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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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22/33

22.秋は戻らない-1

 朝の空気が、はっきりと冷たくなっていた。

 息を吸うと、喉の奥が少しだけ締まる。

 夏の名残はまだ残っているはずなのに、体はもう、それを信じていなかった。


 屋敷を出て、いつもの道を歩く。

 土は乾いているのに、湿り気のある匂いがする。

 収穫期特有の、甘さと重さが混じった匂いだった。


 靴音が、やけに響く。

 石を踏む音も、落ち葉を擦る音も、

 少し前より、はっきりと耳に残る。


 風は吹いているのに、抜けない。

 肌の上を流れず、どこかで止まっている。

 身体の周りに、季節だけが溜まっていくみたいだった。


 畑は、見えなかった。

 視線を向けても、そこに意識が行かない。

 歩く方向は同じなのに、行き先だけが、もう違っていた。


 リィナは、もう畑に来られなくなった。


 ♢


 村へ向かう道は、静かだった。

 朝の時間帯なのに、人の気配が薄い。

 店を開ける準備の音も、どこか遠い。


 あの店の扉を開けるとき、

 もう、勢いはいらなかった。


 鈴が鳴る。

 軽い音。

 それだけで、奥にいる人には伝わる。


「……来たよ」


 声を張る必要はない。

 毎日、同じ時間。

 同じ動線。


 店の奥。

 生活の匂いと、薬の匂いが混ざった空間。

 乾かした薬草と、煎じ薬の甘苦さ。

 もう、畑の匂いはしない。


 寝台は、窓の近くに置かれている。

 光を入れるためだ。

 外が見えるように。


 リィナは、そこにいた。


 起き上がってはいない。

 横になったまま、視線だけをこちらに向ける。


「……おはよう」


 声は、前よりも少し低い。

 喉を通る音が、はっきり聞こえる。


「おはよう」


 それだけ返す。


 近づいて、寝台の横に立つ。

 距離は、夏よりもずっと近い。

 でも、触れ方は違う。


 まず、手。

 手首に指を添えて、力を確かめる。

 握るわけじゃない。

 包むでもない。


 “支える位置”を探すだけ。


「……動かすよ」


 了承を待ってから、肩に手を回す。

 骨の位置が、前よりもはっきりしていた。


 引き寄せる。

 身体を起こす。

 背中に腕を差し込む。


 密着はしているのに、

 そこに温度はない。


 あの夏みたいに、

 同じ土にしゃがみ込んだ距離じゃない。


 今は、

 倒れないようにする距離だ。


 薬を渡す。

 湯気の立たない、冷ましたもの。

 匂いだけが、部屋に残る。


 器を支える手。

 彼女の指が、少しだけ震える。


 零さないように、

 器の底に指を添える。


 触れているのに、

 触れ合ってはいない。


 髪を整える。

 目にかからないように、耳にかける。

 撫でる、じゃない。

 邪魔なものを、どかすだけ。


 それでも、

 指先に残る感触は、

 夏よりもずっと、生々しかった。


 会話は、他愛ない。


「今日は、少し冷えるね」


「……うん。秋だね」


「店、忙しそうだった」


「収穫期だから」


 未来の話は、しない。

 明日の話もしない。


 ただ、

 今、ここで、

 倒れずにいられるかどうか。


 畑は、もう出てこない。

 話題にもならない。


 夏の距離は、

 もう、戻らない。


 それでも、

 毎日、こうして来る。


 触れるためじゃない。

 愛するためでもない。


 “生きている状態”を、

 保つために。


 それだけの距離が、

 ここにはあった。


 それが、

 秋の始まりだった。


 ♢


 屋敷に戻ると、

 空気は、いつもと変わらなかった。


 廊下の温度。

 敷かれた絨毯。

 窓から差し込む、秋の光。


 何ひとつ、騒がしくない。


 それが、余計に息苦しかった。


 アインは、書斎にいた。

 扉は開いている。

 中で書類を読んでいるのが、見える。


 足を止める。

 声をかけるべきか、迷う。


 ——でも、呼ばれない。


 視線だけが、こちらに向く。

 一瞬。

 本当に、一瞬だけ。


 それで、終わりだった。


 怒りもない。

 叱責もない。

 問いも、確認も、ない。


 何も言わないという選択。


 それは、

「分かっている」という態度で、

「止めない」という意思表示だった。


 ミレイユは、廊下の奥にいた。

 侍女と何かを話している。


 僕に気づいた瞬間、

 その会話が途切れる。


 視線が合う。

 でも、すぐに逸らされた。


 目を伏せるでもない。

 背を向けるでもない。


 ただ、“見ない”という選択。


 何かを言えば、きっと言葉は優しくなってしまう。

 それが、彼女には分かっているのだと思った。


 だから、何も言わない。


 許しも、否定も、

 どちらも口にしない。


 メイリスは、淡々としていた。


 翌日の準備を整え、

 着替えを用意し、外套を畳む。


「……明日も、村へ行かれますか」


 確認の声は、事務的だった。


「行く」


 そう答えると、彼女は頷くだけ。


「承知いたしました」


 それ以上、何も言わない。


 行く理由を、問わない。

 行く意味も、聞かない。


 止めることが、今の僕を壊すと知っているから。


 誰も、肯定しない。

 誰も、「行ってこい」とは言わない。


 でも——

 誰も、止めない。

 それが、この家の出した答えだった。

 正しくないことだと、全員が分かっている。

 救われないことも、分かっている。


 それでも、口を出さない。

 手を伸ばさない。

 それは、最も重い形の許可だった。


 ——やれ、とも言わない。

 ——やめろ、とも言わない。


 選んだのは、お前だ。

 その結果も、お前が背負え。


 そう、何も言わずに突きつけられている。


 家は、静かだった。


 誰かが泣くこともなく、

 怒鳴ることもなく、

 祈ることさえない。


 ただ、沈黙だけがあった。


 そして僕は、

 その沈黙を理由に、次の日も村へ向かう。


 止められなかったのではない。


 ——止められなかった“ことにされた”。


 それが、この家の沈黙であり、

 この秋の始まりだった。


 ♢


 それから、毎日だった。


 時間は、ほとんど同じだった。

 朝の冷たい空気。

 靴を履く音。

 扉が閉まる音。


 外に出ると、秋の匂いがする。

 乾いた土と、収穫前の作物。

 風はあるのに、どこか抜けない。


 同じ道を通る。

 同じ角を曲がる。

 同じ石畳を踏む。


 村は変わっていく。

 木の葉が色づき、

 一枚、また一枚と落ちていく。


 でも、僕の歩幅は変わらない。


 店の前に着く。

 扉を開ける。


「おはようございます」


 声をかけると、奥から返事がする。


「……おはよう」


 リィナの声だった。


 店の奥。

 いつもの部屋。

 窓は、少しだけ開いている。


 寝台は、変わらない位置にあった。

 毛布が一枚、増えている。


 薬の匂いがする。

 甘くも苦くもない、

 “慣れてしまった匂い”。


 僕は、上着を脱ぎ、

 袖をまくる。


 声をかける前に、手が動く。


 枕の位置を直す。

 背中に手を回して、ゆっくりと身体を起こす。


 触れるのは、

 肩。

 背中。

 髪。


 指先に、骨の感触が分かる。

 夏より、確実に軽くなっていた。


「ありがとう」


 リィナが言う。


 それは、何に対する礼なのか分からない言葉だった。


「今日は……寒いね」


「うん。朝、息が白かった」


「もう、そんな季節かぁ」


 それ以上、話は続かない。


 水を渡す。

 スープを口に運ぶ。


「……薄い?」


「ううん。ちょうどいい」


 本当かどうかは、分からない。

 でも、確かめる理由もない。


 窓の外を見る。


「葉、落ち始めたね」


「昨日より、増えた気がする」


「掃除、大変そう」


「……誰かがやるよ」


 誰か、という言葉に、

 意味は含まれていない。


 時間は、前にも後ろにも進まない。

 部屋の中だけ、切り取られたみたいだった。


 リィナの足は、動かない。

 それを、口に出すことはない。


 寝返りを打つとき、少し時間がかかる。

 体勢を変えるたび、息を整える。


 でも、彼女は笑う。


「エル、無理してない?」


 先に、そう聞く。


「大丈夫」


 そう答えると、

 少しだけ、安心した顔をする。


「なら、よかった」


 それだけで、会話は終わる。

 疲れているのは、どちらなのか。

 分からなくなる。


 帰る時間になると、彼女は必ず言う。


「気をつけて」


「うん」


「寒くなるから」


「分かってる」


 それは、生きている人の言葉だった。


 未来を語らなくても、

 過去を振り返らなくても。


 今日の寒さを知っていて、

 明日の冷え込みを心配する。


 ——まだ、ここにいる。


 そう、言葉にしなくても分かる。

 だから、余計に残酷だった。


 次の日も、その次の日も。


 同じ時間。

 同じ道。

 同じ部屋。


 同じ会話。


 変わるのは、

 窓の外だけ。


 葉が減り、

 光が弱くなり、

 風が冷たくなる。


 それでも、部屋の中は変わらない。


 リィナは、今日も笑う。


 気遣う。

 礼を言う。

 心配する。


 ——生きている。


 でも、歩いてはいない。

 立ってもいない。

 それを、誰も言わない。


 言わないことで、この時間は保たれている。

 現在だけが、延々と繰り返される。

 前にも進めず、後ろにも戻れないまま。


 秋は、確かに深まっていた。


 静かに、確実に。


 終わりに向かって。


 ♢


 今日も、行った。


 朝、靴を履いて、

 扉を閉めて、

 同じ道を歩いた。


 何かを考えたわけじゃない。

 考えないようにしたわけでもない。


 ただ、身体がそう動いた。


 村へ向かい、

 店の奥へ入り、同じ部屋に立った。


 手を洗い、袖をまくり、

 声をかける。


 それだけだ。


 特別なことは、何もしていない。

 決断も、覚悟も、口にしていない。


 今日も、行った。

 それだけが事実だった。


 そして、明日も行く。


 理由は、ない。


 理由が必要な行動じゃない。

 選択肢を比べた結果でもない。


 行かない、という考えは、

 最初から存在しなかった。


 だから、迷いもためらいもない。


 朝になれば、歩く。

 時間になれば、扉を開ける。


 それ以外のことは、

 考えなくていい。


 考えなくていいように、

 世界が、そうなっている。


 今日も行った。

 明日も行く。


 それで十分だった。


 それ以上の意味を、

 持たせる必要はない。


 ♢


 夏は、止まらなかった。


 熱は引かず、

 時間は緩まず、

 何ひとつ、待ってくれなかった。


 だから秋は、急がない。


 何も奪わないまま、

 何も決めないまま、

 ただ、続いていく。


 葉が落ちても、

 風が冷えても、

 同じ時間は、同じ形で巡る。


 僕が通う限り、

 この道は、道であり続ける。


 僕が扉を開ける限り、

 あの部屋は、今日の部屋のままだ。


 僕が声をかける限り、

 返事は、そこにある。


 それが、

 希望なのか、

 それとも、


 ――ただの延命なのか。


 今は、決めなくていい。

 判断は、いらない。


 今日も、行った。

 明日も、行く。


 それだけが、確かなことだった。


 秋は、戻らない。

 でも、奪いもしない。


 続いていく。


 僕が通う限り、

 リィナは、生きている。


 その事実だけが、

 静かに、そこにあった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


夏は、止まらずに過ぎていきました。

そして秋は、何も決めないまま、静かに始まります。


誰かを救う物語でも、

奇跡が起きる物語でもありません。

ただ、「続いてしまう日々」を、書いています。


もしこの物語のどこかで、

立ち止まったり、息を詰めたり、

あるいは「それでも行くしかない」と感じたなら、

それはきっと、登場人物だけの感情ではありません。


ここまで付き合ってくださったことに、心から感謝します。

よければ、感想や評価、レビューなどで、

あなたが感じたことを残していただけたら嬉しいです。


秋は、戻りません。

けれど、物語は、まだ続いていきます。

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