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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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19/33

19.幕間【名を持たない想い】

 エルディオ様が生まれた日のことを、私はよく覚えている。


 産声は、思っていたよりも静かだった。

 泣き叫ぶこともなく、ただ短く、息を確かめるように声を上げて。

 その小さな身体を抱き上げた奥様が、ほっと息を吐いたのを見て、

 私はようやく、自分も息を止めていたのだと気づいた。


 ――この子は、きっと聡い子になる。


 根拠なんてなかった。

 でも、そう思った。


 私はその頃、まだ見習いの侍女だった。

 十歳そこそこの年で、屋敷の隅を走り回り、

 仕事を覚えることに必死で、

 それでも時折、揺り籠のそばに立つことを許された。


 最初は、ただ可愛い弟のように思っていた。


 小さな指。

 眠るときに、ほんの少しだけ眉を寄せる癖。

 泣き声よりも、笑う声の方が早く増えたこと。


 でも、それはすぐに「いけない感情」だと理解した。


 私は侍女だ。

 この子の人生を支える側の人間であって、

 感情を向ける存在ではない。


 だから私は、可愛いと思う気持ちを丁寧に畳んで、

 胸の奥にしまった。


 坊ちゃまは、成長するにつれて、

 驚くほど聡くなっていった。


 文字を覚えるのも早く、

 数の概念も、教える前に理解していた。


 勉強の時間になると、

 私が用意した本を一通り眺めてから、

「次はこれかな」と、勝手にページを進めてしまう。


 私が教えることなど、

 初歩の初歩くらいだった。


 それでも坊ちゃまは、

 決して私を追い越したような顔はしなかった。


「ありがとう、メイリス」

「分かりやすかったよ」


 そう言って、

 必ず、私の方を見てくれる。


 ――気遣い。


 それが、どれほど自然で、

 どれほど無意識なものだったか。


 私はその頃から、この子は“人の顔を見る子”だと思っていた。


 坊ちゃまは、魔法の才にも恵まれていた。


 奥様の指導の下、魔力の扱いを覚え、

 やがて神代の理論にまで手を伸ばす。


 普通なら危険だと止められる領域でも、

 坊ちゃまは理解し、制御し、飲み込んでしまう。


 剣も同じだった。


 旦那様――

 国境の守護神、剣聖と謳われるアイン様の指導を受け、

 日に日に、技を吸収していく。


 私は遠くから稽古を見守りながら、何度も思った。

 この子は、剣と魔法と知識、すべてを持ってしまう。


 それなのに。


 ――それなのに、

 私は知っていた。


 坊ちゃまは、

 愛されることに、慣れていない。

 むしろ、愛されることで、苦しんでいる。


 それは、誰にも言わない。

 口に出すこともない。


 でも、わずかな顔のこわばり。

 褒められた瞬間の、ほんの一拍の間。

 声に混じる、かすかな緊張。


 私は、それを見逃せなかった。


 ♢


 ある日のことだった。


 勉強の合間、坊ちゃまは突然手を止めて、

 ぽつりと、こんなことを言った。


「ねぇ、メイリス」


「なんでしょうか、坊ちゃま」


「愛、ってなんだろうね」


 その言葉に、私は一瞬言葉を失った。


「愛、ですか?」


「うん」


 坊ちゃまは、本を閉じ、

 自分の胸のあたりに、指先を当てた。


「僕はきっと、父上や母上から愛されて育っている」


 その声は、とても落ち着いていた。


「でもね、苦しいんだ」


 私は、何も言えなかった。


「ここがさ、胸の真ん中。このあたりが、ズキズキする」


 父上から褒められると、

 胸が痛む。


 母上に抱きしめられると、

 罪悪感に押しつぶされそうになる。


 淡々と、

 まるで事実を並べるように語るその姿に、

 私は背筋が冷えた。


「僕はさ…きっと、人を愛したらダメな人間なんだ」


 小さな声だった。


「だから、愛されてもいけない

 だって…愛は、僕にとって毒でしかないから」


 ――分からなかった。


 その言葉の意味を、私は理解できなかった。

 だって、この子は誰よりも愛されている。

 才能があり、努力もして、周囲から期待され、大切にされている。


 それなのに。


 でも、一つだけ、はっきりと分かったことがある。


 この子は、苦しんでいる。

 幸せが、この子を壊している。


 その夜、私は初めて思った。


 ――助けたい。


 侍女としてではない。

 教師としてでもない。


 一人の人間として。


 愛を、教えてあげたい。


 愛が、毒じゃない形を、

 この子に見せてあげたい。


 それが、どれほど傲慢な願いか、

 この時の私は、まだ知らなかった。


 ただ、この子のそばにいようと、

 静かに、決めただけだった。


 ♢


 十二を過ぎた頃からだった。


 坊ちゃまが、一人で屋敷を出るようになったのは。


 最初は偶然だと思った。

 用事があって外に出たついでに、少し遠回りをしているのだろう、と。

 でも、それが何日も続いた時、

 私はようやく「いつも同じ方向へ向かっている」ことに気づいた。


 屋敷の裏門。

 人目につきにくい道。

 村の中心から外れ、人の足が自然と減っていく方角。


 私は問いたださなかった。

 止めもしなかった。


 ただ、少し離れたところから、後を追った。


 侍女として、坊ちゃまの身を案じるのは当然のことだ。

 そう自分に言い聞かせながら。


 坊ちゃまが辿り着いたのは、

 村の外れにある、荒れた庭だった。


 かつては誰かが手を入れていたのだろう。

 石畳の名残。

 崩れかけた柵。

 今はもう、雑草に飲み込まれて役目を終えた場所。


 坊ちゃまは、そこに足を踏み入れると、

 ただ、立ち止まった。


 座るでもなく、歩き回るでもなく。

 しばらく、何もせずただそこにいた。


 風に揺れる草を見て、空を見上げて、

 時折、目を閉じて。


 その姿を見た瞬間、私は気づいてしまった。


 ――ここは、

 エルディオ様の場所じゃない。


 坊ちゃまでもない。


 ただの、一人の人間が息をしていい場所だ。

 屋敷では常に誰かの視線がある。


 期待。

 評価。

 役割。


 でも、この庭には、何もなかった。

 求められるものも、果たすべき役目も、名前すら。


 だから坊ちゃまは、ここでだけ、

 少しだけ肩の力を抜いていた。


 それからだった。


 坊ちゃまは、ほとんど毎日この庭に来るようになった。

 何をするでもなく、

 ただ、ぼんやりと一日を過ごす。


 私は遠くから、それを見守っていた。

 声をかけることはしなかった。

 近づくこともしなかった。


 この時間は、私とのものではないと分かっていたから。


 ある日、坊ちゃまはふいに腰を下ろした。

 そして、目の前の雑草を無心で引き抜き始めた。


 理由なんて、きっとなかった。

 ただ、そこに草があったから。


 次の日には、雑草の量が減っていた。


 その次の日には、少しだけ地面が見えるようになっていた。


 やがて坊ちゃまは、屋敷に戻ると、

 執事のクリストフに声をかけた。


「鍬、貸してもらえますか」


 不思議そうな顔をする彼に、理由も告げず。

 鍬を肩に担ぎ、またあの庭へ向かった。


 無表情で、土を起こす。

 汗を流し、息を整え、黙々と。


 剣の稽古も、魔法の訓練も、私との勉強も。

 一切、手を抜いていなかった。


 だからこそ、誰も止めなかった。


 そして、ある日。


 坊ちゃまは、お小遣いで、

 小さな袋を抱えて帰ってきた。


 中身を見た私は、思わず息を呑んだ。


 ――薬草の苗。


 まだ幼く、頼りない葉。

 それを、あの庭に植え始めた。


 一本ずつ、丁寧に。


 この時、私は確信した。


 ここで坊ちゃまは、アルヴェイン家の人間ではない。

 剣聖の息子でも、神代魔法の継承者でもない。


 ただの、エルだ。


 名前だけを持った、一人の少年。


 私は、何も言わなかった。

 何も、しなかった。

 見守るだけの選択も、確かにあった。


 でも、この時すでに、

 私の中には、小さな、消えない問いが芽生えていた。


 ――この場所で、

 私は、この子に何ができるのだろうか。


 愛を教えるべきか。

 それとも、何も教えず、ただそばにいるべきか。

 答えは、まだ、出ていなかった。

 ただ一つだけ、はっきりしていたことがある。


 この庭は、坊ちゃまが初めて、

 自分の足で見つけた場所だ。


 そしてきっと、

 この場所がなければ――

 後の出会いも、選択も、生まれなかったのだと。


 私は、そう思っている。


 ♢


 それからの四年間。

 私は、あの庭を忘れたことがなかった。


 坊ちゃまは、毎日ではなかったが、

 ほとんど決まった時間に屋敷を出て、

 決まった道を通り、決まった場所へ向かった。


 剣の稽古で汗を流したあとも。

 魔法の訓練で疲労が残る日も。

 勉学で夜更かしした翌朝でさえ。


 坊ちゃまは、あの庭にだけは、足を運んだ。


 誰かに会うためではない。

 何かを成すためでもない。


 ただ、そこに行くために。


 庭は、少しずつ変わっていった。

 最初は、雑草が減っただけだった。

 次に、地面が均され、土の色が整った。


 やがて、薬草の苗が増えた。


 最初は、知識のある選び方ではなかった。

 効能も、育てやすさも、

 必ずしも理にかなってはいない。


 それでも、坊ちゃまは毎日、

 土に触れ、水をやり、

 葉の様子を確かめた。


 枯れた苗もあった。

 虫に食われたものもあった。


 それを見て、坊ちゃまは怒らなかった。

 落胆もしなかった。


「そうか」


 ただ、それだけ言って、

 次の日も、庭に来た。


 私は、その姿を見ながら、

 何度も思った。


 ――この子は、

 結果に執着していない。


 剣では勝敗を求められ、

 魔法では完成度を測られ、

 勉学では成績で評価される。


 でも、この庭では、

 失敗しても、誰も何も言わない。


 だから坊ちゃまは、安心して失敗できた。

 安心して、何者でもない自分でいられた。


 屋敷では、坊ちゃまは「期待」に囲まれている。


 剣聖の息子。

 神代魔法に手を伸ばす才児。

 アルヴェイン家の後継。


 でも、期待されることは、

 必ずしも救いではない。


 坊ちゃまは、愛されている。

 それは、間違いのない事実だ。


 けれど――

 愛されることが、この子にとって、

 時に重荷になることを、私は知っていた。


「応えなければならない」

「失望させてはいけない」


 その思いが、小さな身体に、

 静かに積み重なっている。


 坊ちゃまは、それを口にしない。


 泣きもしない。

 甘えもしない。


 だからこそ、気づいてしまう者には、

 はっきりと見えてしまう。


 夜、勉強の合間に、

 ふと見せる、ほんの一瞬の表情。


 微かに強ばる指。

 深く吸いすぎる呼吸。


 ――ああ。

 この子は、愛されることに慣れていない。


 いや。

 正確には――


 愛されることで、苦しんでいる。


 それに気づいてから、

 私はずっと、迷っていた。


 侍女として、

 従者として。


 私は、この子の人生を支える側の人間だ。

 前に出てはいけない。

 感情を持ち込みすぎてはいけない。

 それは、ずっと自分に言い聞かせてきたこと。


 坊ちゃまは、優しい。

 優しすぎるほどに。


 私が疲れていれば、必ず声をかける。

 私が無理をしていれば、さりげなく手を貸す。


「ありがとう」


 その一言を、決して忘れない。


 その優しさが、誰に向けられているのか。

 私は、分かっていた。


 だから、最初は。

 可愛い弟のように、思っていた。


 そう思うことで、

 胸の奥の違和感に、名前をつけないようにしていた。


 けれど、

 四年という時間は、ごまかしを許さない。


 坊ちゃまが成長するほど、

 背が伸び、声が変わり、視線が変わっていくほど。

 私は、自分の感情を無視できなくなっていった。


 それでも、何もしなかった。


 しなかった、というより――

 できなかった。


 この子にとって、

 私が「何かを与える」存在になることが、

 本当に正しいのか、分からなかったから。


 ♢


 そして、坊ちゃま――

 エルが十六を迎えた夏。


 あの白い髪の少女が、この庭に足を踏み入れた。


 最初は、本当に偶然だった。

 坊ちゃまがいつものように畑を整えていると、

 柵の外に、人の気配があった。


 白い日差しの中で、

 ひどく目立つ色。


 白い肌。

 白い髪。

 そして、赤い瞳。


 少女は、立ち止まっていた。

 逃げるでもなく、踏み込むでもなく、

 ただ、そこに「いる」だけだった。


 坊ちゃまが最初に声をかけたのは、

 本当に何気ない一言だったと――私は後から聞いた。


「……その草、踏まないで」


 背中から声がかかった。


 振り向くと、そこには――

 坊ちゃまとそう変わらない背丈の少女が立っていた。


 日差しの下で、肌も髪も透けるほど白い。

 白い、と言っても、陶器のような清潔さではなく、

 光に曝されるほど薄く、脆さを隠しきれない白だった。


 そして、赤い瞳。

 血の色でも、宝石でもない。

 “生まれつきそこにある”というだけで、周囲から理由のない敵意を呼ぶ色。


 少女は怯えていなかった。

 胸を張っているわけでもない。

 ただ、必要なことを必要な温度で告げる、妙に落ち着いた声だった。


「その草、薬になるの。……もらっていい?」


 頼む、というより確かめる言い方。

 許されるかどうかではなく、

 “そうするのが自然”だと知っているような口調。


 坊ちゃまは一拍、黙ったらしい。

 驚いたのではない。

 その声に、媚びも、恐れも、遠慮もなかったからだ。


「いい、けど」


 返事のあとにも、また少し間があったという。


「……君は?」


 少女は、その質問にだけ、ほんの少し迷った。


 名乗ることが、

 拒まれるか、笑われるか、呪いみたいに返ってくるか――

 そういう経験を、すでに何度もしてきた者の間だった。


 それでも、彼女は顔を上げた。


「リィナ」


 たった二音の名が、あまりにもまっすぐで、

 あの庭の空気だけが一瞬、変わった。


 その日、二人は何かを約束したわけではない。

 言葉を交わした量だって、決して多くはない。


 それでも――

 同じ場所に立ち、同じ空気を吸って、

 同じ時間を“ただ過ごした”。


 それが、始まりだった。


 私は、当然のように調べた。

 当然のように、という言葉は嘘だ。

 本当は、手が震えていた。


 調べるという行為は、守るための務めだ。

 けれど同時に、

 その子を“誰かの娘”に、

 “村の噂の対象”に、

 “危険性のある存在”に変えてしまう。


 坊ちゃまが、ようやく「ただのエル」になれていた場所に、

 私は“アルヴェイン家の目”を持ち込む。

 その矛盾が、胸の奥でいつも小さく疼いた。

 それでも私は、侍女だった。

 旦那様の言いつけを、破れない。

 村の帳簿。商家の出入り。医師の記録。

 白子の子が生まれた年。

 噂話の出どころ。

 子どもたちの意地の悪い遊び。

 大人たちの沈黙。


 ――全部、紙の上では整っていた。

 整ってしまうほどに、残酷だった。


「気味が悪い」

「不吉だ」

「近づくな」


 そう言われて育った子が、

 誰かに優しくされ慣れていないのは当然なのに。


 それでも彼女は、坊ちゃまにだけは媚びなかった。


 怯えてもいない。

 突っぱねてもいない。


 ただ、同じ温度で、同じ距離で、

 “人間として”そこにいた。


 それが、どれほど危うい奇跡なのかを、

 私はまだ正しく理解していなかった。


 旦那様――アイン様からは、

 以前から言われていた。


「エルディオの周囲に近づく人間は、必ず確認しろ」


 それは、

 辺境伯家として当然の警戒であり、

 父としての責任でもあった。


 少女の名は、リィナ。


 村にある商家の娘だった。

 薬や生活用品を扱う家で、医師とのつながりもある。


 だから、体調が悪いときにはすぐ診せられる。


 ――そういう家庭だった。


 白子。

 生まれつきの体質。


 幼い頃から、奇異の目で見られ、

 陰で囁かれ、時に露骨な拒絶に晒されてきた。


「気味が悪い」

「不吉だ」

「触るな」


 そんな言葉と一緒に、育ってきた少女。


 けれど、坊ちゃまは――


 エルは、そのどれもを彼女に向けなかった。


 辺境伯家の子息だと、彼女は知っていた。


 それでも、彼女はエルを「エルディオ様」とは呼ばなかった。


「エル」


 ただ、それだけ。

 敬意も、畏怖も、期待もない。


 ――それは、

 坊ちゃまが、ずっと欲しかった距離だった。


 二人は、ただ一緒に畑にいた。


 会話は少ない。

 未来の話はしない。

 “来年”という言葉が、ほとんど出ない。


 代わりにあるのは、土の湿り気の話。

 雑草の根の強さ。

 水をやる時間のこと。

 日差しの角度。


 そういう、どうでもいいはずの言葉だけ。


 坊ちゃまは畑の端に苗を植え、

 リィナはその傍で草を選んで抜いた。


「それは残して。薬になる」

「これは抜いていい」

「……あ、そこ、棘」


 彼女は命令しない。

 教えるようでもない。

 ただ“知っていること”を淡々と渡す。


 坊ちゃまは受け取る。

 受け取って、何も言わずに従う。


 それが、あまりにも自然で、

 私は何度も息が詰まった。


 ――この庭で、坊ちゃまは誰かに従っても苦しくない。

 従わされていないからだ。


 夏が過ぎた。

 彼女は日傘を差した。

 日差しが強くなるほど、彼女の肌は危うく見えた。

 それでも来た。


 秋が来た。

 風が涼しくなると、彼女の呼吸は少しだけ楽そうになった。

 それでも、長くは居られなかった。


 冬が来た。

 手が悴む。

 土は硬い。

 彼女は手袋をしても指先が白くなった。

 それでも来た。


 そして春が来た頃――

 彼女は、はっきりと“遅れて”くるようになった。


 少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 でも、その「少し」が、積み上がる。


 畑に立つ時間が短い。

 座る回数が増える。

 笑うとき、息が途切れる。


 坊ちゃまは何も言わない。

 言えない。


 私も、何も言えない。

 言えばそれは、ここを“いつもの場所”ではなくしてしまうから。


 それでも、リィナは笑う。


「今日は、ここまでだね」


 それは宣言じゃない。

 ただの報告。

 けれど、その言葉が“終わり”を含んでいることを、

 私だけが知っているようで、胸が苦しくなった。


 そう言って、自分から帰った。

 坊ちゃまは、それを引き止めなかった。


 でも――

 春が来た頃。


 私は、はっきりと分かった。

 病状が、進んでいる。

 彼女は、もう誤魔化せていない。


 そして、

 坊ちゃまも――

 気づいてしまった。


 そこからだった。


 坊ちゃまが、

 書庫に籠るようになったのは。


 最初は、理性の範囲だった。

 薬草を調べ、

 体質を調べ、

 医師の記録を確かめる。


 ――“正しい努力”の顔をしていた。


 でも、坊ちゃまの努力はいつも、正しさだけでは終わらない。


「足りない」

「まだ足りない」

「ここにないなら、もっと古い場所にある」


 その声が、いつからか独り言になった。


 蝋燭が増える。

 机が埋まる。

 紙が積み重なる。

 インクが乾くより先に、次の線が引かれる。


 寝ていない目は、光を失っているのに、

 思考だけが異様に冴えていた。


 魔法で本が浮く。

 ページがめくられる。

 文字が吸い込まれる。


 それは才能の輝きではなく、

 人間をやめる手前の速度だった。


 私は何度も、扉の前に立った。

「お休みください」

 それだけ言えばいいのに。


 でも、言えなかった。


 ――もし止めたら。

 坊ちゃまはきっと、私に笑う。


「大丈夫」

「平気だよ」

「ありがとう」


 その“優しさ”が、

 今の坊ちゃまにとっては刃だと知っているからこそ、

 私は余計に何も言えなかった。


 最初は、調べもの程度だった。


 薬草。

 体質。

 古い医学書。


 でも、それはすぐに変わった。


 魔法で、何十冊もの書物を浮かせ、

 同時にページを捌く。


 おおよそ人のやることではない。


 思考を分割し、知識を無理やり詰め込み、

 一睡もせずに夜を越える。


 毎夜、朝まで。


 書き、

 描き、

 消し、

 書き直す。


 魔法陣。

 術式。

 仮説。


 捕まえてきた虫。

 小動物。


 実験。


 成功と失敗を、感情なく繰り返す。


「エル様……そんなに、あの娘のことを……」


 私は、何度も声をかけようとした。


 止めたかった。

 抱きしめて、

「もういい」と言いたかった。


 でも、坊ちゃまの目は私を見ていなかった。

 何かに取り憑かれていた。


 ――いいえ。


 違う。


「失いたくない」


 ただ、それだけだった。


 そして、ある夜。


「……成功だ」


 その声は、静かだった。

 けれど、重かった。


 神代の禁術。


 人が、人であってはならない領域。

 坊ちゃまは、それを――

 ものにしてしまった。


 してしまった、のだ。


 私は、後ろからそっと抱きしめた。

 驚いたようにエルが振り向く。


 笑っていた。

 でも――

 頬を、涙が伝っていた。


「……メイリス」


 もう、限界だった。

 叫びたかった。

 やめて。

 もう無理をしないで。

 それは、人として使ってはいけない。


 全部。


 全部、言いたかった。


 でも、私が言えたのは、たった一言だった。


「……お疲れさまでした」


 それしか、言えなかった。


 それが、侍女としての言葉であり、

 そして――

 この子を愛してしまった、私の精一杯だった。


 ♢


 あの日の朝、

 坊ちゃまがリビングへ向かったあと、私は自室に戻った。


 足が、震えていた。


 扉を閉めた瞬間、

 張り詰めていたものが、音を立てて崩れた。


「……っ」


 声が、漏れる。


 抑えようとした。

 長年、そうしてきた。


 侍女は泣かない。

 侍女は感情を表に出さない。

 主の前では、常に穏やかであれ。


 ――分かっている。

 分かっているのに。


 膝から力が抜け、私は床に座り込んだ。

 喉の奥が、ひどく、ひどく痛かった。


「……エル様……」


 名前を呼んだ瞬間、堰が切れた。

 声が、抑えきれなくなる。


「どうして……どうして、あなたなんですか……」


 私は、知っていた。

 今日、旦那様と奥様が、あの子を呼び出す理由を。


 紙一枚。

 魔法陣の核。

 神代の禁術。


 すべて、私の目の前で積み上がっていったものだった。


 止められたはずだった。

 何度も。


「もう十分です」

「ここまでにしてください」

「壊れてしまいます」


 言えたはずだった。

 でも、言えなかった。

 あの子の目を見てしまったから。


 必死で。

 縋るようで。

 それでいて、どこか諦めきった目。


 ――失うくらいなら、

 ――自分が壊れても構わない。


 そんな覚悟を、十六歳の少年がしてしまうことの、異常さを。

 私は、「理解してしまった」。

 理解してしまったがゆえに、

 止められなかった。


「……最低ですね、私……」


 床に手をつき、声を殺そうとする。

 でも、涙は止まらない。


「侍女失格です……」


 坊ちゃまを守るために仕えてきた。

 支える側でいると決めた。

 感情は、持たないと決めた。


 それなのに。


 あの夜。


 禁術を完成させたときの、あの子の顔。


 笑っていた。

 泣いていた。


 私は、抱きしめてしまった。

 侍女として、してはいけないことだった。


 でも、

 あの瞬間だけは――


「……お疲れさまでした」


 そう言った声が、今も耳に残っている。

 あれは、侍女の言葉だったのか。


 それとも――

 愛してしまった女の、最後の嘘だったのか。


「……愛してる……」


 気づいたときには声に出ていた。


 誰に聞かせるでもない。

 許されるはずもない。


 それでも。


「エル様……あなたを……愛しています……」


 胸が、引き裂かれる。

 ずっと、弟のように思っていた。

 そう、思い込もうとしていた。

 でも違った。


 私は、この子の痛みに気づいてしまった最初の人間だった。

 愛されることに、苦しんでいること。

 期待されるたびに、自分を削っていること。


「坊ちゃまは、愛されることに慣れていない」


 そう気づいた日から。

 私は、この子を「救いたい」と思ってしまった。

 それが、侍女の仕事を越えていると知りながら。


「……お願いだから……」


 声が、嗚咽に変わる。


「これ以上、壊れないで……」


 今日、きっと言われる。


 叱責される。

 怒鳴られる。

 もしかしたら、殴られる。


 でも、それでも。


 あの子は、「使わない」と言うだろう。


 自分を守るためじゃない。

 あの少女を、守るために。


 それがどれほど残酷な選択か。

 私は、分かっている。


 救える力を持ちながら、使えない。

 使えば人でなくなる。

 使わなければ、失う。

 その狭間で、あの子は立っている。


「……エル様……」


 私は、床に額をつけた。


 祈るように。

 縋るように。


「どうか……どうか……」


 何を願えばいいのか、もう分からなかった。


 助かってほしいのか。

 壊れないでほしいのか。

 それとも――

 ただ、生きてほしいのか。


 全部、矛盾している。


 だから、私は知ってしまった。

 もう、引き返せない。

 この愛は、正しくない。

 でも、消せない。


 坊ちゃまがリビングで、

 自分の想いを告げているその時。


 私は、大人とは思えないほど、

 声を上げて泣いていた。


 愛している、と。


 許されないと分かっていながら。

 この子が世界に壊されてしまわないように。


 ――それでも、何もできないまま。


 ただ、愛してしまったことだけを胸に抱えて。


 ♢


 応接間を出るとき、私は一度も振り返らなかった。

 振り返ってしまえば、顔に浮かぶものを抑えきれなくなると分かっていたから。


「――以上が、私たちの結論だ」


 アイン様の声は、低く、硬かった。

 辺境伯としてではなく、父として出した答え。


 禁術は許されない。

 研究はここで終わり。

 これ以上、深入りはさせない。


 そして――

 最後に、ミレイユ様が、静かに言った。


「……エルは、あの子を愛しているそうよ」


 一瞬、世界の音が消えた。

 呼吸が、止まった。

 それでも私は、侍女だった。


「……左様でございますか」


 声は、驚くほど穏やかだった。

 自分の声なのに、他人のものみたいに聞こえた。


「坊ちゃまらしいことです」


 微笑みの角度まで、手が覚えている。

 侍女は、主の幸福を祝う顔をする。

 その訓練だけは、裏切らなかった。


 ミレイユ様が、少しだけ唇を噛んだ。

 アイン様は何も言わない。

 “それ以上は踏み込むな”という沈黙。


 私はそれを、当然のように受け取ってしまう。


 ――私は侍女だ。

 泣く権利はない。

 恋をする権利もない。


 一礼し、扉を閉め、廊下へ出る。

 歩幅を乱さない。

 呼吸も整える。

 目線を落としすぎない。


 誰にも、悟らせないように。


 曲がり角で若い侍女を見つけ、

 私は口を開いた。


「この後の坊ちゃまのお世話、代わっていただけますか。少し体調が……」


 体調が悪い。

 嘘ではない。

 胸の奥が、きしむ音がする。


 自室に戻り、鍵をかける。

 扉に背を預けた瞬間――


 膝が崩れた。


「……っ」


 声にならない息が漏れた。

 呼吸が浅い。

 喉が熱い。

 目の奥が痛い。


 分かっていた。

 分かっていたのに。


 あの白い髪の少女が、

 坊ちゃまにとって“世界そのもの”になっていったこと。


 坊ちゃまが、


 “生きる理由”を手にしてしまったこと。


 それは祝福で。

 同時に呪いだ。


「……どうして……」


 誰も悪くない。

 それが一番、残酷だった。


 リィナは奪っていない。

 ただ“エル”を見ただけ。


 坊ちゃまも悪くない。

 ただ“愛してしまった”だけ。


 ――なのに。

 私は、私だけが、置いていかれる。


 置いていかれる、という言葉は、あまりに子どもじみている。

 けれど、これ以上に正しい言い方を、私は知らなかった。


「メイリス」という名前で呼ばれていた時間。

「分かってくれる人」としてそこに立てた役割。

 それが、今日たった一言で、終わってしまった。


 指先が震えて、髪留めが外れた。

 床に落ちた小さな音が、やけに大きく響く。

 拾わなければならないのに、身体が言うことを聞かなかった。


 夜更け。

 窓の外は深い青。

 月明かりが床に落ちて、部屋を白く切り取る。


 私はふらつきながら鏡の前に立った。


 そこに映っていたのは――

 侍女ではなかった。


 いつもなら、アッシュブラウンの髪は低い位置でまとめ、

 一本も遊ばせない。


 そのはずなのに今は、指を通すことも忘れて乱れ、

 前髪は頬に張りつき、涙で重くなっている。


 淡いブラウンの瞳は赤く腫れ、

 瞬きをするたびに、まだ涙が滲んだ。


 白い肌には涙の跡が残り、

 口元だけが、取り繕いの癖で薄く笑おうとして――

 その途中で、崩れた。


「……本当に……」


 声がかすれる。


「……滑稽ですね……私……」


 ――エルは、あの子を愛している。


 その言葉が、胸の奥で何度も反響して、

 私は、鏡の前で膝から崩れ落ちた。


 二十七年。

 仕えるために生きてきた。


 感情は管理するもの。

 愛情は、主に向けるものではない。


 そう、誰よりも理解していたはずなのに。


「……愛してしまいました……」


 鏡の中の自分に、そう告げる。

 声が、震える。


「坊ちゃま……」


 呼びかけた瞬間、胸の奥が、焼けるように痛んだ。

 あの子は、もう、私を見ない。


 私の気遣いも、

 私の沈黙も、

 私の支えも。


 すべてを越えて、

 彼は“誰かを愛した”。


 それは、祝福されるべきことだ。


 分かっている。

 頭では。


 でも。


「……私は……」


 声が、崩れる。


「……私は、あなたのそばにいることでしか、生き方を知らなかった……」


 侍女として。

 理解者として。

 支える者として。


 その役割に、

 救われていたのは――

 私の方だったのかもしれない。


「……置いていかないで……」


 誰にも聞かせられない言葉が、

 夜に溶ける。


 月明かりの中、私はその場に崩れ落ちた。

 声を殺すことも、

 美しく泣くことも、

 もうできなかった。


 ただ、慟哭する。


 愛している、と。

 届かないと分かっていながら。


 この想いを、誰にも知られてはいけないまま。

 私は、夜が終わるまで泣き続けた。

 侍女としてではなく、理解者としてでもなく。


 ただ一人の女として。


 エルディオ・アルヴェインを

 愛してしまった、その代償を抱えたまま。


 ――そして、

 朝が来れば、また私は仮面を被る。

 何事もなかったように。


この章は、

「語られなかった時間」と

「選ばれなかった感情」を書くためのものでした。


誰かを愛する物語の裏側には、

必ず、声を上げられなかった人がいます。

正しさを選び、役割を守り、

それでも確かに、心を持ってしまった人が。


メイリスは救えません。

救われもしません。

けれど、彼女が“見てきた”という事実だけは、

この物語から消えてほしくなかった。


愛は、いつも祝福されるとは限らない。

それでも人は、愛してしまう。


この章が、

誰かの胸に小さな痛みを残したなら、

それで十分だと思っています。


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