19.幕間【名を持たない想い】
エルディオ様が生まれた日のことを、私はよく覚えている。
産声は、思っていたよりも静かだった。
泣き叫ぶこともなく、ただ短く、息を確かめるように声を上げて。
その小さな身体を抱き上げた奥様が、ほっと息を吐いたのを見て、
私はようやく、自分も息を止めていたのだと気づいた。
――この子は、きっと聡い子になる。
根拠なんてなかった。
でも、そう思った。
私はその頃、まだ見習いの侍女だった。
十歳そこそこの年で、屋敷の隅を走り回り、
仕事を覚えることに必死で、
それでも時折、揺り籠のそばに立つことを許された。
最初は、ただ可愛い弟のように思っていた。
小さな指。
眠るときに、ほんの少しだけ眉を寄せる癖。
泣き声よりも、笑う声の方が早く増えたこと。
でも、それはすぐに「いけない感情」だと理解した。
私は侍女だ。
この子の人生を支える側の人間であって、
感情を向ける存在ではない。
だから私は、可愛いと思う気持ちを丁寧に畳んで、
胸の奥にしまった。
坊ちゃまは、成長するにつれて、
驚くほど聡くなっていった。
文字を覚えるのも早く、
数の概念も、教える前に理解していた。
勉強の時間になると、
私が用意した本を一通り眺めてから、
「次はこれかな」と、勝手にページを進めてしまう。
私が教えることなど、
初歩の初歩くらいだった。
それでも坊ちゃまは、
決して私を追い越したような顔はしなかった。
「ありがとう、メイリス」
「分かりやすかったよ」
そう言って、
必ず、私の方を見てくれる。
――気遣い。
それが、どれほど自然で、
どれほど無意識なものだったか。
私はその頃から、この子は“人の顔を見る子”だと思っていた。
坊ちゃまは、魔法の才にも恵まれていた。
奥様の指導の下、魔力の扱いを覚え、
やがて神代の理論にまで手を伸ばす。
普通なら危険だと止められる領域でも、
坊ちゃまは理解し、制御し、飲み込んでしまう。
剣も同じだった。
旦那様――
国境の守護神、剣聖と謳われるアイン様の指導を受け、
日に日に、技を吸収していく。
私は遠くから稽古を見守りながら、何度も思った。
この子は、剣と魔法と知識、すべてを持ってしまう。
それなのに。
――それなのに、
私は知っていた。
坊ちゃまは、
愛されることに、慣れていない。
むしろ、愛されることで、苦しんでいる。
それは、誰にも言わない。
口に出すこともない。
でも、わずかな顔のこわばり。
褒められた瞬間の、ほんの一拍の間。
声に混じる、かすかな緊張。
私は、それを見逃せなかった。
♢
ある日のことだった。
勉強の合間、坊ちゃまは突然手を止めて、
ぽつりと、こんなことを言った。
「ねぇ、メイリス」
「なんでしょうか、坊ちゃま」
「愛、ってなんだろうね」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。
「愛、ですか?」
「うん」
坊ちゃまは、本を閉じ、
自分の胸のあたりに、指先を当てた。
「僕はきっと、父上や母上から愛されて育っている」
その声は、とても落ち着いていた。
「でもね、苦しいんだ」
私は、何も言えなかった。
「ここがさ、胸の真ん中。このあたりが、ズキズキする」
父上から褒められると、
胸が痛む。
母上に抱きしめられると、
罪悪感に押しつぶされそうになる。
淡々と、
まるで事実を並べるように語るその姿に、
私は背筋が冷えた。
「僕はさ…きっと、人を愛したらダメな人間なんだ」
小さな声だった。
「だから、愛されてもいけない
だって…愛は、僕にとって毒でしかないから」
――分からなかった。
その言葉の意味を、私は理解できなかった。
だって、この子は誰よりも愛されている。
才能があり、努力もして、周囲から期待され、大切にされている。
それなのに。
でも、一つだけ、はっきりと分かったことがある。
この子は、苦しんでいる。
幸せが、この子を壊している。
その夜、私は初めて思った。
――助けたい。
侍女としてではない。
教師としてでもない。
一人の人間として。
愛を、教えてあげたい。
愛が、毒じゃない形を、
この子に見せてあげたい。
それが、どれほど傲慢な願いか、
この時の私は、まだ知らなかった。
ただ、この子のそばにいようと、
静かに、決めただけだった。
♢
十二を過ぎた頃からだった。
坊ちゃまが、一人で屋敷を出るようになったのは。
最初は偶然だと思った。
用事があって外に出たついでに、少し遠回りをしているのだろう、と。
でも、それが何日も続いた時、
私はようやく「いつも同じ方向へ向かっている」ことに気づいた。
屋敷の裏門。
人目につきにくい道。
村の中心から外れ、人の足が自然と減っていく方角。
私は問いたださなかった。
止めもしなかった。
ただ、少し離れたところから、後を追った。
侍女として、坊ちゃまの身を案じるのは当然のことだ。
そう自分に言い聞かせながら。
坊ちゃまが辿り着いたのは、
村の外れにある、荒れた庭だった。
かつては誰かが手を入れていたのだろう。
石畳の名残。
崩れかけた柵。
今はもう、雑草に飲み込まれて役目を終えた場所。
坊ちゃまは、そこに足を踏み入れると、
ただ、立ち止まった。
座るでもなく、歩き回るでもなく。
しばらく、何もせずただそこにいた。
風に揺れる草を見て、空を見上げて、
時折、目を閉じて。
その姿を見た瞬間、私は気づいてしまった。
――ここは、
エルディオ様の場所じゃない。
坊ちゃまでもない。
ただの、一人の人間が息をしていい場所だ。
屋敷では常に誰かの視線がある。
期待。
評価。
役割。
でも、この庭には、何もなかった。
求められるものも、果たすべき役目も、名前すら。
だから坊ちゃまは、ここでだけ、
少しだけ肩の力を抜いていた。
それからだった。
坊ちゃまは、ほとんど毎日この庭に来るようになった。
何をするでもなく、
ただ、ぼんやりと一日を過ごす。
私は遠くから、それを見守っていた。
声をかけることはしなかった。
近づくこともしなかった。
この時間は、私とのものではないと分かっていたから。
ある日、坊ちゃまはふいに腰を下ろした。
そして、目の前の雑草を無心で引き抜き始めた。
理由なんて、きっとなかった。
ただ、そこに草があったから。
次の日には、雑草の量が減っていた。
その次の日には、少しだけ地面が見えるようになっていた。
やがて坊ちゃまは、屋敷に戻ると、
執事のクリストフに声をかけた。
「鍬、貸してもらえますか」
不思議そうな顔をする彼に、理由も告げず。
鍬を肩に担ぎ、またあの庭へ向かった。
無表情で、土を起こす。
汗を流し、息を整え、黙々と。
剣の稽古も、魔法の訓練も、私との勉強も。
一切、手を抜いていなかった。
だからこそ、誰も止めなかった。
そして、ある日。
坊ちゃまは、お小遣いで、
小さな袋を抱えて帰ってきた。
中身を見た私は、思わず息を呑んだ。
――薬草の苗。
まだ幼く、頼りない葉。
それを、あの庭に植え始めた。
一本ずつ、丁寧に。
この時、私は確信した。
ここで坊ちゃまは、アルヴェイン家の人間ではない。
剣聖の息子でも、神代魔法の継承者でもない。
ただの、エルだ。
名前だけを持った、一人の少年。
私は、何も言わなかった。
何も、しなかった。
見守るだけの選択も、確かにあった。
でも、この時すでに、
私の中には、小さな、消えない問いが芽生えていた。
――この場所で、
私は、この子に何ができるのだろうか。
愛を教えるべきか。
それとも、何も教えず、ただそばにいるべきか。
答えは、まだ、出ていなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていたことがある。
この庭は、坊ちゃまが初めて、
自分の足で見つけた場所だ。
そしてきっと、
この場所がなければ――
後の出会いも、選択も、生まれなかったのだと。
私は、そう思っている。
♢
それからの四年間。
私は、あの庭を忘れたことがなかった。
坊ちゃまは、毎日ではなかったが、
ほとんど決まった時間に屋敷を出て、
決まった道を通り、決まった場所へ向かった。
剣の稽古で汗を流したあとも。
魔法の訓練で疲労が残る日も。
勉学で夜更かしした翌朝でさえ。
坊ちゃまは、あの庭にだけは、足を運んだ。
誰かに会うためではない。
何かを成すためでもない。
ただ、そこに行くために。
庭は、少しずつ変わっていった。
最初は、雑草が減っただけだった。
次に、地面が均され、土の色が整った。
やがて、薬草の苗が増えた。
最初は、知識のある選び方ではなかった。
効能も、育てやすさも、
必ずしも理にかなってはいない。
それでも、坊ちゃまは毎日、
土に触れ、水をやり、
葉の様子を確かめた。
枯れた苗もあった。
虫に食われたものもあった。
それを見て、坊ちゃまは怒らなかった。
落胆もしなかった。
「そうか」
ただ、それだけ言って、
次の日も、庭に来た。
私は、その姿を見ながら、
何度も思った。
――この子は、
結果に執着していない。
剣では勝敗を求められ、
魔法では完成度を測られ、
勉学では成績で評価される。
でも、この庭では、
失敗しても、誰も何も言わない。
だから坊ちゃまは、安心して失敗できた。
安心して、何者でもない自分でいられた。
屋敷では、坊ちゃまは「期待」に囲まれている。
剣聖の息子。
神代魔法に手を伸ばす才児。
アルヴェイン家の後継。
でも、期待されることは、
必ずしも救いではない。
坊ちゃまは、愛されている。
それは、間違いのない事実だ。
けれど――
愛されることが、この子にとって、
時に重荷になることを、私は知っていた。
「応えなければならない」
「失望させてはいけない」
その思いが、小さな身体に、
静かに積み重なっている。
坊ちゃまは、それを口にしない。
泣きもしない。
甘えもしない。
だからこそ、気づいてしまう者には、
はっきりと見えてしまう。
夜、勉強の合間に、
ふと見せる、ほんの一瞬の表情。
微かに強ばる指。
深く吸いすぎる呼吸。
――ああ。
この子は、愛されることに慣れていない。
いや。
正確には――
愛されることで、苦しんでいる。
それに気づいてから、
私はずっと、迷っていた。
侍女として、
従者として。
私は、この子の人生を支える側の人間だ。
前に出てはいけない。
感情を持ち込みすぎてはいけない。
それは、ずっと自分に言い聞かせてきたこと。
坊ちゃまは、優しい。
優しすぎるほどに。
私が疲れていれば、必ず声をかける。
私が無理をしていれば、さりげなく手を貸す。
「ありがとう」
その一言を、決して忘れない。
その優しさが、誰に向けられているのか。
私は、分かっていた。
だから、最初は。
可愛い弟のように、思っていた。
そう思うことで、
胸の奥の違和感に、名前をつけないようにしていた。
けれど、
四年という時間は、ごまかしを許さない。
坊ちゃまが成長するほど、
背が伸び、声が変わり、視線が変わっていくほど。
私は、自分の感情を無視できなくなっていった。
それでも、何もしなかった。
しなかった、というより――
できなかった。
この子にとって、
私が「何かを与える」存在になることが、
本当に正しいのか、分からなかったから。
♢
そして、坊ちゃま――
エルが十六を迎えた夏。
あの白い髪の少女が、この庭に足を踏み入れた。
最初は、本当に偶然だった。
坊ちゃまがいつものように畑を整えていると、
柵の外に、人の気配があった。
白い日差しの中で、
ひどく目立つ色。
白い肌。
白い髪。
そして、赤い瞳。
少女は、立ち止まっていた。
逃げるでもなく、踏み込むでもなく、
ただ、そこに「いる」だけだった。
坊ちゃまが最初に声をかけたのは、
本当に何気ない一言だったと――私は後から聞いた。
「……その草、踏まないで」
背中から声がかかった。
振り向くと、そこには――
坊ちゃまとそう変わらない背丈の少女が立っていた。
日差しの下で、肌も髪も透けるほど白い。
白い、と言っても、陶器のような清潔さではなく、
光に曝されるほど薄く、脆さを隠しきれない白だった。
そして、赤い瞳。
血の色でも、宝石でもない。
“生まれつきそこにある”というだけで、周囲から理由のない敵意を呼ぶ色。
少女は怯えていなかった。
胸を張っているわけでもない。
ただ、必要なことを必要な温度で告げる、妙に落ち着いた声だった。
「その草、薬になるの。……もらっていい?」
頼む、というより確かめる言い方。
許されるかどうかではなく、
“そうするのが自然”だと知っているような口調。
坊ちゃまは一拍、黙ったらしい。
驚いたのではない。
その声に、媚びも、恐れも、遠慮もなかったからだ。
「いい、けど」
返事のあとにも、また少し間があったという。
「……君は?」
少女は、その質問にだけ、ほんの少し迷った。
名乗ることが、
拒まれるか、笑われるか、呪いみたいに返ってくるか――
そういう経験を、すでに何度もしてきた者の間だった。
それでも、彼女は顔を上げた。
「リィナ」
たった二音の名が、あまりにもまっすぐで、
あの庭の空気だけが一瞬、変わった。
その日、二人は何かを約束したわけではない。
言葉を交わした量だって、決して多くはない。
それでも――
同じ場所に立ち、同じ空気を吸って、
同じ時間を“ただ過ごした”。
それが、始まりだった。
私は、当然のように調べた。
当然のように、という言葉は嘘だ。
本当は、手が震えていた。
調べるという行為は、守るための務めだ。
けれど同時に、
その子を“誰かの娘”に、
“村の噂の対象”に、
“危険性のある存在”に変えてしまう。
坊ちゃまが、ようやく「ただのエル」になれていた場所に、
私は“アルヴェイン家の目”を持ち込む。
その矛盾が、胸の奥でいつも小さく疼いた。
それでも私は、侍女だった。
旦那様の言いつけを、破れない。
村の帳簿。商家の出入り。医師の記録。
白子の子が生まれた年。
噂話の出どころ。
子どもたちの意地の悪い遊び。
大人たちの沈黙。
――全部、紙の上では整っていた。
整ってしまうほどに、残酷だった。
「気味が悪い」
「不吉だ」
「近づくな」
そう言われて育った子が、
誰かに優しくされ慣れていないのは当然なのに。
それでも彼女は、坊ちゃまにだけは媚びなかった。
怯えてもいない。
突っぱねてもいない。
ただ、同じ温度で、同じ距離で、
“人間として”そこにいた。
それが、どれほど危うい奇跡なのかを、
私はまだ正しく理解していなかった。
旦那様――アイン様からは、
以前から言われていた。
「エルディオの周囲に近づく人間は、必ず確認しろ」
それは、
辺境伯家として当然の警戒であり、
父としての責任でもあった。
少女の名は、リィナ。
村にある商家の娘だった。
薬や生活用品を扱う家で、医師とのつながりもある。
だから、体調が悪いときにはすぐ診せられる。
――そういう家庭だった。
白子。
生まれつきの体質。
幼い頃から、奇異の目で見られ、
陰で囁かれ、時に露骨な拒絶に晒されてきた。
「気味が悪い」
「不吉だ」
「触るな」
そんな言葉と一緒に、育ってきた少女。
けれど、坊ちゃまは――
エルは、そのどれもを彼女に向けなかった。
辺境伯家の子息だと、彼女は知っていた。
それでも、彼女はエルを「エルディオ様」とは呼ばなかった。
「エル」
ただ、それだけ。
敬意も、畏怖も、期待もない。
――それは、
坊ちゃまが、ずっと欲しかった距離だった。
二人は、ただ一緒に畑にいた。
会話は少ない。
未来の話はしない。
“来年”という言葉が、ほとんど出ない。
代わりにあるのは、土の湿り気の話。
雑草の根の強さ。
水をやる時間のこと。
日差しの角度。
そういう、どうでもいいはずの言葉だけ。
坊ちゃまは畑の端に苗を植え、
リィナはその傍で草を選んで抜いた。
「それは残して。薬になる」
「これは抜いていい」
「……あ、そこ、棘」
彼女は命令しない。
教えるようでもない。
ただ“知っていること”を淡々と渡す。
坊ちゃまは受け取る。
受け取って、何も言わずに従う。
それが、あまりにも自然で、
私は何度も息が詰まった。
――この庭で、坊ちゃまは誰かに従っても苦しくない。
従わされていないからだ。
夏が過ぎた。
彼女は日傘を差した。
日差しが強くなるほど、彼女の肌は危うく見えた。
それでも来た。
秋が来た。
風が涼しくなると、彼女の呼吸は少しだけ楽そうになった。
それでも、長くは居られなかった。
冬が来た。
手が悴む。
土は硬い。
彼女は手袋をしても指先が白くなった。
それでも来た。
そして春が来た頃――
彼女は、はっきりと“遅れて”くるようになった。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
でも、その「少し」が、積み上がる。
畑に立つ時間が短い。
座る回数が増える。
笑うとき、息が途切れる。
坊ちゃまは何も言わない。
言えない。
私も、何も言えない。
言えばそれは、ここを“いつもの場所”ではなくしてしまうから。
それでも、リィナは笑う。
「今日は、ここまでだね」
それは宣言じゃない。
ただの報告。
けれど、その言葉が“終わり”を含んでいることを、
私だけが知っているようで、胸が苦しくなった。
そう言って、自分から帰った。
坊ちゃまは、それを引き止めなかった。
でも――
春が来た頃。
私は、はっきりと分かった。
病状が、進んでいる。
彼女は、もう誤魔化せていない。
そして、
坊ちゃまも――
気づいてしまった。
そこからだった。
坊ちゃまが、
書庫に籠るようになったのは。
最初は、理性の範囲だった。
薬草を調べ、
体質を調べ、
医師の記録を確かめる。
――“正しい努力”の顔をしていた。
でも、坊ちゃまの努力はいつも、正しさだけでは終わらない。
「足りない」
「まだ足りない」
「ここにないなら、もっと古い場所にある」
その声が、いつからか独り言になった。
蝋燭が増える。
机が埋まる。
紙が積み重なる。
インクが乾くより先に、次の線が引かれる。
寝ていない目は、光を失っているのに、
思考だけが異様に冴えていた。
魔法で本が浮く。
ページがめくられる。
文字が吸い込まれる。
それは才能の輝きではなく、
人間をやめる手前の速度だった。
私は何度も、扉の前に立った。
「お休みください」
それだけ言えばいいのに。
でも、言えなかった。
――もし止めたら。
坊ちゃまはきっと、私に笑う。
「大丈夫」
「平気だよ」
「ありがとう」
その“優しさ”が、
今の坊ちゃまにとっては刃だと知っているからこそ、
私は余計に何も言えなかった。
最初は、調べもの程度だった。
薬草。
体質。
古い医学書。
でも、それはすぐに変わった。
魔法で、何十冊もの書物を浮かせ、
同時にページを捌く。
おおよそ人のやることではない。
思考を分割し、知識を無理やり詰め込み、
一睡もせずに夜を越える。
毎夜、朝まで。
書き、
描き、
消し、
書き直す。
魔法陣。
術式。
仮説。
捕まえてきた虫。
小動物。
実験。
成功と失敗を、感情なく繰り返す。
「エル様……そんなに、あの娘のことを……」
私は、何度も声をかけようとした。
止めたかった。
抱きしめて、
「もういい」と言いたかった。
でも、坊ちゃまの目は私を見ていなかった。
何かに取り憑かれていた。
――いいえ。
違う。
「失いたくない」
ただ、それだけだった。
そして、ある夜。
「……成功だ」
その声は、静かだった。
けれど、重かった。
神代の禁術。
人が、人であってはならない領域。
坊ちゃまは、それを――
ものにしてしまった。
してしまった、のだ。
私は、後ろからそっと抱きしめた。
驚いたようにエルが振り向く。
笑っていた。
でも――
頬を、涙が伝っていた。
「……メイリス」
もう、限界だった。
叫びたかった。
やめて。
もう無理をしないで。
それは、人として使ってはいけない。
全部。
全部、言いたかった。
でも、私が言えたのは、たった一言だった。
「……お疲れさまでした」
それしか、言えなかった。
それが、侍女としての言葉であり、
そして――
この子を愛してしまった、私の精一杯だった。
♢
あの日の朝、
坊ちゃまがリビングへ向かったあと、私は自室に戻った。
足が、震えていた。
扉を閉めた瞬間、
張り詰めていたものが、音を立てて崩れた。
「……っ」
声が、漏れる。
抑えようとした。
長年、そうしてきた。
侍女は泣かない。
侍女は感情を表に出さない。
主の前では、常に穏やかであれ。
――分かっている。
分かっているのに。
膝から力が抜け、私は床に座り込んだ。
喉の奥が、ひどく、ひどく痛かった。
「……エル様……」
名前を呼んだ瞬間、堰が切れた。
声が、抑えきれなくなる。
「どうして……どうして、あなたなんですか……」
私は、知っていた。
今日、旦那様と奥様が、あの子を呼び出す理由を。
紙一枚。
魔法陣の核。
神代の禁術。
すべて、私の目の前で積み上がっていったものだった。
止められたはずだった。
何度も。
「もう十分です」
「ここまでにしてください」
「壊れてしまいます」
言えたはずだった。
でも、言えなかった。
あの子の目を見てしまったから。
必死で。
縋るようで。
それでいて、どこか諦めきった目。
――失うくらいなら、
――自分が壊れても構わない。
そんな覚悟を、十六歳の少年がしてしまうことの、異常さを。
私は、「理解してしまった」。
理解してしまったがゆえに、
止められなかった。
「……最低ですね、私……」
床に手をつき、声を殺そうとする。
でも、涙は止まらない。
「侍女失格です……」
坊ちゃまを守るために仕えてきた。
支える側でいると決めた。
感情は、持たないと決めた。
それなのに。
あの夜。
禁術を完成させたときの、あの子の顔。
笑っていた。
泣いていた。
私は、抱きしめてしまった。
侍女として、してはいけないことだった。
でも、
あの瞬間だけは――
「……お疲れさまでした」
そう言った声が、今も耳に残っている。
あれは、侍女の言葉だったのか。
それとも――
愛してしまった女の、最後の嘘だったのか。
「……愛してる……」
気づいたときには声に出ていた。
誰に聞かせるでもない。
許されるはずもない。
それでも。
「エル様……あなたを……愛しています……」
胸が、引き裂かれる。
ずっと、弟のように思っていた。
そう、思い込もうとしていた。
でも違った。
私は、この子の痛みに気づいてしまった最初の人間だった。
愛されることに、苦しんでいること。
期待されるたびに、自分を削っていること。
「坊ちゃまは、愛されることに慣れていない」
そう気づいた日から。
私は、この子を「救いたい」と思ってしまった。
それが、侍女の仕事を越えていると知りながら。
「……お願いだから……」
声が、嗚咽に変わる。
「これ以上、壊れないで……」
今日、きっと言われる。
叱責される。
怒鳴られる。
もしかしたら、殴られる。
でも、それでも。
あの子は、「使わない」と言うだろう。
自分を守るためじゃない。
あの少女を、守るために。
それがどれほど残酷な選択か。
私は、分かっている。
救える力を持ちながら、使えない。
使えば人でなくなる。
使わなければ、失う。
その狭間で、あの子は立っている。
「……エル様……」
私は、床に額をつけた。
祈るように。
縋るように。
「どうか……どうか……」
何を願えばいいのか、もう分からなかった。
助かってほしいのか。
壊れないでほしいのか。
それとも――
ただ、生きてほしいのか。
全部、矛盾している。
だから、私は知ってしまった。
もう、引き返せない。
この愛は、正しくない。
でも、消せない。
坊ちゃまがリビングで、
自分の想いを告げているその時。
私は、大人とは思えないほど、
声を上げて泣いていた。
愛している、と。
許されないと分かっていながら。
この子が世界に壊されてしまわないように。
――それでも、何もできないまま。
ただ、愛してしまったことだけを胸に抱えて。
♢
応接間を出るとき、私は一度も振り返らなかった。
振り返ってしまえば、顔に浮かぶものを抑えきれなくなると分かっていたから。
「――以上が、私たちの結論だ」
アイン様の声は、低く、硬かった。
辺境伯としてではなく、父として出した答え。
禁術は許されない。
研究はここで終わり。
これ以上、深入りはさせない。
そして――
最後に、ミレイユ様が、静かに言った。
「……エルは、あの子を愛しているそうよ」
一瞬、世界の音が消えた。
呼吸が、止まった。
それでも私は、侍女だった。
「……左様でございますか」
声は、驚くほど穏やかだった。
自分の声なのに、他人のものみたいに聞こえた。
「坊ちゃまらしいことです」
微笑みの角度まで、手が覚えている。
侍女は、主の幸福を祝う顔をする。
その訓練だけは、裏切らなかった。
ミレイユ様が、少しだけ唇を噛んだ。
アイン様は何も言わない。
“それ以上は踏み込むな”という沈黙。
私はそれを、当然のように受け取ってしまう。
――私は侍女だ。
泣く権利はない。
恋をする権利もない。
一礼し、扉を閉め、廊下へ出る。
歩幅を乱さない。
呼吸も整える。
目線を落としすぎない。
誰にも、悟らせないように。
曲がり角で若い侍女を見つけ、
私は口を開いた。
「この後の坊ちゃまのお世話、代わっていただけますか。少し体調が……」
体調が悪い。
嘘ではない。
胸の奥が、きしむ音がする。
自室に戻り、鍵をかける。
扉に背を預けた瞬間――
膝が崩れた。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
呼吸が浅い。
喉が熱い。
目の奥が痛い。
分かっていた。
分かっていたのに。
あの白い髪の少女が、
坊ちゃまにとって“世界そのもの”になっていったこと。
坊ちゃまが、
“生きる理由”を手にしてしまったこと。
それは祝福で。
同時に呪いだ。
「……どうして……」
誰も悪くない。
それが一番、残酷だった。
リィナは奪っていない。
ただ“エル”を見ただけ。
坊ちゃまも悪くない。
ただ“愛してしまった”だけ。
――なのに。
私は、私だけが、置いていかれる。
置いていかれる、という言葉は、あまりに子どもじみている。
けれど、これ以上に正しい言い方を、私は知らなかった。
「メイリス」という名前で呼ばれていた時間。
「分かってくれる人」としてそこに立てた役割。
それが、今日たった一言で、終わってしまった。
指先が震えて、髪留めが外れた。
床に落ちた小さな音が、やけに大きく響く。
拾わなければならないのに、身体が言うことを聞かなかった。
夜更け。
窓の外は深い青。
月明かりが床に落ちて、部屋を白く切り取る。
私はふらつきながら鏡の前に立った。
そこに映っていたのは――
侍女ではなかった。
いつもなら、アッシュブラウンの髪は低い位置でまとめ、
一本も遊ばせない。
そのはずなのに今は、指を通すことも忘れて乱れ、
前髪は頬に張りつき、涙で重くなっている。
淡いブラウンの瞳は赤く腫れ、
瞬きをするたびに、まだ涙が滲んだ。
白い肌には涙の跡が残り、
口元だけが、取り繕いの癖で薄く笑おうとして――
その途中で、崩れた。
「……本当に……」
声がかすれる。
「……滑稽ですね……私……」
――エルは、あの子を愛している。
その言葉が、胸の奥で何度も反響して、
私は、鏡の前で膝から崩れ落ちた。
二十七年。
仕えるために生きてきた。
感情は管理するもの。
愛情は、主に向けるものではない。
そう、誰よりも理解していたはずなのに。
「……愛してしまいました……」
鏡の中の自分に、そう告げる。
声が、震える。
「坊ちゃま……」
呼びかけた瞬間、胸の奥が、焼けるように痛んだ。
あの子は、もう、私を見ない。
私の気遣いも、
私の沈黙も、
私の支えも。
すべてを越えて、
彼は“誰かを愛した”。
それは、祝福されるべきことだ。
分かっている。
頭では。
でも。
「……私は……」
声が、崩れる。
「……私は、あなたのそばにいることでしか、生き方を知らなかった……」
侍女として。
理解者として。
支える者として。
その役割に、
救われていたのは――
私の方だったのかもしれない。
「……置いていかないで……」
誰にも聞かせられない言葉が、
夜に溶ける。
月明かりの中、私はその場に崩れ落ちた。
声を殺すことも、
美しく泣くことも、
もうできなかった。
ただ、慟哭する。
愛している、と。
届かないと分かっていながら。
この想いを、誰にも知られてはいけないまま。
私は、夜が終わるまで泣き続けた。
侍女としてではなく、理解者としてでもなく。
ただ一人の女として。
エルディオ・アルヴェインを
愛してしまった、その代償を抱えたまま。
――そして、
朝が来れば、また私は仮面を被る。
何事もなかったように。
この章は、
「語られなかった時間」と
「選ばれなかった感情」を書くためのものでした。
誰かを愛する物語の裏側には、
必ず、声を上げられなかった人がいます。
正しさを選び、役割を守り、
それでも確かに、心を持ってしまった人が。
メイリスは救えません。
救われもしません。
けれど、彼女が“見てきた”という事実だけは、
この物語から消えてほしくなかった。
愛は、いつも祝福されるとは限らない。
それでも人は、愛してしまう。
この章が、
誰かの胸に小さな痛みを残したなら、
それで十分だと思っています。




