20.夏は止まらない-4
屋敷を出て、畑への道を進む。
足取りは重く、力なく、一歩ずつ。
怒鳴り声はもう聞こえない。
扉は閉まり、廊下は静かで、
それでも耳の奥だけが、まだ熱を帯びていた。
アインは怒っていた。
ミレイユは、怯えていた。
どちらも、僕の力そのものより――
僕の考え方を恐れていたのだと思う。
いずれは、こうなると分かっていた。
遅かれ早かれ、見つかるものだった。
禁術に触れていることも、
その向こうにある「選択」も。
メイリスは、きっと今まで黙っていてくれたのだろう。
あの人は、見ていた。
全部、見ていた。
それでも言わなかった。
言えなかったのだと思う。
今回、露見した原因は母上だった。
ミレイユは、僕が禁術に手を出していること自体は知っていた。
けれど、それが「何をする魔法なのか」までは、
理解が及んでいなかったのだろう。
だからこそ――
彼女は考えた。
あの魔法が、本当は何をしてしまうのか。
表に書かれた効果の、その奥にあるものを。
肉体を再構成し、魂を定着させる。
神代魔法の禁術に記された効果は、確かに正しい。
けれど、それは「生かす魔法」ではない。
魂が信じた居場所に合わせて、
世界の方を歪めてしまう魔法だ。
生きてはいる。
確かに、生き続けている。
それでも――
もう、同じ世界には戻れない。
歩きながら、僕は思い出していた。
書庫で読み尽くした、神代の記録を。
この魔法は、失敗したから禁じられたのではない。
成功してしまったから、封じられた。
神代の文献には、いくつかの成功例が残されている。
断片的で、意図的に削られているような記録だ。
だから見落とした。
最初に気が付かなかった。
術式は完全に成立した。
肉体の再構成も確認された。
魂の定着も成功している。
対象は、確かに生存していた。
失敗の痕跡は、どこにもない。
それなのに――
その先が、書かれていない。
成功した者が、その後どう生きたのか。
どれほどの時間を過ごしたのか。
何を失い、何を得たのか。
そこだけが、異様なほど曖昧だった。
代わりに、いくつかの記録には、
共通した言葉だけが残されていた。
――存在が、周囲と噛み合わなくなった。
――時間の流れが、その者の周囲だけ歪んだ。
――本人は穏やかだったが、周囲が耐えられなかった。
ある記録には、こうある。
彼女は生きていた。
確かに、最後まで生きていた。
だが、彼女の周囲にいた者は、
皆、先に壊れていった。
別の記録では、こうだ。
老いるはずのない肉体ではなかった。
傷も、病も、確かに存在した。
それでも彼は、
世界から置いていかれることがなかった。
――その瞬間、僕は理解してしまった。
この魔法は、不死を与えるものではない。
不老を与えるものでもない。
ただ、魂が「ここに在りたい」と願った世界を固定してしまう。
世界が先へ進んでも。
人が老いても。
関係が終わりを迎えても。
その魂だけは、
かつての「生きたい場所」に留まり続ける。
死に向かう速度が、世界と一致しなくなる。
喪失が、成立しなくなる。
別れが、終わらなくなる。
生きているのに、
生きている者たちの側へ戻れない。
だから、壊れるのは本人じゃない。
周囲だ。
先に老い、
先に疲れ、
先に諦め、
先に世界を降りていく。
それでも、その中心にいる者だけは、
静かに、穏やかに、そこに在り続ける。
――それが、この魔法の「成功」だった。
だから、神代の人間はこの魔法を使わなかった。
使えなかったのではない。
使わなかったのだ。
彼らは、この術の本質に気づいていた。
これは命を救う魔法ではない。
世界を修復する魔法でもない。
世界よりも、たった一人を選ぶ魔法だ。
多くを救うために、
一人を切り捨てる選択を積み重ねてきた神代にとって、
それは決して選んではならないものだった。
彼らは、冷酷だったわけじゃない。
非情だったわけでもない。
――正しすぎた。
世界を守るという正しさを、最後まで手放さなかった。
だからこの魔法は、理論だけを完成させ、
記録に残し、そして封じられた。
最も人間的で、
最も選んではいけない魔法として。
……そして、僕は思う。
神代の人間は、この魔法を使えば、
自分たちが「人であること」を選んでしまうと、分かっていたのだ。
だから、使わなかった。
――でも、僕は違う。
世界のために、誰か一人を諦めることができない。
たった一人のために、世界を敵に回してしまう。
だからこそ、この魔法は――
僕の手の届くところにあってはいけない。
使わないのではない。
使えない。
それが、
僕が辿り着いてしまった答えだった。
♢
畑に着くまでの道は、途中から何も覚えていない。
足の裏に土がつく感触と、草いきれの匂いと、蝉の声だけが、薄い布みたいにまとわりついている。
屋敷を出たときの空気は冷たかったはずなのに、門を抜けた瞬間、夏の熱が肌に貼りついた。
呼吸を数えない。
数えたら、思い出してしまう気がした。
何を言われたか。
どんな目をされたか。
自分がどんな顔をしていたか。
畑の柵が見えてくる。
木の杭に括られた縄は、ところどころ緩んで、風に小さく揺れていた。
あの庭は、今日も、変わらない。
――変わらない、はずなのに。
柵の向こうに、人影がある。
白い日傘が、陽射しを薄く切っていた。
その下で、しゃがみこんでいる背中。
リィナだ。
足音を立てたくなくて、歩幅が勝手に小さくなる。
でも、隠れて来たわけじゃない。
来ないという選択肢がなかっただけだ。
柵の入口に差しかかったとき、彼女が顔を上げた。
日傘の影から覗く赤い瞳が、まっすぐにこちらを見た。
その視線に、一瞬だけ、間が空く。
「……あ」
声になりかけた音が、喉の奥で止まる。
彼女は何も言わずに立ち上がり、日傘を持ち替えた。
それだけで、いつも通りの顔に戻っていく。
僕は柵を跨いで中に入る。
土の匂いが、少し濃くなる。
水が少し足りていないときの、乾いた粉っぽい匂い。
「遅かったね」
責めるでも、心配するでもない。
ただ事実としての一言。
「うん。……ちょっと」
それ以上、言葉が出ない。
理由を言えば、全部がここに流れ込んでしまう。
屋敷の壁の匂い、扉の音、父の怒気、母の怯え。
そういうものを、この場所に持ち込みたくなかった。
リィナは頷いた。
うなずき方も、いつも通りだった。
何も聞かない。
何も掘らない。
この畑の空気を守るみたいに、必要以上に踏み込まない。
「暑いね」
「……暑い」
会話は、それだけで成立する。
彼女は日傘を少し傾けて、畑の列を見回した。
薬草の苗の葉が、陽射しで少し元気をなくしている。
葉の端がわずかに巻いて、光が刺さる方向を避けるように。
「今日は水、多めにした方がいいかも」
「うん」
僕は桶の方へ向かった。
いつもなら、彼女が先に道具の確認をして、僕が後を追う。
でも今日は、僕の身体が勝手に先に動いた。
桶の取っ手に指をかけて持ち上げる。
水の重みが腕に乗る。
普段なら少しずつ運ぶ量を、今日は一度でいけると思ってしまった。
桶の水面が揺れて、陽射しを跳ね返す。
反射が眩しくて、目を細めた。
「重いよ、それ」
リィナの声が後ろから飛ぶ。
「大丈夫」
言った瞬間、自分の声がやけに落ち着いているのが分かった。
落ち着きすぎて、平らだった。
感情の波が、どこにもない。
――おかしい。
そう思うのに、止められない。
止めたら、崩れてしまう気がした。
崩れたものを、彼女に見せたくない。
畑の端から順に、苗の根元へ水を落とす。
土が黒く変わり、湿った匂いが立ち上がる。
乾いた地面が、ようやく息を取り戻すみたいに。
リィナは後ろからついてくる。
普段なら彼女も小さなジョウロで手伝うのに、今日は日傘を差したまま、黙って見ていた。
「こっちは、まだいいよ。……そっち、先」
僕が言うと、彼女は少し首を傾げた。
「ほんと?」
「うん」
彼女は畑の反対側へ移動した。
僕は、わざわざ自分の影が彼女にかぶるように立ち位置を変える。
そうする理由は、分かっている。
日差しを少しでも避けさせたい。
余計な疲労を減らしたい。
でもそれは、彼女のため、という顔をした自分の焦りだ。
同じ時間を、少しでも伸ばしたい。
それが、今の僕の唯一の願いみたいになっている。
水やりが終わる頃には、背中が汗で濡れていた。
服が肌に貼りつく。
腕の筋が、じんと疲れている。
いつもなら、ここで一度座って休む。
リィナは木陰の石に腰を下ろして、息を整える。
僕はその隣で、畑の状態を見ながら、どうでもいい話をする。
今日は、座らなかった。
休めば、考えてしまう気がした。
考えたら、ここに来たことの意味まで、崩れてしまう。
だから僕は、次の作業に手を伸ばす。
雑草。
伸びている。
伸びるのは早い。
季節が進むのは早い。
「草、伸びるの早いね」
リィナが言う。
「……うん」
僕は無言で鍬を取って、畝の間に入り、雑草を掻き起こす。
根が強い。
土に絡んでいる。
引き抜くと、小さな音がする。
リィナは膝をつき、指先で草を選び始める。
残す草と、抜く草。
薬になる草と、ただ土を奪う草。
彼女の指は迷いがない。
「それ、抜かないで」
僕がうっかり鍬を入れそうになった場所を、彼女が指で示す。
「……ごめん」
「いいよ」
その「いいよ」が、いつもより少しだけ軽い。
軽いのに、胸の奥に残った。
作業は淡々と進む。
土を掘り、草を抜き、水の湿り気を確かめ、葉の裏を見て虫の跡を探す。
どれも昨日と同じ。
先週と同じ。
去年と同じ。
――同じ、なのに。
僕の手は、必要以上に速い。
必要以上に、確実だ。
間違えないように。
迷わないように。
彼女が指摘する前に。
彼女が疲れる前に。
リィナが何か言おうと口を開きかける。
でも、言葉はすぐ閉じられる。
それを、僕は見てしまう。
彼女が、僕のことを見ている。
畑じゃなく、僕の顔を。
日傘の影から覗く赤い目が、じっとこちらを捉えている。
「……ねえ」
呼ばれて、手が止まる。
「ん?」
返事は短い。
短くしておけば、余計なものが漏れないと思った。
リィナは少しだけ眉を寄せた。
怒っている顔ではない。
困っている顔でもない。
ただ、事実を確かめる前の顔。
「今日のエル、変だよ」
その一言が、土に落ちた石みたいに、静かに沈んだ。
僕は、息を吸う。
吸った空気が熱くて、喉を焼く。
「そう?」
それだけ言って、また手を動かす。
鍬の刃が土に入る。
ザク、という音がした。
リィナは何も言わない。
追いかけてこない。
責めない。
だけど、沈黙が残る。
その沈黙は、責める言葉よりずっと残酷だった。
彼女は、気づいている。
気づいているのに、聞かない。
聞けないのか、聞かないのか。
たぶん、両方だ。
ここが壊れることを、彼女も望んでいない。
壊れたら、二人の「いつも通り」が終わってしまう。
僕は、黙々と作業を続ける。
リィナの作業が少し遅れても、声をかけない。
声をかけると、優しさが露骨になる気がした。
露骨になればなるほど、今日の僕の異常さが彼女の目に映る。
だから、僕はただ――近くにいる。
近くにいて、触れない。
手は伸ばせる距離なのに、伸ばさない。
距離が近いほど、触れないことが強くなる。
「……これ、要る?」
リィナが小さな束を持ち上げる。
薬になる草。
乾かして保存するやつだ。
「うん。あとでまとめよう」
「わかった」
その返事も、いつも通り。
日が少し傾き始めて、畑の影が長くなった。
蝉の声の調子が変わる。
風が、少しだけ強くなる。
土の匂いが、湿り気を取り戻していく。
リィナが、軽く咳をした。
ほんの一回。
それだけ。
でも、その音が胸を殴った。
「……大丈夫?」
言ってしまってから、遅かった。
今日の僕は、そういう言葉を減らすべきだったのに。
リィナは日傘の柄を握り直し、少しだけ笑う。
「大丈夫。……ありがと」
「……うん」
それ以上は言わない。
言ったら、ここから先が崩れる。
作業を終える頃、リィナは畑の端で少し息を整えた。
肩が小さく上下している。
日傘の影の中で、彼女の白さがいっそう薄く見える。
「今日は、ここまでにしよっか」
彼女が言った。
「……うん」
僕は頷いた。
引き止めない。
引き止める資格がない。
道具を片付け、抜いた草をまとめる。
水桶を戻す。
いつもなら二人でやる作業を、僕が先に終わらせる。
リィナは柵のところまで歩いていく。
足取りは、少し軽くない。
でも、それを言葉にしない。
言葉にしないのは、彼女の優しさだ。
柵の外に出る前、彼女が一度だけ振り返った。
「またね」
それだけ。
「……また」
僕の声は、やっぱり平らだった。
優しくしようとしない。
明るくしようともしない。
ただ、言葉の形だけを渡す。
リィナは小さく頷いて、帰っていく。
白い日傘が、道の先へ流れていく。
見えなくなるまで、僕は動けなかった。
畑には、作業の痕だけが残っている。
湿った土。
整えられた畝。
抜かれた雑草の跡。
採られた薬草の束。
全部、いつも通り。
――何も起きなかった。
それなのに、僕の胸の奥だけが、少しずつ擦り減っていく。
今日は行かなければよかった。
そう思う。
でも、行かない選択肢はなかった。
行かなければ、僕は屋敷の空気に押し潰されていた。
行けば、彼女に「変だよ」と言われる。
どちらを選んでも、同じだ。
僕は畑の真ん中で、じっと立ったまま、空を見上げる。
夏の空は青すぎて、目が痛い。
雲が流れるのは速い。
時間は勝手に進む。
正しいことを、僕は全部知っている。
それでも、
今日もここに来てしまった。
この回では、何も起きていません。
ただ会って、畑にいて、同じ時間を過ごしただけです。
それでも、
この「何も起きなかった時間」が、
一番取り返しのつかないものになってしまいました。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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