22.秋は戻らない-1
朝の空気が、はっきりと冷たくなっていた。
息を吸うと、喉の奥が少しだけ締まる。
夏の名残はまだ残っているはずなのに、体はもう、それを信じていなかった。
屋敷を出て、いつもの道を歩く。
土は乾いているのに、湿り気のある匂いがする。
収穫期特有の、甘さと重さが混じった匂いだった。
靴音が、やけに響く。
石を踏む音も、落ち葉を擦る音も、
少し前より、はっきりと耳に残る。
風は吹いているのに、抜けない。
肌の上を流れず、どこかで止まっている。
身体の周りに、季節だけが溜まっていくみたいだった。
畑は、見えなかった。
視線を向けても、そこに意識が行かない。
歩く方向は同じなのに、行き先だけが、もう違っていた。
リィナは、もう畑に来られなくなった。
♢
村へ向かう道は、静かだった。
朝の時間帯なのに、人の気配が薄い。
店を開ける準備の音も、どこか遠い。
あの店の扉を開けるとき、
もう、勢いはいらなかった。
鈴が鳴る。
軽い音。
それだけで、奥にいる人には伝わる。
「……来たよ」
声を張る必要はない。
毎日、同じ時間。
同じ動線。
店の奥。
生活の匂いと、薬の匂いが混ざった空間。
乾かした薬草と、煎じ薬の甘苦さ。
もう、畑の匂いはしない。
寝台は、窓の近くに置かれている。
光を入れるためだ。
外が見えるように。
リィナは、そこにいた。
起き上がってはいない。
横になったまま、視線だけをこちらに向ける。
「……おはよう」
声は、前よりも少し低い。
喉を通る音が、はっきり聞こえる。
「おはよう」
それだけ返す。
近づいて、寝台の横に立つ。
距離は、夏よりもずっと近い。
でも、触れ方は違う。
まず、手。
手首に指を添えて、力を確かめる。
握るわけじゃない。
包むでもない。
“支える位置”を探すだけ。
「……動かすよ」
了承を待ってから、肩に手を回す。
骨の位置が、前よりもはっきりしていた。
引き寄せる。
身体を起こす。
背中に腕を差し込む。
密着はしているのに、
そこに温度はない。
あの夏みたいに、
同じ土にしゃがみ込んだ距離じゃない。
今は、
倒れないようにする距離だ。
薬を渡す。
湯気の立たない、冷ましたもの。
匂いだけが、部屋に残る。
器を支える手。
彼女の指が、少しだけ震える。
零さないように、
器の底に指を添える。
触れているのに、
触れ合ってはいない。
髪を整える。
目にかからないように、耳にかける。
撫でる、じゃない。
邪魔なものを、どかすだけ。
それでも、
指先に残る感触は、
夏よりもずっと、生々しかった。
会話は、他愛ない。
「今日は、少し冷えるね」
「……うん。秋だね」
「店、忙しそうだった」
「収穫期だから」
未来の話は、しない。
明日の話もしない。
ただ、
今、ここで、
倒れずにいられるかどうか。
畑は、もう出てこない。
話題にもならない。
夏の距離は、
もう、戻らない。
それでも、
毎日、こうして来る。
触れるためじゃない。
愛するためでもない。
“生きている状態”を、
保つために。
それだけの距離が、
ここにはあった。
それが、
秋の始まりだった。
♢
屋敷に戻ると、
空気は、いつもと変わらなかった。
廊下の温度。
敷かれた絨毯。
窓から差し込む、秋の光。
何ひとつ、騒がしくない。
それが、余計に息苦しかった。
アインは、書斎にいた。
扉は開いている。
中で書類を読んでいるのが、見える。
足を止める。
声をかけるべきか、迷う。
——でも、呼ばれない。
視線だけが、こちらに向く。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
それで、終わりだった。
怒りもない。
叱責もない。
問いも、確認も、ない。
何も言わないという選択。
それは、
「分かっている」という態度で、
「止めない」という意思表示だった。
ミレイユは、廊下の奥にいた。
侍女と何かを話している。
僕に気づいた瞬間、
その会話が途切れる。
視線が合う。
でも、すぐに逸らされた。
目を伏せるでもない。
背を向けるでもない。
ただ、“見ない”という選択。
何かを言えば、きっと言葉は優しくなってしまう。
それが、彼女には分かっているのだと思った。
だから、何も言わない。
許しも、否定も、
どちらも口にしない。
メイリスは、淡々としていた。
翌日の準備を整え、
着替えを用意し、外套を畳む。
「……明日も、村へ行かれますか」
確認の声は、事務的だった。
「行く」
そう答えると、彼女は頷くだけ。
「承知いたしました」
それ以上、何も言わない。
行く理由を、問わない。
行く意味も、聞かない。
止めることが、今の僕を壊すと知っているから。
誰も、肯定しない。
誰も、「行ってこい」とは言わない。
でも——
誰も、止めない。
それが、この家の出した答えだった。
正しくないことだと、全員が分かっている。
救われないことも、分かっている。
それでも、口を出さない。
手を伸ばさない。
それは、最も重い形の許可だった。
——やれ、とも言わない。
——やめろ、とも言わない。
選んだのは、お前だ。
その結果も、お前が背負え。
そう、何も言わずに突きつけられている。
家は、静かだった。
誰かが泣くこともなく、
怒鳴ることもなく、
祈ることさえない。
ただ、沈黙だけがあった。
そして僕は、
その沈黙を理由に、次の日も村へ向かう。
止められなかったのではない。
——止められなかった“ことにされた”。
それが、この家の沈黙であり、
この秋の始まりだった。
♢
それから、毎日だった。
時間は、ほとんど同じだった。
朝の冷たい空気。
靴を履く音。
扉が閉まる音。
外に出ると、秋の匂いがする。
乾いた土と、収穫前の作物。
風はあるのに、どこか抜けない。
同じ道を通る。
同じ角を曲がる。
同じ石畳を踏む。
村は変わっていく。
木の葉が色づき、
一枚、また一枚と落ちていく。
でも、僕の歩幅は変わらない。
店の前に着く。
扉を開ける。
「おはようございます」
声をかけると、奥から返事がする。
「……おはよう」
リィナの声だった。
店の奥。
いつもの部屋。
窓は、少しだけ開いている。
寝台は、変わらない位置にあった。
毛布が一枚、増えている。
薬の匂いがする。
甘くも苦くもない、
“慣れてしまった匂い”。
僕は、上着を脱ぎ、
袖をまくる。
声をかける前に、手が動く。
枕の位置を直す。
背中に手を回して、ゆっくりと身体を起こす。
触れるのは、
肩。
背中。
髪。
指先に、骨の感触が分かる。
夏より、確実に軽くなっていた。
「ありがとう」
リィナが言う。
それは、何に対する礼なのか分からない言葉だった。
「今日は……寒いね」
「うん。朝、息が白かった」
「もう、そんな季節かぁ」
それ以上、話は続かない。
水を渡す。
スープを口に運ぶ。
「……薄い?」
「ううん。ちょうどいい」
本当かどうかは、分からない。
でも、確かめる理由もない。
窓の外を見る。
「葉、落ち始めたね」
「昨日より、増えた気がする」
「掃除、大変そう」
「……誰かがやるよ」
誰か、という言葉に、
意味は含まれていない。
時間は、前にも後ろにも進まない。
部屋の中だけ、切り取られたみたいだった。
リィナの足は、動かない。
それを、口に出すことはない。
寝返りを打つとき、少し時間がかかる。
体勢を変えるたび、息を整える。
でも、彼女は笑う。
「エル、無理してない?」
先に、そう聞く。
「大丈夫」
そう答えると、
少しだけ、安心した顔をする。
「なら、よかった」
それだけで、会話は終わる。
疲れているのは、どちらなのか。
分からなくなる。
帰る時間になると、彼女は必ず言う。
「気をつけて」
「うん」
「寒くなるから」
「分かってる」
それは、生きている人の言葉だった。
未来を語らなくても、
過去を振り返らなくても。
今日の寒さを知っていて、
明日の冷え込みを心配する。
——まだ、ここにいる。
そう、言葉にしなくても分かる。
だから、余計に残酷だった。
次の日も、その次の日も。
同じ時間。
同じ道。
同じ部屋。
同じ会話。
変わるのは、
窓の外だけ。
葉が減り、
光が弱くなり、
風が冷たくなる。
それでも、部屋の中は変わらない。
リィナは、今日も笑う。
気遣う。
礼を言う。
心配する。
——生きている。
でも、歩いてはいない。
立ってもいない。
それを、誰も言わない。
言わないことで、この時間は保たれている。
現在だけが、延々と繰り返される。
前にも進めず、後ろにも戻れないまま。
秋は、確かに深まっていた。
静かに、確実に。
終わりに向かって。
♢
今日も、行った。
朝、靴を履いて、
扉を閉めて、
同じ道を歩いた。
何かを考えたわけじゃない。
考えないようにしたわけでもない。
ただ、身体がそう動いた。
村へ向かい、
店の奥へ入り、同じ部屋に立った。
手を洗い、袖をまくり、
声をかける。
それだけだ。
特別なことは、何もしていない。
決断も、覚悟も、口にしていない。
今日も、行った。
それだけが事実だった。
そして、明日も行く。
理由は、ない。
理由が必要な行動じゃない。
選択肢を比べた結果でもない。
行かない、という考えは、
最初から存在しなかった。
だから、迷いもためらいもない。
朝になれば、歩く。
時間になれば、扉を開ける。
それ以外のことは、
考えなくていい。
考えなくていいように、
世界が、そうなっている。
今日も行った。
明日も行く。
それで十分だった。
それ以上の意味を、
持たせる必要はない。
♢
夏は、止まらなかった。
熱は引かず、
時間は緩まず、
何ひとつ、待ってくれなかった。
だから秋は、急がない。
何も奪わないまま、
何も決めないまま、
ただ、続いていく。
葉が落ちても、
風が冷えても、
同じ時間は、同じ形で巡る。
僕が通う限り、
この道は、道であり続ける。
僕が扉を開ける限り、
あの部屋は、今日の部屋のままだ。
僕が声をかける限り、
返事は、そこにある。
それが、
希望なのか、
それとも、
――ただの延命なのか。
今は、決めなくていい。
判断は、いらない。
今日も、行った。
明日も、行く。
それだけが、確かなことだった。
秋は、戻らない。
でも、奪いもしない。
続いていく。
僕が通う限り、
リィナは、生きている。
その事実だけが、
静かに、そこにあった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
夏は、止まらずに過ぎていきました。
そして秋は、何も決めないまま、静かに始まります。
誰かを救う物語でも、
奇跡が起きる物語でもありません。
ただ、「続いてしまう日々」を、書いています。
もしこの物語のどこかで、
立ち止まったり、息を詰めたり、
あるいは「それでも行くしかない」と感じたなら、
それはきっと、登場人物だけの感情ではありません。
ここまで付き合ってくださったことに、心から感謝します。
よければ、感想や評価、レビューなどで、
あなたが感じたことを残していただけたら嬉しいです。
秋は、戻りません。
けれど、物語は、まだ続いていきます。




