21.『夏は止まらない』
夏が、終わろうとしていた。
刺すようだった日差しは角を落とし、
蒸し暑さも、いつの間にか息をひそめている。
乾いた風が、畑の上を通り抜けるたび、
土と草の匂いが、少しだけ軽くなった。
それでも、夏はまだここにあった。
逃げ場のない空気も、肌に残る熱も、
何ひとつ終わってはいない。
——終わらせてはいけない気がしていた。
今日も、僕はリィナと時間を共に過ごしていた。
畑の端で顔を合わせ、
短い挨拶を交わして、
黙って作業に入る。
水をやり、
草を抜き、
土をならす。
言葉は少ない。
それでも、沈黙が苦しくなることはなかった。
——いつも通り。
そう思おうとしていた。
思い込もうとしていた。
彼女が息を吸うたび、ほんの少し遅れることに、
目を向けないようにしながら。
さっきまで笑っていた。
けれど、笑い終わるたびに、彼女はほんの一拍だけ呼吸を探していた。
その“一拍”を、僕は見なかったことにしてきた。
壊れたのは、音もなく、
前触れもなく、
本当に突然だった。
「……っ」
小さく息を詰める音がした。
視線を向けた瞬間、リィナの身体がゆっくりと傾いた。
倒れる、というより——
糸が切れたみたいに、力が抜けた。
僕の手が、何の意味も持たないまま。
「リィナ!!」
声が、思ったよりも大きく出た。
腕を伸ばした。
間に合ったはずだった。
——でも、踏ん張れなかった。
今までのように、
「少しふらついただけ」ではなかった。
地面に膝をつき、身体は崩れ、
彼女はそのまま動かなくなった。
「……あれ」
掠れた声で、リィナが笑う。
「おかしいな……動けないや」
いつも、困ったときに見せる笑い方のままで。
冗談みたいな言い方だった。
いつもと同じ、軽い声。
でも、息が荒い。
唇の色が、はっきりと違う。
——気づいていた。
ずっと前から。
見ないふりをしていただけだ。
立ち上がるのが遅くなったことも、
息を整える回数が増えたことも、
畑にいられる時間が短くなったことも。
全部、知っていた。
「……リィナ」
名を呼ぶと、彼女は少しだけ首を振った。
「大丈夫、だよ……」
大丈夫な声じゃなかった。
そのときだった。
「エル様!!」
背後から、必死な声が飛んでくる。
振り向くと、メイリスが畑を駆けてきていた。
——やっぱり。
いつからか、畑に一人でいるつもりはなかった。
ずっと前から分かっていた。
分かっていて、気づかないふりをしてきた。
でも今は、そんなことどうでもいい。
「メイリス……」
一瞬、言葉に詰まる。
でも、迷っている時間はなかった。
「今はいい。彼女を……リィナを家まで運ぶ!」
声が、自然と強くなる。
「メイリスは医者の手配を!」
この際、正体がばれても構わなかった。
貴族だと知られても、噂が広がっても。
今は——
彼女が最優先だ。
「承知いたしました」
メイリスは一瞬も迷わず、そう答えた。
そのまま踵を返し、村の方へ全力で駆けていく。
僕はしゃがみ込み、リィナの身体を背負った。
思ったよりも軽い。
それが、胸に刺さる。
骨の角が、背中に当たった。
その感触だけが、僕の中で何度も反響した。
「リィナ、すぐ連れて帰るから」
耳元でそう言うと、彼女は小さく息を吐いた。
「……ごめんね、エル」
弱々しい声。
「迷惑、かけて」
「今は喋らないで」
それだけ言って、身体強化の魔法を展開する。
視界が研ぎ澄まされ、足が地面を蹴る。
——走る。
畑を抜け、
道に出て、
村へ。
全速力。
風が頬を打ち、心臓が暴れる。
村の入り口に差しかかった瞬間、空気が変わった。
ざわり、と。
人の視線が、一斉に集まる。
「……あれ」
「エルディオ様……?」
「どうして、あの娘を……」
「忌み子を背負って……?」
「触れたら移るって……」
「やめとけよ、縁起でもない」
それは怒声じゃなく、噂の延長の声だった。
誰も自分が残酷だとは思っていない種類の、軽い声。
囁き声。
戸惑い。
好奇と、警戒。
でも、そんなものはどうでもよかった。
「リィナ」
背中越しに声をかける。
「君の家はどこだ」
一瞬、返事がなかった。
「……この通り」
か細い指が、前を指す。
「まっすぐ行った先の……大きなお店」
息を整えながら、続ける。
「そこが、私の……」
「わかった」
それだけ答えて、僕は周囲の声を切り捨てた。
石畳を蹴り、人の間を抜け、一直線に走る。
背中でリィナの呼吸を感じながら。
——まだ、夏は終わっていない。
でも、もう「いつも通り」には戻れない。
それだけが、はっきりと分かっていた。
♢
店の扉を、僕はためらいなく押し開けた。
木製の扉が、乱暴な音を立てて跳ね上がる。
鈴が甲高く鳴り、しばらく止まらなかった。
「……っ」
中にいた数人の客が、同時にこちらを振り向く。
香草と乾物の匂い。
棚に並ぶ瓶と布袋。
いつもなら穏やかな商家の空気が、一瞬で凍りついた。
店番をしていた壮年の男性が、驚いたように目を見開く。
帳簿をめくっていた手が止まり、
整理棚の前にいた女性は、僕の背中にいる存在を認めた瞬間——
「……リィナ……?」
声が、震えた。
次の瞬間、彼女の手から抱えていた商品が床に落ちる。
がしゃり、と乾いた音。
瓶が転がり、布袋が崩れる。
それでも、誰もそれを拾おうとしなかった。
女性は駆け出してきた。
足音が、やけに大きく聞こえる。
「リィナ!!」
悲鳴に近い声だった。
背中越しに、リィナの身体が小さく揺れる。
意識はある。
でも、返事をする力はない。
「あなたが、リィナの母君か」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
感情を抑え込んだ声。
切羽詰まった状況だからこそ、余計な揺れを排した声音。
「早く、横になれる場所へ案内してくれ」
命令に近い言葉だった。
でも、遠慮を挟む余地はなかった。
母親は一瞬、息を呑んだ。
貴族の服装。
背中に娘を背負った姿。
魔力の残滓が、まだ僕の周囲に漂っている。
状況は、誰の目にも明らかだった。
「……こっち、です……!」
彼女は我に返り、奥へ向かって走り出す。
僕はそれに続き、
店の奥の扉をくぐった。
住居部分は、店よりもずっと簡素だった。
清潔に整えられた床。
陽の入る小さな部屋。
寝台が一つ。
「ここに!」
有無を言わさず、リィナを寝台へ降ろす。
背中から身体を離した瞬間、
彼女の軽さが、はっきりと指先に残った。
「……っ」
母親が、娘の手を取る。
冷たいことに気づいたのか、顔が強張る。
「どうして……朝は、ちゃんと……」
言葉が、続かない。
その後ろから、店番をしていた男性が入ってくる。
状況を一目見て、彼は短く息を吸った。
「……今日は店じまいだ」
誰に向けたでもない声。
「客は帰す。表は俺が閉める」
それだけ言って、踵を返す。
迷いのない動きだった。
この家では、
こういう事態が「初めてではない」のだと、その背中が語っていた。
母親は、震える手でリィナの頬に触れる。
「リィナ……大丈夫よ……」
自分に言い聞かせるような声だった。
その声は、大丈夫だと信じたい人間の声だった。
僕は一歩下がり、部屋全体を見渡す。
医者は来る。
メイリスが動いている。
それまでの時間を、どう凌ぐか。
胸の奥で、嫌な考えが蠢く。
——まだ、夏は終わっていない。
——でも、もう、取り繕うことはできない。
この場所で、この家で、
この人たちの前で。
リィナの「いつも通り」は、
確実に、限界を迎えつつあった。
♢
寝台の上で、リィナは浅い呼吸を繰り返していた。
胸が上下するたび、布がわずかに擦れる音がする。
それだけが、この部屋に残された時間の証みたいだった。
母親は彼女の手を握りしめ、
父親は部屋の隅に立ったまま、視線を落としている。
誰も、声を上げない。
泣き叫ぶこともしない。
それが、この家のやり方なのだと、僕は理解してしまった。
——慣れている。
この沈黙は、何度も「こういう夜」を越えてきた家の沈黙だった。
僕は、ゆっくりと息を吸った。
名乗らなければならない。
隠してきたものを、ここで終わらせなければならない。
「……僕は」
喉が、一瞬詰まる。
それでも、続けた。
「私は、エルディオ・アルヴェイン。
アルヴェイン辺境伯アインの息子、エルディオです」
言葉が部屋に落ちる。
重く、逃げ場のない音で。
母親の肩が、わずかに揺れた。
父親は、ゆっくりと顔を上げた。
驚きは、なかった。
それが、一番きつかった。
「……やはり、そうでしたか」
父親が、低い声で言った。
「立ち居振る舞いも、言葉遣いも。
村の若者とは、どこか違っていた」
母親は、僕を見た。
泣いているわけではない。
責める目でもない。
ただ——
すべてを、もう知っている人の目だった。
「存じております」
母親は、そう言った。
「あなたが、あの子のそばに、ずっと居てくださったことも。
畑に通い続けていたことも。
体調が悪い日には、無理をさせないようにしてくださっていたことも」
一つ一つが、
僕の胸を、正確に抉る。
「……村の人間は、見ていますから」
母親は、微かに笑った。
「見て、噂して、でも……
あなたと一緒にいるときの、あの子の顔だけは、
嘘じゃないって、皆、分かっていました」
耐えきれなくなって、
僕は、深く頭を下げた。
床に額が触れるほど、深く。
「……申し訳、ありません」
声が、震える。
「ご息女には……
大変、申し訳ないことをしました」
言葉を選ぶ余裕なんて、もうなかった。
「無理をしていることは、ずっと気づいていました。
病状が、少しずつ悪化していることも……」
喉が、焼ける。
「それでも、
それでも僕は……見て見ぬふりをした」
拳が、床に触れた。
「それが、彼女の……
リィナの望んだ“いつも通り”だったからです」
沈黙が、落ちる。
母親は、ゆっくりと目を閉じた。
父親は、歯を食いしばるように顎に力を入れた。
責められると思った。
怒鳴られると思った。
殴られても、仕方がないと思っていた。
でも——
「……あの子は」
母親が、静かに口を開いた。
「あの子は、いつも嬉しそうに、あなたの話ばかりしていましたよ」
その声は、刃物のように柔らかかった。
「今日は、畑でこんな草を見つけた、とか。
エルは、こういうところが優しい、とか。
何でもない作業が、今日は楽しかった、とか」
一つ一つ、
僕が守ったつもりでいた“日常”。
「夜になると、布団の中で、
明日は行けるかな、って……
何度も、何度も考えていたんです」
母親の指が、リィナの髪を撫でる。
「無理をしているって、
分かっていなかったわけじゃありません」
視線が、僕に戻る。
「でも、あの子は……
あなたの前では、弱いところを見せたがらなかった」
息が、止まりそうになる。
「あなたに、好きだと言われた夜」
母親は、少しだけ目を伏せた。
「……あの子、とても嬉しそうでした。
帰ってきてから、薬を飲む手が、少しだけ迷わなくなったんです。」
——やめてくれ。
「まるで、世界を全部もらったみたいな顔で」
——やめてくれ。
「でも同時に、
“これでいいんだ”って、自分に言い聞かせている顔でもあった」
優しさという名の、嘘。
「あなた様が、娘を好いてくださっていることも、
私たちは承知しております」
父親が、初めて口を開いた。
「それが、どれほど残酷な優しさかも」
拳が、震えた。
「……それでも」
父親は、はっきりと言った。
「あなたを、責めることはできません」
僕は、顔を上げた。
「この子が、“自分の選んだ時間”を、確かに過ごしていました。」
母親が、続ける。
「あなたと過ごす時間が、
あの子にとって、どれほど救いだったか……
親である私たちには、分かっていました」
その言葉が、
許しではなく、
救いでもなく、
ただの“事実”として突き刺さる。
「だからこそ……」
母親の声が、かすれた。
「だからこそ、こうなる日が来ることも…覚悟していました」
その瞬間、僕は理解した。
この人たちは逃げていなかった。
受け入れていたのだ。
“終わり”を。
リィナの呼吸が、少し乱れる。
母親が、慌てて彼女の名を呼ぶ。
——医師は、まだ来ない。
——メイリスも、まだだ。
この部屋には、
もう、嘘をつく余地がない。
夏は、終わろうとしている。
でも、この優しさだけは、
最後まで、残酷なままだった。
♢
短い沈黙のあと、扉の外で慌ただしい足音がした。
次の瞬間、勢いよく扉が開く。
「エル様!」
聞き慣れた声。
張り詰めた空気を裂くように、メイリスが駆け込んできた。
その後ろには、白髪混じりの男。
医師服の裾を乱し、息を切らしている。
「メイリス、よくやった。早くリィナを!」
言い切るように叫んだ僕の声は、自分でも驚くほど荒れていた。
「エルディオ様、私は……」
男が何かを言いかけた瞬間、僕はそれを遮った。
「医師のヘルマンだろう。知っている」
辺境伯領で名を知らぬ者はいない、
実直で、腕の確かな医師。
「そんな話は後でいい。今は彼女を……リィナを見てくれ」
命令ではない。
懇願でもない。
ただの、切迫した事実だった。
ヘルマンは一瞬、僕の顔を見た。
その目に浮かんだのは、驚きでも畏怖でもない。
——哀れみだ。
彼は何も言わず、寝台に近づいた。
リィナの瞳が、かすかに動く。
「……せんせ……」
掠れた声。
「……大丈夫だ」
ヘルマンは、あくまで穏やかに言った。
手首に指を当て、胸に耳を寄せ、
瞼をめくり、呼吸の音を聞く。
その一つ一つが、時間を削っていく。
やがて彼は、静かに立ち上がった。
「……」
誰も、言葉を催促しなかった。
その必要がないほど、
彼の表情がすべてを語っていたからだ。
「……奥へ」
ヘルマンが、低く言った。
「ご両親と……エルディオ様も」
逃げ場のない声だった。
♢
別室に移ると、
空気が一段、重くなった。
ヘルマンは、扉を閉めてから、
深く息を吐いた。
「……まず、病についてお話しします」
淡々とした口調。
感情を混ぜれば、耐えられなくなると分かっている声。
「リィナさんの病は、先天性のものです。
体内で、ある成分を正常に処理できない」
父親が、静かに頷く。
「それは……分かっています」
「ええ。問題は、その“進行”です」
ヘルマンの視線が、僕に向いた。
「最近、急激に悪化しています」
僕は、何も言えなかった。
「理由は、はっきりしています」
ヘルマンは、一拍置いた。
「……毒です」
母親の手が、震えた。
「正確には、
“毒性を持つ薬草”を、
彼女は長期間、摂取し続けていました
その薬草は、痛みを鈍らせ、息を“通るように感じさせる」
ヘルマンは言い直した。
「治るわけではない。良くなったように錯覚するだけです
その錯覚の代償として、肝と血が先に壊れる。
……苦しみが静かになるほど、終わりが近づく」
まるで優しさの顔をした毒だ。
彼女が欲しかったのは延命じゃない。
“今日のいつも通り”だった。
部屋が、凍りつく。
「彼女は、それを“薬”と呼んでいました」
「……そんな……」
母親の声が、消え入りそうになる。
ヘルマンは続ける。
「少量であれば、確かに効能はある。
体の負担を一時的に軽減し、
呼吸を楽にし、痛みを鈍らせる」
僕の喉が、鳴った。
「……畑の……」
言葉が、勝手にこぼれた。
「ええ」
ヘルマンは、否定しなかった。
「彼女が、畑で集めていた草の一部です」
——知っていた。
——知ったうえで、止めなかった。
「ただし」
ヘルマンの声が、わずかに低くなる。
「それは、長く使うものではない」
父親が、拳を握る。
「……身体が、耐えられない……ということですか」
「はい」
ヘルマンは、静かに頷いた。
「少しずつ、確実に、内側から壊していく」
沈黙。
そして、
決定的な一言。
「彼女は、それを理解した上で、飲んでいました」
母親が、声を失う。
「……覚悟して、ということですか……」
「はい」
ヘルマンは、はっきりと言った。
「少しでも長く、“いつも通り”を過ごすために」
胸が、裂ける。
「……エル」
微かな声。
振り向くと、いつの間にか、リィナが立っていた。
——いや、
立っていた、ように見えただけだ。
壁に寄りかかり、必死に身体を支えている。
「……起きるな!」
思わず叫んだ。
でも、彼女は笑った。
「……聞いてた」
苦しそうに、でも、はっきりと。
「……ごめんね」
その一言が、
何よりも残酷だった。
「……エル」
名を呼ぶ声が、優しい。
「私ね……知ってたんだ」
何を、とは言わない。
「長くは、いられないって」
誰も、止めなかった。
止められなかった。
「だから……」
彼女は、ゆっくりと息を吸う。
「だから、あの畑で……
エルと過ごす時間が、欲しかった」
母親が、泣き崩れる。
父親が、目を閉じる。
「……苦しかったよ」
彼女は、正直だった。
「身体は、ずっと」
それでも。
「でも……幸せだった」
その言葉が、
僕を完全に壊した。
「エルが、
何も聞かずに、
何も決めつけずに、
そこに居てくれたから」
彼女は、少しだけ笑った。
「……毒を飲んだのはね」
声が、震える。
「生きるためじゃない」
世界が、静止する。
「ちゃんと、生きたかったから」
後戻りできない。
もう、どこにも。
ヘルマンが、静かに言った。
「……残念ですが」
彼は、医師として、
言わなければならない。
「もう、引き返せません」
淡々と、残酷な真実。
「今できるのは、
苦しみを和らげることだけです」
それが、現実だった。
リィナは、それを最初から知っていた。
知った上で、笑って、畑に来ていた。
——それが、彼女の覚悟だった。
夏は、終わろうとしている。
誰の選択も、間違っていないまま。
ただ、
残酷な真実だけが、
すべてを覆っていた。
♢
リィナは、少しだけ息を整えてから、僕を見た。
その視線は、もう逃げ場を探していなかった。
「……エルのこともね」
かすれた声。
それでも、はっきりとした響き。
「最初から、分かってたよ」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「貴族の子だってこと」
小さく笑う。
「村にいたら、隠しきれるわけないもん。
服も、立ち居振る舞いも、言葉も。
それに……あの目」
僕は、何も言えなかった。
「でもね」
リィナは、ゆっくりと首を振った。
「それでも、嬉しかった」
目が、少し潤む。
「村で“忌み子”って呼ばれてた私を、
何も言わずに、
何も決めつけずに、
ただ一緒にいてくれた」
指先が、震えている。
「エルは、私を“可哀想な子”として見なかった」
涙が、一粒、頬を伝った。
「特別扱いもしなかった。
避けもしなかった。
怖がりもしなかった」
呼吸が、浅くなる。
「……いつも通り、をくれた」
それは、彼女にとって、
何よりも難しく、
何よりも得られなかったもの。
「暑いね、って言ってくれて
水、足りてる?って聞いてくれて
草、伸びるの早いね、って笑ってくれた」
唇が、わずかに歪む。
「それだけなのに……
それだけが、欲しかった」
涙が、止まらなくなった。
「好きだって……言ってくれたよね」
声が、震える。
「簡単に言える言葉じゃなかったのに……
それでも、そこまで背負ってくれたって分かった」
視線が、まっすぐに僕を射抜く。
「私のことを、“女の子”として見てくれた」
息を吸うたびに、胸が上下する。
「普通の女の子として接してくれて
普通に笑って
普通に一緒にいて」
嗚咽を噛み殺す。
「……愛してくれたのも、あなただけ」
その言葉は、刃のように優しかった。
「私はね」
涙を拭おうともしない。
「幸せだよ」
迷いのない声。
「死ぬために産まれてきて
何も生み出さず
お父さんとお母さんに迷惑ばかりかけて
ただ、死を待ってた私が」
母親が、顔を覆う。
「……生きた証を、もらった」
その言葉が、胸を貫く。
「エルが、くれた」
小さな手が、胸に当てられる。
「ここに、ちゃんと残るもの」
涙が、次々と落ちる。
「愛を教えてくれた」
一瞬、言葉に詰まりながらも、
彼女は最後まで言い切った。
「だからね……」
微笑む。
壊れそうな、でも確かな笑顔。
「私も、エルのこと……愛してるよ」
その瞬間、
世界が、音を失った。
誰も、何も言えなかった。
正しさも、未来も、希望も、
すべてが意味を失って。
ただ、確かにそこにあった“愛”だけが残っていた。
窓の外で、風が吹く。
夏の終わりの匂いが、部屋に流れ込む。
蒸し暑さは、もうない。
空気は、少し乾いて、少し冷たい。
季節は、確実に前へ進んでいる。
止まっているのは、この部屋だけだ。
リィナは、ゆっくりと目を閉じた。
穏やかな顔だった。
少なくとも、その瞬間、
恐れも、後悔も、
そこにはないように見えた。
――夏は、終わりを告げようとしていた。
何もかもが、遅すぎたわけじゃない。
何もかもが、救われたわけでもない。
それでも。
この夏は、
確かに“生きた”。
誰にも奪えない形で。
愛を知り、
愛を与え、
愛を受け取ったまま。
夏は、止まらない。
けれど――
この夏だけは、
確かに、ここに在った。
そしてそれは、
永遠に、消えない。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
リィナの言葉は、
未来を約束するための告白ではありません。
一緒に生きられる時間が限られていると分かっていて、
それでも伝えずにはいられなかった、
ただの正直な気持ちです。
愛は、誰かを生かす理由にも、
生き続ける支えにもなります。
けれど同時に、
重荷にも、罪悪感にもなり得るものだと思っています。
だからこの場面で、
彼女は「生きる理由」になろうとはしませんでした。
それでも、
確かに愛していたことだけは、
嘘なく残したかった。
夏は止まりません。
時間は流れ、季節は変わり、
彼らの選択もまた、
その流れの中に置き去りにされていきます。
この告白が、
救いだったのか、残酷だったのか。
その答えは、
最後まで明かされないままかもしれません。
それでも、
あの夏に確かに存在した想いとして、
ここに残しておきたかったのです。
この告白を書いたとき、
私は「正しい言葉」を探していませんでした。
探していたのは、
言わなければ消えてしまう感情だけです。
夏は止まらない。
止まらないからこそ、
伝えた言葉だけが、
あとに残ります。




