18.夏は止まらない-3
朝食を摂った後、僕はメイリスからリビングに来るようにと言われた。
声の調子は、いつもと変わらなかった。
急かすでもなく、叱るでもなく、淡々とした呼び方。
だからその時は、深く考えもしなかった。
身支度を簡単に整え、廊下を渡ってリビングへ向かう。
窓から差し込む朝の光は穏やかで、
屋敷の中はいつも通り、静かだった。
――いつも通り。
その言葉を、心の中でなぞる。
扉を開けると、アインとミレイユが揃っていた。
二人とも席についている。
向かい合っているわけでもなく、
かといって談笑している様子もない。
空気が、妙に張りつめていた。
「……?」
思わず足を止める。
ふたりしてどうしたのだろう。
アインとの剣術の稽古も、ミレイユとの魔法訓練も、
手を抜かず、指示されたことはすべてこなしている。
メイリスとの勉強もそうだ。
最近は書庫に籠る時間が増えているが、
課題を落とした覚えはない。
何か叱られる理由が、すぐには思い浮かばなかった。
「エルディオ」
アインが名を呼ぶ。
低く、短い声。
「そこに座りなさい」
命令だった。
「……? はい、父上」
言われるまま、椅子を引いて腰を下ろす。
座った瞬間、背筋が自然と伸びた。
アインは腕を組み、眉間に深い皺を刻んでいる。
剣を握っている時と同じ顔だ。
感情を押し殺し、判断だけを前に出す時の表情。
ミレイユは、僕を見ていない。
視線を伏せ、両手を膝の上で重ねている。
その指先が、わずかに震えているのが見えた。
――ああ。
その時、ようやく気づいた。
これは、稽古の話でも、勉強の話でもない。
アインが、テーブルの上に一枚の紙を置いた。
丁寧に畳まれていたそれを、指で押し出す。
「エルディオ」
低く、重い声。
「これは、なんだ。説明しなさい」
紙を見た瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。
そこに描かれていたのは、
かつて僕が、何度も書き直し、
破り、描き直した魔法陣の一部。
神代魔法の禁術。
肉体の再構成と、魂の定着を同時に行う、
大規模魔法陣の核となる構造式。
――見覚えがありすぎる。
「……どうして、父上がそれを?」
声は、思ったよりも冷静だった。
アインは答えない。
「いいから、説明しなさい」
語気が、わずかに強まる。
その一言で分かった。
ここで言い逃れをする余地はない。
僕は、紙から視線を離し、父を見た。
「……わかりました」
喉が少しだけ乾いている。
「それは、神代魔法の一つです。
人間の肉体を、術者の意図した形に再構成し、
そこに、元あった魂を定着させる魔法です」
自分の声が、部屋に響く。
「神代の魔法理論では、成功率は10%にも満たないとされています。
ですが――」
一拍、置く。
「僕が独自に改良を加えました。
魔力循環と定着過程を再設計し、安全性を飛躍的に向上させています」
その瞬間、ミレイユが息を呑んだ。
「エル……」
震える声で、名を呼ばれる。
「まさか、あなた……この魔法を、使ったの……?」
視線が、胸に突き刺さる。
「……はい」
否定はしなかった。
「いきなり人間で試すわけにはいきませんでしたから。
虫や、小動物で、ですが……」
言葉を選んでいるつもりはなかった。
事実を、そのまま述べただけだ。
「先ほど、安全性を飛躍的に上げたと言いましたが……
今では、成功率は100%です」
言い切った瞬間、
自分がどんな顔をしているのか、分からなくなった。
きっと――
親に褒めてもらいたい子供のような、
そんな笑顔だったのかもしれない。
次の瞬間だった。
バチンッ!!!
乾いた破裂音が、リビングに響いた。
何が起きたのか理解する前に、
視界の端で、アインの拳が迫っていた。
反射的に、結界魔法が自動展開される。
衝撃は弾かれ、空気が震えた。
「……!」
椅子が、わずかに軋む。
「父上、これは一体――」
言いかけたところで、
アインの怒声が被さった。
「どういうことだと?!」
声を荒げたのは、初めてだった。
「お前は、自分が何をしているのか……
本当に、分かっているのか?!」
その目は、怒りで赤くなっていた。
それでも僕は――
目を逸らさなかった。
「えぇ」
静かに、答える。
「えぇ、分かっていますよ」
自分の声が、やけに落ち着いて聞こえた。
その落ち着きが、逆にこの場の空気を冷やしたのだと、後になって気づく。
アインは拳を下ろさなかった。
結界越しに睨みつける視線は、怒りというより――失望に近い。
「分かっている、だと……?」
低い声だった。
怒鳴らない。叱責もしない。
だからこそ、その一言は重かった。
「お前が今、どこに足をかけているのかを分かっていると、本気で言うのか」
答えは、用意してあったはずだった。
論理も、理屈も、説明も。
それなのに、口を開いた瞬間、言葉が喉に引っかかる。
「……分かっています」
それでも、同じ言葉を繰り返した。
ミレイユが、震える息を吐いた。
両手を胸の前で握りしめ、僕を見る。
「エル……あなた……そこまでして、リィナちゃんのことを……」
責める調子ではなかった。
怒っているわけでも、否定しているわけでもない。
ただ、信じられないものを見るような目だった。
「あなたが、そんな魔法に手を出すなんて……」
母の声が、少しだけ掠れていた。
それが、僕の胸を一番強く締めつけた。
「大丈夫ですよ、母上」
思ったよりも、穏やかな声が出た。
「これを使う予定も、つもりもありません」
その言葉に、ミレイユの目がわずかに揺れる。
「……本当に?」
「はい」
即答だった。
迷いも、間も、入らなかった。
「もう、使いません。使えませんし……使うべきじゃない」
アインが、ゆっくりと拳を下ろした。
それでも、視線は鋭いままだ。
「理由を言え」
短い命令だった。
逃げ道はない。
僕は一度、深く息を吸った。
「この魔法は……確かに、理論上は成立します。
成功率も、実験段階では限りなく100%に近づけました」
その言い方に、ミレイユが顔を強ばらせる。
「……けれど」
続ける。
「それは“条件が揃えば”の話です。
素材も、環境も、術者も、対象も……
すべてが揃った時にだけ、成立する理論です」
アインは黙って聞いていた。
「人間に使うには……あまりにも、代償が大きい。
肉体だけじゃない。
精神も、魂も、時間も……全部を賭ける魔法です」
「……だから、使えないと?」
「いいえ」
首を振る。
「使えないんじゃない。
使う資格が、僕にはない」
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥で何かが、静かに折れる音がした。
「資格……?」
ミレイユが、小さく呟く。
「はい。
この魔法は、“救う側”がすべてを引き受ける前提で成り立つ。
成功しても、失敗しても……その結果を背負う覚悟が必要です」
「……」
「でも、僕は――」
言葉を選ぶ。
「僕は、誰かの人生を引き受けられるほど、強くありません」
それは、初めて口に出す弱さだった。
「救えたとしても、
その先で何が起きるか、僕には保証できない。
彼女の未来も、選択も、時間も……
僕が奪ってしまう可能性がある」
ミレイユの目から、静かに涙が落ちた。
「……エル……」
呼ぶ声が、あまりにも優しかった。
「あなた……あの子のことを……」
「えぇ…愛していますよ」
重ねるように、はっきりと言った。
「大切です。
一緒にいられる時間が、かけがえなくて……
失いたくないと思ってしまった」
アインが、初めて目を伏せた。
「……ミレイユから、話は聞いた」
その一言で、空気が変わる。
「リィナという少女のこと。
病のこと。
医師の見解も、家族の状況も……調べさせた」
胸が、ひくりと跳ねた。
「父上……」
「知らずに止めるほど、私は愚かではない」
重い声だった。
「分かっているからこそ言う。
エルディオ、お前が考えている“可能性”は……
すでに、何人もの人間が辿り着き、そして手を引いた場所だ」
「……」
「成功例がないのには、理由がある。
理論が間違っているからではない。
“成功してはいけない”からだ」
その言葉が、胸に落ちる。
「誰かを救うために、誰かが壊れる魔法は……
救いではない」
静かな断言だった。
「お前は……もう、答えに辿り着いている。
だから、使わないと言ったんだろう」
僕は、何も言えなかった。
使わない。
使えない。
使うべきじゃない。
全部、本当だ。
でも同時に――
使えたら、と思ってしまった自分も、確かにここにいる。
ミレイユが、そっと僕の手を取った。
「エル……」
その温度が、痛い。
「あなたは……優しすぎるのよ」
責める言葉じゃない。
褒める言葉でもない。
「だから、苦しくなる。
誰かを救おうとして……自分を失ってしまう」
彼女は、涙を拭って、微笑んだ。
「使わない、と言えてよかった。それは……逃げじゃない」
逃げじゃない。
その言葉が、胸に刺さる。
――本当に、そうだろうか。
「……リィナには」
絞り出すように言う。
「何も、言っていません。この魔法のことも……調べたことも」
アインが頷く。
「それでいい」
「……」
「お前が背負うべきものではない。
そして、彼女に背負わせるべきものでもない」
正しい。
全部、正しい。
だからこそ――
どうしようもなかった。
この場に、奇跡はない。
選択肢も、抜け道もない。
あるのは、
分かってしまった現実だけだ。
僕は、静かに目を閉じた。
「……分かりました」
それ以上、何も言えなかった。
使わない。
越えない。
もう、ここまでだ。
そう、言葉では区切りをつけた。
それでも心のどこかで、
失った可能性の重さだけが、沈殿していく。
――これが、正しい結末なのだと。
誰もが、そう言える形で。
♢
僕はリビングを後にした。
扉を閉めた瞬間、
張りつめていた空気が、背中から一気に剥がれ落ちた気がした。
それでも、足取りは重いままだった。
廊下は静かだった。
朝の光が窓から差し込み、
いつもと同じ屋敷の朝が、そこにあった。
――何も変わっていない。
それが、ひどく残酷だった。
アインとミレイユを、失望させてしまっただろうか。
その考えが、遅れて胸に落ちてくる。
僕は、彼らが望む生き方をしてきたつもりだった。
魔法に才能があると言われれば、魔法に取り組んだ。
剣を教えると言われれば、
求められる以上の成果を出すよう努めた。
努力すること自体は、嫌いじゃなかった。
できるようになる感覚も、評価されることも、
確かに、嬉しかった。
勉強だってそうだ。
メイリスとの時間は穏やかで、
新しい知識を知るのは、純粋に楽しかった。
だから――
僕は、間違っていないと思っていた。
「それなのに……」
足を止め、
廊下の窓から外を見下ろす。
庭は、よく手入れされている。
草木は揃い、何一つ乱れていない。
「どうして、こうなっちゃったんだろうな」
声に出した瞬間、その言葉がひどく幼く聞こえた。
まただ。
また、僕は間違えた。
過去から、何も学んでいない。
自分が「正しい」と信じた選択を重ねて、
その結果が、誰かを追い詰める。
それを、何度も繰り返している。
「……」
胸の奥が、静かに痛んだ。
責められたわけじゃない。
怒鳴られたわけでもない。
それでも、父の拳より、母の震える声より、
あの紙に書かれた術式より――
「分かっているのか」と問われたことが、
一番、きつかった。
分かっている。
分かっているつもりだった。
でも本当は、
分かっていなかったのかもしれない。
「……リィナに、会いたいな」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
誰に向けたわけでもない。
ただ、胸の奥から、自然に浮かんだ名前。
彼女に会いたい。
理由なんて、考えなくても分かる。
彼女の前では、何者でもなくいられた。
期待も、役割も、
才能も、責任も、
全部、置いていけた。
彼女と“いつも通り”を過ごしたい。
畑で、並んで立って。
他愛もない話をして。
季節の話をして。
それだけでいい。
僕の気持ちも、僕の力も、全部蓋をして。
何も考えずに、ただ同じ時間を過ごしたい。
それが、どれほど身勝手な願いか分かっているはずなのに。
気づけば、足は勝手に動いていた。
廊下を抜け、屋敷の外へ出る。
夏の空気が、一気に肌にまとわりつく。
力の抜けた足取りで、
畑へ向かう道を歩き出す。
逃げているのかもしれない。
でも、行く先は一つしかなかった。
――彼女のいる場所へ。
♢
リビングには、重たい沈黙だけが残っていた。
扉が閉まる音が、やけに遠く聞こえる。
アインは、しばらくその扉を見つめたまま動かなかった。
拳を握ったまま、力を抜くことも忘れている。
「……あの子は」
低く、抑えた声で呟く。
「本当に、使わないつもりなのか」
ミレイユは、答えなかった。
代わりに、胸元で手を組み、ゆっくりと息を吐く。
「使えないのよ」
静かな声だった。
「使わない、じゃない。
使えないところまで、もう分かってしまったの」
アインは、わずかに眉をひそめる。
「……それでも、あそこまで調べ上げた。
あれほどの術式を完成させておいて、だ」
「だからよ」
ミレイユは、視線を落とした。
「エルは、もう引き返している」
「……」
「救える“かもしれない”って場所に、
一度、立ってしまったからこそ」
その先の言葉を、彼女は飲み込んだ。
――それ以上進めば、
息子は“人であること”を失う。
その覚悟が、あの子には出来なかった。
そしてそれは、弱さじゃない。
「……」
アインは、深く息を吐いた。
怒りでも、失望でもない。
もっと厄介な感情――無力感だった。
「リィナという娘のことは、調べた」
その言葉に、ミレイユが顔を上げる。
「病は、治らない。
進行を遅らせることしか出来ない。
魔法でどうにかなる領域ではない」
アインは、ゆっくりと言葉を選んで続けた。
「……エルが知ってしまったのは、
“救えない現実”だけじゃない」
「……」
「それでも、彼女を選んだ自分自身だ」
ミレイユの目が、わずかに揺れた。
「それが、あの子の初めての――
“自分で選んだ苦しみ”なのね」
「そうだろうな」
アインは、視線を伏せた。
「我々が止めることは出来る。
だが、背負わせないことは出来ない」
沈黙が、再び部屋を満たす。
窓の外では、夏の光が静かに差し込んでいた。
「……あの子」
ミレイユが、小さく呟く。
「きっと、畑に行くわね」
「……だろうな」
止める理由は、もうない。
止めたところで、
息子の心が戻るわけでもない。
アインは、静かに目を閉じた。
「――あの子が壊れないことを、祈るしかない」
エルの親として、歴代最強の魔導士として。
どうしようもなく無力な願いだった。
そしてその祈りが、どれほど脆いものかを、
二人とも、もう分かっていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第18話では、
「救えないことを理解している大人」と
「それでも進もうとしてしまった少年」を描きました。
正しさは、ここにあります。
理屈も、判断も、すべて間違っていません。
それでも、
正しいだけでは人は救われない、
そんな現実が、静かに残った回でした。
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