表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/32

20.夏は止まらない-4

屋敷を出て、畑への道を進む。

足取りは重く、力なく、一歩ずつ。


怒鳴り声はもう聞こえない。

扉は閉まり、廊下は静かで、

それでも耳の奥だけが、まだ熱を帯びていた。


アインは怒っていた。

ミレイユは、怯えていた。


どちらも、僕の力そのものより――

僕の考え方を恐れていたのだと思う。


いずれは、こうなると分かっていた。

遅かれ早かれ、見つかるものだった。

禁術に触れていることも、

その向こうにある「選択」も。


メイリスは、きっと今まで黙っていてくれたのだろう。

あの人は、見ていた。

全部、見ていた。


それでも言わなかった。

言えなかったのだと思う。


今回、露見した原因は母上だった。

ミレイユは、僕が禁術に手を出していること自体は知っていた。

けれど、それが「何をする魔法なのか」までは、

理解が及んでいなかったのだろう。


だからこそ――

彼女は考えた。


あの魔法が、本当は何をしてしまうのか。

表に書かれた効果の、その奥にあるものを。


肉体を再構成し、魂を定着させる。

神代魔法の禁術に記された効果は、確かに正しい。


けれど、それは「生かす魔法」ではない。


魂が信じた居場所に合わせて、

世界の方を歪めてしまう魔法だ。


生きてはいる。

確かに、生き続けている。


それでも――

もう、同じ世界には戻れない。


歩きながら、僕は思い出していた。

書庫で読み尽くした、神代の記録を。


この魔法は、失敗したから禁じられたのではない。


成功してしまったから、封じられた。


神代の文献には、いくつかの成功例が残されている。

断片的で、意図的に削られているような記録だ。

だから見落とした。

最初に気が付かなかった。


術式は完全に成立した。

肉体の再構成も確認された。

魂の定着も成功している。

対象は、確かに生存していた。


失敗の痕跡は、どこにもない。


それなのに――

その先が、書かれていない。


成功した者が、その後どう生きたのか。

どれほどの時間を過ごしたのか。

何を失い、何を得たのか。


そこだけが、異様なほど曖昧だった。


代わりに、いくつかの記録には、

共通した言葉だけが残されていた。


――存在が、周囲と噛み合わなくなった。

――時間の流れが、その者の周囲だけ歪んだ。

――本人は穏やかだったが、周囲が耐えられなかった。


ある記録には、こうある。


彼女は生きていた。

確かに、最後まで生きていた。

だが、彼女の周囲にいた者は、

皆、先に壊れていった。


別の記録では、こうだ。


老いるはずのない肉体ではなかった。

傷も、病も、確かに存在した。

それでも彼は、

世界から置いていかれることがなかった。


――その瞬間、僕は理解してしまった。


この魔法は、不死を与えるものではない。

不老を与えるものでもない。


ただ、魂が「()()()()()()()」と願った世界を固定してしまう。


世界が先へ進んでも。

人が老いても。

関係が終わりを迎えても。


その魂だけは、

かつての「生きたい場所」に留まり続ける。


死に向かう速度が、世界と一致しなくなる。

喪失が、成立しなくなる。

別れが、終わらなくなる。


生きているのに、

生きている者たちの側へ戻れない。


だから、壊れるのは本人じゃない。


周囲だ。


先に老い、

先に疲れ、

先に諦め、

先に世界を降りていく。


それでも、その中心にいる者だけは、

静かに、穏やかに、そこに在り続ける。


――それが、この魔法の「成功」だった。


だから、神代の人間はこの魔法を使わなかった。


使えなかったのではない。

使()()()()()()のだ。


彼らは、この術の本質に気づいていた。


これは命を救う魔法ではない。

世界を修復する魔法でもない。


世界よりも、()()()()()()()()魔法だ。


多くを救うために、

一人を切り捨てる選択を積み重ねてきた神代にとって、

それは決して選んではならないものだった。


彼らは、冷酷だったわけじゃない。

非情だったわけでもない。


――正しすぎた。


世界を守るという正しさを、最後まで手放さなかった。


だからこの魔法は、理論だけを完成させ、

記録に残し、そして封じられた。


最も人間的で、



最も選んではいけない魔法として。



……そして、僕は思う。


神代の人間は、この魔法を使えば、

自分たちが「人であること」を選んでしまうと、分かっていたのだ。

だから、使わなかった。


――でも、僕は違う。


世界のために、誰か一人を諦めることができない。

たった一人のために、世界を敵に回してしまう。


だからこそ、この魔法は――

僕の手の届くところにあってはいけない。


使わないのではない。

使えない。


それが、

僕が辿り着いてしまった答えだった。



畑に着くまでの道は、途中から何も覚えていない。


足の裏に土がつく感触と、草いきれの匂いと、蝉の声だけが、薄い布みたいにまとわりついている。

屋敷を出たときの空気は冷たかったはずなのに、門を抜けた瞬間、夏の熱が肌に貼りついた。


呼吸を数えない。

数えたら、思い出してしまう気がした。

何を言われたか。

どんな目をされたか。

自分がどんな顔をしていたか。


畑の柵が見えてくる。

木の杭に括られた縄は、ところどころ緩んで、風に小さく揺れていた。

あの庭は、今日も、変わらない。


――変わらない、はずなのに。


柵の向こうに、人影がある。

白い日傘が、陽射しを薄く切っていた。

その下で、しゃがみこんでいる背中。


リィナだ。


足音を立てたくなくて、歩幅が勝手に小さくなる。

でも、隠れて来たわけじゃない。

来ないという選択肢がなかっただけだ。


柵の入口に差しかかったとき、彼女が顔を上げた。

日傘の影から覗く赤い瞳が、まっすぐにこちらを見た。


その視線に、一瞬だけ、間が空く。


「……あ」


声になりかけた音が、喉の奥で止まる。

彼女は何も言わずに立ち上がり、日傘を持ち替えた。

それだけで、いつも通りの顔に戻っていく。


僕は柵を跨いで中に入る。

土の匂いが、少し濃くなる。

水が少し足りていないときの、乾いた粉っぽい匂い。


「遅かったね」


責めるでも、心配するでもない。

ただ事実としての一言。


「うん。……ちょっと」


それ以上、言葉が出ない。

理由を言えば、全部がここに流れ込んでしまう。

屋敷の壁の匂い、扉の音、父の怒気、母の怯え。

そういうものを、この場所に持ち込みたくなかった。


リィナは頷いた。

うなずき方も、いつも通りだった。

何も聞かない。

何も掘らない。

この畑の空気を守るみたいに、必要以上に踏み込まない。


「暑いね」


「……暑い」


会話は、それだけで成立する。


彼女は日傘を少し傾けて、畑の列を見回した。

薬草の苗の葉が、陽射しで少し元気をなくしている。

葉の端がわずかに巻いて、光が刺さる方向を避けるように。


「今日は水、多めにした方がいいかも」


「うん」


僕は桶の方へ向かった。

いつもなら、彼女が先に道具の確認をして、僕が後を追う。

でも今日は、僕の身体が勝手に先に動いた。


桶の取っ手に指をかけて持ち上げる。

水の重みが腕に乗る。

普段なら少しずつ運ぶ量を、今日は一度でいけると思ってしまった。


桶の水面が揺れて、陽射しを跳ね返す。

反射が眩しくて、目を細めた。


「重いよ、それ」


リィナの声が後ろから飛ぶ。


「大丈夫」


言った瞬間、自分の声がやけに落ち着いているのが分かった。

落ち着きすぎて、平らだった。

感情の波が、どこにもない。


――おかしい。


そう思うのに、止められない。

止めたら、崩れてしまう気がした。

崩れたものを、彼女に見せたくない。


畑の端から順に、苗の根元へ水を落とす。

土が黒く変わり、湿った匂いが立ち上がる。

乾いた地面が、ようやく息を取り戻すみたいに。


リィナは後ろからついてくる。

普段なら彼女も小さなジョウロで手伝うのに、今日は日傘を差したまま、黙って見ていた。


「こっちは、まだいいよ。……そっち、先」


僕が言うと、彼女は少し首を傾げた。


「ほんと?」


「うん」


彼女は畑の反対側へ移動した。

僕は、わざわざ自分の影が彼女にかぶるように立ち位置を変える。

そうする理由は、分かっている。

日差しを少しでも避けさせたい。

余計な疲労を減らしたい。


でもそれは、彼女のため、という顔をした自分の焦りだ。


同じ時間を、少しでも伸ばしたい。


それが、今の僕の唯一の願いみたいになっている。


水やりが終わる頃には、背中が汗で濡れていた。

服が肌に貼りつく。

腕の筋が、じんと疲れている。


いつもなら、ここで一度座って休む。

リィナは木陰の石に腰を下ろして、息を整える。

僕はその隣で、畑の状態を見ながら、どうでもいい話をする。


今日は、座らなかった。

休めば、考えてしまう気がした。

考えたら、ここに来たことの意味まで、崩れてしまう。


だから僕は、次の作業に手を伸ばす。

雑草。

伸びている。

伸びるのは早い。

季節が進むのは早い。


「草、伸びるの早いね」


リィナが言う。


「……うん」


僕は無言で鍬を取って、畝の間に入り、雑草を掻き起こす。

根が強い。

土に絡んでいる。

引き抜くと、小さな音がする。


リィナは膝をつき、指先で草を選び始める。

残す草と、抜く草。

薬になる草と、ただ土を奪う草。

彼女の指は迷いがない。


「それ、抜かないで」


僕がうっかり鍬を入れそうになった場所を、彼女が指で示す。


「……ごめん」


「いいよ」


その「いいよ」が、いつもより少しだけ軽い。

軽いのに、胸の奥に残った。


作業は淡々と進む。

土を掘り、草を抜き、水の湿り気を確かめ、葉の裏を見て虫の跡を探す。

どれも昨日と同じ。

先週と同じ。

去年と同じ。


――同じ、なのに。


僕の手は、必要以上に速い。

必要以上に、確実だ。

間違えないように。

迷わないように。

彼女が指摘する前に。

彼女が疲れる前に。


リィナが何か言おうと口を開きかける。

でも、言葉はすぐ閉じられる。

それを、僕は見てしまう。


彼女が、僕のことを見ている。

畑じゃなく、僕の顔を。


日傘の影から覗く赤い目が、じっとこちらを捉えている。


「……ねえ」


呼ばれて、手が止まる。


「ん?」


返事は短い。

短くしておけば、余計なものが漏れないと思った。


リィナは少しだけ眉を寄せた。

怒っている顔ではない。

困っている顔でもない。

ただ、事実を確かめる前の顔。


「今日のエル、変だよ」


その一言が、土に落ちた石みたいに、静かに沈んだ。


僕は、息を吸う。

吸った空気が熱くて、喉を焼く。


「そう?」


それだけ言って、また手を動かす。

鍬の刃が土に入る。

ザク、という音がした。


リィナは何も言わない。

追いかけてこない。

責めない。

だけど、沈黙が残る。


その沈黙は、責める言葉よりずっと残酷だった。


彼女は、気づいている。

気づいているのに、聞かない。

聞けないのか、聞かないのか。

たぶん、両方だ。


ここが壊れることを、彼女も望んでいない。

壊れたら、二人の「いつも通り」が終わってしまう。


僕は、黙々と作業を続ける。

リィナの作業が少し遅れても、声をかけない。

声をかけると、優しさが露骨になる気がした。

露骨になればなるほど、今日の僕の異常さが彼女の目に映る。


だから、僕はただ――近くにいる。


近くにいて、触れない。

手は伸ばせる距離なのに、伸ばさない。

距離が近いほど、触れないことが強くなる。


「……これ、要る?」


リィナが小さな束を持ち上げる。

薬になる草。

乾かして保存するやつだ。


「うん。あとでまとめよう」


「わかった」


その返事も、いつも通り。


日が少し傾き始めて、畑の影が長くなった。

蝉の声の調子が変わる。

風が、少しだけ強くなる。

土の匂いが、湿り気を取り戻していく。


リィナが、軽く咳をした。


ほんの一回。

それだけ。

でも、その音が胸を殴った。


「……大丈夫?」


言ってしまってから、遅かった。

今日の僕は、そういう言葉を減らすべきだったのに。


リィナは日傘の柄を握り直し、少しだけ笑う。


「大丈夫。……ありがと」


「……うん」


それ以上は言わない。

言ったら、ここから先が崩れる。


作業を終える頃、リィナは畑の端で少し息を整えた。

肩が小さく上下している。

日傘の影の中で、彼女の白さがいっそう薄く見える。


「今日は、ここまでにしよっか」


彼女が言った。


「……うん」


僕は頷いた。

引き止めない。

引き止める資格がない。


道具を片付け、抜いた草をまとめる。

水桶を戻す。

いつもなら二人でやる作業を、僕が先に終わらせる。


リィナは柵のところまで歩いていく。

足取りは、少し軽くない。

でも、それを言葉にしない。

言葉にしないのは、彼女の優しさだ。


柵の外に出る前、彼女が一度だけ振り返った。


「またね」


それだけ。


「……また」


僕の声は、やっぱり平らだった。

優しくしようとしない。

明るくしようともしない。

ただ、言葉の形だけを渡す。


リィナは小さく頷いて、帰っていく。

白い日傘が、道の先へ流れていく。

見えなくなるまで、僕は動けなかった。


畑には、作業の痕だけが残っている。

湿った土。

整えられた畝。

抜かれた雑草の跡。

採られた薬草の束。


全部、いつも通り。


――何も起きなかった。


それなのに、僕の胸の奥だけが、少しずつ擦り減っていく。


今日は行かなければよかった。

そう思う。

でも、行かない選択肢はなかった。

行かなければ、僕は屋敷の空気に押し潰されていた。

行けば、彼女に「変だよ」と言われる。


どちらを選んでも、同じだ。


僕は畑の真ん中で、じっと立ったまま、空を見上げる。

夏の空は青すぎて、目が痛い。

雲が流れるのは速い。

時間は勝手に進む。


正しいことを、僕は全部知っている。


それでも、

今日もここに来てしまった。

この回では、何も起きていません。

ただ会って、畑にいて、同じ時間を過ごしただけです。


それでも、

この「何も起きなかった時間」が、

一番取り返しのつかないものになってしまいました。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

もしよろしければ、感想・評価・レビューをいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ