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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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24/33

24.秋は戻らない-3

 朝の空気は、前日よりもはっきりと冷たかった。


 目を覚ました瞬間、鼻の奥がつんとする。

 息を吸うと、肺の内側がひやりとする感覚がある。


 夏の名残りは、もうない。

 それでも冬とは違う。

 痛むほどではなく、ただ、静かに体温を奪っていく冷えだった。


 布団から出ると、床が冷たい。

 裸足で立つことを、一瞬ためらう。


 ——ためらったことに、気づいてしまう。


 以前なら、考えもしなかったことだ。


 服を着る。

 指先が、少しだけ動かしづらい。

 ボタンを留める動作が、ほんの一拍遅れる。


 マントを手に取る。


 羽織るかどうかを迷う時間は、もうない。

 迷わず肩にかける。


 それが「寒いから」なのか、

「いつものことになったから」なのか、

 区別はつかなくなっていた。


 外へ出ると、空気が低い。

 風は吹いているのに、抜けていかない。

 地面の近くに、冷えが溜まっている。


 歩き出すと、足音が乾いた音を返す。

 落ち葉を踏む音が、やけに大きく聞こえた。


 赤くなりきらない葉。

 茶色に沈み始めた草。

 畑はもう、収穫の匂いしかしない。


 ——霜は、まだ降りていない。


 冬ではない。

 終わりではない。


 その事実が、胸の奥で小さく引っかかった。


 終わりは、まだ先にある。

 だからこそ、今が続いてしまう。


 村へ向かう道を、いつもと同じ速度で歩く。

 息は白くならない。

 それでも、吸うたびに冷たい。


 同じ道。

 同じ距離。

 同じ時間。


 違うのは、

 身体がそれを「当然」として受け入れ始めていることだけだった。


 ♢


 店の裏口をノックする。


「どうぞ」


 返事はすぐだった。

 けれど、前よりも少しだけ、間がある。


 扉を開けると、薬の匂いが濃かった。

 煮詰めた草の苦さ。

 乾燥させた根の渋さ。

 空気に、重さがある。


 部屋の配置は変わらない。

 窓の位置。

 寝台の向き。

 椅子と机。


 でも、視線が自然と、そこに向かう。


 寝台の中央にあるはずの身体が、

 少しだけ、奥へ沈んでいる。


 布のしわが深い。

 身体の輪郭が、前よりもはっきりしている。


「おはよう」


 声をかける。


 少し遅れて、まぶたが動く。


「……おはよう、エル」


 声は、穏やかだった。

 掠れてはいない。

 笑う余裕も、まだある。


 それが逆に、目に刺さる。


「寒くない?」


「うん、大丈夫」


 即答ではない。

 ほんの一瞬、考える間があった。


 近づいて、手を取る。

 指先は、前より冷たい。


 握り返す力はある。

 でも、力を込めるまでに時間がかかる。


 身体を起こすのを手伝う。

 背中に腕を回す。


 以前より、支える位置が少しだけ変わっている。


 ——軽い。


 その言葉が、頭をよぎる。

 でも、口には出さない。


 器を持ってくる。

 スープの量は、自然と少なめになる。


「……全部、飲めそう?」


「うん」


 返事はする。

 けれど、スプーンを口に運ぶ回数が減っている。


 一口。

 間。

 もう一口。


 飲み込むたびに、呼吸が整うまで待つ。


「……今日は、少し薄いかも」


「そう?」


「ううん、ちょうどいい」


 それが本当かどうかを、

 確かめる術はもうない。


 途中で、手が止まる。


「……あとで、いい?」


「うん」


 理由は聞かない。


 寝台に身体を戻すと、

 彼女は目を閉じた。


 眠ったわけじゃない。

 ただ、目を閉じているだけ。


 呼吸は、安定している。

 苦しそうではない。


 ——それでも。


 起きている時間が、短くなっている。


 笑う。

 気遣う。

 声も、表情も、まだ“リィナ”だ。


 けれど、

 言葉と言葉の間に確実に“余白”が増えている。

 その余白を誰も埋めない。


 埋めてはいけないと、もう分かっているから。


 彼女は、弱音を吐かない。

「つらい」とも言わない。

「怖い」とも。


 だからこそ、読めてしまう。


 ——一段階、落ちた。


 そう判断するのに、

 感情は必要なかった。

 ただ、事実がそこにあるだけだった。


 秋は、深くなっている。

 終わりは、まだ先にある。

 それが、今日も、彼女をここに留めている。


 そして、

 僕を、ここへ通わせている。


 ♢


 窓は、いつもと同じ位置にあった。

 昼過ぎの光が、薄くカーテンを透かしている。

 強くはない。

 暖かさも、ほとんどない。

 それでも、リィナはよく、そこを見ていた。


「……窓、少し開けてもいい?」


 声は、いつも通りだった。


「うん」


 エルは立ち上がり、窓の方へ向かう。

 鍵を外し、ほんの少しだけ開ける。

 冷たい空気が、細く入り込む。


「……ありがとう」


 リィナが言った。

 それから、少しだけ間があった。


「……あのね」


 僕は振り向く。


 リィナは、寝台の縁に手をかけていた。

 いつもなら、そのまま身体をずらし、

 窓際が見える位置まで移動する。


 今日は、動かなかった。


 いや——

 正確には、動こうとして、止まった。


「……前みたいに、窓のところまで……」


 言葉が、途中で切れる。

 足元を見る。

 視線が、少しだけ下がる。


「……今は、いいや」


 自分で、結論を出すように。

 僕は、何も言わずに近づいた。

 寝台の横に膝をつく。


「動かすよ」


 確認でも、提案でもない。

 身体を支え、慎重に位置をずらす。

 以前より、角度に気を使う。

 手を入れる場所も、増えている。

 窓が、視界に入る位置まで。


「……見える?」


「うん」


 リィナは、少しだけ笑った。


「……やっぱり、きれいだね」


 葉の色が、と言ったわけじゃない。

 空の高さが、とも言わない。

 ただ、そう言った。


 僕は、頷いた。


 ——彼女は、もう一人では、そこまで行けない。


 その事実は、

 誰の口からも宣言されなかった。


 でも、一度成立してしまった。


 ♢


 それから、僕の動きは増えた。


 声をかける前に、手を出す。

 聞かれる前に、位置を直す。

 頼まれる前に、器を持ち替える。


「……ありがとう」


 リィナは、変わらずそう言う。

 エルは、頷くだけだ。


「大丈夫?」とは聞かない。

「無理しなくていい」とも言わない。


 未来の話を、しない。

「そのうち」とか、「また」とか。

 そういう言葉を、選択肢から外す。


 代わりに、動く。

 椅子を引く。

 布を直す。

 水の量を調整する。

 スープを冷ます時間を、少し長く取る。

 飲み終わるまで、待つ。


 待つ時間が、伸びている。


 リィナが眠っている間、

 エルは何度も、呼吸を確かめる。


 数えるわけでもない。

 ただ、間隔を覚える。

 規則性を、身体に刻む。


「……エル」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。


「……ごめんね、手間かけて」


 声は、軽い。

 謝罪というより、癖みたいに。


「ううん」


 それ以上は、言わない。


 励まさない。

 約束しない。


「大丈夫」と言えば、

 何が大丈夫なのかを、決めなければならない。


 だから、何も言わない。


 沈黙の代わりに、

 僕は、手を動かす。


 その優しさは、もう“選択”ではなかった。

 習慣を越えて、意志に変わり始めていた。


 ♢


 ある日、髪を整えているときだった。


 櫛を入れる動作は、丁寧になっている。

 引っかからないように。

 頭が揺れないように。


 以前より、時間がかかる。


「……ね」


 リィナが言った。


「なに?」


「……前より、手慣れたね」


 声は、軽かった。

 冗談とも、指摘ともつかない調子。


 僕の手が、一瞬止まる。


 ほんの一拍。


「……そう?」


 問い返す声は、平坦だった。


「うん」


 リィナは、目を閉じたまま笑う。


「なんか……安心する」


 エルは、櫛を動かす。

 話題を変える。


「今日は、少し風が強い」


「……そうだね」


 それで、終わりだった。


 否定もしない。

 肯定もしない。


 ただ、その事実だけが部屋に残る。


 ——手慣れてしまった。


 それが何を意味するのかを、

 誰も言葉にしないまま。

 秋は、さらに深くなっていった。


 ♢


 屋敷に戻ると、空気が違った。

 村の店の奥は、薬草と湯気と、まだ生きている体温の匂いがする。

 あそこには「今」がある。

 痛みも、笑いも、沈黙も、すべてが現在形で置かれている。


 けれど、アルヴェイン家の廊下には、匂いがない。

 磨かれた床と、乾いた布と、冷えた石。

 季節が変わったことすら、音の響き方でしか分からない。


 靴音が、やけに長く残った。


 自室の前を通り過ぎ、僕は階段を下りる。

 目的はなく、ただ身体がそちらへ向かった。


 食堂の灯りはもう落ちていて、使用人たちの気配も薄い。


 その代わり——

 廊下の奥から、微かに声がした。


 応接間。

 医師を通す部屋。

 話し合いが行われる部屋。


 閉じられた扉の前で、足が止まった。

 盗み聞きをするつもりはなかった。

 ただ、そこに音があったから、耳が拾った。


「……薬の量を、今日から変えます」


 メイリスの声だった。

 淡々としている。

 いつも通りの侍女の声。

 感情を切り離した声。


「少し増やします。夜は……ええ、眠りが浅いので」


 返事をしたのは、男の声。

 ヘルマンだ。


「増やすなら、その分——呼吸が落ちる可能性がある。量は慎重に。刻むように」


「承知しています」


 メイリスは、迷いなく言った。


 ——薬。量。呼吸。


 言葉が、硬い石みたいに胸の奥に落ちる。


 それはもう、“治す”話ではなかった。

 “整える”話だ。

 “終わりまで持たせる”話。


 扉の向こうでは、当たり前みたいに、終わりの準備が進んでいた。


 ♢


「奥様にも、説明を」


 ヘルマンが言う。


「ええ。聞いています」


 ミレイユの声。


 それは、母の声というより——

 領地を預かる者の声だった。


「痛みは抑えられる。でも……時間は、買えません。」


 ヘルマンの言葉は簡潔だった。

 医師の言葉の形をして、刃の形をしていた。


「……本人は?」


 ミレイユが問う。


「まだ“言っていません”」


 ヘルマンが答える。

 その“言っていない”が、何を指すかは、もう説明されなかった。


 言わないまま進む。

 言わないまま整える。

 言わないまま終わりへ運ぶ。


「エルディオ様は——」


 メイリスが口にした瞬間、エルの背筋が跳ねた。


「気づいております。……気づいていて、気づかないふりをしている」


 ミレイリュの声が、少しだけ低くなる。


「優しい子だから」


 その一言が、優しさではなく、判決みたいに聞こえた。


「止めるべきでしょうか」


 ヘルマンが、確認するように問う。


 一拍。


「……止められません」


 ミレイユが答えた。


 言い訳もしない。

 嘆きもしない。

 ただ事実として、そう言った。


「止めれば、あの子は別の形で壊れる。

 あの子に残っている“日常”は、もうあそこしかない」


 それは母の判断で、

 同時に、世界の判断だった。


 ——世界は、終わりを準備している。

 ——本人たちの言葉を待たずに。


 ♢


「旦那様には?」


 ヘルマンが尋ねた。


「……伝えてあります」


 報告した、という言い方だった。


「反応は?」


 また一拍。

 メイリスの声が、答えた。


「……ありません」


 その“ありません”は、恐ろしいほど静かだった。


 怒鳴らない。

 否定しない。

 許可もしない。


 ただ、反応がない。


 ——それが一番重い。


「——奥様」


 ヘルマンの声が、僅かに揺れた。


「このままでは、エルディオ様は……」


「分かっています」


 ミレイユは遮らない。

 聞き切った上で、淡く言った。


「壊れているのは、最初から息子の方です」


 それを言えるのが、母であることが、残酷だった。


「だから——」


 ミレイユの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「壊れ方を、こちらで選べるうちに選ぶ」


 扉の前で、エルは呼吸を忘れた。


 壊れ方。

 選ぶ。

 こちらで。


 それは、救いではなく、管理だった。


 ♢


「……エルディオ様には、何も言わないのですか」


 ヘルマンの問いに、部屋の中が沈黙した。


 そして——

 最後に聞こえたのは、ミレイユの吐息だった。


「言えば、エルは“我慢”を覚えてしまう」


 その言葉は、優しいふりをしていた。

 でも本当は、最も残酷な回避だった。


「我慢を覚えたら、エルは自分で終わらせる。

 自分を守るためじゃない。……あの子を守るために」


 そこまで言って、声が止まる。


 ミレイユは、感情を表に出さない。

 出してはいけない立場の人間だから。

 でも、その沈黙が、泣いているみたいだった。


 ♢


 僕は、扉から離れた。


 歩き出した途端、足が少しだけもつれた。

 音を立てないように、床に体重を落とさないように。

 いつの間にか、息の仕方まで静かになっている。


 廊下の角を曲がると、そこにアインがいた。


 廊下の窓辺。

 月明かりの差す位置。

 背の高い影が、壁に落ちている。


 アインは、こちらを見なかった。

 見てしまえば、何かが起こるからだ。


「……父上」


 呼んだ声は、小さかった。


 返事はない。


 アインは、ゆっくりと身を翻した。

 マントの裾が、わずかに揺れる。

 足音は重い。

 だけど、乱れていない。


 ——背を向ける、という行為が、答えだった。


 怒りでもない。

 許しでもない。

 ただ、“終わりの準備に加わった者”の背中。


 世界は、静かに整っていく。

 誰も泣かず、誰も叫ばず、誰も止めないまま。


 僕は、その背中を見送った。

 追いかけなかった。

 呼び止めなかった。


 代わりに、両手の指を一度だけ握りしめた。


 痛みがあるかを確かめるみたいに。

 まだ自分が、ここにいるかを確かめるみたいに。


 そして、何も言わずに階段を上がった。

 部屋に戻るためじゃない。

 眠るためでもない。


 ——明日も、行くために。


 世界が終わりを準備しているなら、

 自分は“今日”を準備するしかない。


 それだけが、確かな現実だった。


 ♢


 部屋に戻っても、眠ることはしなかった。


 灯りを落とし、椅子に腰掛け、

 ただ、時間が過ぎるのを待つ。


 何かを考えようとしても、

 考えるべきことは、もう残っていなかった。


 世界は、準備を始めている。

 静かに、着実に。


 それを、今日、はっきりと見てしまった。


 薬の量が調整されること。

 言葉を選んで、真実が伏せられていること。

 誰も止めず、誰も肯定しないまま、

 終わりへ向かう道だけが整えられていくこと。


 ——それでも。


 明日の朝になれば、

 僕は靴を履き、

 マントを取り、

 同じ道を歩くだろう。


 止まる理由は、もう存在しない。


 続けることが、

 いつの間にか「選択」になっていることにも、

 気づいてしまった。


 誰かに命じられたわけじゃない。

 強いられているわけでもない。


 それでも、

 行かないという選択肢だけが、

 現実から消えている。


 今日も、行った。

 明日も、行く。


 それが正しいかどうかは、

 もう重要じゃなかった。


 正しさを考える余地は、

 この秋には、残されていない。


 秋は、深まっていく。


 何も壊れないまま。

 何も終わらないまま。


 ただ、確実に、

 終わりに向かって、続いていく。


 ——そして僕は、

 それを選び続けている。


 評価も、結論も、後悔もなく。

 ただ、その事実だけを抱えたまま。


 秋は、戻らない。

 でも、まだ、壊れてはいない。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


この秋編では、

「何かが起きる」よりも

「何も起きないまま、確実に進んでいくこと」を描きました。


続けることは、時に優しさで、

同時に残酷な選択でもあります。

それでも人は、ある日を、また次の日へ運んでしまう。


エルがしていることは、

正しいとも、間違っているとも、

ここでは断言しません。


ただ、

それでも行ってしまう、

それしか選べなくなってしまう——

そんな瞬間が、誰の人生にもあるのではないかと思っています。


秋は、戻りません。

けれど、まだ終わってもいません。


この先で何が起きるのか、

それを見届けてもらえたら嬉しいです。


感想・評価・レビュー、とても励みになります。

よろしければ、あなたの感じたことを残してもらえたら幸いです。

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