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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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17/32

17.夏は止まらない-2

 夏は、止まってくれない。


 日を追うごとに、畑の空気は重くなっていった。

 朝のうちはまだ耐えられる。

 けれど、太陽が少しでも高く昇ると、世界は急に牙を剥く。


 日差しが、痛い。


 照らす、というより、突き刺す。

 肌に触れる前から熱を帯びた光が、逃げ場を奪うように降り注ぐ。

 畑には、遮るものがない。

 作物は低く、支柱の影は短く、

 人ひとりが身を隠すには、あまりにも頼りない。


 影が、ない。

 正確に言えば、影はある。

 けれど、それは足元に貼りつくような薄い線で、

 身体を預ける場所にはならなかった。


 この場所は、もう“作業場”じゃない。

 耐える場所だ。


 湿度を含んだ空気が、胸の奥にまとわりつく。

 息を吸っても、十分に肺に届かない。

 吐いた息が、すぐに熱を帯びて戻ってくる。


 僕でさえ、呼吸が浅くなる。


 だから――

 彼女にとって、この季節がどれほど過酷か、考えるまでもなかった。


 アルビノのリィナにとって、夏は敵だ。

 光は優しくない。

 肌に触れる前から、身体を削る。


 それでも、彼女は畑に来る。


 白い日傘を差して。

 薄い布で、身体を覆って。

 まるで、夏そのものと交渉するみたいに。


 この場所に、来る理由があるかのように。


 そして僕は、その理由を聞かないまま、

 今日も畑に立っていた。


 ♢


 日差しは、容赦がなかった。


 太陽は真上に近く、影はほとんど地面に貼りついている。

 畑のどこに立っても、逃げ込める場所はない。

 風は吹いているはずなのに、

 熱を含んだ空気が、ただ撫でるだけで通り過ぎていく。


 リィナは、いつもよりゆっくりと歩いていた。


 白い日傘を差し、

 足元を確かめるように一歩ずつ進む。

 歩幅が、少しだけ小さい。


「……暑いね」


 そう言って、彼女は笑った。

 笑顔は、いつもと変わらない。

 声の調子も、ほとんど同じだ。


 それでも――

 違和感は、確かにあった。


 彼女は畑の端まで来ると、

 すぐにはベンチに向かわなかった。

 一度、立ち止まり、

 周囲を見回す。


 影を、探している。


 その視線が、ほんの一瞬、地面を彷徨った。

 作物の影。

 支柱の影。

 どれも、頼りにならない。


「……ここで、いいかな」


 独り言みたいに呟いて、

 ようやくベンチに腰を下ろす。


 座る動作が、少し遅い。

 身体を折る前に、一呼吸置く。

 ほんのわずかな間。


 それだけなのに、

 胸の奥がざわついた。


「無理、してない?」


 言葉は、自然に口をついた。


 リィナは一瞬だけ、目を瞬かせてから、

 小さく首を振る。


「してないよ。ほら」


 そう言って、両手を軽く広げる。

 冗談めいた仕草。

 でも、その動きに、ほんの僅かな重さがあった。


 日傘を持つ手が、

 わずかに震えている。


 気のせいだ、と言い聞かせるには、

 少しだけ、長く見えてしまった。


 リィナは水筒に手を伸ばす。

 蓋を開け、一口。

 間を置かず、もう一口。


「……喉、乾くね」


 そう言って笑うけれど、

 笑顔の端が、ほんの少しだけ引きつっている。


 以前より、水を飲む回数が多い。

 その事実が、

 頭の片隅で静かに積み上がっていく。


 作業を始めても、彼女はほとんど動かなかった。


 畑を眺めている。

 でも、視線は作物を追っていない。

 遠くを見るようで、

 実際には、何も焦点が合っていないように見えた。


「……風、来ないね」


 呟く声が、少し掠れている。

 僕は返事をしようとして、

 一瞬、言葉に詰まった。


 来ている。


 風は、確かに来ている。

 でも、それを否定することが、

 彼女の“平気”を壊してしまう気がして、

 結局、何も言えなかった。


 鍬を振るう。

 土に刃が入る音が、やけに大きい。


 作業をしている間も、

 視線は無意識に彼女を追ってしまう。

 リィナは、時々、日傘の角度を変える。


 それが、

「眩しいから」なのか、「暑いから」なのか、

 それとも――別の理由なのか。


 分からない。


 分からないまま、分かってしまうことが、

 一番、怖かった。


 しばらくして、彼女はベンチから立ち上がろうとした。


「……ちょっと、歩こうかな」


 そう言って、膝に手をつく。

 立ち上がるまでに、一拍。

 身体が前に倒れそうになり、ほんのわずかに揺れた。

 反射的に、一歩踏み出しそうになる。


 ――支えなきゃ。


 そう思った瞬間、

 自分の足が止まっていることに気づいた。


 支えることは、簡単だ。

 手を伸ばせばいい。

 触れればいい。


 でも、それをしたら、

 きっと、何かが壊れる。


 リィナは、自分で立ち上がった。


 深く息を吸い、

 ゆっくりと、姿勢を整える。


 ほんの数秒。

 それだけの時間なのに、

 異様に長く感じられた。


「……ほら」


 彼女は、こちらを見て笑う。


「大丈夫でしょ?」


 その声は、自分自身に言い聞かせるみたいだった。

 僕は、何も言えなかった。

 大丈夫じゃない、と言う資格も。

 大丈夫だ、と言い切る勇気も。


 ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


 夏は、止まらない。


 それは、

 時間の話だけじゃない。


 身体も、感覚も、限界も。

 すべてが、静かに、確実に、前へ進んでいく。

 気づいた時には、もう戻れない場所まで。


 その入口に、僕たちは、もう立っていた。


 ♢


 日差しは、さらに強くなっていた。


 太陽はほとんど真上にあり、

 畑には影らしい影がない。

 空気は動かず、熱だけがその場に溜まっていく。


 土の匂いが、むっと鼻を突く。

 湿った熱が、肺の奥にまとわりつくようで、

 深く息を吸うのが少しだけ苦しかった。


 リィナは、しばらくベンチに座ったまま、

 何も言わずに畑を眺めていた。

 日傘を差したまま、視線だけが、ゆっくりと動く。


「……ねえ、エル」


 静かな声。

 振り返ると、彼女は僕を見ていなかった。


「夏ってさ……ほんと、厳しいね」


 それは、ただの感想のはずだった。

 天気の話。

 季節の話。


 でも、その言葉の後、彼女は何も続けなかった。


 沈黙が落ちる。


 風が吹かない。

 蝉の声も、まだ遠い。


 世界が、一瞬、止まったみたいに感じられた。

 リィナは、ゆっくりと日傘を畳んだ。


 その動作が、思ったよりも慎重で、

 一つ一つを確認するようだった。


「……少し、動こうかな」


 そう言って、彼女はベンチの縁に手をつく。

 立ち上がろうとした、その瞬間だった。


 身体が、わずかに前に傾いた。


 ほんの一瞬。

 誰かが見ていなければ、

 気づかない程度の揺れ。


 でも、僕は見ていた。

 心臓が、強く脈打つ。


 ――危ない。


 反射的に、足が前に出そうになる。

 手が、伸びかける。


 その距離は、ほんの一歩分しかなかった。


 触れれば、支えられる。

 触れれば、倒れない。


 でも――


 僕は、止まった。


 足は、地面に縫い止められたみたいに動かない。

 伸ばしかけた手が、空中でわずかに震える。


 リィナは、自分で踏みとどまった。


 膝に置いた手に力を込め、

 深く、深く息を吸う。

 肩が、大きく上下する。


「……っ」


 小さな音。

 声にならない、息の漏れる音。

 彼女は、目を閉じた。

 数秒。

 たったそれだけの時間。

 でも、永遠みたいに長かった。


 ようやく、リィナはゆっくりと顔を上げた。

 額に、うっすらと汗が浮かんでいる。

 でも、量は多くない。

 そのことが、逆に僕の胸を締めつけた。


「……大丈夫」


 そう言って、彼女は立ち上がる。

 今度は、倒れなかった。


「ほら」


 こちらを見て、小さく笑う。


「ちゃんと、立てた」


 その笑顔は、春の頃と変わらない。

 変わらないように、必死で保たれている笑顔だった。


「……ほら、大丈夫でしょ?」


 その一言が、胸の奥に、深く沈んだ。


 大丈夫じゃない。

 でも、

 大丈夫だと、言わせてしまっている。


 僕は、何も言えなかった。

 支えなかった。

 声も、かけなかった。


 それが、優しさなのか、

 それとも、ただの逃げなのか。


 自分でも、分からなかった。


 リィナは、ほんの少しだけ呼吸を整えてから、

 また日傘を差した。


「……そろそろ、帰ろうかな」


 その言葉に、

 僕は、反射的に頷いた。


「うん……そうしよう」


 理由を、聞かなかった。

 聞けなかった。


 帰り支度をする彼女の背中は、

 少しだけ、小さく見えた。

 それでも、彼女は自分の足で歩き出す。


 一歩。

 また一歩。


 夏の畑に、二人分の足音が静かに重なる。


 助けなかった。

 支えなかった。


 それが正しい選択だったのかどうか、

 この時の僕には、まだ分からなかった。


 ただ一つ、確かなことがある。


 リィナの身体は、もう嘘をつけなくなっている。


 そして、それを見ないふりをすることが、

 どれほど残酷か――


 僕は、この夏になって、

 ようやく理解し始めていた。


 ♢


 帰り道は、驚くほど静かだった。


 昼間あれほど重かった空気が、少しだけ和らいでいる。

 太陽は傾き、畑の土も、ようやく熱を逃がし始めていた。


 それでも、僕の胸の内だけは、

 昼間のまま、何も冷めていなかった。


 リィナは、いつも通り歩いている。

 歩幅も、速さも、春と変わらない。


 ――変わらないように、している。


 そのことが、今ははっきりと分かってしまう。


 僕は、少しだけ後ろを歩いた。

 並ばない。

 追い越さない。


 触れない距離を、無意識に選んでいた。


「今日は、ちょっと暑かったね」


 彼女が言う。

 声は穏やかで、疲れを隠すのも上手だった。


「……うん」


 それだけ返す。

 もっと、言うべきことがあったはずだ。

「大丈夫?」とか、

「無理してない?」とか、

「送ろうか」とか。


 でも、どれも口にしなかった。


 口にした瞬間、

 また“助ける側”に立ってしまう気がして。


 それが、

 彼女の望まない役割だと分かってしまった今、

 どうしても、踏み出せなかった。


 歩く音だけが続く。

 砂利を踏む乾いた音。

 草が擦れる小さな音。


 それらが、

 やけに現実味を持って耳に残る。


「じゃあ……ここで」


 家の分かれ道で、

 リィナが足を止める。


「うん……また」


 それ以上、何も言えなかった。


 彼女は小さく手を振り、

 振り返らずに歩いていく。


 背中は、やっぱり少し小さかった。


 でも、それを理由に、

 引き留めることはしなかった。


 引き留めなかった。

 助けなかった。

 触れなかった。


 それが、正しかったのかどうか。


 分からない。


 ♢


 夜。


 部屋に戻っても、

 身体はほとんど動かなかった。


 服を脱ぐのも忘れて、

 ベッドに腰を下ろしたまま、

 ただ天井を見つめる。


 昼間の光とは違う、

 静かな暗さが、部屋を満たしていく。


 耳鳴りのような静寂。


 リィナが、

 あの時、立ち上がった瞬間。


 ぐらりと傾いた身体。

 それを、支えなかった自分。


 何度も、その場面が頭の中で繰り返される。


 触れれば、支えられた。

 触れれば、倒れなかった。


 それは、事実だ。


 でも――

 触れなかったからこそ、

 彼女は“自分で立った”。


 そのことも、事実だった。


「……分からないな」


 声に出すと、

 やけに空虚に響いた。


 あれは、優しさだったのか。

 それとも、ただの逃げだったのか。


 彼女の人生を引き受けないための、

 言い訳だったのか。


 それとも、

 彼女の選択を尊重した結果だったのか。


 答えは、どこにもない。


 考えれば考えるほど、

 自分がどちらの側にも立ててしまうことが、

 ひどく怖くなった。


 救わなかった自分を、

「正しい」と言うこともできる。


 同時に、救わなかった自分を

「臆病だった」とも言えてしまう。


 どちらも、否定できない。

 だから、答えが出ない。


 布団に横になる。

 目を閉じる。

 でも、眠れない。


 触れなかった手の感覚が、

 なぜか、まだ指先に残っている。


 あの距離。

 一歩分の距離。


 伸ばせば届いたはずの距離。

 それを、伸ばさなかった。


「……あれは」


 呟きかけて、言葉を飲み込む。


 何だったんだろう。

 何を、守ったつもりだったんだろう。

 何を、失ったんだろう。


 その答えだけは、今の僕にはどうしても分からなかった。


 ♢


 夜は、静かに深まっていく。

 蝉の声は、まだない。

 星も、まばらだ。

 それでも、時間は確実に進んでいる。


 止まらない。

 待ってくれない。


 触れなかった手は、正しかったのかもしれない。

 でも、触れなかったことで失ったものが

 何だったのかだけは、


 ――その時の僕には、分からなかった。


 分からないまま、

 夏は、また一日、進んでいく。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

この話では、

「助けない」という選択が、

優しさなのか、逃げなのか、

答えを出さないまま描いています。


夏は止まらず、

時間だけが進んでいく。

その中で、何を選び、何を選ばなかったのか。

その重さを、少しでも感じてもらえたなら嬉しいです。


次の話でも、

変わらない日常の中で、

少しずつ変わってしまうものを描いていきます。


また、続きを読んでいただけたら幸いです。

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