23.秋は戻らない-2
朝の空気は、はっきりと冷たくなっていた。
目を覚ました瞬間、喉の奥に乾いた感触が残る。
夏の名残りは、もうどこにもない。
窓を開けると、ひやりとした風が頬を撫で、すぐに離れていった。
寒い、と考える前に、身体が動いた。
靴を履く。
マントを取る。
戸を閉める。
どれも、迷いがない。
外へ出ると、足音がやけに響いた。
土が乾ききっていて、踏みしめるたびに硬い音が返ってくる。
収穫を終えた畑からは、青さを失った草と、掘り返された土の匂いが漂っていた。
風は吹いているのに、抜けていかない。
空気が、低いところに溜まっている。
——秋だ。
そう認識したのは、ずっと後だった。
村へ向かう道を歩きながら、
視界の端で、色づいた木々が揺れているのが見える。
赤、橙、くすんだ黄色。
去年なら、きっと立ち止まっていただろう。
季節の変わり目を、何かの節目だと錯覚して。
でも、今日は通り過ぎた。
景色に名前をつけない。
綺麗だとも、寂しいとも思わない。
ただ、足を前に出す。
同じ道。
同じ距離。
同じ時間。
——リィナは、もう畑に来られなくなった。
その事実は、朝の空気と同じくらい、当たり前になっていた。
♢
店の裏口をノックすると、すぐに返事があった。
「どうぞ」
聞き慣れた声。
前より少しだけ、細い。
中へ入ると、薬の匂いが鼻についた。
乾燥させた草と、煮詰めた根の匂い。
ほんのわずかに混じる、鉄の気配。
部屋は、前回とほとんど変わっていない。
窓の位置。
寝台の向き。
椅子と小さな机。
ただ、一つだけ違う。
リィナの身体が、寝台の中央から、少しだけ沈んでいる。
痩せた、と思った。
声には出さなかった。
「おはよう」
そう言うと、彼女は目を向ける。
「おはよう、エル」
笑った。
ちゃんと、いつも通りに。
その笑顔が、
どれだけ意識して作られているのかを、
もう、考えなくなっていた。
「寒くなったね」
「うん。朝は特に」
それだけで、会話は成立する。
近づいて、手を取る。
指先が冷たい。
恋人の触れ方ではない。
確かめるための触れ方。
介助のための距離。
身体を起こすのを手伝う。
背中に腕を回し、重心を支える。
以前より、力がいらない。
——軽い。
その事実を、頭の奥に押し込める。
「今日は、スープ」
「ありがとう」
器を持たせる。
角度を調整する。
唇に触れる前に、一瞬だけ待つ。
飲み込むのを、待つ。
「……薄い?」
「ちょうどいい」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
それでいい。
♢
ある朝、リィナは自分で起き上がろうとして、失敗した。
寝台の縁に手をかけ、肘に力を入れた瞬間、
身体がわずかに浮き、すぐに戻る。
音はしなかった。
ただ、布が擦れる小さな気配だけ。
「……ごめん」
先に謝ったのは、彼女だった。
「呼ぼうと思ったんだけど……」
エルは何も言わず、近づいた。
いつものように、背中に腕を回す。
支えた瞬間、
彼女の身体が、最初から預けられる形で崩れてきた。
抵抗がない。
——最初から、頼る前提の重さ。
「大丈夫」
それだけ言って、起こす。
リィナは少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
声が、ほんの少し遅れた。
その遅れに、意味を見出さないようにする。
そうしないと、次の動作に移れなくなる。
♢
昼過ぎ、窓の外で葉が落ちた。
音は小さく、
それでも、はっきりと聞こえた。
「……今の、聞こえた?」
リィナが言う。
「葉、落ちた」
「うん」
「もう、そんな時期なんだね」
言葉は軽い。
でも、視線は窓に向けたままだった。
エルは、外を見なかった。
「今年は、早い」
事実だけを返す。
「そうだね」
それで会話は終わる。
窓の外では、季節が進んでいる。
この部屋だけが、取り残されているわけじゃない。
——置いていかれているのは、
きっと、外の方だ。
そう考えると、少しだけ楽になる。
♢
リィナは、食事の量が減った。
「今日は、これくらいでいい」
最初は、そう言った。
次の日も。
その次の日も。
医師に相談すると、
「無理に増やす必要はない」と言われた。
だから、量を減らした。
それだけのこと。
スープの表面に浮く油が、以前より少ない。
匙を口に運ぶ回数も、減っている。
でも、リィナは文句を言わない。
「美味しいよ」
必ず、そう言う。
エルは、それを疑わない。
疑ったところで、
できることは何も増えないからだ。
♢
ある日、メイリスが同行した。
特別な理由はない。
荷物が少し多かっただけ。
部屋に入ると、
彼女は静かに一礼し、
必要な物を所定の位置に並べる。
手際がいい。
「何か、足りないものはありますか」
「大丈夫」
それで会話は終わる。
リィナは、メイリスに微笑んだ。
「いつも、ありがとう」
「とんでもございません」
声は柔らかいが、
距離はきっちり保たれている。
彼女は、踏み込まない。
踏み込めないのではなく、
踏み込まないと決めている。
それが、この状況に対する彼女なりの誠実さだった。
♢
夜が、早くなった。
帰り道、空はすぐに暗くなる。
星は見えるが、夏のような明るさはない。
冷えた空気が、肺に入る。
息を吸うたび、少しずつ重くなる。
——それでも、歩く。
足を止める理由が、ない。
屋敷に戻ると、灯りが点いている。
温かい。
静かだ。
アインは書類に目を落としたまま。
ミレイリュは、視線を上げて、すぐ逸らす。
「……おかえり」
それだけ。
「ただいま」
それだけで、十分だった。
♢
数日後、リィナが言った。
「ねえ、エル」
「なに」
「最近……」
一瞬、言葉を探す間。
「……上手くなったね」
何が、とは言わない。
エルは、少しだけ考えてから答えた。
「慣れただけ」
「そっか」
リィナは、安心したように笑った。
その笑顔を見て、
エルは理解する。
——彼女は、
自分が“世話される存在”になったことを、
受け入れようとしている。
それを、自分の中で整理しようとしている。
だから、「慣れた」と言われて安心したのだ。
♢
秋は、確実に深まっていた。
葉は落ち、
風は冷え、
日照時間は短くなる。
でも、毎日は同じ形をしている。
同じ時間。
同じ動作。
同じ会話。
違うのは、ほんのわずかな“重さ”だけ。
それが、一日ごとに少しずつ増えていく。
誰も、それを口にしない。
口にした瞬間、形が変わってしまうから。
♢
夜、ベッドに横になりながら、
エルは考える。
——今日も、行った。
——明日も、行く。
それ以外の選択肢は、
やはり、存在しない。
秋は、戻らない。
でも、
奪わないまま、
壊さないまま、
ただ、続いていく。
それが、どれほど残酷なことなのかを理解する必要はなかった。
理解しなくても、身体はもう動いている。
——秋は、静かに、確実に、
深まっていった。
♢
屋敷では、誰も何も言わなかった。
アインは、朝食の席で視線を上げることはない。
ミレイユは、何か言いかけて、やめる。
メイリスは、黙って外出の準備を整える。
誰も、肯定しない。
誰も、否定しない。
——それが、一番重い許可だった。
止められない理由を、
説明する必要がない。
許されているのではない。
ただ、止める言葉が存在しない。
それだけ。
♢
それからの日々は、驚くほど似通っていた。
同じ時間に家を出る。
同じ道を歩く。
同じ扉を開ける。
同じ部屋。
同じ寝台。
同じ位置。
会話も、ほとんど変わらない。
「葉、落ち始めたね」
「今年は早いかも」
「店、忙しい?」
「まあまあ」
未来の話はしない。
来年の話も、冬の話も。
過去にも、あまり触れない。
今、ここで交わされる言葉だけが、
かろうじて“現在”を繋ぎ止めている。
リィナは、よく笑った。
冗談を言う。
気遣う。
エルの疲れを先に心配する。
「無理、してない?」
「してない」
それもまた、嘘ではない。
身体は、確実に慣れていた。
薬の量。
体位の調整。
寝返りのタイミング。
すべて、正確になっていく。
——上手くなっていく。
愛情ではない。
献身でもない。
習熟だ。
それが、何よりも残酷だった。
♢
ある日、リィナが窓の外を見ながら言った。
「……音、変わったね」
「なにが」
「外」
耳を澄ます。
風が、木々を揺らしている。
乾いた音。
葉と葉が擦れ合う、軽い衝突音。
「夏は、もっと……重かった」
「そうだな」
それ以上、言葉は続かない。
夏の音を思い出すこと自体が、
もう必要なくなっている。
♢
リィナは、眠る時間が増えた。
昼間でも、目を閉じる。
深くは眠らない。
意識は、浅いところにある。
エルは、その間も部屋にいる。
椅子に座り、
本を読むでもなく、何かを考えるでもなく。
ただ、呼吸の音を聞いている。
規則正しい。
少し、浅い。
それが乱れたら、
手を伸ばす準備だけは、している。
——まだ、その瞬間は来ていない。
♢
目を覚ましたリィナは、決まって言う。
「待たせた?」
「いいや」
それで終わり。
待つ、という感覚が、
もう曖昧になっている。
待っているのではなく、ここにいるだけだ。
♢
一度だけ、リィナが謝った。
本当に、何気ない声だった。
「……ごめんね」
理由は、言わない。
僕は、少しだけ考えてから答えた。
「何に」
リィナは、すぐには答えなかった。
しばらく、天井を見てから。
「……毎日」
それだけ。
エルは、それ以上聞かなかった。
聞いてしまえば、
何かを答えなければならなくなる。
答えられる言葉は、
ここには存在しない。
♢
医師は、定期的に来る。
診察は短い。
話も短い。
「変わりは?」
「大きくは」
それで終わる。
“良くなったか”とは、誰も聞かない。
“悪くなったか”とも、誰も言わない。
その沈黙が、
すべてを説明している。
♢
帰り道、畑の前を通る。
今は、何もない。
刈り取られ、
整えられ、
土だけが残っている。
足を止めない。
立ち止まったところで、そこに戻れるものはない。
♢
ある夕方、リィナが言った。
「エル」
「なに」
「……今日も、ありがとう」
その言葉は、
特別な意味を持たないように、
丁寧に発音された。
「どういたしまして」
それで、会話は終わる。
感謝は、ここでは、
別れの言葉ではない。
ただの、確認だ。
——今日も、ちゃんと一日が終わった。
♢
夜、屋敷の廊下を歩きながら、
エルは思う。
夏は、止まらなかった。
だから秋は、何も奪わないまま、
静かに、続いている。
この時間が、
慈悲なのか、
残酷なのか。
考える必要はない。
考えたところで、
明日の行き先は変わらない。
♢
明日も、
同じ靴を履き、
同じ道を歩き、
同じ扉を開ける。
それが、
“選択”であるうちは、
まだ、秋だ。
——冬は、まだ来ていない。
だが、確実に近づいてはいる。
それを、誰よりも理解しながら。
エルは、今日も眠りについた。
♢
ある日、店の前で村人の声が聞こえた。
「今年は豊作だな」
「祭り、どうする?」
笑い声が上がる。
世界は、何事もなかったように進んでいる。
僕は、その横を通り過ぎる。
参加しない。
否定もしない。
ただ、リィナのいる部屋へ向かう。
部屋に入ると、彼女は目を開けていた。
「今日は、少し寒いね」
「うん」
それだけで、十分だった。
♢
夜、帰り道。
空は澄んでいて、星が見えた。
秋は、静かだ。
夏のように、奪わない。
冬のように、凍らせない。
ただ、続く。
——今日も、行った。
——明日も、行く。
それ以外の選択肢は、最初から存在しない。
判断しない。
嘆かない。
怒らない。
考えることすら、もう必要ない。
秋は、戻らない。
でも、
何も奪わないまま、確かに続いていく。
僕が通う限り、リィナは生きている。
それが、希望に見えるか、
絶望に見えるかは、
もう、誰にも分からなかった。
——秋は、静かに深まっていった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
秋は、何かが起きる季節ではなく、
「起きてしまったことが、生活になっていく季節」だと思って書いています。
特別な出来事はありません。
劇的な選択もありません。
ただ、同じ道を歩き、同じ時間を過ごし、
それでも確実に、失われていくものがある。
それを“残酷”と呼ぶのか、
それとも“生きている証”と呼ぶのかは、
読む方それぞれに委ねたいと思います。
もし少しでも何かを感じていただけたら、
感想・評価・レビューなど残していただけると励みになります。
秋は戻りません。
けれど、物語はもう少し続きます。




