
そういうものが、胸の奥でずっと鳴っている。
呼び出しは短かった。
「エルディオ。来なさい」
それだけ。
理由も、時間も、声の温度すら。
呼び出された時間は、ほんのわずかだった。
理由も告げられず、
猶予もなく、
ただ「来なさい」とだけ言われた。
それだけで、
これは相談でも、叱責でもないと分かってしまう。
アルヴェイン家で、人を揃えて待つという行為は、
すでに結論が出ているときにしか行われない。
歩いているあいだ、時間の感覚が曖昧だった。
早足でもない。
立ち止まってもいない。
なのに、廊下が異様に長く感じられる。
――逃げるための距離じゃない。
――覚悟させるための距離だ。
そう理解してしまった瞬間、
胸の奥が、ひどく冷えた。
僕は返事をした記憶がない。
気づけば歩いていた。
同じ廊下。
同じ扉。
同じ屋敷の空気。
なのに、今日だけは全てが“儀式”みたいに重い。
扉の向こうに誰がいるか、分かっていた。
……分かっていたはずだった。
それでも、取っ手を握った瞬間、指先が僅かに震えた。
扉に手をかけた瞬間、
部屋の向こう側から、空気の重さが伝わってきた。
音ではない。
匂いでもない。
ただ、空気が張りついている。
この部屋では、
もう誰も、感情で話さない。
取っ手を下げる。
――その動作ひとつで、
今日という日が、確定してしまう気がした。
扉が開く。
最初に流れ込んできたのは、声ではなく――沈黙だった。
応接間。
中央に据えられた長椅子と、低いテーブル。
いつもなら、茶の香りがほんの少し混じる場所。
今日は違う。
空気が、冷たい。
暖炉は焚かれているはずなのに、そこに温度がない。
火があるのに、熱が届かない。
そういう“話”をする部屋の空気だった。
そして、そこにいた。
正面の席にアイン。
背筋をまっすぐに伸ばし、手を組んでいる。
視線は僕を見ているのに、感情がない。
怒りでも、慈悲でもない。
ただ、父としての顔を削ぎ落とした“辺境伯”の目だった。
隣にミレイユ。
彼女は視線を上げきらず、手元のカップに触れている。
触れているだけで、飲んでいない。
指先だけが、ほんの少し白い。
そして――
壁際にヘルマン。
医師の服装。背筋は正しい。
目は穏やかなのに、今だけは刃物のように冷えた理性が宿っている。
その横にクリストフ。
執事はいつも通り整った姿で、いつも通り無表情だった。
しかし、彼の“いつも通り”は、状況がどれだけ異常でも崩れないという意味で、今日だけは不気味にさえ見えた。
もう一人。
メイリスがいた。
僕の背後より少し左。
控えめな位置に立つ。
侍女としての正しい立ち方。
正しい呼吸。正しい目線。
その全てが、彼女の心を隠すための鎧だと、僕は知っている。
――全員が、同じ部屋にいる。
ここにいるのは、感情を語るための人間じゃない。
決断する者。
見届ける者。
処置を担う者。
支える者。
――そして、
最後に呼ばれたのは、壊れる役だった。
それだけで分かってしまう。
これは“会話”じゃない。
結論のための場だ。
僕は一礼した。
体が勝手にそうした。
頭を下げる角度も、間合いも、誰かに教え込まれた通り。
「お呼びでしょうか」
声が思ったより落ち着いて聞こえたのは、きっと自分の耳が壊れているからだ。
心臓は速いのに、声は揺れない。
この屋敷では、揺れない声だけが生き残る。
アインは短く顎を動かした。
「座れ」
僕は椅子に腰を下ろした。
革張りの感触が、変に現実的だった。
沈黙が一拍落ちる。
アインが、言った。
「ヘルマン」
それは命令ではない。
問いかけでもない。
ただ名前を呼んだだけ。
それだけで、部屋の空気がさらに沈んだ。
ヘルマンは一歩前に出て、一礼した。
そして、僕に向き直る。
目が合う。
医師の目だ。
感情で語らない目。
希望を作らない目。
ただの“結果”だけを運んでくる目。
「エルディオ様」
敬称が刺さる。
村で呼ばれた“エル”ではなく、屋敷で呼ばれる“エルディオ様”。
それだけで、僕は少し息が詰まった。
「……もう、わかってらっしゃると思いますが」
その前置きが、残酷だった。
“分かっているはずだ”と言われることほど、逃げ場のないものはない。
ヘルマンは淡々と続けた。
「リィナの容態は、今、急激に落ちています。
秋の間、持たせているのは、彼女の意志と……ご両親の管理、貴方の献身、そして対症療法の積み重ねです」
一語一語が、紙のように薄いのに、胸に貼り付いて剥がれない。
「しかし――」
その言葉が落ちた瞬間、僕は分かった。
次に来るのは“線”だ。
ここまで、ここから先は無い、という線。
「これは予測ではありません。判断です」
ヘルマンは、ほんの少しだけ息を吸った。
「この冬は……越すことは無理でしょう」
それは予測ではなかった。
願望でもなかった。
医師が、責任をもって切り捨てるための言葉だった。
言い切った。
逃げ道のない言い方で。
部屋の音が消えた。
暖炉の薪が爆ぜる音さえ、遠くに聞こえる。
僕は頷くべきだった。
そういう場だ。
でも、首が動かなかった。
ヘルマンはさらに続ける。
優しい補足ではない。
現実を確実に刺すための補足だ。
「今後、食事量はさらに落ちます。
水分も、嚥下も。
意識がはっきりしている時間は短くなり、眠りが増える。
痛みは……完全には避けられません」
僕の指が、膝の上で強く握られていることに今さら気づいた。
力を入れすぎて、関節が白い。
アインの声が落ちた。
「……お前は、どうするつもりだ。エルディオ」
質問の形なのに、そこに選択肢はほとんどない。
“どうするか”ではなく、
“お前はどう壊れるのか”を確かめる声だった。
僕はアインを見た。
父の目ではない。
守護神の目。
辺境伯の目。
剣聖の目。
それでも、その視線の奥に――ほんのわずかに疲れた影があるのを僕は見てしまった。
この人も、ずっと耐えている。
言わないことで、耐えている。
僕は、言葉を探した。
「……いつも通り、です」
口から出たのは、それだった。
自分でも驚くほど、浅い答え。
でも、僕に残っているのは“いつも通り”だけだった。
「彼女の…リィナの元へ行く。世話をする。話をする。
必要なことは、ヘルマンの指示に従う。
……それだけです」
アインの眉が、ほんの僅かに動く。
「それだけ?」
重い。
その言葉が重い。
“それだけで済むと思っているのか”という意味を含んでいる。
僕は息を吸った。
肺に冷たい空気が入る。
まるで冬みたいだ。
まだ霜も降りていないのに。
「……他に、何があるんですか」
自分の声が、少し硬くなったのが分かった。
反論ではない。
でも、問い返してしまった。
アインは椅子の背に深く凭れない。
背中を預けない人だ。
だからこそ、彼の言葉はいつも“前へ”落ちる。
「ある」
短い。
「お前は、“できる”」
その一言で、部屋の空気がさらに沈む。
誰もが、その意味を分かっている。
禁術。
神代。
あの魔法。
言葉にしないまま、核心だけがそこに置かれた。
僕の喉が鳴った。
「……父上」
アインは視線を逸らさない。
「使わないと言ったな」
その言葉は、責めではない。
確認でもない。
記録だ。
“お前はそう言った”という記録。
「そのまま、終わるのか」
終わる。
その単語が、心臓に爪を立てた。
僕は、答えを作ろうとした。
正しい答え。
家の中で許される答え。
世界にとって正しい答え。
でも、正しい答えはいつも、僕の中に入ってこない。
ミレイユが、静かに口を開いた。
「エル」
呼び方が、屋敷のそれじゃない。
彼女はわざと“エル”と呼んだ。
それは、こちら側の言葉だ。
「あなたは、もう壊れている」
淡々とした声音だった。
同情もない。
怒りもない。
ただ、観察の結果みたいに言う。
僕は瞬きをした。
否定したかったのに、否定が出てこなかった。
ミレイユは続ける。
「……夏からずっと。
あなたは“壊れないふり”が上手になっただけ」
言葉が、骨に当たる。
彼女は痛いところを正確に刺す。
「そして今は、壊れ方が変わってきている」
ミレイユの指先がカップの縁をなぞる。
カップは揺れない。
揺れるのは指先だけ。
「だから、私は思うの。
――壊れるなら、こちら側で壊し方を選ぶべきだって」
壊し方を選ぶ。
その言葉は矛盾しているのに、妙に現実的だった。
壊れることは止められない。
でも、壊れ方は選べる。
それが、母の論理だった。
母は、息子が壊れる瞬間を、
一人で迎えさせないと決めていた。
「放っておけば、あなたはきっと…彼女の前で壊れる」
ミレイユの声は、酷く静かだった。
「それが一番…残酷なの」
言葉を置いたあと、
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
唇がわずかに引き結ばれ、
視線が、ほんの一瞬だけ伏せられる。
涙は、落ちない。
落とさないと、決めている。
その沈黙を切ったのは、
アインの低い声だった。
「そのために、全員を呼んだ」
ヘルマンが視線を伏せる。
クリストフは変わらない。
メイリスの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。
僕は、喉の奥が痛くなった。
「……壊し方、とは」
ミレイユは一拍置いて言った。
「あなたが、最後まで“人間”でいられる壊れ方」
その言葉で、僕は理解した。
これは禁術を使えと言っているのではない。
使わないと言っているわけでもない。
“お前がどちらで壊れるか”を、こちらが決める場なのだ。
ヘルマンが口を挟む。
「医師として申し上げます。
ここから先は、時間の問題です。
奇跡を期待する段階はとうに過ぎています」
淡々と。
残酷に。
でも、それが医師の誠実さだ。
「苦痛の管理。呼吸の補助。
場合によっては……最期の時間をどう過ごすか、周囲が整える必要がある」
“周囲が整える”
その言い方が怖かった。
整えたところで、終わりは変わらない。
変わらないから、整える。
アインの声がまた落ちる。
「エルディオ。
お前は、彼女の“最期”に何をする」
最期、という言葉を、父は避けなかった。
避けないのが、この家だ。
現実を言葉にすることで、感情を殺す家。
僕は、息を吸った。
胸の奥が痛い。
でも、痛いと言わない。
ここでは痛みを言語化した瞬間、負けになる。
「……今まで通り、会いに行きます」
それしか言えなかった。
アインの目が、少しだけ細くなる。
「お前は、約束しないと言ったな」
ミレイユが静かに続ける。
「未来の話もしない。
希望を作らない。
……それは、あなたが壊れないための手段だった」
違う。
それは彼女が壊れないための手段だった。
僕が未来を語れば、彼女は未来に縋る。
縋らせたくなかった。
縋らせることが残酷だから。
でも、口にすると言い訳になる。
正当化になる。
だから、僕は何も言わなかった。
沈黙が伸びる。
その沈黙を、ミレイユが切った。
切り方が、恐ろしく静かだった。
「あなたはね、エル。
“選ばない”ことで、選び続けてる」
僕の喉が詰まる。
「リィナさんの元に行く。世話をする。話をする。
それだけを繰り返すことで、
終わりの瞬間まで、あなたは自分を保てると思っている」
図星だった。
だから、胸が痛い。
ミレイユは視線を上げる。
初めて僕の目を見る。
「でも、もうそれも限界が近い」
僕は言葉を失った。
アインが短く告げる。
「この冬、必ず“選択”が来る」
それは予言じゃない。
確定事項だ。
冬は人を選ばせる。
凍る空気は、誤魔化しを剥がす。
「その時に、お前が壊れる前に――」
アインは一拍置き、
「こちら側で、枠を作る」
枠。
それは檻でもあり、守りでもある。
選択肢を狭めることで、壊れ方を制御する。
この家のやり方だ。
ヘルマンが、慎重に言う。
「エルディオ様、ここから先……ご本人の前での態度も含め、
“支える側”の整えが必要です」
支える側。
その言葉が僕に刺さる。
僕は支える側だったはずだ。
彼女のそばにいることでしか、生き方を知らない側だったはずだ。
ミレイユが続ける。
「だから、あなたに問うわ」
問い。
今度は逃げ場がない。
「あなたは、リィナさんの前で、どこまで“普通”でいられる?」
普通。
その言葉が、秋の乾いた空気みたいに喉に引っかかった。
“普通”を彼女に渡してきた。
“普通”が彼女を生かしてきた。
でも、普通は嘘だ。
終わりが見えている普通は、ただの仮面だ。
アインが追い討ちのように言う。
「お前が、先に壊れたら――」
言葉が少しだけ重くなる。
「それが彼女を殺す」
その一言で、僕の背中が冷えた。
彼女を殺すのは病だ。
毒だ。
時間だ。
世界だ。
……そう言い訳したかった。
でも、違う。
僕が壊れて、その壊れた顔を彼女に見せた瞬間、
彼女はきっと――自分の終わりを、僕の中で確定させてしまう。
彼女は、そういう子だ。
僕の表情を読む。
僕の沈黙を読む。
僕が未来を語らない理由を、全部分かっている。
だからこそ、僕は“壊れた顔”を見せてはいけない。
ミレイユは、ゆっくりと言葉を落とした。
「あなたが壊れるなら、
“あの子の前では壊れない”壊れ方を選びなさい」
矛盾しているのに、胸に落ちる。
「そして、壊れるのは……私たちの前で壊れればいい」
母の声だった。
母の声は、優しいはずなのに、今日だけは冷たかった。
優しさが、残酷の形をしている。
クリストフが初めて口を開いた。
「坊ちゃま」
呼び方が、昔のままだった。
「お一人で背負うには、これは重すぎます。
……主は、主のまま壊れてはいけません」
主のまま壊れるな。
つまり、壊れるなら“人間として”壊れろ。
主という役割を保ったまま壊れたら、周囲が全て崩れる。
メイリスの声が、かすかに出た。
「……エル様」
それだけ。
名前を呼ぶだけで、彼女の喉が痛んでいるのが分かった。
言いたいことは山ほどある。
でも言えない。
侍女として、立っているから。
アインは最後に、短く結論を置いた。
「冬が来る」
誰も否定できない事実。
「そして彼女は越せない」
誰も覆せない事実。
「お前は、その冬を――どう迎える」
迎える。
戦うとも、救うとも言わない。
迎える。
冬は自然現象だ。
止められない。
だから迎えるしかない。
僕は、ゆっくり息を吐いた。
吐いた息が、白くなる気がした。
まだ秋なのに。
言葉は、簡単に出ない。
でも、この場で言葉を出さなければならない。
沈黙は選択だ。
選ばないという選択も、もう許されない。
僕は、答えを作るのをやめた。
正しい答えをやめた。
綺麗な答えをやめた。
残るのは、事実だけ。
「……僕は」
喉が痛い。
「今日も、行きます」
それだけ言ってしまえば楽なのに、
アインは“それだけ”を許さない。
だから、僕は続けた。
「明日も、行く。
……彼女が望む限り、望む顔で、望む言葉で」
未来の約束ではない。
終わりを伸ばす約束でもない。
ただ“その瞬間”を守る宣言。
「そして――」
言葉が、喉の奥で引っかかる。
でも、吐き出した。
「僕が壊れるなら……ここで壊れます」
応接間の空気が、一段重くなる。
ミレイユの指先が、ようやく震えをやめた。
アインは、ほんの僅かに目を閉じ、すぐ開いた。
ヘルマンは何も言わない。
医師は結果を知っているから。
クリストフは頷かなかった。
執事は承認ではなく、記録としてそれを聞く。
メイリスだけが、ほんの一瞬だけ息を止めた。
――それが、この家の“選び方”だった。
壊れたまま、前に出るな。
壊れるなら、見せるな。
壊れるなら、こちら側で壊れろ。
そして、冬は来る。
まだ霜も降りていない。
まだ雪もない。
終わりはまだ先。
だからこそ残酷に、終わりは確実に近い。
アインが、最後に言った。
「ならば、忘れるな」
視線が刺さる。
「お前が守るのは、命じゃない」
「――彼女の“最後の普通”だ」
その言葉で、僕は理解した。
この家は、禁術の話を最後まで口にしなかった。
使うなとも、使えとも言わない。
言わないことで枠を作った。
それが一番の圧だった。
僕は立ち上がり、一礼した。
儀式のように、正確に。
扉へ向かう。
背中に視線が刺さる。
それでも振り返らない。
廊下に出た瞬間、屋敷の空気が少しだけ軽くなる。
軽くなるというより、重さの種類が変わる。
外は秋だ。
冷たい。
乾いている。
霜はまだ。
冬ではない。
――終わりはまだ先。
それが、いちばん残酷だった。
僕は歩き出す。
いつものように。
いつもの道を。
いつもの部屋へ。
今日も行く。
――だから、明日も行く。
それが、正しいかどうかは、
もう重要じゃなかった。
まだ、終わっていない。
だから、まだ選ばされる。
それが、
終わりよりも、ずっと残酷だった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この話は、
「救えないものを前にして、人はどう“続けてしまう”のか」
という一点だけを見つめて書いています。
正しい選択も、間違った選択も、
はっきりした答えは出てきません。
ただ、それでも人は毎日を選び続けてしまう。
その事実だけが、静かに積み重なっていきます。
もし、どこか苦しかったり、
胸に残るものがあったなら、
それはきっと、あなたが真剣に読んでくれた証です。
感想や評価、レビューなど、
少しでも感じたことを書いていただけたら、とても励みになります。
一言でも大丈夫です。
秋は、もう戻りません。
けれど、この物語は、もう少しだけ続きます。
ここまで本当に、ありがとうございました。




