17.夏は止まらない-2
夏は、止まってくれない。
日を追うごとに、畑の空気は重くなっていった。
朝のうちはまだ耐えられる。
けれど、太陽が少しでも高く昇ると、世界は急に牙を剥く。
日差しが、痛い。
照らす、というより、突き刺す。
肌に触れる前から熱を帯びた光が、逃げ場を奪うように降り注ぐ。
畑には、遮るものがない。
作物は低く、支柱の影は短く、
人ひとりが身を隠すには、あまりにも頼りない。
影が、ない。
正確に言えば、影はある。
けれど、それは足元に貼りつくような薄い線で、
身体を預ける場所にはならなかった。
この場所は、もう“作業場”じゃない。
耐える場所だ。
湿度を含んだ空気が、胸の奥にまとわりつく。
息を吸っても、十分に肺に届かない。
吐いた息が、すぐに熱を帯びて戻ってくる。
僕でさえ、呼吸が浅くなる。
だから――
彼女にとって、この季節がどれほど過酷か、考えるまでもなかった。
アルビノのリィナにとって、夏は敵だ。
光は優しくない。
肌に触れる前から、身体を削る。
それでも、彼女は畑に来る。
白い日傘を差して。
薄い布で、身体を覆って。
まるで、夏そのものと交渉するみたいに。
この場所に、来る理由があるかのように。
そして僕は、その理由を聞かないまま、
今日も畑に立っていた。
♢
日差しは、容赦がなかった。
太陽は真上に近く、影はほとんど地面に貼りついている。
畑のどこに立っても、逃げ込める場所はない。
風は吹いているはずなのに、
熱を含んだ空気が、ただ撫でるだけで通り過ぎていく。
リィナは、いつもよりゆっくりと歩いていた。
白い日傘を差し、
足元を確かめるように一歩ずつ進む。
歩幅が、少しだけ小さい。
「……暑いね」
そう言って、彼女は笑った。
笑顔は、いつもと変わらない。
声の調子も、ほとんど同じだ。
それでも――
違和感は、確かにあった。
彼女は畑の端まで来ると、
すぐにはベンチに向かわなかった。
一度、立ち止まり、
周囲を見回す。
影を、探している。
その視線が、ほんの一瞬、地面を彷徨った。
作物の影。
支柱の影。
どれも、頼りにならない。
「……ここで、いいかな」
独り言みたいに呟いて、
ようやくベンチに腰を下ろす。
座る動作が、少し遅い。
身体を折る前に、一呼吸置く。
ほんのわずかな間。
それだけなのに、
胸の奥がざわついた。
「無理、してない?」
言葉は、自然に口をついた。
リィナは一瞬だけ、目を瞬かせてから、
小さく首を振る。
「してないよ。ほら」
そう言って、両手を軽く広げる。
冗談めいた仕草。
でも、その動きに、ほんの僅かな重さがあった。
日傘を持つ手が、
わずかに震えている。
気のせいだ、と言い聞かせるには、
少しだけ、長く見えてしまった。
リィナは水筒に手を伸ばす。
蓋を開け、一口。
間を置かず、もう一口。
「……喉、乾くね」
そう言って笑うけれど、
笑顔の端が、ほんの少しだけ引きつっている。
以前より、水を飲む回数が多い。
その事実が、
頭の片隅で静かに積み上がっていく。
作業を始めても、彼女はほとんど動かなかった。
畑を眺めている。
でも、視線は作物を追っていない。
遠くを見るようで、
実際には、何も焦点が合っていないように見えた。
「……風、来ないね」
呟く声が、少し掠れている。
僕は返事をしようとして、
一瞬、言葉に詰まった。
来ている。
風は、確かに来ている。
でも、それを否定することが、
彼女の“平気”を壊してしまう気がして、
結局、何も言えなかった。
鍬を振るう。
土に刃が入る音が、やけに大きい。
作業をしている間も、
視線は無意識に彼女を追ってしまう。
リィナは、時々、日傘の角度を変える。
それが、
「眩しいから」なのか、「暑いから」なのか、
それとも――別の理由なのか。
分からない。
分からないまま、分かってしまうことが、
一番、怖かった。
しばらくして、彼女はベンチから立ち上がろうとした。
「……ちょっと、歩こうかな」
そう言って、膝に手をつく。
立ち上がるまでに、一拍。
身体が前に倒れそうになり、ほんのわずかに揺れた。
反射的に、一歩踏み出しそうになる。
――支えなきゃ。
そう思った瞬間、
自分の足が止まっていることに気づいた。
支えることは、簡単だ。
手を伸ばせばいい。
触れればいい。
でも、それをしたら、
きっと、何かが壊れる。
リィナは、自分で立ち上がった。
深く息を吸い、
ゆっくりと、姿勢を整える。
ほんの数秒。
それだけの時間なのに、
異様に長く感じられた。
「……ほら」
彼女は、こちらを見て笑う。
「大丈夫でしょ?」
その声は、自分自身に言い聞かせるみたいだった。
僕は、何も言えなかった。
大丈夫じゃない、と言う資格も。
大丈夫だ、と言い切る勇気も。
ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
夏は、止まらない。
それは、
時間の話だけじゃない。
身体も、感覚も、限界も。
すべてが、静かに、確実に、前へ進んでいく。
気づいた時には、もう戻れない場所まで。
その入口に、僕たちは、もう立っていた。
♢
日差しは、さらに強くなっていた。
太陽はほとんど真上にあり、
畑には影らしい影がない。
空気は動かず、熱だけがその場に溜まっていく。
土の匂いが、むっと鼻を突く。
湿った熱が、肺の奥にまとわりつくようで、
深く息を吸うのが少しだけ苦しかった。
リィナは、しばらくベンチに座ったまま、
何も言わずに畑を眺めていた。
日傘を差したまま、視線だけが、ゆっくりと動く。
「……ねえ、エル」
静かな声。
振り返ると、彼女は僕を見ていなかった。
「夏ってさ……ほんと、厳しいね」
それは、ただの感想のはずだった。
天気の話。
季節の話。
でも、その言葉の後、彼女は何も続けなかった。
沈黙が落ちる。
風が吹かない。
蝉の声も、まだ遠い。
世界が、一瞬、止まったみたいに感じられた。
リィナは、ゆっくりと日傘を畳んだ。
その動作が、思ったよりも慎重で、
一つ一つを確認するようだった。
「……少し、動こうかな」
そう言って、彼女はベンチの縁に手をつく。
立ち上がろうとした、その瞬間だった。
身体が、わずかに前に傾いた。
ほんの一瞬。
誰かが見ていなければ、
気づかない程度の揺れ。
でも、僕は見ていた。
心臓が、強く脈打つ。
――危ない。
反射的に、足が前に出そうになる。
手が、伸びかける。
その距離は、ほんの一歩分しかなかった。
触れれば、支えられる。
触れれば、倒れない。
でも――
僕は、止まった。
足は、地面に縫い止められたみたいに動かない。
伸ばしかけた手が、空中でわずかに震える。
リィナは、自分で踏みとどまった。
膝に置いた手に力を込め、
深く、深く息を吸う。
肩が、大きく上下する。
「……っ」
小さな音。
声にならない、息の漏れる音。
彼女は、目を閉じた。
数秒。
たったそれだけの時間。
でも、永遠みたいに長かった。
ようやく、リィナはゆっくりと顔を上げた。
額に、うっすらと汗が浮かんでいる。
でも、量は多くない。
そのことが、逆に僕の胸を締めつけた。
「……大丈夫」
そう言って、彼女は立ち上がる。
今度は、倒れなかった。
「ほら」
こちらを見て、小さく笑う。
「ちゃんと、立てた」
その笑顔は、春の頃と変わらない。
変わらないように、必死で保たれている笑顔だった。
「……ほら、大丈夫でしょ?」
その一言が、胸の奥に、深く沈んだ。
大丈夫じゃない。
でも、
大丈夫だと、言わせてしまっている。
僕は、何も言えなかった。
支えなかった。
声も、かけなかった。
それが、優しさなのか、
それとも、ただの逃げなのか。
自分でも、分からなかった。
リィナは、ほんの少しだけ呼吸を整えてから、
また日傘を差した。
「……そろそろ、帰ろうかな」
その言葉に、
僕は、反射的に頷いた。
「うん……そうしよう」
理由を、聞かなかった。
聞けなかった。
帰り支度をする彼女の背中は、
少しだけ、小さく見えた。
それでも、彼女は自分の足で歩き出す。
一歩。
また一歩。
夏の畑に、二人分の足音が静かに重なる。
助けなかった。
支えなかった。
それが正しい選択だったのかどうか、
この時の僕には、まだ分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
リィナの身体は、もう嘘をつけなくなっている。
そして、それを見ないふりをすることが、
どれほど残酷か――
僕は、この夏になって、
ようやく理解し始めていた。
♢
帰り道は、驚くほど静かだった。
昼間あれほど重かった空気が、少しだけ和らいでいる。
太陽は傾き、畑の土も、ようやく熱を逃がし始めていた。
それでも、僕の胸の内だけは、
昼間のまま、何も冷めていなかった。
リィナは、いつも通り歩いている。
歩幅も、速さも、春と変わらない。
――変わらないように、している。
そのことが、今ははっきりと分かってしまう。
僕は、少しだけ後ろを歩いた。
並ばない。
追い越さない。
触れない距離を、無意識に選んでいた。
「今日は、ちょっと暑かったね」
彼女が言う。
声は穏やかで、疲れを隠すのも上手だった。
「……うん」
それだけ返す。
もっと、言うべきことがあったはずだ。
「大丈夫?」とか、
「無理してない?」とか、
「送ろうか」とか。
でも、どれも口にしなかった。
口にした瞬間、
また“助ける側”に立ってしまう気がして。
それが、
彼女の望まない役割だと分かってしまった今、
どうしても、踏み出せなかった。
歩く音だけが続く。
砂利を踏む乾いた音。
草が擦れる小さな音。
それらが、
やけに現実味を持って耳に残る。
「じゃあ……ここで」
家の分かれ道で、
リィナが足を止める。
「うん……また」
それ以上、何も言えなかった。
彼女は小さく手を振り、
振り返らずに歩いていく。
背中は、やっぱり少し小さかった。
でも、それを理由に、
引き留めることはしなかった。
引き留めなかった。
助けなかった。
触れなかった。
それが、正しかったのかどうか。
分からない。
♢
夜。
部屋に戻っても、
身体はほとんど動かなかった。
服を脱ぐのも忘れて、
ベッドに腰を下ろしたまま、
ただ天井を見つめる。
昼間の光とは違う、
静かな暗さが、部屋を満たしていく。
耳鳴りのような静寂。
リィナが、
あの時、立ち上がった瞬間。
ぐらりと傾いた身体。
それを、支えなかった自分。
何度も、その場面が頭の中で繰り返される。
触れれば、支えられた。
触れれば、倒れなかった。
それは、事実だ。
でも――
触れなかったからこそ、
彼女は“自分で立った”。
そのことも、事実だった。
「……分からないな」
声に出すと、
やけに空虚に響いた。
あれは、優しさだったのか。
それとも、ただの逃げだったのか。
彼女の人生を引き受けないための、
言い訳だったのか。
それとも、
彼女の選択を尊重した結果だったのか。
答えは、どこにもない。
考えれば考えるほど、
自分がどちらの側にも立ててしまうことが、
ひどく怖くなった。
救わなかった自分を、
「正しい」と言うこともできる。
同時に、救わなかった自分を
「臆病だった」とも言えてしまう。
どちらも、否定できない。
だから、答えが出ない。
布団に横になる。
目を閉じる。
でも、眠れない。
触れなかった手の感覚が、
なぜか、まだ指先に残っている。
あの距離。
一歩分の距離。
伸ばせば届いたはずの距離。
それを、伸ばさなかった。
「……あれは」
呟きかけて、言葉を飲み込む。
何だったんだろう。
何を、守ったつもりだったんだろう。
何を、失ったんだろう。
その答えだけは、今の僕にはどうしても分からなかった。
♢
夜は、静かに深まっていく。
蝉の声は、まだない。
星も、まばらだ。
それでも、時間は確実に進んでいる。
止まらない。
待ってくれない。
触れなかった手は、正しかったのかもしれない。
でも、触れなかったことで失ったものが
何だったのかだけは、
――その時の僕には、分からなかった。
分からないまま、
夏は、また一日、進んでいく。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この話では、
「助けない」という選択が、
優しさなのか、逃げなのか、
答えを出さないまま描いています。
夏は止まらず、
時間だけが進んでいく。
その中で、何を選び、何を選ばなかったのか。
その重さを、少しでも感じてもらえたなら嬉しいです。
次の話でも、
変わらない日常の中で、
少しずつ変わってしまうものを描いていきます。
また、続きを読んでいただけたら幸いです。




