02.生きてしまった

　暗い、暗い闇の中にいた。

　それでも意識だけははっきりしていた。

　何も聞こえず、見えず、息もできない。

　ただ、真っ暗な海を漂っているかのようだった。

　僕は、どうなったんだろう。

　意識があるということは、きっと死んではいないのだ。

　また、生きて…しまった。

　死に損なってしまった。

　こんなゴミみたいな人生だったのに、まだ僕に生きろって言うのか。

　生きて、生きて…僕にどうしろって言うんだ。

　♢

　この暗闇は悠久の時のように感じた。

　何もない、真っ暗な世界で僕という自我を保っている。

　今までの人生を振り返れと言わんばかりに時間だけが、残酷に流れていく。

　実家での生活、日々違う女性たちと過ごした記憶。

「どうしてこんなこともできないの、

　本家の跡取りなのにみっともない。

　アンタは産まれてくるんじゃなかったのよ。」

「病気だとか、他の人と違うとか

　病気だから人よりそもそもできてないとか

　そんなこと思わないで。

　十分立派に生きていると思うよ。

　沢山、たくさん尽くしてくれて嬉しかった。」

「なんで、そんなこと言うの。

　こんなに大好きなのに、愛してるのに。

　私じゃ、もう支えてあげれないよ…。

　ごめんね…。」

「酷いよね、君。

　私の事なんだと思ってるの？

　養ってくれる財布？

　好きな時にやらせてくれる都合のいい女？

　君は私の事なんか見てないんだよ。

　好きも、愛してるも全部嘘。

　ずっと前から気づいてたよ。」

　誰に言われた言葉だったか、もう顔も声も思い出せない。

　後悔も、涙もない。

　ただ、惨めな人生を思い返すためだけの時間。

　それが僕に与えられた新しい地獄だった。

　♢

　どれだけの時間をこの暗闇で過ごしたかは分からない。

　ただ、変化はあった。

　音だ。

　音が聞こえるようになった。

　その音が何かは分からない。

　それでも、僕は何も変わらない。

　♢

　それから暫くして、また変化があった。

　身体の感覚が戻ってきた。

　あぁ、やっぱり僕は死に損なったんだな。

　それくらいの感想しか出てこなかった。

　植物人間にでもなったのだろうか。

　考えても仕方ない。

　僕は、生(・)き(・)て(・)し(・)ま(・)っ(・)た(・)のだから。

　♢

　身体の感覚や、音がはっきりとするようになった。

　音の正体は誰かの喋り声だということが分かった。

　ただ、日本語ではない。

　外国の言葉だろうか。

　どうでもいい。そう、今の僕にはどうでもいいことだった。

　♢

　ある日のこと、それは突然訪れた。

　身体が圧迫され、少しの痛みを伴った。

　これで僕は、ようやく…。

「…………！！」

「……！……！！！」

　今まで聞こえていた声が大きくなった。

　そして、呼吸ができるようになった。

「げほっ…！げほっ…！！」

　苦しさからむせてしまった。

　誰かの手で抱きしめられる感覚があった。

　目を開ける。

　ずっと暗闇の中で過ごしてきて、目が明るさに慣れない。

　全てがぼやけて見えた。

　辺りを見渡すと、大勢の女性と、一人の男性がいることが分かった。

「……？」

「………！………！？」

　何を…言ってるんだ。

　僕には何を言っているのか全く分からない。

　ただ、暗闇から出て分かったことがある。

　僕の身体はかなり小さい。

　手も、足も。

　これじゃまるで…

（赤ん坊みたいじゃないか…）

　♢

「あなた…！！」

「よくやった！ミレイユ！！！」

「…えぇ、あなたの子よ。アイン。」

「奥様！今はご安静に…！」

「メイリス、アインに抱かせてあげて。」

　侍女であるメイリスにそう告げると、子供は夫であるアインに渡される。

　アインは恐る恐るといった感じで、自分の子供を抱き上げる。

「この子、泣かないが…。大丈夫なのだろうか…？」

「げほっ…！げほっ…！」

「ふふ、苦しかっただけみたい。…もう寝ちゃったわね。」

　本当に、産まれてきてくれてよかった。

　生きていてくれて、よかった。

　こうして、我が子を抱けるのがこんなにも幸せなことなんて思わなかった。

　アインを父にしてくれ、私を母にしてくれてありがとう。

　私たちの愛しい―――。

　♢

　先ほど僕を抱きかかえていた女性から、今度は男性に僕は抱かれる。

　男性は困惑したような声を出しているが、何を言っているのか分からない。

　目を閉じる。

　温かい…人の体温を感じるなんて何年ぶりだろう。

　ごつごつとした体に抱きかかえられる。

　そして、せき込んだあと別の女性に抱きしめられる。

　以前も感じたことのあるやわらかい肌の感触。

　心臓の音が聞こえる。

　これが安心だということは分(・)か(・)る(・)。

　でもそれだけだった。

　安心なんて僕からは程遠い感情だった。

　男性や女性たちは何かを話している。

　きっと僕の名前を呼んでいるのだろう。

　でも、僕には意味として入ってこない。

　ただの雑音でしかなかった。

　自分の事なのにどこか他人の事のように思えた。

　♢

　それから、僕は色のない世界で生きている。

　寝て、起きて、口に入れられたものを飲む。

　普通の赤ん坊なら泣くんだろう。

　そんな生理的なものまで僕は欠落していた。

　ただ、生きているという工程だけが消化されていった。

　そんな日々を繰り返すうち、視界が少しずつしっかりとしてきた。

　男性と女性、そしてメイド服を着た女性たち。

　これがおそらく父親と母親だ。

　僕の顔を見て微笑む両親。

　その顔を見て、胸の奥が締め付けられる。

　この感情の名前を僕は知っている。

『罪悪感』だ。

　両親に笑顔を向けられるたび、心が悲鳴を上げる。

　視線はいつも虚空にある。

　僕はこの人たちに愛されている。

　愛されていることを理解してしまっている。

　だからこそ、苦しい。

　僕は…。

　僕は、また生きなければならない。

　今度は…この家族のもとで。