24.秋は戻らない-3
朝の空気は、前日よりもはっきりと冷たかった。
目を覚ました瞬間、鼻の奥がつんとする。
息を吸うと、肺の内側がひやりとする感覚がある。
夏の名残りは、もうない。
それでも冬とは違う。
痛むほどではなく、ただ、静かに体温を奪っていく冷えだった。
布団から出ると、床が冷たい。
裸足で立つことを、一瞬ためらう。
——ためらったことに、気づいてしまう。
以前なら、考えもしなかったことだ。
服を着る。
指先が、少しだけ動かしづらい。
ボタンを留める動作が、ほんの一拍遅れる。
マントを手に取る。
羽織るかどうかを迷う時間は、もうない。
迷わず肩にかける。
それが「寒いから」なのか、
「いつものことになったから」なのか、
区別はつかなくなっていた。
外へ出ると、空気が低い。
風は吹いているのに、抜けていかない。
地面の近くに、冷えが溜まっている。
歩き出すと、足音が乾いた音を返す。
落ち葉を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
赤くなりきらない葉。
茶色に沈み始めた草。
畑はもう、収穫の匂いしかしない。
——霜は、まだ降りていない。
冬ではない。
終わりではない。
その事実が、胸の奥で小さく引っかかった。
終わりは、まだ先にある。
だからこそ、今が続いてしまう。
村へ向かう道を、いつもと同じ速度で歩く。
息は白くならない。
それでも、吸うたびに冷たい。
同じ道。
同じ距離。
同じ時間。
違うのは、
身体がそれを「当然」として受け入れ始めていることだけだった。
♢
店の裏口をノックする。
「どうぞ」
返事はすぐだった。
けれど、前よりも少しだけ、間がある。
扉を開けると、薬の匂いが濃かった。
煮詰めた草の苦さ。
乾燥させた根の渋さ。
空気に、重さがある。
部屋の配置は変わらない。
窓の位置。
寝台の向き。
椅子と机。
でも、視線が自然と、そこに向かう。
寝台の中央にあるはずの身体が、
少しだけ、奥へ沈んでいる。
布のしわが深い。
身体の輪郭が、前よりもはっきりしている。
「おはよう」
声をかける。
少し遅れて、まぶたが動く。
「……おはよう、エル」
声は、穏やかだった。
掠れてはいない。
笑う余裕も、まだある。
それが逆に、目に刺さる。
「寒くない?」
「うん、大丈夫」
即答ではない。
ほんの一瞬、考える間があった。
近づいて、手を取る。
指先は、前より冷たい。
握り返す力はある。
でも、力を込めるまでに時間がかかる。
身体を起こすのを手伝う。
背中に腕を回す。
以前より、支える位置が少しだけ変わっている。
——軽い。
その言葉が、頭をよぎる。
でも、口には出さない。
器を持ってくる。
スープの量は、自然と少なめになる。
「……全部、飲めそう?」
「うん」
返事はする。
けれど、スプーンを口に運ぶ回数が減っている。
一口。
間。
もう一口。
飲み込むたびに、呼吸が整うまで待つ。
「……今日は、少し薄いかも」
「そう?」
「ううん、ちょうどいい」
それが本当かどうかを、
確かめる術はもうない。
途中で、手が止まる。
「……あとで、いい?」
「うん」
理由は聞かない。
寝台に身体を戻すと、
彼女は目を閉じた。
眠ったわけじゃない。
ただ、目を閉じているだけ。
呼吸は、安定している。
苦しそうではない。
——それでも。
起きている時間が、短くなっている。
笑う。
気遣う。
声も、表情も、まだ“リィナ”だ。
けれど、
言葉と言葉の間に確実に“余白”が増えている。
その余白を誰も埋めない。
埋めてはいけないと、もう分かっているから。
彼女は、弱音を吐かない。
「つらい」とも言わない。
「怖い」とも。
だからこそ、読めてしまう。
——一段階、落ちた。
そう判断するのに、
感情は必要なかった。
ただ、事実がそこにあるだけだった。
秋は、深くなっている。
終わりは、まだ先にある。
それが、今日も、彼女をここに留めている。
そして、
僕を、ここへ通わせている。
♢
窓は、いつもと同じ位置にあった。
昼過ぎの光が、薄くカーテンを透かしている。
強くはない。
暖かさも、ほとんどない。
それでも、リィナはよく、そこを見ていた。
「……窓、少し開けてもいい?」
声は、いつも通りだった。
「うん」
エルは立ち上がり、窓の方へ向かう。
鍵を外し、ほんの少しだけ開ける。
冷たい空気が、細く入り込む。
「……ありがとう」
リィナが言った。
それから、少しだけ間があった。
「……あのね」
僕は振り向く。
リィナは、寝台の縁に手をかけていた。
いつもなら、そのまま身体をずらし、
窓際が見える位置まで移動する。
今日は、動かなかった。
いや——
正確には、動こうとして、止まった。
「……前みたいに、窓のところまで……」
言葉が、途中で切れる。
足元を見る。
視線が、少しだけ下がる。
「……今は、いいや」
自分で、結論を出すように。
僕は、何も言わずに近づいた。
寝台の横に膝をつく。
「動かすよ」
確認でも、提案でもない。
身体を支え、慎重に位置をずらす。
以前より、角度に気を使う。
手を入れる場所も、増えている。
窓が、視界に入る位置まで。
「……見える?」
「うん」
リィナは、少しだけ笑った。
「……やっぱり、きれいだね」
葉の色が、と言ったわけじゃない。
空の高さが、とも言わない。
ただ、そう言った。
僕は、頷いた。
——彼女は、もう一人では、そこまで行けない。
その事実は、
誰の口からも宣言されなかった。
でも、一度成立してしまった。
♢
それから、僕の動きは増えた。
声をかける前に、手を出す。
聞かれる前に、位置を直す。
頼まれる前に、器を持ち替える。
「……ありがとう」
リィナは、変わらずそう言う。
エルは、頷くだけだ。
「大丈夫?」とは聞かない。
「無理しなくていい」とも言わない。
未来の話を、しない。
「そのうち」とか、「また」とか。
そういう言葉を、選択肢から外す。
代わりに、動く。
椅子を引く。
布を直す。
水の量を調整する。
スープを冷ます時間を、少し長く取る。
飲み終わるまで、待つ。
待つ時間が、伸びている。
リィナが眠っている間、
エルは何度も、呼吸を確かめる。
数えるわけでもない。
ただ、間隔を覚える。
規則性を、身体に刻む。
「……エル」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「……ごめんね、手間かけて」
声は、軽い。
謝罪というより、癖みたいに。
「ううん」
それ以上は、言わない。
励まさない。
約束しない。
「大丈夫」と言えば、
何が大丈夫なのかを、決めなければならない。
だから、何も言わない。
沈黙の代わりに、
僕は、手を動かす。
その優しさは、もう“選択”ではなかった。
習慣を越えて、意志に変わり始めていた。
♢
ある日、髪を整えているときだった。
櫛を入れる動作は、丁寧になっている。
引っかからないように。
頭が揺れないように。
以前より、時間がかかる。
「……ね」
リィナが言った。
「なに?」
「……前より、手慣れたね」
声は、軽かった。
冗談とも、指摘ともつかない調子。
僕の手が、一瞬止まる。
ほんの一拍。
「……そう?」
問い返す声は、平坦だった。
「うん」
リィナは、目を閉じたまま笑う。
「なんか……安心する」
エルは、櫛を動かす。
話題を変える。
「今日は、少し風が強い」
「……そうだね」
それで、終わりだった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、その事実だけが部屋に残る。
——手慣れてしまった。
それが何を意味するのかを、
誰も言葉にしないまま。
秋は、さらに深くなっていった。
♢
屋敷に戻ると、空気が違った。
村の店の奥は、薬草と湯気と、まだ生きている体温の匂いがする。
あそこには「今」がある。
痛みも、笑いも、沈黙も、すべてが現在形で置かれている。
けれど、アルヴェイン家の廊下には、匂いがない。
磨かれた床と、乾いた布と、冷えた石。
季節が変わったことすら、音の響き方でしか分からない。
靴音が、やけに長く残った。
自室の前を通り過ぎ、僕は階段を下りる。
目的はなく、ただ身体がそちらへ向かった。
食堂の灯りはもう落ちていて、使用人たちの気配も薄い。
その代わり——
廊下の奥から、微かに声がした。
応接間。
医師を通す部屋。
話し合いが行われる部屋。
閉じられた扉の前で、足が止まった。
盗み聞きをするつもりはなかった。
ただ、そこに音があったから、耳が拾った。
「……薬の量を、今日から変えます」
メイリスの声だった。
淡々としている。
いつも通りの侍女の声。
感情を切り離した声。
「少し増やします。夜は……ええ、眠りが浅いので」
返事をしたのは、男の声。
ヘルマンだ。
「増やすなら、その分——呼吸が落ちる可能性がある。量は慎重に。刻むように」
「承知しています」
メイリスは、迷いなく言った。
——薬。量。呼吸。
言葉が、硬い石みたいに胸の奥に落ちる。
それはもう、“治す”話ではなかった。
“整える”話だ。
“終わりまで持たせる”話。
扉の向こうでは、当たり前みたいに、終わりの準備が進んでいた。
♢
「奥様にも、説明を」
ヘルマンが言う。
「ええ。聞いています」
ミレイユの声。
それは、母の声というより——
領地を預かる者の声だった。
「痛みは抑えられる。でも……時間は、買えません。」
ヘルマンの言葉は簡潔だった。
医師の言葉の形をして、刃の形をしていた。
「……本人は?」
ミレイユが問う。
「まだ“言っていません”」
ヘルマンが答える。
その“言っていない”が、何を指すかは、もう説明されなかった。
言わないまま進む。
言わないまま整える。
言わないまま終わりへ運ぶ。
「エルディオ様は——」
メイリスが口にした瞬間、エルの背筋が跳ねた。
「気づいております。……気づいていて、気づかないふりをしている」
ミレイリュの声が、少しだけ低くなる。
「優しい子だから」
その一言が、優しさではなく、判決みたいに聞こえた。
「止めるべきでしょうか」
ヘルマンが、確認するように問う。
一拍。
「……止められません」
ミレイユが答えた。
言い訳もしない。
嘆きもしない。
ただ事実として、そう言った。
「止めれば、あの子は別の形で壊れる。
あの子に残っている“日常”は、もうあそこしかない」
それは母の判断で、
同時に、世界の判断だった。
——世界は、終わりを準備している。
——本人たちの言葉を待たずに。
♢
「旦那様には?」
ヘルマンが尋ねた。
「……伝えてあります」
報告した、という言い方だった。
「反応は?」
また一拍。
メイリスの声が、答えた。
「……ありません」
その“ありません”は、恐ろしいほど静かだった。
怒鳴らない。
否定しない。
許可もしない。
ただ、反応がない。
——それが一番重い。
「——奥様」
ヘルマンの声が、僅かに揺れた。
「このままでは、エルディオ様は……」
「分かっています」
ミレイユは遮らない。
聞き切った上で、淡く言った。
「壊れているのは、最初から息子の方です」
それを言えるのが、母であることが、残酷だった。
「だから——」
ミレイユの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「壊れ方を、こちらで選べるうちに選ぶ」
扉の前で、エルは呼吸を忘れた。
壊れ方。
選ぶ。
こちらで。
それは、救いではなく、管理だった。
♢
「……エルディオ様には、何も言わないのですか」
ヘルマンの問いに、部屋の中が沈黙した。
そして——
最後に聞こえたのは、ミレイユの吐息だった。
「言えば、エルは“我慢”を覚えてしまう」
その言葉は、優しいふりをしていた。
でも本当は、最も残酷な回避だった。
「我慢を覚えたら、エルは自分で終わらせる。
自分を守るためじゃない。……あの子を守るために」
そこまで言って、声が止まる。
ミレイユは、感情を表に出さない。
出してはいけない立場の人間だから。
でも、その沈黙が、泣いているみたいだった。
♢
僕は、扉から離れた。
歩き出した途端、足が少しだけもつれた。
音を立てないように、床に体重を落とさないように。
いつの間にか、息の仕方まで静かになっている。
廊下の角を曲がると、そこにアインがいた。
廊下の窓辺。
月明かりの差す位置。
背の高い影が、壁に落ちている。
アインは、こちらを見なかった。
見てしまえば、何かが起こるからだ。
「……父上」
呼んだ声は、小さかった。
返事はない。
アインは、ゆっくりと身を翻した。
マントの裾が、わずかに揺れる。
足音は重い。
だけど、乱れていない。
——背を向ける、という行為が、答えだった。
怒りでもない。
許しでもない。
ただ、“終わりの準備に加わった者”の背中。
世界は、静かに整っていく。
誰も泣かず、誰も叫ばず、誰も止めないまま。
僕は、その背中を見送った。
追いかけなかった。
呼び止めなかった。
代わりに、両手の指を一度だけ握りしめた。
痛みがあるかを確かめるみたいに。
まだ自分が、ここにいるかを確かめるみたいに。
そして、何も言わずに階段を上がった。
部屋に戻るためじゃない。
眠るためでもない。
——明日も、行くために。
世界が終わりを準備しているなら、
自分は“今日”を準備するしかない。
それだけが、確かな現実だった。
♢
部屋に戻っても、眠ることはしなかった。
灯りを落とし、椅子に腰掛け、
ただ、時間が過ぎるのを待つ。
何かを考えようとしても、
考えるべきことは、もう残っていなかった。
世界は、準備を始めている。
静かに、着実に。
それを、今日、はっきりと見てしまった。
薬の量が調整されること。
言葉を選んで、真実が伏せられていること。
誰も止めず、誰も肯定しないまま、
終わりへ向かう道だけが整えられていくこと。
——それでも。
明日の朝になれば、
僕は靴を履き、
マントを取り、
同じ道を歩くだろう。
止まる理由は、もう存在しない。
続けることが、
いつの間にか「選択」になっていることにも、
気づいてしまった。
誰かに命じられたわけじゃない。
強いられているわけでもない。
それでも、
行かないという選択肢だけが、
現実から消えている。
今日も、行った。
明日も、行く。
それが正しいかどうかは、
もう重要じゃなかった。
正しさを考える余地は、
この秋には、残されていない。
秋は、深まっていく。
何も壊れないまま。
何も終わらないまま。
ただ、確実に、
終わりに向かって、続いていく。
——そして僕は、
それを選び続けている。
評価も、結論も、後悔もなく。
ただ、その事実だけを抱えたまま。
秋は、戻らない。
でも、まだ、壊れてはいない。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この秋編では、
「何かが起きる」よりも
「何も起きないまま、確実に進んでいくこと」を描きました。
続けることは、時に優しさで、
同時に残酷な選択でもあります。
それでも人は、ある日を、また次の日へ運んでしまう。
エルがしていることは、
正しいとも、間違っているとも、
ここでは断言しません。
ただ、
それでも行ってしまう、
それしか選べなくなってしまう——
そんな瞬間が、誰の人生にもあるのではないかと思っています。
秋は、戻りません。
けれど、まだ終わってもいません。
この先で何が起きるのか、
それを見届けてもらえたら嬉しいです。
感想・評価・レビュー、とても励みになります。
よろしければ、あなたの感じたことを残してもらえたら幸いです。




