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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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23/32

23.秋は戻らない-2

 朝の空気は、はっきりと冷たくなっていた。


 目を覚ました瞬間、喉の奥に乾いた感触が残る。

 夏の名残りは、もうどこにもない。

 窓を開けると、ひやりとした風が頬を撫で、すぐに離れていった。


 寒い、と考える前に、身体が動いた。


 靴を履く。

 マントを取る。

 戸を閉める。


 どれも、迷いがない。


 外へ出ると、足音がやけに響いた。

 土が乾ききっていて、踏みしめるたびに硬い音が返ってくる。

 収穫を終えた畑からは、青さを失った草と、掘り返された土の匂いが漂っていた。


 風は吹いているのに、抜けていかない。

 空気が、低いところに溜まっている。


 ——秋だ。


 そう認識したのは、ずっと後だった。


 村へ向かう道を歩きながら、

 視界の端で、色づいた木々が揺れているのが見える。

 赤、橙、くすんだ黄色。


 去年なら、きっと立ち止まっていただろう。

 季節の変わり目を、何かの節目だと錯覚して。


 でも、今日は通り過ぎた。


 景色に名前をつけない。

 綺麗だとも、寂しいとも思わない。

 ただ、足を前に出す。


 同じ道。

 同じ距離。

 同じ時間。


 ——リィナは、もう畑に来られなくなった。

 その事実は、朝の空気と同じくらい、当たり前になっていた。


 ♢


 店の裏口をノックすると、すぐに返事があった。


「どうぞ」


 聞き慣れた声。

 前より少しだけ、細い。


 中へ入ると、薬の匂いが鼻についた。

 乾燥させた草と、煮詰めた根の匂い。

 ほんのわずかに混じる、鉄の気配。


 部屋は、前回とほとんど変わっていない。

 窓の位置。

 寝台の向き。

 椅子と小さな机。


 ただ、一つだけ違う。


 リィナの身体が、寝台の中央から、少しだけ沈んでいる。


 痩せた、と思った。

 声には出さなかった。


「おはよう」


 そう言うと、彼女は目を向ける。


「おはよう、エル」


 笑った。

 ちゃんと、いつも通りに。


 その笑顔が、

 どれだけ意識して作られているのかを、

 もう、考えなくなっていた。


「寒くなったね」


「うん。朝は特に」


 それだけで、会話は成立する。


 近づいて、手を取る。

 指先が冷たい。


 恋人の触れ方ではない。

 確かめるための触れ方。

 介助のための距離。


 身体を起こすのを手伝う。

 背中に腕を回し、重心を支える。

 以前より、力がいらない。


 ——軽い。


 その事実を、頭の奥に押し込める。


「今日は、スープ」


「ありがとう」


 器を持たせる。

 角度を調整する。

 唇に触れる前に、一瞬だけ待つ。


 飲み込むのを、待つ。


「……薄い?」


「ちょうどいい」


 嘘ではない。

 でも、本当でもない。


 それでいい。


 ♢


 ある朝、リィナは自分で起き上がろうとして、失敗した。


 寝台の縁に手をかけ、肘に力を入れた瞬間、

 身体がわずかに浮き、すぐに戻る。

 音はしなかった。

 ただ、布が擦れる小さな気配だけ。


「……ごめん」


 先に謝ったのは、彼女だった。


「呼ぼうと思ったんだけど……」


 エルは何も言わず、近づいた。

 いつものように、背中に腕を回す。

 支えた瞬間、

 彼女の身体が、最初から預けられる形で崩れてきた。

 抵抗がない。


 ——最初から、頼る前提の重さ。


「大丈夫」


 それだけ言って、起こす。

 リィナは少しだけ目を伏せた。


「……ありがとう」


 声が、ほんの少し遅れた。

 その遅れに、意味を見出さないようにする。

 そうしないと、次の動作に移れなくなる。


 ♢


 昼過ぎ、窓の外で葉が落ちた。

 音は小さく、

 それでも、はっきりと聞こえた。


「……今の、聞こえた?」


 リィナが言う。


「葉、落ちた」


「うん」


「もう、そんな時期なんだね」


 言葉は軽い。

 でも、視線は窓に向けたままだった。

 エルは、外を見なかった。


「今年は、早い」


 事実だけを返す。


「そうだね」


 それで会話は終わる。


 窓の外では、季節が進んでいる。

 この部屋だけが、取り残されているわけじゃない。


 ——置いていかれているのは、

 きっと、外の方だ。


 そう考えると、少しだけ楽になる。


 ♢


 リィナは、食事の量が減った。


「今日は、これくらいでいい」


 最初は、そう言った。


 次の日も。

 その次の日も。


 医師に相談すると、

「無理に増やす必要はない」と言われた。


 だから、量を減らした。

 それだけのこと。


 スープの表面に浮く油が、以前より少ない。

 匙を口に運ぶ回数も、減っている。

 でも、リィナは文句を言わない。


「美味しいよ」


 必ず、そう言う。

 エルは、それを疑わない。


 疑ったところで、

 できることは何も増えないからだ。


 ♢


 ある日、メイリスが同行した。


 特別な理由はない。

 荷物が少し多かっただけ。


 部屋に入ると、

 彼女は静かに一礼し、

 必要な物を所定の位置に並べる。

 手際がいい。


「何か、足りないものはありますか」


「大丈夫」


 それで会話は終わる。

 リィナは、メイリスに微笑んだ。


「いつも、ありがとう」


「とんでもございません」


 声は柔らかいが、

 距離はきっちり保たれている。


 彼女は、踏み込まない。

 踏み込めないのではなく、

 踏み込まないと決めている。


 それが、この状況に対する彼女なりの誠実さだった。


 ♢


 夜が、早くなった。


 帰り道、空はすぐに暗くなる。

 星は見えるが、夏のような明るさはない。

 冷えた空気が、肺に入る。

 息を吸うたび、少しずつ重くなる。


 ——それでも、歩く。


 足を止める理由が、ない。


 屋敷に戻ると、灯りが点いている。

 温かい。

 静かだ。


 アインは書類に目を落としたまま。

 ミレイリュは、視線を上げて、すぐ逸らす。


「……おかえり」


 それだけ。


「ただいま」


 それだけで、十分だった。


 ♢


 数日後、リィナが言った。


「ねえ、エル」


「なに」


「最近……」


 一瞬、言葉を探す間。


「……上手くなったね」


 何が、とは言わない。

 エルは、少しだけ考えてから答えた。


「慣れただけ」


「そっか」


 リィナは、安心したように笑った。


 その笑顔を見て、

 エルは理解する。


 ——彼女は、

 自分が“世話される存在”になったことを、

 受け入れようとしている。


 それを、自分の中で整理しようとしている。

 だから、「慣れた」と言われて安心したのだ。


 ♢


 秋は、確実に深まっていた。


 葉は落ち、

 風は冷え、

 日照時間は短くなる。


 でも、毎日は同じ形をしている。


 同じ時間。

 同じ動作。

 同じ会話。


 違うのは、ほんのわずかな“重さ”だけ。

 それが、一日ごとに少しずつ増えていく。


 誰も、それを口にしない。

 口にした瞬間、形が変わってしまうから。


 ♢


 夜、ベッドに横になりながら、

 エルは考える。


 ——今日も、行った。

 ——明日も、行く。


 それ以外の選択肢は、

 やはり、存在しない。


 秋は、戻らない。


 でも、

 奪わないまま、

 壊さないまま、

 ただ、続いていく。


 それが、どれほど残酷なことなのかを理解する必要はなかった。

 理解しなくても、身体はもう動いている。


 ——秋は、静かに、確実に、

 深まっていった。



 ♢


 屋敷では、誰も何も言わなかった。


 アインは、朝食の席で視線を上げることはない。

 ミレイユは、何か言いかけて、やめる。

 メイリスは、黙って外出の準備を整える。


 誰も、肯定しない。

 誰も、否定しない。


 ——それが、一番重い許可だった。


 止められない理由を、

 説明する必要がない。

 許されているのではない。

 ただ、止める言葉が存在しない。


 それだけ。


 ♢


 それからの日々は、驚くほど似通っていた。


 同じ時間に家を出る。

 同じ道を歩く。

 同じ扉を開ける。


 同じ部屋。

 同じ寝台。

 同じ位置。


 会話も、ほとんど変わらない。


「葉、落ち始めたね」


「今年は早いかも」


「店、忙しい?」


「まあまあ」


 未来の話はしない。

 来年の話も、冬の話も。


 過去にも、あまり触れない。


 今、ここで交わされる言葉だけが、

 かろうじて“現在”を繋ぎ止めている。


 リィナは、よく笑った。


 冗談を言う。

 気遣う。

 エルの疲れを先に心配する。


「無理、してない?」


「してない」


 それもまた、嘘ではない。

 身体は、確実に慣れていた。


 薬の量。

 体位の調整。

 寝返りのタイミング。

 すべて、正確になっていく。


 ——上手くなっていく。


 愛情ではない。

 献身でもない。

 習熟だ。

 それが、何よりも残酷だった。


 ♢


 ある日、リィナが窓の外を見ながら言った。


「……音、変わったね」


「なにが」


「外」


 耳を澄ます。

 風が、木々を揺らしている。

 乾いた音。

 葉と葉が擦れ合う、軽い衝突音。


「夏は、もっと……重かった」


「そうだな」


 それ以上、言葉は続かない。

 夏の音を思い出すこと自体が、

 もう必要なくなっている。


 ♢


 リィナは、眠る時間が増えた。

 昼間でも、目を閉じる。

 深くは眠らない。

 意識は、浅いところにある。

 エルは、その間も部屋にいる。


 椅子に座り、

 本を読むでもなく、何かを考えるでもなく。

 ただ、呼吸の音を聞いている。


 規則正しい。

 少し、浅い。


 それが乱れたら、

 手を伸ばす準備だけは、している。


 ——まだ、その瞬間は来ていない。


 ♢


 目を覚ましたリィナは、決まって言う。


「待たせた?」


「いいや」


 それで終わり。


 待つ、という感覚が、

 もう曖昧になっている。


 待っているのではなく、ここにいるだけだ。


 ♢


 一度だけ、リィナが謝った。

 本当に、何気ない声だった。


「……ごめんね」


 理由は、言わない。

 僕は、少しだけ考えてから答えた。


「何に」


 リィナは、すぐには答えなかった。


 しばらく、天井を見てから。


「……毎日」


 それだけ。


 エルは、それ以上聞かなかった。

 聞いてしまえば、

 何かを答えなければならなくなる。

 答えられる言葉は、

 ここには存在しない。


 ♢


 医師は、定期的に来る。

 診察は短い。

 話も短い。


「変わりは?」


「大きくは」


 それで終わる。


 “良くなったか”とは、誰も聞かない。

 “悪くなったか”とも、誰も言わない。


 その沈黙が、

 すべてを説明している。


 ♢


 帰り道、畑の前を通る。


 今は、何もない。

 刈り取られ、

 整えられ、

 土だけが残っている。


 足を止めない。

 立ち止まったところで、そこに戻れるものはない。


 ♢


 ある夕方、リィナが言った。


「エル」


「なに」


「……今日も、ありがとう」


 その言葉は、

 特別な意味を持たないように、

 丁寧に発音された。


「どういたしまして」


 それで、会話は終わる。


 感謝は、ここでは、

 別れの言葉ではない。


 ただの、確認だ。


 ——今日も、ちゃんと一日が終わった。


 ♢


 夜、屋敷の廊下を歩きながら、

 エルは思う。


 夏は、止まらなかった。


 だから秋は、何も奪わないまま、

 静かに、続いている。


 この時間が、

 慈悲なのか、

 残酷なのか。


 考える必要はない。


 考えたところで、

 明日の行き先は変わらない。


 ♢


 明日も、

 同じ靴を履き、

 同じ道を歩き、

 同じ扉を開ける。


 それが、

 “選択”であるうちは、

 まだ、秋だ。


 ——冬は、まだ来ていない。


 だが、確実に近づいてはいる。

 それを、誰よりも理解しながら。

 エルは、今日も眠りについた。


 ♢


 ある日、店の前で村人の声が聞こえた。


「今年は豊作だな」


「祭り、どうする?」


 笑い声が上がる。

 世界は、何事もなかったように進んでいる。


 僕は、その横を通り過ぎる。

 参加しない。

 否定もしない。


 ただ、リィナのいる部屋へ向かう。

 部屋に入ると、彼女は目を開けていた。


「今日は、少し寒いね」


「うん」


 それだけで、十分だった。


 ♢


 夜、帰り道。


 空は澄んでいて、星が見えた。

 秋は、静かだ。


 夏のように、奪わない。

 冬のように、凍らせない。


 ただ、続く。


 ——今日も、行った。

 ——明日も、行く。


 それ以外の選択肢は、最初から存在しない。


 判断しない。

 嘆かない。

 怒らない。


 考えることすら、もう必要ない。


 秋は、戻らない。


 でも、

 何も奪わないまま、確かに続いていく。


 僕が通う限り、リィナは生きている。


 それが、希望に見えるか、

 絶望に見えるかは、

 もう、誰にも分からなかった。


 ——秋は、静かに深まっていった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


秋は、何かが起きる季節ではなく、

「起きてしまったことが、生活になっていく季節」だと思って書いています。


特別な出来事はありません。

劇的な選択もありません。

ただ、同じ道を歩き、同じ時間を過ごし、

それでも確実に、失われていくものがある。


それを“残酷”と呼ぶのか、

それとも“生きている証”と呼ぶのかは、

読む方それぞれに委ねたいと思います。


もし少しでも何かを感じていただけたら、

感想・評価・レビューなど残していただけると励みになります。


秋は戻りません。

けれど、物語はもう少し続きます。

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